関連資料 人物
関連資料 語句
関連史料 史料(デジタル史料含む) 
町田先生の何気に大事なつぶやき集


「青天を衝け」(23)「篤太夫と最後の将軍」

内容:

フランスからの借款は消滅したが、篤太夫が当面の資金繰りに奔走し、

昭武は留学を続けていた。

昭武の家庭教師のヴィレットの教えに従い、篤太夫たちは髷を落とし、

刀も外し、洋服を着ることに。

同じ頃、日本では西郷が軍備を整え、

岩倉と大久保が王政復古への動きを進めるが、

慶喜は先手を打って”政権を帝に返上する”大政奉還を宣言する。

 

【公式】大河ドラマ「青天を衝け」@nhk_seiten

お知らせ #青天を衝け は 東京2020オリンピック・パラリンピック期間中、次の日程で放送します。 

7/25(日)休止 

8/ 1(日)休止 

8/ 8(日)休止 

8/15(日)第24回

 8/22(日)第25回 

8/29(日)休止 

9/ 5(日)休止

 9/12(日)第26回


関連資料 人物
関連資料 語句
関連史料 史料(デジタル史料含む) 
町田先生の何気に大事なつぶやき集
(これ良いです)

*ツイート中の記述について質問してみました。

Q:「随行、随従、追従」はどういう意図で書き分けられているのでしょうか?

A:

町田 明広@machi82175302 2021年7月20日

·随行>随従>追従という感じで、オフィシャル度合いが高いものほど「随行」で、渋沢も主体的に関わるもの、追従は気楽に出かけるもので、渋沢の関与も低いものが「追従」で、その中間が「随従」としましたが、そこまで明確ではありません。 


1>町田明広@machi82175302

本日は「青天を衝け」23回目です。

今回も可能な限り、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、

よろしければご一読ください(^^) 

なお、あくまでも個人的な見解ですので、

ご理解いただける方のみ、お願いいたします。 

2>

将軍となる器を見せつけた、慶喜の対長州藩への鬼気迫る活躍 

渋沢栄一と時代を生きた人々(13)「徳川慶喜③」

3>

「青天を衝け」23回目を拝見!

