1日

■慶応2年10月の小松帯刀の率兵上京以降、

小松の許可がなければ、薩摩藩は何も進まない。

2日

■どうも「参預会議」は過大評価だと感じている(^_^;) 

いかに拙著が売れていないかの証左・・。

拙著『幕末文久期の国家政略と薩摩藩―島津久光と皇政回復』 

(岩田書院、近代史研究叢書 17) を参照いただきたいのだが、

図書館で借りてくださいって、図書館にないか(笑) http://iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-643-7.htm…

■『防長回天史』。極めて重要な文献史料だが、舐めるように精読するには荷が重すぎる。

しかし、宝庫であることには違いない。

■慶応元年7月13日、孝明天皇は朝彦親王と二人だけで対面しているが、

話の内容はあまり政治向きではなかった様子。

その直前に宸簡二通。奥向きの内容か。

■慶応元年夏、朝廷では中山忠光のその後の動静を探っている。

7月27日、朝彦親王は長州藩内で毒殺されたと桑名藩士から聞き及ぶ。

■竹本知行さんから『大村益次郎―全国を以て一大刀と為す』(ミネルヴァ書房、2022年3月)をご恵贈いただきました。ありがとうございました。

大村の決定版と存じます。

また、「あとがき」で私にも言及いただき、感激しております。皆さまも、ぜひ!

https://minervashobo.co.jp/book/b599913.html

 

3日

■いわゆる「(亀山)社中」のメンバーは、ユニオン号に関連し、

木戸孝允から「丑丸乗組之人数如御承知議論沸騰始絡之處治り兼候様子に被相察候」

と煙たがられていた。

早く薩摩藩に連れ戻して欲しいと小松帯刀に依頼している。

■近藤長次郎の自裁後の社中の代表は、小谷耕蔵・菅野覚兵衛。

4日

■島津斉彬は松平慶永に「私家来多数あれども、誰も間に合ふものなし。

西郷一人は、薩国貴重の大宝也。乍併彼は独立の気象あるが故に、

彼を使ふ者私ならではあるまじく」(『逸事史補』)と、

西郷隆盛を薩摩藩の宝とまで持ち上げて褒めている。

■斉彬でなければ西郷は使いこなせないとしており、

まさにその後の西郷の人生を言い得て妙である。

庭方役を拝命以降、西郷は斉彬と日常的に接することとなったが、

身命を賭してでも斉彬のために働こうと深く誓った。斉彬あっての西郷であった。

 

5日

批評をするということは、相当な覚悟が必要。

一次史料を使うなど、論拠も必須。なお、ピンポイントな扱いは的外れになることが多い。

全体を俯瞰して、その批評が全体にどのような影響を与えるかを自問自答したい。

慶応元年から2年にかけて「坂本龍馬=薩摩藩士」(龍馬の島津家所属)

という説について、現在、アカデミックな具体的な反論をお待ちしている段階。

定説に対して新しい論が出た場合、アカデミックに反論がなされなければ、

少なくとも新論は一定以上の評価を得ている可能性が高い。

言い過ぎかも知れないが、定説化への一歩を踏み出したはず。

但し、学会で多数決を採る訳でもなく、旧説を乗り越えることは並大抵ではない。

■嘉永期をやるために、まずは阿部正弘。長い道のり。

■著書(一般書)では判明している「史実」とは矛盾しない限りで想像力を働かせているが、

論考(学術論文)では極力想像を廃して「史実」を追求していると言えるのでは。

坂本龍馬論について、いずれ学術論文(論文集含む)にしてみたい。

■長府藩は、長州藩の3支藩の一つ。

宗藩が下関の直轄を企てたことから対立、

後に和解し他の長州支藩と共に長州征伐等にあたる。

なお、明治になって子爵に止まったことについて、

明治天皇が叔父の中山忠光が長府藩に亡命中、暗殺されたことから、

天皇が長府毛利家の伯爵への叙爵を渋ったとの説もある。

■長州藩海軍局を知るためのベストな史料、文献は何かと思案中・・。

未だに突き当たらない。現地調査か。文書館!

■9年前のツイート「幕末の薩摩藩の人物で、

例えば文久・元治期に限った場合、気になる存在を挙げれば、

島津久光、久光四天王(小松帯刀、堀次郎、中山中佐衛門、大久保一蔵)、

西郷隆盛、吉井友実、藤井良節、本田親雄、田中新兵衛、高崎正風、高崎五六、

奈良原繁などである」。さて、慶應期は如何?

