1日

■拙稿「幕末の対外戦略と留学生―長州ファイブと薩摩スチューデントを事例に―」は、一般書で先行したものを論文化したもの。ぜひ、ご味読ください。

 

 

2日

■双松君(兄)=   島津久光

3日

■人物の居所を確認する作業は、地道だが必要。取り敢えず、慶応元年の小松帯刀・西郷吉之助・大久保一蔵は粗できているが、周辺人物にも必要。例えば、薩摩藩士で言えば、吉井友実、黒田清隆、桂久武とか。

■幕末の黒田清隆、謎だらけ・・。
人の性格って、そう簡単に変わるはずがない。黒田清隆も例外ではないのでは

■岩倉具視は当然要チェックなのだが、そこまでの余力がまだない・・。

■橋本左内を考えている時、安政期の政争を捉え直したり、様々な可能性の存在を想起すべきと感じた。

■「権力」「政権」「勢力」など、共通の定義になっているのか、もう1回立ち止まるべきかも。

■家近さん以来、一会桑がアプリオリとされており、それに引きずられていることは否定し得ない。会津藩はまだしも、一橋や桑名をどう捉えるか。慶喜についてもっと考えて、一橋家の理解をする必要を感じている。

■幕末の老中、水野忠精(天保3年(1833)12月16日- 明治17年(1884年)5月8日)の在任期間の長さは尋常でない。文久2年から慶応2年まで、4年半ほど。この激動期に罷免されなかった彼の政治的動向、政治力は検討に値する。210

■水野忠精はキーマンの一人。奈良勝司著『明治維新をとらえ直す―非「国民」的アプローチから再考する変革の姿―』の書評を担当し、その思いを一層強めた。

■長州ファイブの井上馨、山尾庸三、伊藤博文は高杉晋作・久坂玄瑞と共に、文久2年12月の御殿山英国公使館の焼き打ち事件に参加し、そのわずか5か月後にイギリスへの密航留学のため、横浜を出港している。このあたりの、彼らの心理ロジックの解明は重要。詳しくは拙著『グローバル幕末史』を参照!

4日

■この時期の「王政復古」論は、武市半平太のオリジナルではなく、真木和泉や平野国臣が既に主張している。

『隅山春秋』は、文久期研究の必須文献の一つ。

■文久2年(1862)12月20日、吉田稔麿は平井収二郎と会談。

■土佐藩士の弘瀬健太、調べてみたくなった。

■簡単に国事周旋といっても、その内容は時々刻々変化する。また、周旋主体によっても差異がある。

■中山忠能、恐ろしいほどの情報取集力。侮れない。

■文久3年(1863)
5月10日(1863年6月25日) 長州藩、下関で外国商船を砲撃(下関戦争)
5月12日(1863年6月27日) 長州ファイブ、英国領事エイベル・ガウワーの助けを借り、英国留学のため横浜を密出国
この間、僅か2日。 長州ファイブは攘夷実行をこの時知らず!

■慶応2年(1866)
4月7日  海外行き許可の認証に関する布告。商用・留学目的の海外渡航が解禁される。これ以降は原則密航でなくなる。
5月13日  幕府、英米仏蘭と改税約書(江戸条約)に調印。輸入関税の引き下げにより、以降輸入が急増。諸藩も貿易が可能に。

■長州ファイブの渡英は、駐日英国領事エイベル・ガウワーやジャーディン・マセソン商会のウィリアム・ケズウィックらの協力を得て可能となった。英国留学中は、ジャーディン・マセソン創業者ジェームス・マセソンの甥、ヒュー・マセソン(ジャーディン・マセソン商会・ロンドン社長)が世話役となった。

■繰り返すが、「公武合体」vs「尊王攘夷」の図式はあり得ない。公武合体とは、朝廷と幕府を融和させて、国内を安定させようという政策である。尊王とは、天皇を尊ぶ思想のことであり、攘夷とは、外国を追い払う対外方針である。つまりこれらは、対立概念ではない。

■当時の日本人であれば尊王であり、軽重こそあれ公武合体であり、さらに攘夷であった。攘夷について言えば、実行時期や方式に違いによって、未来攘夷と即時攘夷に大別され、慶応元年(1865)10月に通商条約が勅許されるまで、幕末の動乱は攘夷を巡っての争いであった。拙著『グローバル幕末史』では、攘夷の方策や実行時期の相違からなる対外概念、つまり幕末の攘夷政策を「未来攘夷」(通商条約を容認し、将来、武備充実後に攘夷を実行)と「即時攘夷」(通商条約を否定し、即時、外国船砲撃などの攘夷を実行)に再定義している。https://kandagaigo.ac.jp/kuis/kuis_news/detail/0555_0000003532.html……