渋沢の欧州での大車輪の活躍、

来たるべき時代を見据える姿が活写され、

大政奉還を決断する慶喜の心情、

薩摩藩と開戦の一報に沸騰する城内に驚愕する慶喜が劇的に描かれた。

一方で、平九郎の新たなスタートが、

その後の暗転する運命を彷彿させ、胸熱だった。

4>

髷を落として、近代の四民平等の扉を開く渋沢栄一、

大政奉還を実現して、近代の新しい政治の扉を開く徳川慶喜

いずれも近世に終止符を打った瞬間。

二つの道筋から、それを見せてくれた今回、秀逸なドラマ展開だった。

5>

最初に、徳川昭武・渋沢栄一の一行が日本から

フランスに向かったあたりから、振り返っておこう。

慶応3年(1867)1月11日、

渋沢は、昭武に従い横浜より乗船してフランスに向け出航した。

御勘定格陸軍附調役として随行し、

約1年半の渡欧中、庶務・経理等を担当した。

6>

徳川昭武のパリ行きの同行者は、

外国奉行向山一履

博役・山高倍離

医師・高松凌雲田辺太一杉浦譲

昭武督護役の水戸藩士7名、伝習生、 

商人で万博に参加した清水卯三郎なども含め総勢33名であった。

維新後、新政府で活躍する人物も少なからず含まれた。

7>

徳川昭武・渋沢一行は、

上海・香港・サイゴン・シンガポー ル・セイロン・スエズ・カイロ・

アレキサンドリア・マルセイユ・リヨン等を経て、

3月7日にパリに到着し、カプシンヌ街のガランドホテルに宿泊した。

24日、徳川昭武向山一履らを従えて、

フランス皇帝ナポレオン3世に謁見した。

8>

徳川昭武ナポレオン3世に謁見した時、渋沢は陪席しておらず、

皇帝への献上品を宮中へ届ける役割を果たしていた。

渋沢は28日、昭武と軽気球を観覧。

29日、昭武はナポレオン3世主催の観劇会に出席、渋沢も陪席した。

9>

慶応3年4月1日、渋沢栄一は大臣官邸での舞踏会に陪席し、

2日に凱旋門を見学した。

3日、徳川昭武チュイルリー宮殿で皇帝招待の舞踏会に出席し、

渋沢も陪席した。

12日、渋沢は杉浦らとシャルグラン街30番のアパートメントに引っ越しした。

10>

渋沢栄一は、慶応3年4月15日に大砲器械貯所、

24日にパリ市街上下水道視察を視察した。

4月晦日には、昭武とともにフランス皇帝・ロシア皇帝らと

ブーローニューで競馬を観戦し、競馬賭博の紹介を受けた。 

11>

慶応3年5月4日、

昭武はナポレオン3世の大観兵式にロシア皇帝らともに招待され、

渋沢も陪席した。

帰途、ロシア皇帝暗殺未遂事件(カラコーゾフ事件)