■吉田松陰の門下生で、高杉晋作、久坂玄瑞は「識の高杉、才の久坂」と称され、

松下村塾の双璧と呼ばれた。

また、この2人に吉田稔麿を入れて三秀、さらに入江九一を合わせて

「松下村塾の四天王」と称された。

しかし、一人も明治を迎えることができなかった。長州は死に過ぎた・・。

6日

「勝海舟関係資料 海舟日記(一)」 B5版 331頁 (平成14年発行) 

海舟日記一 ---文久2年(1862)閏8月17日~文久3年(1863)3月16日 

海舟日記二---文久3年(1863)3月16日~同年10月2日 

海舟日記三---文久3年(1863)10月3日~元治元年(1864)7月9日

 <解説:近松鴻二・落合則子>

「勝海舟関係資料 海舟日記(二)」 B5版 290頁 (平成15年発行)

 海舟日記四…元治元年(1864)7月10日~慶応元年(1865)8月28日 

海舟日記五…慶応元年(1865)9月1日~慶応3年(1867)2月25日 

<解説:落合則子>

「勝海舟関係資料 海舟日記(三)」 B5版 224頁 1,700円(平成17年発行)

 海舟日記六…慶応3年(1867)正月28日~慶応4年(1868)4月26日 

海舟日記七…慶応4年(1868)4月28日~明治2年(1869)3月20日

 <解説:落合則子・田原 昇・藤田英昭>

「勝海舟関係資料 海舟日記(四)」 B5版 153頁 1,400円(平成18年発行)

 海舟日記八…明治2年(1869)4月21日~明治3年(1870)10月23日 

<解説:田原 昇・藤田英昭>

「勝海舟関係史料 海舟日記(五)」 B5版 148頁 926円(税込)(平成23年発行)

 海舟日記九…明治3年(1870)10月24日~明治5年(1872)1月15日 

<解説:藤田英昭>

「勝海舟関係史料 海舟日記(六)」 B5版 254頁 1,229円(税込)(平成29年発行) 

海舟日記 十  明治5年(1872)正月15日~明治7年(1874)1月20日 

海舟日記 十一 明治7年(1874)1月21日~明治8年(1875)5月14日 

<解説:落合則子>

■元治元年1月15日、将軍家茂は政事総裁職松平直克(川越藩主)

および老中酒井忠績(姫路藩)・水野忠精(山形藩主)・有馬道純(越前丸岡藩主)

を伴って入京し、二条城に着した。

翌16日、一橋慶喜は総裁・閣老と共に家茂に謁し、

「勅命の御懇篤なる次第及び在京諸侯の厚く周旋せる状況」 を詳述した。

そして、将軍家の長期滞京を求め、公武一和を図ることを懇請した。

更に、長州藩処分については、家茂自身が進発するほどの奮発がなければ

折角の好機を逸することになり、「今後衰運御挽回の期なかるへし」と切言した。

これに対し、家茂は「殊の外御感悦在らせられ、

此上にも萬事依頼すへけれハ充分に尽力ある様、尤いつ迄も在京すへし」と述べ、

また総裁以下も大いに喜悦しており、従来の嫌疑が氷解したと慶喜に思わせた 。

また、慶喜同様に疑念を抱かれていた松平春嶽も同日、

「御用向御相談可有之候間、時ゝ登城候様可被致候」 と、幕政加談を沙汰された。

参与諸侯、特に慶喜にとって、甚大な憂いが払拭できたかに見えたが、

家茂の右大臣宣下(21日)にあたり、事態は簡単ではなかった。

勅使坊城俊克・野宮定功が前日に二条城に派遣された際には、

「橋公に準将軍宣下あるよし申触らせし者ありて、芙蓉間の輩ハ大ニ騒き立」 てており、

松平容保が「若千万一左様の事あらハ、此方一人にても拒むへし」と申し立てたため、

ようやく沈静した。

この事実は、参与諸侯の思惑に反し、幕閣の依頼は表面的なレベルであり、

警戒感は継続していた証左である。

慶喜にとっては深刻な実態であり、

幕府要路との盤石な信頼関係の構築には遠く及ばなかった。

■慶応2年の長州藩を見ていると「小松・木戸覚書」以降、木戸の圧倒的な指導力が確立し、木戸を中心に山田宇右衛門・広沢真臣・前原一誠で動かしている様子が窺える。

高杉晋作は相変わらずであるが、木戸に一目置かれ、

舎弟の伊藤俊輔に色々やらせている感じ。木戸も伊藤の周旋力を頼りにし始めている。

■慶応2年、木戸孝允・高杉晋作・伊藤俊輔らが唱える「薩英会盟」に乗り遅れるな!