■ちなみに、幕府が締結した通商条約を容認する開国策として理解されている長州藩の航海遠略策でさえ、一見開国政策に見えるが、実は攘夷を前提にした外国侵攻政策とも言え、未来攘夷主義と捉えることもできるものであった。

■重豪と斉彬に挟まれた斉宣と斉興。他藩であれば、名君として有名になったかも。斉興は斉彬の敵役で、ちょっと気の毒な存在ですが、優秀ですね。島津に暗君なし

『小松帯刀日記』の万延元年(1860)の前半には、山田壮右衛門との度々交流の記載が見られる。山田の推挙があった可能性はかなり高く、小松登用の大きなキーポイントの一つと捉えたい。

■山田壮右衛門は斉彬の側近として最重要人物の一人であったが、久光の信頼も厚く、書簡のやり取りも多数見られるなど、その関係は相当なレベルにあった。その山田と小松帯刀は、斉彬時代から親交が続いていた。

■島津斉彬が西郷隆盛を知ったのは、安政元年(1854)1月21日、斉彬は藩主就任後、2度目の参勤交代のため鹿児島を出発する前、1年ほどの間のどこかと考えている。

■島津斉彬はお由羅騒動によって分裂した藩内の政治的な統一・団結に意を用い、反斉彬派に対しても報復人事を行わず、処罰者の復権にも時間をかけた。これは斉彬でなければできない人事政策であり、前任校で人事部長を務めたことがある私には心当たりがある。寛容と忍耐、今に通じる。

■また、斉彬は身分にかかわらず藩政に関する建白を認めることによって、人心の収攬に尽した。その結果が、藩内抗争の再発を防ぎ、西郷らの登用に結びつくことになる。斉彬が西郷をどのタイミングで知ったのか、最近は通説よりかなり遅い安政元年(1854)以降のタイミングも指摘されている。

■島津斉彬は生まれながらにして聡明であり、一度相まみえると相手を圧倒して魅了するほどの知識・教養・人柄・風貌を備えており、その視野が広くて器量の大きい様は、諸侯随一との誉れが高かった。個人的には、近世ではなく近現代の、つまり私たちに近い感覚を持った人物に感じる。

■島津重豪は娘の茂姫(広大院)が11代将軍家斉の御台所となる幸運をつかんでおり、「高輪下馬将軍」と言われるほどの権勢があった。

■島津重豪は「蘭癖大名」の代表とされ、ローマ字を書き、オランダ語を多少なりとも理解でき、藩校・造士館や武芸稽古場・演武館を設立して教育制度を刷新、武士階級の引き締めと強兵に努めた。暦学や天文学の研究に資する明時館(天文館)、医療技術の向上を目指した医学院を設立した。

■島津重豪は実学を重んじ、広く庶民にも教育の機会を与えた。いたずらに借金を膨らましただけではない。この重豪の実践的で長期的な政策や、学問に対する造詣の深さや熱意は、島津斉彬の人格や世界観の形成、そして政治思想に多大な影響を与えたことは間違いない。重豪あっての斉彬である。

5日

■一般書では勝海舟、論文で勝義邦。

■神戸海軍操練所は、1864年(元治1年)5月に、軍艦奉行の勝海舟の建言により幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関。薩摩藩からも数名が参加しているが、実は名簿がはっきりしない。伊東祐亨(初代連合艦隊司令長官、黄海海戦を指揮)は間違いなさそうだが。

■「思い込み」という敵が、一番厄介で怖い。どんなに柔軟なつもりでも、頑なな部分が残るもの。

6日

7日

■佐々木克『幕末政治と薩摩藩』を久々に拝読。薩長同盟に関しては、だいぶ私の見解と異なっている。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として」(神田外語大学日本研究所紀要、2017年3月)を参照下さい。
https://kuis.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=17&item_id=1414&item_no=1……

8日

■慶応期の研究を進めるということは、「通説」「伝説」の切り崩し作業の面がある。さしあたって元年のキーマンは、小松帯刀、西郷吉之助、黒田清隆、木戸孝允、坂本龍馬、中岡慎太郎など。それにしても、慶応期を通じて島津久光・小松帯刀は重要。