が勃発している。

5月7日、昭武はフランス皇帝・ロシア皇帝・

プロイセン帝王とベルサイユ宮殿で会食し、渋沢も陪席した。

12>

慶応3年5月11日、渋沢栄一は徳川昭武に従い、

パリ・パツシー郷ペルゴレイズ街53三番家に転宿した。

5月18・29日、6月2・21日、8月3日、渋沢は、

昭武とともにパリ万国博の展示会を場視察した。

当時の世界最高水準を見せつけられ、一同の驚嘆ぶりは想像に余りある。

13>

渋沢栄一は、この間に日本出品に関する批評を調査し、

徳川昭武の水道貯水池・ブーローニュー競馬・パリ郊外観光に追従し、

かつ各国巡遊の準備を始めていた。

渋沢のような実務的能吏が同行したことは、まさに奇跡であり、

近代日本にとって、まさに僥倖(ぎょうこう)であった。

14>

徳川昭武一行は、いよいよヨーロッパ周遊に旅立つ。

慶応3年8月6日、パリからスイスに向かい、翌7日にベルンに到着した。

その直前に、随行員の員数について、

外国掛と水戸藩から派遣の昭武従者との間に紛争が勃発した。

渋沢はこれを調停して、昭武の信頼を一層高めたのだ。

15>

8月8日、徳川昭武はスイス大統領に謁見した。

数日間滞在して、観兵式・武器庫・時計工場・電信機製造所等の観覧など、

渋沢栄一は常に追従した。

8月16日、スイスからオランダに向かい、

18日にハーグに到着した。

20日に昭武は国王ウイルレム3世に謁見した。

16>

徳川昭武・渋沢栄一の一行は、

オランダのハーグで数日間滞在して艦製造所の観覧し、

シーボルト別荘を訪問した。

8月27日、昭武一行はベルギーのブリュッセルに到着した。

28日、昭武は国王レオポルド2世に謁見した。

17>

8月29日より、徳川昭武一行は、陸軍学校・舎密工場・アンベルス礮台・

炮車・諸器械・弾丸製造所・リエージユー銃砲製造所・シラアンノ製鉄所・

マリートヲワニエトノ鏡及および硝器製造所・地理学校・

観兵式等を観覧した。

渋沢栄一はこの間、もちろん随従している。

18>

9月12日、昭武一行はベルギーからパリに戻り、

20日にイタリアに向かい、

24日に首都フィレンツェに到着。

翌25日には、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に謁見した。

国王は、昭武以下に勲章を贈与し、渋沢も5等勲章を拝受している。

渋沢は国王別宮・議事堂・石細工所等の視察に追従した。

19>

渋沢栄一は、徳川昭武の10月1日にミラノ、5日にピサ等の遊覧に追従した。

8日、昭武一行はリボルノ港より英国軍艦に乗船し、

11日にマルタ島に到着した。

渋沢は砲台・船渠・製鉄所等の視察に追従、

16日にマルタ島を発し、22日にマルセイユに上陸、

翌23日にパリ帰着した。

20>

11月5日、徳川昭武一行はパリを発して英国に向い、

7日にロンドンに到着した。

8日に議会を見学し、

11月9日、昭武は英国女王ビクトリア女王に謁見し、

10日よりタイムス新聞社・図書館・大砲製造所・機械製造所・水晶宮・

英蘭銀行・軍艦製造所等の視察に出かけたが、渋沢はこれに追従した。 

21>

11月21日、昭武一行はイギリスを発して22日にパリに帰着。

昭武の各国礼問はここに終了し、

これより専心就学に従事することになった。

渋沢栄一の公私の事務の負荷は、これ以降もまったく寸隙なしの状態であった。 

22>

ではここから、国内の政治状況を見ていこう。

慶応3年(1867)5月の四侯会議後、

徳川慶喜との対決姿勢を強めた薩摩藩は、

小松帯刀を中心に西郷隆盛大久保利通薩摩藩を代表して

武力発動路線(小松・木戸覚書、いわゆる薩長同盟

で周旋を開始した。 

23>

しかし、薩摩藩内の反対意見もあって、

大政奉還路線(薩土盟約)に切り替え、

後藤象二郎の率兵上京に期待した。

だが、土佐藩が率兵上京を見合わせたことから

大政奉還前の挙兵を画策した。

いわゆる、江戸・大坂・京都での三都挙兵計画である。

西郷隆盛は関東での撹乱工作に打って出た。 

24>

薩摩藩兵の到着が遅れたことから、

長州藩の「失機改図」(戦略見直し・出兵延期)路線への転換によって、

三都挙兵計画は頓挫した。

当面の策として、

薩摩藩土佐藩が提唱する大政奉還および将軍職辞職の実現、

その先の諸侯会議による武力を伴わない廃幕路線に再度転換したのだ。 

25>

徳川慶喜は、薩摩藩を中心とした挙兵計画を察知し、