は興味深い主張。相変らず、高杉晋作の独断専行。

それを許容し続ける藩廟。その尻拭いに奔走する木戸孝允・井上聞多・伊藤俊輔。

長州藩は独特の「甘さ」がある。

■専門書としてまとめる際、例えば元治年間だが、

芸州藩の史料、『芸藩志・芸藩志拾遺』も活用してブラッシュアップするつもり。

7日

■「尊公様(小松帯刀)御一身ノ御賢慮次第ニテ」、島津久光の名代として、

小松の権限は絶対。

■薩摩藩は、孝明天皇の崩御前の病状を、柳原光愛から聞いていた。

■南部弥八郎は、福沢諭吉に翻訳の依頼をしている。

■一会桑勢力・政権に関する議論が活性化してきてうれしい限り。

私も次回論文拙稿「幕長戦争・将軍空位期における中央政局と薩摩藩」

(『神田外語大学日本研究所紀要』14号、2022年3月)で、少しだけ言及している。

■文久2年(1862)の寺田屋事件当時、

伏見義挙を目指す尊王志士は「名分大義を明かにし、鎌倉以前の大御代に挽回し、

朝威を内外に輝すべき」を目標とした。そこには、幕府は存在していない。

また、建武の新政を意識している。

■大和親征時には、「皇朝興亡之所關に付、断然御打出し被成、第一等に出候て、

奈良以前之政事に被復候様有之度」となり、

土地・人民の統治権を天皇が収攬することを主張する。

これを主唱し、まとめているのが真木和泉。

■後世からみると文久期の廃幕(または倒幕)論は稚拙であり、

非現実的であるが、廃幕論には違いない。

■真木和泉「義挙三策」は、文久元年12月20日段階のものであり、

真木の論もそれ以降とは明らかに違う。

懲罰すべき対象としては幕閣を指し、将軍家茂はむしろそこから解放すべきであるとし、

皇国復古のために将軍家の奸吏を排除することを提言している。

それ以降の方策は散逸の「神速録」に記載としているが、

それまでの動向や後の「五事献策」から、平野國臣同様、

徳川家世襲の将軍宣下を回避し、

諸侯同一の武臣とすることが盛り込まれていた可能性が高い。

いずれにしろ、徳川家は温存するものの、

実際には武臣への大政委任を廃止し、事実上、廃幕構想であった。

■平野国臣は文久元年12月の入薩時、

「尊攘英断録」に基づく主張を薩摩藩要路に対して展開し、

大諸侯である薩摩藩主が尊王の義を唱へて義挙を実行すれば、

幕府を圧倒するに足ると論じた。皇政回復後の施策については、

武備充実と航海術の習得、囚人による蝦夷・八丈島・無人島の開拓、

征韓論、商船による上海・香港での夷情探索、征夷大将軍の皇族任命、

天皇親征等であった。

平野は薩摩藩のような大藩に頼って幕府膺懲の上、

天皇による兵権も掌握した親政を目指していた。

徳川家から皇族への征夷大将軍の交代は、実質的に将軍家否定であり、

結果として幕府否定の志向が存在していた。

なお、この時点では藩主茂久が参勤交代で来春出府するものと認識しており、

柴山愛次郎・橋口壮助から久光率兵上京を知らされるのは、

彼らの出府途時である文久2年1月後半であった。

■平野国臣の「培覆論」(薩摩藩士柴山愛次郎・橋口壮助宛書簡、

文久2年1月2日)によると、薩摩藩の「一橋を将軍とし、越前を後見として、

其外可然人材を撰みて有司とし、幕府を扶け、

以て外寇を攘ふと申候御説」は現状の幕府においては無用なこととして退ける。

その事由を「幕府を如何に扶け候とも徒骨折にて、兎ても角ても行はれ間舗、

迂論窮るといふべし」とし、薩摩藩が主力となる、天皇親征があって初めて

「天朝恢復」(皇政回復)が実現するとの見解を示した。

■品川弥二郎は、一会桑勢力に二条斉敬・朝彦親王をプラスして「尹条一会桑」勢力とする。

■寺田屋事件直前の4月8日に認められた平野国臣の「回天三策」の上策は、

大坂滞在中の久光に勅命を与え、大坂城、彦根城、二条城を草莽義挙によって攻め落させ、久光は司令官として入京の上、幕吏を追い払って青蓮院宮の幽閉を解き、

大坂城に玉座を奉じさせる。孝明天皇は東国の親征に向かい、

箱根にて将軍家に罪を糺して諸侯の列に貶め、

抵抗する時は武力によって成敗するとしている。

いずれにしろ、廃幕を企図するものである。

■天皇親政(王政復古)派の中でも最も激派に属する国事参政・寄人の意見を、

中山忠光奏聞書で確認する。その中で、家茂、慶喜、春嶽を名指しで違勅の逆賊とし、

速やかに征討すべしであると、武力を伴う廃幕である「倒幕」を主張する。

しかし、朝廷には兵馬の権(統帥権)がなく叡慮が叶わないので、

至急草莽の志士を招集して手当たり次第逆賊を誅殺し、

人民を幕政の艱難から解放させ朝廷の恩恵に帰するため、数千の義兵を募って、

親征のお迎えに参上したいとする。更に、逆賊征討を仰せ付けられれば、

関東に深く攻め入り、遠からず将軍家の首を献じたいと極言する。

そして、逆賊の言を断然取り上げず、錦旗を押し立て、

在京逆徒を早々に放逐すべきことを懇請した。似て非なる主張は多いし、

同じ人物の主張でも、時間よって相違がある。

■京都潜伏中の品川弥二郎から木戸孝允宛書簡が面白い。

在京薩摩藩士が、久坂玄瑞の遺墨を欲しがっている。久坂玄瑞、やはり大きい。

■チャールズ・A・ウィンチェスターはラザフォード・オールコックの代理公使を、

2回も務めている。2回目はハリー・パークスの着任まで。

■孝明天皇紀・孝明天皇実録、ダブらない記事がある。

■今、思いついたやってみたいオンライン講座 

①小松帯刀日記を読む 

②中岡慎太郎日記を読む

 ③野村盛秀日記を読む 

④続再夢紀事を読む 

⑤「遠い崖」を読む 

とか。

もちろん、戯言です。

■安政2年(1855)6月14日、橋本左内は藤田東湖から海防の示唆を受けて師事するが、

東湖も左内を絶賛し、その存在を越前藩に報知している。

なお、7月から11月にかけて、左内は士分に列するため帰藩する。

春嶽は既に4月3日に江戸到着しているが、士分前の左内にはさすがに会っていないか?