9日

10日

『史談会速記録』全巻揃い、マツノ書店での復刻が難しくなった今、もう諦めるしかないか。。

■元治元年(1864)4月中旬、長州ファイブのうち、井上と伊藤はロンドンを出発し、帰国することになった。同年3月、日本発の「砲撃を受けた連合国は幕府に抗議するも幕府返答は煮えきらず、連合国は長州藩に対し重大な決意をするに至った」との報道に驚き、井上と伊藤は直ちに帰国を決意する。

■元治元年(1864)6月、井上と伊藤の2人は横浜に到着した。ガウワーに会い、急遽帰国した説明をしたところ、ガウワーは4カ国が下関を襲撃する計画があることを告げた。2人は長州藩の安危に関する大事件と受取り、ガウアーに英国公使ラザフォード・オールコックとの会見の設定を依頼した。

■オールコックは、なんとその会見を受諾する。井上と伊藤は通訳アーネスト・サトウを介して公使と会見し、長州藩に帰って藩論を一変したいと説明して停戦講和を願った。オールコックは、フランス、アメリカ、オランダの公使と協議して確答するから、数日間居留地のホテルに宿泊して待つようにと言った。

■井上と伊藤は、ホテルのボーイ等が「今回ホテルに来たポルトガル人の顔付きは日本人に似ている、ケチで金銭を使わぬには驚いた、金銭を使う道をしらぬのではあろうが、彼等2人の風貌から見てもポルトガル人の中でも最下等の貧乏野郎」など、日本語が分からないものと思って勝手な事を話していた。

■やがてオールコックから連絡があって、他の3国も了解したから国に帰って尽力して欲しいと、藩主あての公使からの書簡を手渡された。書簡に対する返答は到着から12日後と決まった。ここからが井上と伊藤にとって、本当の試練となる。

■桂久武、改めて超が何個も付く重要人物と実感。

■山尾庸三は、もっと評価されて良い人物。知っていただきたい偉人。

■藤田英昭「文久・元治期における徳川慶勝の動向と政治的立場ー文久三年・元治元年の上京を中心にー」(『徳川林政史研究所研究紀要』53)、この時期の研究には必須。

11日

■元治元年(1864)5月9日、薩摩藩は小松帯刀の尽力により、蒸気船運用術教授として、中浜万次郎の招請を幕府に嘆願して了解を得ている。開成所教授に赴任して、航海、造船、測量、英語を教授した。

■慶應期の長州藩の研究には、薩摩藩家老・小松帯刀の動向が絡んでくる。
また、慶應期の前原一誠。明らかに精神衰弱の時期がある・・。

■久坂玄瑞の重要性は、まだ過小評価されている。拙著『新説 坂本龍馬』でも触れたが、久坂の影響力は絶大である。本格的な久坂研究が待たれる。

■私の中で、島津久光は別格。

12日

■久坂玄瑞の重要性は、まだ過小評価されている。拙著『新説 坂本龍馬』でも触れたが、久坂の影響力は絶大である。本格的な久坂研究が待たれる。

13日

14日

■小松帯刀の明治期の事績、僅か実働1年くらいだが、やってることは半端ない。

■渋沢栄一は天保生まれ。その後、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正、昭和の元号を生き抜いた。なんとその数は11‼️ ちなみに、私は昭和、平成、そして令和の3に過ぎないが、昭和が被ることに感激

15日

■本日は、『忠義公』『玉里』三昧。

■島津久光の研究 

芳即正『島津久光と明治維新』、新人物往来社、2002年 

佐々木克『幕末政治と薩摩藩』、吉川弘文館、2004年 

町田明広『島津久光=幕末政治の焦点』、講談社、2009年 

町田明広『幕末文久期の国家政略と薩摩藩―島津久光と皇政回復 』、岩田書院、2010年

■「久光四天王・堀次郎の国事周旋―江戸藩邸自焼事件を中心に」をかなり以前、書いた記憶がある。いずれ、JBpressで

■文久期前半、江戸では水戸藩尊王志士を中心に、老中安藤信正襲撃およびその後の義挙の計画が進行していた。しかし、それに飽き足らない庄内藩郷士清河八郎は「御譲位企てし子細及び草莽義相振ひ居り、且国家内外の時勢共、巨細に認め(略)京師中山家よりして、極密に叡覧に入り、然る後九州に下り、薩の同士中を招ぎ寄せ(略)関東を横行いたし、専義兵を募り、尊皇攘夷の事に及ぶ」 と計画した。