上方での軍事的不利・土佐藩の離脱・フランス借款の不成立などから、

土佐藩山内容堂大政奉還建白の受諾に傾斜していった。

その後も、政治組織・財政基盤がない朝廷に代わって政治を執れる

見通しを慶喜は持っていた。 

26>

徳川慶喜の懐刀、西周の徳川家中心の政体案「議題草案」によると、

西洋官制に倣う三権分立を確立し、

行政権は将軍が掌握、

司法権は便宜上各藩に委ね、

立法権を各藩大名および藩士により構成される議政院に任せ、

天皇は象徴的地位という構想であった。 

27>

10月12日、徳川慶喜は大小目付や諸有司を集め、

政権奉還の書付を提示した。

翌13日に二条城大広間に10万石以上の諸藩重臣を集め、

老中板倉勝静大政奉還上表の諮問案を廻覧・提示した。

この段階で慶喜は出てきていない。

板倉は意見があるものは残って慶喜に謁見するよう沙汰した。 

28>

それに応じて、

土佐藩後藤象二郎福岡孝弟

薩摩藩小松帯刀

広島藩辻将曹

宇和島藩都築温

岡山藩牧野権六郎の6名が慶喜に拝謁したが、

板倉勝静から促された小松は、

慶喜に大政奉還賛成を表明し、

翌14日には将軍職辞職・有力大名召命等を提案した。 

29>

慶喜は、小松帯刀の意見を了承し、

14日に大政奉還を奏請し、

翌15日に勅許を獲得した。

大政奉還の実現段階での真の功労者は小松であろう。

なお、慶喜は24日に将軍辞職を奏請したものの、

朝廷は勅許を拒否している。 

30>

12月9日、薩摩藩岩倉具視と主導した、

王政復古 クーデターが勃発した。

5藩兵(薩摩・土佐・安芸・尾張・越前)が

会津桑名藩兵に代わって御所を固め、

摂関制・幕府の廃止、総裁・議定・参与の三職の新設が宣言され、

長州藩主子の官位復旧・入京許可など決定した。

31>

実は、徳川慶喜越前藩松平春嶽から

事前に王政復古クーデターを報知されていたが、何も対応しなかった。

その理由としては、慶喜に近い土佐・尾張・越前が参加していること、

事後挽回が可能と判断したことに依るが、

摂関制度の廃止は慶喜も望むところでもあったのだ。 

32>

王政復古クーデターが、比較的しっかり描かれていた。

西郷隆盛の「短刀一本あれば解決することではないか」の場面はなし。

このあたり、演出の意図を伺いたい。 

33>

12月10日、徳川慶勝松平春嶽二条城で慶喜に対面し、

辞官・納地(官一等辞官と幕領の半分200万石納地)の奏請を要請した。

それに対して、慶喜は幕領400万石の実収はわずか200万石と弁明して、

納地に難色を示した。 

34>

慶喜の辞官・納地をめぐって、

クーデター参加諸藩で深刻な対立が勃発した。

しかも、会津・桑名両藩はこの流れに激昂しており、

12日に至り、徳川慶喜は京都での不測の事態を回避して大坂城に下向した。 

35>

12月16日、徳川慶喜は正式に英仏など6カ国の公使を始めとする外交官を

大坂城に招いて会見した。

慶喜は、外国側が日本国内の問題を心配する必要はなく、

政府の形が定まるまで、外国事務の執行は自分の任務であると表明した。 

36>

徳川慶喜は、「辞官の儀」は朝廷の御沙汰次第として

許容する姿勢を示したが、

「政府御用途の儀」は天下の公論によって、

諸藩も含めた全国の高割での提供の決定を要請して譲らなかった。 

37>

新政府の三職会議で、「政権返上」に伴う

「領地返上」の実効を慶喜に要求し、

「御政務御用度」を徳川の領地を取り調べで、

天下の公論をもって「御確定」することを沙汰した。

慶喜の同意により、慶喜の上京・議定就任が内定したため、

薩摩藩の敗北は目前となった。 

38>

しかし、青天の霹靂が起こる。

12月25日、三田品川戦争(薩摩藩邸焼き討ち事件)が勃発したのだ。

関東一円で乱暴狼藉を働く浪士を匿っているとし、

薩摩藩邸を取り囲んだ庄内・松山(庄内支藩)軍が一斉に砲撃を開始し、

邸内に突入した。 

39>

立て籠もる170名ほどの浪士や薩摩藩士との戦闘は5時間に及び、

一帯は烈しい戦闘と化したのだ。

一部の浪士らは脱出に成功し、

追手を撹乱するため放火しながら品川方面に遁走、

薩摩藩・翔鳳丸で上方への脱出に成功した者もいた。 

40>

なお、三田品川戦争については、

拙稿「薩摩藩邸焼き討ち事件に関する実証的考察 -「三田品川戦争」への再定義」(軍事史学 56(3) “特集 維新の戦乱と江戸平定”、2020年12月)を参照してください。 