■橋本左内は安政2年12月9日に江戸到着しているが、

18日林鶴梁が左内へ宛てた書翰に、過日彦根人と面談の際、

一橋西城(継嗣)の議があったが、その場合でなく身のためにならぬ故、

くれぐれも口外することがないよう申し聞かせた旨記載がある。

つまり、左内はもう一橋慶喜に注目している。

■西郷隆盛が初めて橋本左内に会ったのは、安政2年(1855)12月27日、

水戸藩士・原田八兵衛の屋敷で、左内は22歳で西郷より7歳も若く、

しかも小柄で眉目秀麗、婦人のような容姿であった。左内は、

初対面の西郷を「薩芝上屋敷 御庭方 西郷吉兵衛 鮫島正人友人、卯年極月二十七日始於原八宅、相会す、燕趙悲歌之士なり」と慷慨家と評しており、

好印象を得たとは言い難い。違った見方も存在するが。。

また、西郷は当初、橋本左内の華奢な容姿から軽蔑的な態度で接したらしい。

しかし、早熟の天才で学識において同時代人を遥かに凌駕し、

理路整然と時事を談ずる左内に一度まみえると、誰もが圧倒され虜にされた。

西郷も例外ではなく、これ以降、「先輩としては藤田東湖に服し、

同輩としては橋本左内を推す」と繰り返すほど左内に傾倒した。

8日

文久期は卒業したかと思ったが、新書で再チャレンジ。

■中山忠能も信じ難いとしながらも、

徳川慶喜が慶応2年11月に毒を盛られて死んだとの噂があると記載。

■本日は、『中山忠能日記』『中山忠能履歴資料』。

■『朝彦親王日記』に移行。

■慶応2年5月21日に横浜を発って長崎に向かったパークスは、

24日にに下関に寄港した際、高杉晋作・伊藤博文の訪問を受け、

鹿児島からの帰路に長州藩主と会見することを申し込まれた。実現せず。

■『朝彦親王日記』を読んでいて、坂本龍馬!という記載を見ると、ドキッとする。

のは私だけか?

■吉田稔麿は天保12年(1841)閏1月24日(「吉田稔麿年譜」(吉田稔麿関係文書)、山口県文書館蔵による。但し『松陰先生と吉田稔麿』、来栖守衛、山口県教育會、昭和13年、15頁では20日)に足軽清内の嫡子として生まれた。吉田姓は自称である。

■伊藤博文の直話として、「予は伊藤成と称せられ、何人にも後れを取らざりしが、獨り吉田稔丸と称する者には一籌を輸したり。彼は実に天稟の英才なりし」 とあり、その逸材さが如実に分かる証言である。明治まで生き延びた吉田稔麿を見たかった・・。

■奇兵隊参謀の片野十郎とは何者か。木戸孝允、山県有朋からメチャ信認されている。

■松方正義や黒田清隆、どうしても明治期の首相や大蔵大臣などとして関心がもたれるが、実は幕末期の彼らも重要であり、個人的には強く意識している。島津久光や小松帯刀、西郷隆盛の傍近くにおり、また生麦事件、「小松・木戸覚書」(薩長同盟)にも欠かせない。

■松浦玲さんのお仕事は重要。例えば、『横井小楠-儒学的正義とは何か』(ちくま学芸文庫、2010年)、『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)、『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)、『勝海舟』(筑摩書房、2010年)、『勝海舟と西郷隆盛』(岩波新書、2011年)など。

■幕長戦争中の小倉に居た小笠原長行は仮病を使い、パークスとの会談を2日延ばしたくせに、その2日間、ロッシュとは密談している。幕閣のロッシュ贔屓、パークス忌避は明らか。

■小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通の慶応期の居所表は作り始めたが、パークスも必要かもしれない。

申し訳ございません、大学紀要は非売品です。但し、大学図書館ですぐに公開いたします。以下まで、アクセスください。 https://kuis.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&count=20&order=16&lang=japanese&creator=%E7%94%BA%E7%94%B0+%E6%98%8E%E5%BA%83&page_id=13&block_id=17