■この時期、京都における尊王運動の中心的役割は、安政3年(1856)、文久元年の2回にわたる九州歴訪等によって、西国志士と気脈を通じていた中山忠能の諸大夫田中河内介であった。文久元年11月12日、清河は薩摩藩浪士伊牟田尚平らと共にその田中を訪ね、挙兵の謀議に及んだ。

■田中は「思の外、平和人」と見なす中山忠能と意見が合わず、諸大夫を退いていたため、中山による義挙内奏は叶わなかった。しかし、田中は老中安藤の廃帝等の姦計を座視できず、「親に勝る大器量人にて 今上の御側を致し、青蓮院宮などヽ尤も懇意遊されし」と評価する中山の長男、忠愛と密議に及んだ。そして、中川宮の令旨が出ると偽って、西国尊王志士を励まし、同志結束の上、宮を奪って即刻征夷大将軍任命を奏請し、攘夷を実行することを基本方針とした。その上で、九州や水戸の志士を京都に潜入させ、青蓮院宮を奉じて天子を擁し、「一時に天下諸侯及草莽の士民に号令いたし、第一に若州を伐殺し、関東の気を奪ひ、夫より宮を奉じて夷秋を征代して、我三千年来の皇威を復し、天下萬世の大功を建」てるとした。計画としては観念的で杜撰なレベルではあるが、天皇親政を実現し、併せて攘夷実現を図ることが議せられており、彼らの鬱積した激しい憂いや、その運動の急進性および方向性は確認できる。また、京都所司代酒井忠義を成敗し、かつ宮を征夷大将軍とすることが骨子となり、事実上、廃幕の上での皇政回復であった。なお、本計画は翌文久2年(1862)3月上旬を期して実行するとの方針であった。

■歴史教育における近現代史の重要性は論をまたないが、近代史が明治維新から、現代史が敗戦からになりがち。これでは、近代・現代の出発点が理解できない。いっそのこと、「19世紀史」「20世紀史」がベターではないかと思案中。そうすれば、スタートが真ん中あたりに来る

■慶應元年当時、長崎にいたカールという外国人商人、その正体や如何?

■「讎敵」(しゅうてき)とは、恨みに思う相手。かたき。 木戸孝允は、ある時期まで薩摩藩は長州藩をそのように捉えていると考えていた。

16日

■慶応元年1月、長崎から鹿児島に向かう船中で、西郷隆盛は前島密と同乗した。

■慶応元年後半、長州藩では椋梨斬首以降、一気に内訌による犠牲者に対する名誉回復が図られた。また、生き残り組のお手盛りに近い身分・職掌の上昇が見られる。楫取素彦が侍儒から平士になるのも、このタイミング。すべて来たる第2次長州征伐に向けた動向。

■山田宇右衛門・兼重譲蔵・広沢真臣・前原一誠、そして木戸孝允が慶応元年後半の長州藩要路。ここに谷潜蔵こと高杉晋作も加わる。

■拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として」(神田外語大学日本研究所紀要、2017年3月予定)。幕末期の黒田清隆を、ここまで扱った論文を知らない。https://kuis.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=17&item_id=1414&item_no=1…

■幕府は八月十八日政変の成果だけでは、通商条約の容認に移行することは困難と考えており、ここで、折衷案とも言える「横浜鎖港」なる奇策が登場する。当時、開港していたのは箱館・横浜・長崎の三港であったが、その内の一つである横浜を鎖港するというもの。

■鎖港とは、既に開港した港を閉ざす行為。幕府は横浜鎖港を主張したが、三港同時に鎖港せよと主張する廷臣は多数いた。開国・鎖国の考え方より、開港・鎖港はもっと限定的に捉えるべきでは。四つの口を、和親条約以降の「開港」と同義に捉えることには抵抗がある。

■幕末には「鎖国」意識があったからこそ、開国意識も生まれた。「皇国而已鎖国難被成置形勢御座候」(「宸翰ニ対スル久光公ノ奉答書」、『玉里島津家史料』2、史料番号783、598~602頁)。鎖国は同時代の用語。

