1日
■五代友厚について、拙著『グローバル幕末史』で「幕末維新期に活躍したメンバーの中に、なかなかその名が挙がらない。これは政治家の道ではなく、明治に入ってすぐに財界人に転身したことによろう。五代がそのまま政治家を志していれば、総理大臣も夢ではなかったと個人的には確信している」とした。
■続き)五代が亡くなった年に内閣制度が発足している。正確に言うと、「五代がそのまま政治家を志し、もう少し長命であったなら、総理大臣も夢ではなかったと個人的には確信している」ということです。青山忠正先生の「その気になれば政界のトップまで上り詰めることもできた」とする意見に賛成です。
■幕末肥後藩の動向は軽視できない。九州の外様でありながら、基本は幕府支持であった。その諜報力もすごく、その結果が『肥後藩国事史料』に垣間見られる。本史料は、この時期の研究者には必須である。
2日
■鳥取は「贈従一位池田慶徳公御伝記」、福岡は「黒田家譜」、広島は「芸藩志」など。
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■絶対に戦略は必要。盲滅法で成功した例をあまり知らない。少なくとも、自分の人生では。なんだかんだ言って、準備していればいるほど、大きな成功に結びつく。運は平等、しかし、大きさは不平等。
■幕末土佐藩の研究が少な過ぎる嫌いあり。武市半平太、中岡慎太郎の研究が必要。他に平井収二郎、間崎哲馬、近藤長次郎も。坂本龍馬については、今後一層、脱「竜馬がゆく」が図られるのでは。
■維新の三傑に対し、「維新の双璧」として、小松帯刀・木戸孝允を推します。
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■大宰府時代の三条実美を軽視してはいけない。薩長両藩にとって、まさに「玉」。だからこそ、従士である中岡慎太郎も重要。木戸孝允・中岡慎太郎・坂本龍馬・西郷吉之助・小松帯刀、このラインにこだわりたい。
■再評価が必要と私が考える幕末人物の三傑は、「小松帯刀・中岡慎太郎・広沢真臣」です。
■幕末の攘夷政策は、今まで大攘夷(通商条約を容認、将来武備充実後に攘夷を実行)と小攘夷(通商条約を否定、即時外国船砲撃などの攘夷を実行)に分類されてきた。拙著『グローバル幕末史』では、この攘夷の方策や実行時期の相違からなる対外概念を大攘夷を「未来攘夷」、小攘夷を「即時攘夷」とした。
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■島津久光の研究 芳即正『島津久光と明治維新』、新人物往来社、2002年 佐々木克『幕末政治と薩摩藩』、吉川弘文館、2004年 町田明広『島津久光=幕末政治の焦点』、講談社、2009年 町田明広『幕末文久期の国家政略と薩摩藩―島津久光と皇政回復 』、岩田書院、2010年 問題は、その後何が来るか
■近衛忠煕書簡(島津久光宛、文久2年日付未詳)によると、前関白九条尚忠・内大臣久我建通は閣老久世・安藤と九条廃帝 の故事を調査するなど、「国賊」であるとする。四奸二嬪排斥運動の中で、九条らを弾劾している。
■四奸二嬪排斥運動については、拙著『幕末文久期の国家政略と薩摩藩-島津久光と皇政回復』(2010)第2章「朝廷改革派の形成と「文久二年政変」」参照して下さい(^^)
http://iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-643-7.htm……
■「旧説vs.新説」幕末維新43人 (MdN新書) 私が監修した新書が上梓されました。監修ですが、「はじめに」(3~5頁)を執筆しています。
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■現在、天保期と慶応期を併行して攻めている。成果物になるのはかなり先だが、やり甲斐がある。
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■拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩-西郷吉之助の動向を中心に-」(『神田外語大学日本研究所紀要8号』、2016年)は以下を参照下さい。
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■田中河内介は寺田屋事件の勃発時、2階にいた。
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■高杉晋作の功山寺挙兵から、ちょうど157年。幕末史上でも重要な事件。前原一誠、伊藤博文も高杉に賭けている。
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■『西郷隆盛 その伝説と実像』町田明広 『維新を創った男 西郷隆盛の実像』粒山樹 『西郷隆盛 人を相手にせず、天を相手にせよ』家近良樹
19日