9日

■『茨城県史料 幕末編』を購入した。ターゲットは、水戸斉昭。

■朝彦親王は、孝明天皇の症状をまったく把握できていなかった。慶応2年末には、その程度の政治力しかなかった。

■『嵯峨実愛日記』を読む。

■正親町三条実愛が議奏の任期中、十津川郷士6人が警護にあたっていた。

■正親町三条実愛が謹慎・閉門を命じられると、会津藩士が5,6人来て、守衛の名の下の監視体制。

■慶應2年の研究は幕長戦争に偏っており、思った以上に先行研究は少ない。

■「勝海舟日記」慶應2年2月6日条に、長州藩処分案を柴山良助から受け取ったと記載。柴山は三田品川戦争(薩摩藩邸焼き討ち事件)で捕縛された。

■吉井友実の資料、憲政資料室関連は明治以降・・。吉井は伝記もありませんしないものは仕方ないが、幕末期の吉井の史料がもう少し残っていればな・・。

10日

■将軍就任以降、慶喜と会津藩・松平容保としっくりいかなくなると、松平定敬の存在感が増す。

■例えば、芋君=島津久光、長面=伊達宗城、鯨海=山内容堂。

■大久保一蔵の「非義勅命ハ勅命ニ有らす」の書簡(慶應元年9月23日)を再度精読。当時から筆写される度に、微妙に文言に相違あり。取り敢えず、『大久保利通文書』に従う。

■「非義勅命ハ勅命ニ有らす」の書簡(慶應元年9月23日)には、「倒幕」という語彙が使用されている。

■税所 篤(文政10年11月5日(1827年12月22日)- 明治43年(1910年)6月21日)は、一度も入閣したことがない。人柄がめちゃ良くて、みんなに愛される人柄だったかも知れないが、政治家としては二流以下か・・。とは言え、税所篤、どこかにまとまった史料はないだろうか・・。

11日

12日

13日

■慶應2年5月、越前藩主松平茂昭は長州再征における九州総督を内命されたが、脚気による歩行困難で辞退。その代わり、松平春嶽が家茂出陣後の大坂城の留守を内命される。

■薩摩藩研究を、なぜ文久期からから始めたのか?よく聞かれるご質問だが、八月十八日政変から入ったから。そして、普通に元治・慶應に。安政に戻るのは1つの選択肢だが、至難の業。そもそも、定年までに慶應期の研究が終わるか、今、そんな段階。

14日

■慶応2年7月の内田政風書簡(会津藩公用人・外島機兵衛宛)を読む。緊迫した薩摩藩・会津藩の関係性が噴出。

■日露交渉史において、最も重要な人物は海軍軍人プチャーチン(1804~83)。1852年、海軍中将・侍従武官長の身分で第3回遣日全権大使節に任命され、嘉永6年(1853)7月18日、長崎に初めて来航し、その後幾多の困難を乗り越え、安政元年(1855)12月21日、下田で日露和親条約を締結した。

続き)その功績により、1859年に伯爵に叙され、海軍大将・元帥に栄進した。1861年には教育大臣(国民啓蒙大臣)に任命され、任期間に大学を中心とする学生運動、革命運動を弾圧した。また、明治14年(1881)には日露友好に貢献した功績によって、日本政府から勲一等旭日章が贈られ、1883年、80歳で死去

15日

■慶応3年5月22日【綱文内容】高知藩士乾退助「正形・後板垣」・同中岡慎太郎等、鹿児島藩士小松帯刀「清廉」・同西郷吉之助「隆永」等と京都に会し、討幕挙兵のことを密約す。拙著『新説 坂本龍馬』で言及しました。

■前原一誠は、安政5年(1858)5月、前原は家族とともに萩に移り、村塾にも日常的に出入するようになった。そこからの松陰や塾生との濃密な関係が、志士・前原一誠の形成に深く関与するとともに、その経歴がその後の人生で活きることになる。

■椋梨藤太は、文化2年(1805)生まれで、ペリー来航時、既に49歳になっていた。この時、周布政之助31歳、吉田松陰24歳、桂小五郎21歳、久坂玄瑞に至ると14歳である。年齢から見ても、この時点で椋梨が手練れの政治家であることが窺える。

■椋梨藤太については、古川薫『幕末長州藩の暗闘―椋梨藤太覚え書』(徳間文庫)がある。「藩内過激派に、血の粛清をもって対した藤太は、極悪人の刻印を押され、歴史から抹殺された。その、俗論党の巨魁の闘いの生涯を掘り起こした、著者会心の長州暗闘史」と紹介される。残念ながら絶版。

■長州藩の派閥抗争は、正義党VS俗論党とされてきた。椋梨藤太は俗論党の領袖である。拙著『グローバル幕末史』では、正義党を「抗幕・武備派」、俗論党を「従幕・恭順派」と定義した。

 

16日

■松平春嶽は伊達宗城書簡の中で、勝海舟を「飛川」と表記。

■『續再夢紀事』、見落としがある。 なぜ、スルーしていたのか、自分に不審の廉あり。

17日

■慶応2年6月25日「軍艦奉行勝義邦、上京す。書を京都守護職松平容保に呈し、征長・兵庫開港・金穀窮乏等に就て意見を陳ず。明日、容保に謁して之を説き、更に書を致して、活眼を開きて宇内の大勢を観、且幕府の職掌と徳川氏の家事とを明らかにするの要を陳ず」(要チェック)

■長州征伐(長州藩処分)というと、元治元年(1864)の「禁門の変」後の第1次長州征伐を思い起こすが、それ以前、参与諸侯間で議論が行われていた。当時、横浜鎖港と並んで、長州藩問題は国家レベルでの喫緊の課題であった。