17日

■慶応元年末(1865)から2年(1866)の初めにかけて、一橋慶喜は「北境鄂虜之南侵」を最大の「患有」としている。つまり、蝦夷地におけるロシアの南進が最大の外患と認識している。

■今からちょうど6年前、「博物学者シーボルト自筆のオランダ語書簡が本学の「洋学文庫」の中から発見され、一般公開へ」のニュースが、NHK「おはよう日本」で報道され、それ以降、しばらくシーボルト研究者となった。
https://kandagaigo.ac.jp/kuis/kuis_news/detail/0510_0000004148.html……

■神田外語大学で発見されたシーボルト直筆書簡は、国外追放前に日本植物研究について書かれたものとしては、日本で初めて発見された書簡だった。なお、6年前はシーボルト没後150年の節目の年であり、かつ2016年2月17日は生誕220年の誕生日だった。

■神田外語大学で発見されたシーボルト書簡は、1828年11月にシーボルト事件が発生し、国外追放になる直前に、賀来宛に自筆で記し送付したもの。鳴滝塾の門下生であった賀来に関しては歴史上謎が多く、今回の発見により、植物学におけるの一番弟子とされている伊藤圭介と並ぶ重要人物であることが判明。シーボルトの書簡は日本に6本現存していますが、国外追放前に日本植物研究について書かれたものとしては日本で初めて発見されたもの。

■シーボルトの国内現存書簡は、 

1.二宮敬作宛 文政12(1829)年? 聖マリアンナ医科大学蔵・シーボルト記念館保管 

2.3.4.娘のイネ宛 安政7(1860)年 長崎市立シーボルト記念館 3通とも国重要文化財 5.大東急記念文庫所蔵 内容未詳

6.賀来佐之宛 神田外語大学

シーボルトの現存する修業証明書(4通) 

1.西山砂保宛て、1826年4月18日付け、江戸にて (島根大学附属図書館所蔵)

2.岡泰安宛て、1827年3月2日付け、 出島にて (早稲田大学図書館所蔵)

3.高良斎宛て、1829年10月30日付け、出島にて(長崎市シーボルト記念館保管) 

4.高良斎宛て、1829年12月8日付け、出島にて((長崎市シーボルト記念館保管) これらは書簡には含まれません。

18日

■西郷の最初の妻の須賀の弟、伊集院兼寛は通称・直右衛門、薩英戦争・戊辰戦争で軍功があり、維新後、鹿児島藩権大参事。海軍少将・海軍少輔・元老院議官・貴族院議員等を歴任、子爵。明治31年(1898)没、享年61才。

■伊集院兼寛について、戊辰戦争後、川村純義らとともに、戊辰戦争で活躍した凱旋将兵として一斉に帰藩し、出兵に消極的であった門閥の打破や人材登用を猛烈に唱え、出兵に反対した久光の次男、島津久治を藩主忠義の面前で詰問し、家老職の辞職にまで追い込んでいる。

■1年前の情報。 

ミネルヴァ評伝選ラインナップ 

大石学『松平春嶽』 

岩下哲典『山岡鉄舟・高橋泥舟』 

奈良勝司『三条実美』 

白石烈『松平容保』 とのこと。 

その後、どうなったか。

 

19日

■慶応2年10月20日(1866年11月26日)、横浜で大火発生。関内の日本人居留区の1/3、外国人居留区の1/4が焼失。豚肉料理屋鉄五郎から出火したため、「豚屋火事」として命名。被災者には、アーネストサトウの名前も。

■憲政資料室および黎明館寄託史料を久々に確認した。小松帯刀、桂久武の史料が量的に多い感じ。基本、活字化されていないもの。

20日

■「通商条約は不平等でなかった!」は、ニュアンス的には、「不平等と言い切るのは、気の毒である」です。もちろん、不平等の要素が皆無とは言っておりません。

21日

■「鎖国」という語彙は、蘭学者・志筑忠雄が享和元年(1801)に刊行した『鎖国論』による。その造語の基は、ケンペルの著作「日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、又此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理」。題名があまりに長いことから「鎖国論」と命名。

