1日

■松方冬子『オランダ風説書』を読む。

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■萩原延壽氏の英国外交官アーネスト・サトウの幕末期から明治初期までの活動を描いた大著である『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄』(全14巻)はどうしても外せない。ここにしかない情報があったりする。孫引きは避けたいところだが、如何とも・・。

■『中山忠能履歴資料』は超重要史料だが、年号の誤謬(例えば、慶応2年が元年とされている)が多く、結構苦労している

■正親町公董は、天保10年1月24日生。中山忠能の次男。正親町実徳の養子。弟に中山忠光。文久3年国事寄人となり,尊攘活動を行うが,八月十八日の政変で差控処分。慶応3年に許され,戊辰戦争では奥羽追討総督を勤めた。明治2年陸軍少将。明治12年12月27日死去。41歳。

■監察使派遣は、文久3年(1863)の政治史においては、軽視できない大事件。正親町公董の他に、7月17日、国事寄人の右近衛権中将東園基敬が紀伊に、侍従四条隆謌が播磨に、攘夷実行の監察使として派遣され、即時攘夷実行の勅命をもたらした。

■昔々、学会誌に投稿した時、「未だ研究において一般化していない用語を説明なしに使用している」と注文が付いた。しかし、一般化の定義は、曖昧であった・・。

■川村恵十郎(正平)について、天保7年(1836)7月7日、江戸に生まれた。安政2年(1855)2月に小仏関所番見習となる。文久3(1863)5月、朝廷と幕府方の折衝に関連した建白書を一橋慶喜に提出し、農民募兵に尽力した。

■川村恵十郎は、文久3年12月に一橋家に普請役見習として仕官した。その下役に渋沢栄一と喜作がいた。京都から江戸・駿河へと、常に慶喜に随った。しかし、平岡円四郎、黒川嘉兵衛や原市之進の陰に隠れ、一橋家の実権を握るまでには至らなかったようだ。

■川村恵十郎は、維新後、1873年に大蔵省出仕、1874年には内務省出仕し、大久保利通に随行して清国に渡航している。1875年に正院出仕、1877年に太政官、1883年に兼宮内省出仕。1885年に内閣属、1890年に内閣恩給局勤務、1893年12月に退官している。

■川村恵十郎は最晩年、日光東照宮禰宜を1898年3月まで務め、1898年6月13日に死去した。川村は明治31年まで存命であったが、明治以降のことになると知られていないことが多い。研究対象にすべき人物の1人。

■なお、川村恵十郎について、憲政資料室に「川村正平関係文書」がある。一橋家関係、大蔵省・内務省出仕時代の書類457点、日記1冊(『御巡幸御用取調局仮日記』)、幕末から明治期の書簡約340通が保存されている。

■ちなみに、文久3年に江戸滞在中の渋沢栄一は、一橋家の家臣たちと急速に接近を果たした。特記すべきは、川村恵十郎と知り合い、その紹介から用人・平岡円四郎の知遇を獲得したことである。家臣団が手薄な一橋家から仕官の誘いがあったが、攘夷実行を優先して辞退した。

3日

■ウイリアム・ウィリス(1837-1894)は、文久2年(1862)に英国総領事館付医官として来日、明治10年(1877)に帰国するまで約15年、黎明期にあったわが国の医療システム構築に多大の功績を残した。生麦事件や薩英戦争に直接関わり、戊辰戦争では双方の負傷者治療に活躍した。

続き)更に、明治2年には東大医学部の前身である東京医学校兼大病院の院長に若干31歳で就任したが、1年弱でこの職を退いた。後に鹿児島大学医学部となる鹿児島医学校兼病院で治療に併せ、医学教育の確立と公衆衛生の改善に貢献した。続き)薩英戦争に従軍しているウイリアム・ウィリスが、明治になって鹿児島で医学に従事していることは、歴史の面白さであろう。彼についても、いずれ調べてみたいが、余裕があるか