続き)元治元年2月8日、関白二条斉敬の許に朝彦親王・晃親王・近衛父子・徳大寺公純の廷臣、一橋慶喜・島津久光・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂の朝政参与諸侯、松平直克・酒井忠績・水野忠精・有馬道純の幕閣という、当時の首脳全員が参集した。

続き)そこでは、「尋問ケ條覚、去年八月十八日元三條始七人令誘引事、幕舶ヲ引留候事、幕使ヲ令暗殺候事(中根一之丞の事也)、於長崎借渡候薩船ヘ妄ニ令砲撃候事、右同時ニ左之通可申渡事、兼而御沙汰有之候元三條始七人早々可差出事、右末家壱人家老一人召登於大阪閣老ヨリ可被申渡事」を決した。

続き)2月11日には、毛利慶親・定広父子を糺問し、応じない場合は征討を実行することとし、紀州藩主徳川茂承を大将軍名代、陸軍総裁職松平容保を副将、老中有馬道純を差添とする内命を下した。

続き)あわせて、徳島・鳥取・松江・広島・岡山・薩摩・熊本・小倉・龍野・福山諸藩に出陣の準備を命じた。15日、春嶽を京都守護職として役料5万石を給し、松平容保の陸軍総裁職を改めて、軍事総裁職とした。

続き)朝廷・幕府・諸侯の首脳が一堂に会するほど、対長州藩対応は最優先事項であったが、特に久光にとっては、それは同じであった。八月十八日政変以降の確執、特に薩摩藩借用船砲撃によって、不倶戴天の敵として位置付けられており、会津藩同様、最も強硬な対応を求めていた。

続き)幕府の長州征伐方針に対し積極的に支持しており、藩主茂久に「長之御処置初り候ハ、戦争ニ至り可申欤も難計候間、其許人気奮発之処、折角無御手抜様奉存候」 と出兵の怠りない準備を指示している。しかし、朝幕共にその方針がぶれ続けており、久光にとってその因循さは座視し難いものであった。

18日

■慶應2年7月段階で、

越前藩士に「人才にして器曲凡庸之人物ニ無之候」と称賛される池田長発。

■橋本左内を知るために、彼が15歳の時に著した『啓発録』を読んでいただきたい。

百聞は一見に如かず。講談社学術文庫あたりが読みやすいです!

■『続再夢紀事』を読んでいて、松平春嶽が一橋慶喜に宗家相続を迫る場面、

慶喜同様、吹いてしまった

19日

■慶應2年5月、勝海舟は西周の訪問を受けていり。

■意外と当たり前すぎることの定義が難しい。例えば、「藩士」。

20日

■幕末の議奏、武家伝奏、近習は重要。特に議奏。

例えば、両卿(中山忠能・正親町三条実愛)・三条実美に代表される。

国事御用書記、国事御用掛、国事参政・寄人も看過できない。

このあたり、仙波ひとみさんに多くの業績がある。箱石大さんも、忘れてはいけない。

■長州藩研究からスタートした私は、薩摩藩に行くのか、

朝廷(国事参政・寄人といった機関・御親兵・学習院)に行くのか、

迷った時期があった。決め手は言えないが、ある方の一言

21日

22日

■慶応2年7月5日、勝海舟は佐久間格次郎が世話になったとして、近藤勇、土方歳三、山本覚馬にそれぞれ五百疋を贈っている。

■慶応2年夏の突発フラグは、家茂薨去。これによる影響はでかい。

一橋慶喜も徳川慶喜に。

■慶応2年7月、大原重徳はまだ即時攘夷を唱える。

通商条約は勅許されていますが

23日

■慶応2年7月、板倉勝静は松平春嶽に大坂城老中御用部屋入りを要請。

春嶽は拒否するものの、この頃のキーマンの一人が間違いなく春嶽。

■「朝彦親王日記」に登場する中村左馬は津藩士。

薩摩藩と津藩は長州藩再征に反対で、藩士間の交流がある。

■「明治維新の一級資料 安達清一郎関係文書の世界」 

・安達清一郎の日記(桜田門外の変の詳細を伝える内容、

安達清一郎の日記(江戸の昌平黌書生寮での修業時代の日記) 

・関鉄之介の手紙  万延元年(1860年)4月5日付 

・平岡円四郎の手紙 元治元年(1864年)2月17日付 https://pref.tottori.lg.jp/item/1278114.htm#itemid1278114

 

24日

■慶応2年9月から、誰の目から見ても分かるレベルで、土佐藩・山内容堂が大転換。

■小笠原唯八、キーマンの一人。

■慶応2年以降に大きくなった問題として、薩摩藩VS会津藩がある。

■家茂の後継について、朝彦親王・二条関白の意中は必ずしも御方ではない事実。

■幕府が勅許を懇請した通商条約は、「仮条約」と史料にある。

■土佐藩士津田斧太郎、「年少にして才気あり、西洋の説にも基づき、

天地間の道理を陳べて、彼我の別なきを弁じ、和漢歴世の盛衰、

利害を論叙する事深し」と評されたが、何者か詳細知らず・・。

長州藩をしなければいけないのだが、

これ以上深掘りすると、定年までに終わらない。

25日

■福井県文書館ご担当者さんから『福井県文書館資料叢書』18

「福井藩士履歴10 新番格以下3 タ~ム』をご恵贈いただきました。

ありがとうございました。解説も毎回読みごたえがあります。

越前藩研究は、薩摩藩研究でも必須であり、

本シリーズを活用させていただいております。 https://library-archives.pref.fukui.lg.jp/bunsho/index.html