■ジャパンナレッジによると、山田長政は、近世初頭のシャム在住日本人の指導者。駿河国(静岡県)に生まれる。通称仁左衛門。1611年(慶長16)ごろ朱印船に乗ってシャム(タイ国)に渡る。当時、国都アユタヤ郊外には日本町があり、多数の日本人が居住(1500~1600人)。彼らには一人の有力者(首長)の統率下にシャムの兵士として軍務に服する者、金融業・貿易業に従事する者などがあった。長政はその才幹を認められ、首長となった。1629年、山田長政は日本人・シャム人よりなる配下の兵数千を率いて任地に赴いたが、パタニの侵入軍と対戦して負傷した。彼の政敵に通ずる侍臣が傷口に塗った毒薬のため、30年夏、死亡した。

■一橋家の祖である宗尹は、1746年に賄料領知10万石を与えられた。2代治済(はるさだ)の長男は将軍家を継いで11代将軍家斉(いえなり)となる。9代目には水戸徳川斉昭の子慶喜を迎えたが、慶喜は1866年15代将軍となった。

■一橋家の10万石の領地は、西日本8万石(おおよそ摂州に1万5000石、泉州に8000石、播州に2万石、備中に3万7000石。代官所は備中の井原村、摂・泉・播3ヶ国は大坂川口)、関東2万石であった。関西に領地が多いことに注目したい。

■第12代将軍徳川家慶(1793―1853)について、11代将軍家斉の二男として生まれ、幼名は敏次郎。天保8年(1837)、に将軍となる。しかし、家斉在世中は、大御所政治時代であり、家斉に実権を握られていた。天保12年(1841)、家斉の死後、徳川家慶は老中水野忠邦を首座に任用して、幕政の改革、世にいう天保の改革を行った。しかし、改革は急激にして、また各方面に厳格に過ぎたため人心を失い、忠邦は2年余で失脚した。その後、徳川家慶は阿部正弘を老中首座に起用し、有力諸藩の改革派勢力に対して柔軟な路線を採用したため、幕末の雄藩連合運動の素地を作ることとなった。嘉永6年(185 3)6月のペリー来航に際しては病床にあり、ほどなく死去した。

■川路聖謨(1801―1868)について、幕府の徒士・内藤吉兵衛の子として豊後国(大分県)日田に生まれ、小普請組川路三左衛門光房の養子となる。通称弥吉、後に三左衛門。18歳の時に幕府に出仕し、下級武士の出身で初めて支配勘定出役となり、それ以降も能力を認められて出世を続けた。小普請奉行、奈良奉行、大坂町奉行を歴任、嘉永5年(1852)には勘定奉行に上り、海防掛を兼ねた。想像を絶する官僚中の官僚である。嘉永6年(1853)、ロシア使節プチャーチンの来航に際しては、外交交渉のため長崎に赴き、翌年に再び伊豆下田においてプチャーチンと折衝し、日露和親条約を締結。ロシア側では、この間の川路の手腕を高く評価している。その後、川路聖謨は条約勅許・将軍継嗣問題で一橋派と目され、大老井伊直弼にその地位を追われた。井伊の横死後、文久3年(1863)に外国奉行となったが、数か月で辞職したが、その事由は定かではない。なお、江戸城の無血開城の翌日、ピストル自殺を遂げた。まさに幕府に殉じた。川路の実弟松吉は幕臣井上新右衛門の養子となり、のち外国奉行・井上信濃守清直として、岩瀬忠震と共にハリスの応接にあたり、兄弟ともに幕末外交史上に活躍したことになる。

■幕府はオランダに風説書提出を義務付け国際情報を得ていたが、アへン戦争が起きると、これとは別により詳細な情報(別段風説書)を入手しようとした。オランダ風説書は、鎖国体制下の日本との貿易を特に認められたオランダが幕府に提出した海外情勢に関する風説(ニュース)を総括した書。オランダ風説書の起源は、鎖国完成後の寛永18年(1641)とされ、当初は必ずしも提出が義務付けられなかった。キリスト教禁制を強行し、日本人の海外渡航禁止の政策をとった幕府としては、海外情報源の確保は極めて重要な意義をもった。現在知られている風説書は日本文・蘭文あわせて318通余、時期は寛永18年(1641)から安政4年(1857)に及んでいる。それに加え、中国(清)におけるアヘン戦争関係情報として、別個に「別段風説書」が提出された。阿片戦争(1840-42)から始まった「別段風説書」では、19世紀半ばの世界情勢が毎年報告されている。日本に影響があるものは重点的に取上げられているが、それ以外でもヨーロッパ各国およびイギリス、オランダのアジア植民地の事も細かい所まで記述されている。別段風説書は、ジャワのバタビアにあったオランダ領東インド政庁が新聞記事から作成しており、様々な事件が時系列に継続して記述されている。この別段風説書の充実の伴い、従来の風説書は形式的な短文になった。江戸幕府は、ペリーの来航(嘉永6年6月)を既に1年前の嘉永5年の別段風説書で知っていた。別段風説書には、アメリカが日本へ艦隊を派遣することを決め、使節にペリーを選任した事ならびに渡来目的が述べられていた。