■刊本史料を使用する際、仮に気づいていない場合でも、先行研究で既に使用されている杞憂を払拭できず、新しい史料の発掘に走りがち。しかし、そう簡単に発見できるものでない。一方で、刊本であっても意外とスルーされたものが多いのも事実。つまり、まずは背伸びせずに刊本史料にあたるべき。

■宮地正人先生の『歴史のなかの新選組』。もう、17年も前の本なんだ・・。近藤勇に対する見方が変わった一冊。「我々は尽忠報国の有志であり、市中見回りのために上京したのではない」。政治家としての近藤勇を、きちんと評価すべき。

■槇村正直について、長州藩下士の羽仁正純の二男として生まれ、槇村満久の養子となる。藩祐筆役を経て1868年、議政官史官試補となり、京都府に出仕。戊辰戦争には従軍していない。長州藩時代の槇村については、布引敏雄先生の『槇村正直―その長州藩時代』(文理閣 、2011年)が参考になる。

■薩摩藩の経済力を考えるため、浜崎太平次について、調べようと思ったが、なかなか史料がない。今後の大きな課題である。

■宮地正人・伊藤克司・小林丈広・多田敏捷・宮川禎一『新選組の論じ方‐新選組史料フォーラムから‐』(新選組史料フォーラム実行委員会、2009年)、2004年に東京都日野市で開催された「新選組史料フォーラム」をベースにしたもの。宮地正人氏「新選組の論じ方」は必見。

■『福岡大学人文論叢』第34巻第1号・通号132(2002年6月)に、梶原良則氏の「福岡藩慶応元年の政変」という論文が掲載されている。乙丑の変の理解のため、必読。

■来原良蔵について、安政6年(1859年)9月、明倫館助教兼兵学科総督に就任。山田亦介らと旧態依然とした長州藩の軍制改革を行い、軍制規則制定、教練の実行等、長州藩兵の近代化と強化に非常に大きな功績を挙げる。11月には江戸に登り、有備館の文武諸業御用掛を勤めた。

続き)軍制改革のために万延元年(1860年)5月に帰萩。9月には御手当御内用掛として明倫館助教を兼ねた。文久元年(1861年)6月には、洋式兵学者中島名左衛門喜勝を明倫館へを招聘した。母方の従兄弟で「航海遠略策」を唱える開国派の重臣長井雅楽時庸と対立するも、後に和解。

続き)同年2月、公武周旋のため肥後国熊本と薩摩国鹿児島へ出張した。しかし藩論が開国から攘夷に急展開するに及び、3月に上京。久坂玄瑞らと長井雅楽を除くため奔走した。この長井雅楽暗殺未遂事件の際に、責任を取って自害をしたいと申し出たが、それを拒否されている。

続き)死地を求めた良蔵は同年8月に江戸へ登り、横浜の外国公使館襲撃を企てるも失敗。毛利定広に諌められ、長州藩江戸藩邸にて自害した。遺体は芝の青松寺に葬られたが、明治15年(1882年)に松陰神社に改葬された。惜しい人材であった。

■来原良蔵について、初代内閣総理大臣となった伊藤博文は、良蔵が浦賀での警備中にその才を見出して部下とした。良蔵の薦めで博文は松下村塾に入塾。長崎での海軍伝習にも付き従った。博文は良蔵の死後もその遺志を継いで活動し、彼を終生師匠として仰いだ。

続き)来原の子息たちは木戸孝允(妻・治子の兄)の養子となった。孫(長男・孝正の息子)に政治家の木戸幸一、東京帝国大学航空研究所長和田小六(治子の実家である和田家を継ぐ)がいる。

■山内昌之先生の『歴史家の羅針盤』(2011年、みすず書房)において、【明治維新実現の立役者 町田明広『島津久光=幕末政治の焦点』】が立項されている。ありがたいこと。https://msz.co.jp/book/detail/07568.html………

4日

■慶応2年のキーマンとして無視できない存在は、大山綱良、黒田清綱。

■『木戸孝允関係文書』5が未刊のため、引用は『防長回天史』または『松菊木戸公傳』からの引用となる。

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