■「霈然之恩」「遠戎賓服」など、現代語にするとなると難しい。

前後の繋がりもあるし。

■慶応2年以降のキーマン、もう一人発見。正親町三条実愛。

本物は年齢とかポジション、経歴じゃなく、

とにかく敵わないと思わせる圧倒的な本質を持っている。

■『連城紀聞』『連城漫筆』『中山忠能履歴資料』、重要文献。

26日

■天保の改革の理解・評価は、阿部正弘の安政の改革の捉え方に影響する。

■小松帯刀は安政2年(1855)6/28に江戸藩邸に到着し、

9/3江戸発、10/8鹿児島着している。つまり、2ヶ月余り、

西郷隆盛と江戸で被っており、顔を合わせていると考える方が妥当では。

27日

■黒田清隆は「維新史料綱要」で38件ヒットするが、初出は慶応1年12月28日。

「鹿児島藩士黒田了介「清隆」下関に至り、萩藩士木戸貫治に上京して、

同藩家老小松帯刀「清廉」・同藩士西郷吉之助等と薩長同盟を協議せんことを説く。

是日、貫治、了介及藩士品川弥二郎等と三田尻を発す」。

■①『日本史用語集』2013年(教科書総数11冊)

 ②『日本史用語集』2018年(  〃   8冊) 