■安政5年6月19日(1858年7月29日)に締結された日米修好通商条約によって、日本は、国際市場に放り込まれた。幕府は同年中に、イギリス・フランス・ロシア・オランダとも立て続けに同様の通商条約を締結しており、これらをまとめて、安政5ヶ国条約と呼んでいる。
■なお、幕府は滅亡までに、ポルトガル(1860年)、プロイセン(1861年)、スイス(1864年)、ベルギー(1866年)、イタリア(1866年)、デンマーク(1867年)とも通商条約を結んでおり、先の安政5ヶ国条約と合わせ、11ヶ国にものぼっている。
■渋沢栄一が大蔵大臣を断固拒否、幻の井上内閣となった本当の理由 渋沢栄一と時代を生きた人々(26)「渋沢栄一と井上馨」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67925…
20日
■歴史上の人物の評価は難しい。どの時点でのどの事象に対する評価か、どの史料を用いた評価か。また、同時代人の「歴史上の人物」に対する評価等が残っている場合、その同時代人の立場や「歴史上の人物」との関係性も考慮が必要では。
■歴史上の人物の評価、更に、私たちのその人物への個人的好悪も加わってしまうこともある。人物評価は、評価者の歴史観が影響する。
■薩長同盟を考える場合、薩摩藩・長州藩、両藩から徹底的にアプローチしなければダメ。どちらか一方では、真実が見えてこない。そして、そこに土佐浪士をいかに絡めるか。このあたりが、肝。楫取素彦こと小田村素太郎は、薩長同盟を語る上で必須の人物。彼と坂本龍馬との2回の邂逅が歴史を回転させた。
■黒田清隆について、拙著『薩長同盟論』の第8章「坂本龍馬・黒田清隆の派遣」第2節「黒田清隆の派遣の実相」で詳述しています。
http://jimbunshoin.co.jp/book/b378164.html……
21日
■清水卯三郎、要注意人物です。
■安政東海地震については、拙稿「安政東海地震とプチャーチン : ディアナ号の遭難と日露友好」 (日本研究所主催講演会 要旨)で言及しています。以下でダウンロード可能です。
■米国商人ヴァン・リード、非常にユニークで重要な存在。生麦事件の直前、下馬して島津久光の行をやり過ごし、また、薩英戦争でイギリスの捕虜となった五代友厚・寺島宗則の逃亡幇助をしている。ハワイとの関係も無視できない。面白い(^^)
■今からちょうど159年前、文久2年12月21日、「幕府の和学者塙次郎「塙忠宝」を殺す者あり。次郎さきに国学者前田夏蔭と共に廃帝の典故を按ずとの説あるを以てなり」。
■塙忠宝は、幕末期の国学者。塙保己一の四男。文久2年12月21日、自宅兼和学講談所の前で知人の加藤甲次郎と共に何者かに襲撃され、翌日死去。大正10年の60年祭時、渋沢栄一はこの暗殺者が伊藤博文と山尾庸三であったと明らかにしている。伊藤は1909年、山尾は1917年に既に死去。
■塙忠宝暗殺に関連し、フランツ・フォン・シーボルトの長男アレクサンダー・フォン・シーボルトの日記に伊藤博文が語った話が記されている。内容は、伊藤が語った国学者塙次郎忠宝(『群書類従』の編纂者塙保己一の息子)暗殺の一部始終である。1882(明治15)年3月21日(土曜日)の日記。
■歴史学会『史潮』新90号の掲載誌、抜き刷りが到着。拙稿「幕末の対外戦略と留学生-長州ファイブと薩摩スチューデントを事例に」をご掲載いただいた。
22日
■長州藩で薩長同盟に深く関係した人。木戸孝允、伊藤俊輔、井上聞多、そして楫取素彦。
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■刊本史料には、編者の判断によって句読点が付されているが、原文には普通ない。つまり、鵜呑みにしてはいけない。句読点の位置によって、史料の言わんとしているところが違ってくる。また、史料の読み方(解釈)も、人によって当然違う。史料解釈が複数存在することは稀有ではない。
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■渋沢栄一の最晩年、昭和天皇が「単独御陪食」で話されたこととは 渋沢栄一と時代を生きた人々(27)「渋沢栄一と昭和天皇」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67926?utm_source=t.co&utm_medium=referral&utm_campaign=SPheaderButton…
■軍事史学第54巻第3号 「特集 戊辰戦争150年」には、「戊辰戦争一五〇年にあたって」〔保谷徹〕戊辰戦争と長州藩士楢崎頼三〔道迫真吾〕元治甲子戦争における新選組の軍事行動〔中村武生〕「三藩御親兵」の設置と「徴兵規則」の廃止に関する一考察〔竹本知行〕も掲載。
■軍事史学 第56巻第3号 特集 維新の戦乱と江戸平定 薩摩藩邸焼き討ち事件に関する実証的考察ー「三田品川戦争」への再定義〔町田明広〕
28日
■香春藩(かわらはん)と言われると、一瞬?となるが、小倉藩のこと。