 

22日

23日

■小松帯刀書簡「乍併全ク鎖國ノ𫝂ニ御座候ヘハ」。慶応2年12月段階での「鎖国」。文意が取りづらい。。

■慶応2年12月7日、江藤新平が微行して大宰府に赴き、三条実美に謁見。

■『西郷隆盛全集』で西郷書簡を読んでいるが、その解説には首をかしげたくなることが少なくない。西郷隆盛の慶応2年書簡を集中して読んでいるが、意味が取りづらい個所が散見する。なかなか進まないが、精進・・。

■久々に、『王政復古』を再読するかな

■松平忠固はもっと研究しなければいけない対象。幕末の老中(大老・政事総裁職も)研究はもっと進化して欲しい。ちなみに、松平忠優と松平忠固は同一人物。最初の老中就任時(嘉永元年・1848年)は前者。

24日

■4年前の朝日新聞朝刊の「(文化の扉 歴史編)異説あり 亀山社中と龍馬 発足時に関わりなく、リーダーじゃない?」から、私の歴史が回転した。なお、以下からネット記事がまだ閲覧可能です。よろしければ、ご覧ください😃
https://asahi.com/articles/DA3S13375899.html……

■この記事から、『新説 坂本龍馬』になりました

25日

■慶應元年前半、幕府にとっての内憂外患は、横浜鎖港問題、下関戦争償金支払い、長州藩処分、水戸藩内訌などがあった。

■パークスはもちろん重要だが、オールコックも負けてはいない。池田長発との上海会談にも注目している。

■パークスは剛腕だが、その裏で緻密に計画した用意周到さがあった。また、情報収集スキルは桁外れな外交家であった。

■鳥羽伏見戦争前後の大坂城の沸騰は、想像を絶する状況だったろうが、条約勅許を巡って老中が朝廷から官位はく奪され、家茂が将軍職辞職を表明した前後も、それに匹敵する沸騰だったはず。

■幕末期にさしたる活躍をしたように思えない肥前藩が、薩長土肥として勝ち組に入れた理由は、戊辰戦争で最も活躍したから。ここぞとばかりに、兵数、武器ともに投入された。発言力が増すのは必然。

26日

■文久元年(1861)の久坂玄瑞について、江戸で薩摩藩の樺山三円、土佐藩の武市瑞山、水戸藩の岩間金平らと気脈を通じ、薩摩、長州、水戸、土佐各藩の藩士間の相互提携に、桂小五郎、時山直八らと奔走した。この樺山、実はフェードアウトしていって、よくわからない人物の1人。

■文久元年9月3日「高知藩士武市半平太「小楯」、江戸に在りて屡々鹿児島藩士樺山三円「資之」・萩藩士久坂玄瑞「通武・後義助」等と相会し、尊攘の実を挙げん事を謀る。是日、江戸を発して帰藩の途に就く」。なんていう記述も。

■薩摩藩・島津久光を軸として慶應期政治史を研究する場合、長州藩もしなければならないが、幕府についても同様。久住真也『長州戦争と徳川将軍-幕末期畿内の政治空間』、奈良 勝司『明治維新と世界認識体系 幕末の徳川政権 信義と征夷のあいだ』なども再読をしたい。

■秋月種樹(右京亮)は、「幕末・明治期の政治家。日向国高鍋藩の世嗣。貴族院議員、参与、明治天皇侍読。詩文に優れ、書家」。松平春嶽との書簡の交換も多い。拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として」(神田外語大学日本研究所紀要、2017年3月)でも言及した。