久坂玄瑞①2冊 ⇒ ②2冊 

岩瀬忠震①4冊 ⇒ ②4冊 

橋本左内①10冊 ⇒ ②6冊 左内の掲載教科書が減ってしまっている

■『日本史用語集』、

小松帯刀は2013年はABともにゼロ、

2018年Bはゼロだが、Aでとうとうと言うか、やっと1。

啓蒙啓発運動は緒に就いたばかり

■『日本史用語集』、

薩長同盟は相変わらずすべての教科書に掲載。

一方で、薩土盟約は2013年はABともにゼロ、2018年Bはゼロだが、

Aでとうとうと言うか、やっと1。『新説 坂本龍馬』でもその重要性を強調したが、

一般的にはこの程度

■堀田正睦は1834年(天保5)寺社奉行、

1837年大坂城代を経て1841年老中となり、

水野忠邦の天保の改革に参与、

1843年辞職して帰藩し藩政改革に尽力。

社倉の建造などの農村対策や藩士教育を重視し、

蘭学を取り入れて西洋医学を興すと共に、

洋式兵制を採用して「蘭癖」と評された。

■続き)ペリー来航後、堀田正睦は老中阿部正に推されて、

1855年(安政2)老中首座となり、外交の難局にあたった。

勘定奉行川路聖謨や目付岩瀬忠震らの有能な開明派官僚を重用して

アメリカ領事ハリスとの通商交渉に対処した。

■続き)1857年、堀田正睦は将軍に謁見したハリスとの会談により

通商条約締結を決意し、諸大名に諮問を行うとともに、

通商条約の勅許によって諸大名の反対を抑えようと1858年上洛した。

勅許工作は失敗して江戸に帰り、

将軍継嗣問題では朝廷に信任のある一橋慶喜を推し、

朝幕の和解を期した。

■続き)しかし、突如、井伊直弼が大老に就任したために、堀田はこれも失敗し、

日米修好通商条約の調印がなるのを待って罷免され、

さらに違勅調印の責を負わされて隠居に処された。

その後、1862年(文久2)老中在職中の外交取扱不行届の廉で蟄居を命じられた。

元治元年3月21日没。

■大橋訥庵(1816~1862)について、日本大百科全書によると、

江戸末期の儒学者。熱烈な尊攘思想家。

名は正順(まさより)、字は周道、通称順蔵。

兵学者清水赤城(1766―1848)の四男として文化13年江戸に生まれ、

日本橋の豪商大橋淡雅(1789―1853)の婿養子となる。

■続き)大橋訥庵は、佐藤一斎に儒学を学び、

思誠塾を開いて子弟を教授、詩文に優れた。

1857年(安政4)『闢邪小言 (へきじゃしょうげん) 』を著して尊王攘夷論を鼓吹した。

安政 の大獄に刑死した頼三樹三郎の遺体を収めて小塚原回向院に埋葬した。

■続き)大橋訥庵は、公武合体論による皇女和宮の降嫁反対運動にも参加した。

坂下門外の変に際し、計画の中心人物と目されて、

老中安藤信正襲撃に先だって捕らえられたが、病のため出獄、

宇都宮藩に預けられたが文久2年7月12日没した。

47歳。伊藤博文も吉田稔麿も、その塾に出入りしていた。

28日

■慶応3年後半のあることについて、重要なことに気が付いた。

精査は、まだまだ先になるが。

■明治時代後半の回想録を史実と認定し、

それを前提に都合良く幕末政治史を構築することは危険である。

木戸孝允自叙ですら、危うい箇所がある。

史料批判を十分にして、まずは1次史料と当時の政治状況の精緻な分析が必要と考える。

■黒田清隆は、慶応2年の第2次薩摩スチューデントのメンバーに間違いなく入っていた。

長州藩との連絡を務めるため、辞退か。

■伝記は基本、その人物の顕彰という意味合いがあるため、どうしても盛りがち。

より一層、注意が必要と肝に銘じる。

■永井尚志(1816~1891)について、少々。

幕末の幕府官僚。幕府海軍の創設や大政奉還の起草に尽力。

1816年(文化13)三河奥殿藩主松平乗尹の庶子に生まれ、旗本永井家の養子となる。

1848年(嘉永1)の学問吟味で甲科上の褒詞を受ける。

■続き)1853年目付となり、長崎勤務中の1855年(安政2)オランダ国王から贈られた

観光丸を用いた海軍伝習の監督となる。

1857年観光丸で帰府。築地に開かれた軍艦操練所を監督する。

その後、勘定奉行、外国奉行、軍艦奉行と転じ、安政の大獄で一時失脚する。

■続き)1862年(文久2)軍艦役頭取に復職し、同年京都町奉行となる。

1865年(元治1)第一次長州遠征(長州征伐)で毛利氏の処罰をめぐり孤立して辞職した。

865年(慶応1)第二次長州遠征のときに大目付に復職した。

1867年若年寄格となる。

■続き)坂本龍馬が暗殺される直前、永井と2回会談している。

1868年(明治1)蝦夷地に渡り新政府に抵抗。

1869年降伏し入獄するが、1872年赦免となった。

永井尚志は、新政府に仕え、開拓使用掛、左院少議官、元老院権大書記官を経て、

1876年退職した。

■続き)1891年7月1日死去。76歳。墓は東京都荒川区の本行寺。

自伝に『永井介堂君履歴稿本』がある。永井尚志に関連したエピソードを一つ。

映画『人斬り』は、昭和44年公開の五社英雄監督による時代劇映画であり、

フジテレビ・勝プロダクションの製作、勝新太郎が主演だった。

■続き)映画『人斬り』は、動乱の幕末時代を舞台に、京の都を震撼させ、

その名を轟かせた土佐の最強の剣士・岡田以蔵の半生を描いた歴史劇作品、

司馬遼太郎の小説『人斬り以蔵』をモチーフとしている。

■続き)映画『人斬り』で田中新兵衛役を演じた三島由紀夫の高祖父は、

朔平門外の変で姉小路公知暗殺嫌疑がかかった田中新兵衛が切腹してしまったことで、

不注意の咎で閉門を命ぜられた、京都町奉行時代の永井尚志。

そう、この永井です事実は小説よりも奇なりではないか。

■続き)三島由紀夫は、「明後日は大殺陣の撮影です。

新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎で閉門を命ぜられた永井主水正の曾々孫が

百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖は墓の下で、

目を白黒させてゐることでせう」と語っている。

■続き)田中新兵衛が姉小路公知を暗殺した朔平門外の変については、

拙稿「幕末中央政局における朔平門外の変 その背景と影響について」

(『日本歴史』2007年10月号)、

拙著『島津久光=幕末政治の焦点』(講談社選書メチエ、2009年)を参照ください。 https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000195391…

29日

■「小松・木戸覚書」以降の薩長融和を考察中。

薩摩藩のキーマンは黒田清隆、大山綱良、五代友厚。

■『幕末会津藩往復文書』、極めて貴重な資料なのだが、

残念ながら時系列になっていない。

■慶応2年7月「松平慶永登坂心覚」は、『続再夢紀事』に採録されていない。

■慶応期の薩摩藩を研究する場合、長州藩とともに、

会津藩にも踏み込まなければならない。もちろん、前者が中心ではあるが。

■幕末政治史は、実証研究花盛りのように言われているが、

果たしてそうだろうか?土佐藩はどうか?長州藩だって、

まだ残された部分が多い気がする。

■福岡孝弟の研究、幕末維新史には必須。

■慶應期の政治史を、薩摩藩からもう一度、見ようと試みている。

ところで、幕末政治史を会津藩(松平容保)で重箱の隅を突くような実証研究を、

どなたかにしていただきたい(^^

■会津藩士・神保修理の実弟は北原雅長(まさなが)。

天保13年(1842年)生まれ、大正2年(1913年)没。

初代長崎市長。幕末会津藩研究の必読書である『七年史』の著者である。

■鳥羽・伏見の戦いは4日間。どうも関ヶ原のように、

1日で勝負ありと思っている人が、意外と多い様子。

30日

■山内容堂は書簡署名を使い分けているが、「狼生」「病狼」というものもある。

なお、伊達宗城書簡(慶應元年)には「狼兄」とある。

31日

■薩摩藩士・折田要蔵、不思議な人物だ。湊川神社初代宮司にもなっている。