■幕末史は、ほとんど解明されていない。しかも、根拠もない「通説」が蔓延っている。やるべきことは、実は山積していて、途方に暮れる思い・・。論も大切、重箱の隅を突くことも、また大切。
■例えば、坂本龍馬。船中八策は知野文哉さんの『「坂本龍馬」の誕生』(人文書院)で粉砕されましたが、伝説への挑戦は始まったばかりです!拙著『新説 坂本龍馬』でも、それに続けとばかりに挑んでいます。まだの方は、ぜひ、ご一読下さい
https://shueisha-int.co.jp/publish/%E6%96%B0%E8%AA%AC-%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC……
■慶應期の研究を進めるということは、「通説」「伝説」の切り崩し作業の面がある。さしあたって元年のキーマンは、小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵、黒田清隆、木戸孝允、坂本龍馬、中岡慎太郎、岩倉具視、徳川慶喜、松平容保、原市之進など。
■今からちょうど157年前、元治1年12月28日、「鹿児島藩討幕の意ありて、内大臣近衛忠煕之に同意すとの説、廷臣間に行はる」。本件については、拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩-西郷吉之助の動向を中心に-」(『神田外語大学日本研究所紀要8号』2016.3)参照。https://kuis.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=17&item_id=1325&item_no=1……
■今からちょうど156年前、慶應1年12月28日、「鹿児島藩士黒田了介「清隆」下関に至り、萩藩士木戸貫治に上京して、同藩家老小松帯刀「清廉」・同藩士西郷吉之助等と薩長同盟を協議せんことを説く。浪士坂本龍馬「直柔・元高知藩士」亦同地に在りて之を勧む。
続き)萩藩主毛利敬親、貫治に上京を命ず。是日、貫治、了介及藩士品川弥二郎「変名橋本八郎・御楯隊士」・三好軍太郎「重臣・変名会田春輔・奇兵隊士」・早川渡「遊撃隊士」等と三田尻を発す」。いわゆる「薩長同盟」。拙著では、「小松・木戸覚書」と呼称し直しています。http://jimbunshoin.co.jp/book/b378164.html……
29日
■史料解釈は難しい。学者間で差異があることは珍しくない。ただ、詳細な応酬はアカデミックなレベルで行いたい。師にもそのように指導された。
■日本に和親と通商を求めて根室に来航したロシア使節アダム・キリロヴィチ・ラクスマン。日本ではこんなに有名なのに、没年が不明・・。「1806年に『ラクスマン日本渡航日記』を完成させていることから、少なくともそれまでは生存していたものと思われる」(Wikipedia)
■ラクスマンについて、「帰国後は1794年、女帝に日本に関する様々な書物や名品を献上したことを賞賛されて、大尉に昇進した。1796年のエカチェリーナ2世の死去により失脚したのか、以降の消息は不明」(Wikipedia)
■そう言えば、ラクスマンの没年が不明の件、保谷徹先生にお話したところ、ロシアに行く機会が多いので、確認してみたいと仰せであった。その後、いかがだろうか・・。次回、お会いした際に確認してみたい(^^)
30日
■天保15年6月21日、水野忠邦が老中上座で復活する背景を探る。
■水野忠邦から阿部正弘にシフト。阿部の老中主座は弘化2年(1845)2月22日から。
■『攘夷の幕末史』(講談社現代新書)の上梓から早いもので、来年は12年になる。今や絶版となり、Kindle版のみとなった。需要があるか分からないが、増補改訂などしてみたいもの。
■町田明広『島津久光=幕末政治の焦点』を読みました https://nackpan.net/blog/2019/03/10/machidaakihiro-shimazuhisamitsu/……
■『昨夢紀事』『再夢紀事』『続再夢紀事』『丁卯日記』『戊辰日記』について、幕末研究には必須であることを改めて確認。
■島津久光の朝政参与就任は元治1年1月13日。その日、武家伝奏野宮定功は留守居役内田仲之助を召し、「不容易御時節ニ付朝議参予可有之、被仰出候、依之従四位下左近衛権少将推任叙被宣下候事」を申し渡した。その後、2月1日・大隅守兼任、4月11日・従四位上左近衛権中将昇叙。
■薩摩藩邸焼き討ち事件については、拙稿「薩摩藩邸焼き討ち事件に関する実証的考察―「三田品川戦争」への再定義」(『軍事史学』、第56巻第3号(通巻223号) 軍事史学会 錦正社 )参照。 https://hanmoto.com/bd/isbn/9784764612235………
31日
■元治1年1月14日、「鹿児島藩士高崎左太郎「正風」・同井上弥八郎「長秋」・福井藩士堤五一郎「正誼」・同青山小三郎「貞」を以て、並に山階宮付となす」。越前藩士の堤と青山は、ここでも同一行動。
■阿部正弘と筒井政憲。面白い関係。