『池田筑後守長発とパリ』、まだ未読。

■井上勲先生は生前、今回の『明治維新』、そして『王政復古』でワンセットとお考え。前者は改めて精読したい。

27日

どんなに注意した積りでも、書籍やレジュメにミスがある。単純な誤植から、ある程度は論理チェックが効かないと発見できないものもある。ご指摘は、素直に感謝です。

■文久2年(1862年)に幕府の洋書調所(開成所の前身)の堀達之助等が編纂した『英和対訳袖珍辞書』をもとに、堀越亀之助等が補訂を加え再版した『改正増補 英和対訳袖珍辞書』(慶応3年)、神田外語大学の洋学文庫でも所蔵している。

■対馬藩士多田荘蔵と言えば、野村望東尼の救出劇だが、薩摩藩との関係も気になる。

『玉里島津家史料』『忠義公史料』は必須史料。だが時折、年代間違いがある。これは、史料が封入されている袋がそもそも間違っているから。とはいえ、ありがたいことに意外と気が付くもの。

■五代友厚がロンドンから出した書簡(慶應元年閏5月16日)に、池田長発に関する記述あり。始め暴論家であったが、フランスで横浜鎖港など到底無理と悟ったなどと、正確な情報を掴んでいる。

■史料に見られる「ゴロウル」とは、「グラバー」のこと。

■1871年(明治4)2月27日、広沢真臣暗殺。広沢には、もっと注目すべきであると繰り返している。華族令以前に華族に列した元勲の家系は、大久保利通・木戸孝允・広沢による3家のみ。この事実からしても、頷けよう。慶應期の長州藩、新政府の発足時における広沢の動向について、検討したい。

■広沢絡みで繰り返すが、『木戸孝允関係文書』5巻が至急欲しい!その事由は、広沢真臣および山田宇右衛門から木戸孝允宛の書簡を拝見したいから。特に広沢!!

■再評価が必要と私が考える幕末人物の三傑は、「小松帯刀・中岡慎太郎・広沢真臣」。広沢は、慶応期長州藩の木戸孝允と並ぶ双璧の政治家。志士上りというより官僚上がり、木戸派とは距離があり、前原一誠と近い気がするが、同じ藩なので基本仲良し。

『西郷隆盛全集』の小松帯刀書簡(西郷吉之助宛、慶応2年2月17日)、ここに「倫敦行き」とある。解説には、その候補者として、島津久光・茂久父子、小松帯刀、桂久武、大久保一蔵、西郷が挙げられているが、いかがか。。素直に、第2次留学生で良いのでは。近藤長次郎が生きていれば、可能性があった。

■薩摩藩研究(文久期以降)には、忠義公、玉里を始め、私が思うに薩藩海軍史、西郷隆盛全集、大久保利通の関連史料は最低限必要か。ここに小松帯刀、桂久武関連も加わる。あくまで、薩摩藩側のものとして。

28日

■阿部正弘をするには、水戸斉昭もセットになるな。

■マクドナルド(MacDonald, Ranald、1824−1894)について、主としてブリタニカオンラインによると、北アメリカ先住民族インディアンの血をひいたアメリカの探検家、英語教師。日本渡航を企てて 1845年、捕鯨船に乗組んだ。1848年に日本近海でボートに乗って北海道利尻島付近に上陸。捕えられて長崎に移送され、監禁中にオランダ通詞 14人に英語を教えた(日本最初の英語教師)。そのなかには、ペリー来航の際の通訳となった森山多吉郎 (栄之助)、堀達之助らがいた。1849年、マクドナルドはアメリカ船『プレブル』号で長崎を去った。のち中国,インド,オーストラリア,カナダ,アメリカで放浪生活をおくった。 1894年8月5日死去。70歳。W.ルイスおよび村上直次郎共編の自叙伝"Ranald MacDonald" (1923) がある。

■平岡円四郎は、幕末の幕臣。嘉永6(1853)年12月、川路聖謨と藤田東湖に推され、一橋家小姓となり徳川(一橋)慶喜に近侍するようになった。将軍継嗣問題では慶喜擁立を工作、安政の大獄で差控、甲府勝手小普請に左遷された。しかし、慶喜の将軍後見職就任に伴い、文久3年(1863)一橋家用人となり上洛。翌元治元年(1864)年5月15日、一橋家家老となる。「天下の権朝廷に在るべくして在らず幕府に在り、幕府に在るべくして在らず一橋に在り、一橋に在るべくして在らず平岡・黒川(嘉兵衛)に在り」と評される。奸臣とみなされ元治元年、水戸藩士の手にかかり殺害された。渋沢栄一は平岡なくして、慶喜への仕官はあり得なかった。