41>

ところで、岩倉具視(1825−1883)について、語っていなかった。

日本人名大辞典によると、幕末-明治時代の政治家。

文政8年9月15日生まれ。堀河康親の次男。岩倉具慶の養子。

嘉永7年孝明天皇の侍従。

公武合体をとなえて和宮降嫁をすすめ、

尊攘派によって一時宮中を追われる。 

42>

岩倉具視は、薩長倒幕派とむすんで慶応3年王政復古を実現し、

議定、副総裁として新政府の中枢にすわる。

明治4年特命全権大使となり欧米各国を歴訪。

帰国後、三条実美太政大臣の代理として征韓論をしりぞける。

自由民権運動の高まりに抗して、欽定憲法制定の方針をさだめた。 

43>

岩倉具視は、華族の財産保護を目的とした第十五銀行、

華族の事業の日本鉄道会社を設立するなど、

華族の地位擁護につとめた。

公爵。明治16年7月20日死去。59歳。京都出身。

幼名は周丸(かねまる)。号は華竜、対岳。法名は友山。 

44>

ところで、過去の大河ドラマでの岩倉具視は、

『翔ぶが如く』(1990年、小林稔侍)、

『徳川慶喜』(1998年、寺脇康文)、

『新選組!』(2004年、中村有志)、

『篤姫』(2008年、片岡鶴太郎)、

『八重の桜』(2013年、小堺一機)、

『西郷どん』(2018年、笑福亭鶴瓶)、

今回の山内圭哉。 

45>

大河ドラマでの岩倉具視、やや微妙なキャスティング。

個人的には、『田原坂』(1987年、日本テレビ年末時代劇スペシャル)の

佐藤慶が一推し。 

46>

さて、渋沢栄一が後年に回想として印象に残った3事項を挙げている。

それを紹介しよう。

ドラマでも描かれたが、

徳川昭武一行がベルギー国王レオポルド2世に謁見した際、

昭武がベルギー国内で製鉄所を見学したことに言及した。 

47>

ベルギー国王は「ベルギーでは鉄を多く生産している。

国が盛んになるためには鉄を沢山使うようになり、

日本も鉄を買うようにしなければならない」と昭武に語った。

謁見に陪席した渋沢は、この様子を見て「

西洋の君主は妙なことを言はれる、直様御商売に関係する」

ことを「奇異」と感じた。 

48>

幕府から嘱託されて名誉総領事を務め、

昭武の世話役を務めた銀行家のフリュリ・エラールと、

フランス到着後にナポレオン3世が昭武の世話役として付けた

陸軍大佐ヴィレットとのやり取りから、

渋沢栄一は「官」と「民」との関係の差異を実感した。 

49>

日本では「武士」階級の軍人であるヴィレットと、

「商人」の銀行家エラールが対等の立場であり、

「官尊民卑」の風潮が強い日本との大きな違いを感じ、

渋沢はそれを打破したいと考え始めるきっかけとなった。 

50>

渋沢栄一は、フランスで株式・社債を実際に体験した。

渋沢は昭武の留学費用を捻出するため、

エラールの薦めで政府公債と鉄道社債を実際に購入した。

渋沢は、「此時に成る程公債と云ふものは経済上便利なものであるとの

感想を強くしました」と語る。 

51>

渋沢栄一は、西洋における合本主義の制度、思想を実体験した。

渋沢にとって、幕末の渡欧体験は衝撃的なものであり、

明治期以降の活動に与えた影響は甚大であった。

個人的な感想だが、渋沢にとって人生最良の日々は、

もしかしたら、このヨーロッパ渡航時代ではと考える。 

52>

来週から3週間、オリンピック休止ですね。

私の事後ツイートも残り1回か2回となります。

継続のご要望もいただいておりますが、

専門外のことは残念ながら語れません。申し訳ございません。

それはそれとして、最後まで、お付き合いをお願いいたします(^^)  

53>

NHK青山講座(対面)「新説 坂本龍馬」

最新の研究に基づいて、龍馬の生涯を紐解き、

志士・周旋家・交渉人・政治家として、

多様性を持つ龍馬の動向を検証し、

新たな知見に基づいて龍馬の実像に迫ります。

途中からの参加も可能です。 

54>

NHK青山講座「新説 坂本龍馬」

 8/21(土)薩長同盟と寺田屋事件 

9/18(土)海援隊と薩土盟約 

10/16(土)大政奉還と龍馬暗殺

55>

JBpressで明日の朝6時、

渋沢栄一と時代を生きた人々「徳川慶喜」

全6回シリーズの4回目が公開されます。

ぜひ、ご覧下さい!なお、

1~3回目は以下となります。

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65801

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65802

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65834

56>

白鷺舎講演会

「大河ドラマで語られなかった橋本左内-将軍継嗣活動を中心に-」 

日時:8月1日(日) 13:00~16:00 オンライン

 町田明広氏「将軍継嗣問題と橋本左内」 

角鹿尚計氏 「橋本左内の道中日記を読む」 

57>

高知県立坂本龍馬記念館 

令和3年度連続講演会「龍馬を考える5つの視座」

 8月28日(土) 「薩摩藩と坂本龍馬」

講師:町田明広(神田外語大学外国語学部准教授) 

 9月11日(土)(午前10時30分)

「薩摩藩と大英帝国」 

神田外語大学 町田明広

 


1>桐野作人@kirinosakujin 

本日の大河ドラマ「青天を衝け」大政奉還編。いよいよ将軍慶喜の大政奉還でした。慶喜がなぜ政権返上を決断したのか。慶喜は幕臣たちを前に政権返上の理由を語っていましたが、実際の朝廷への上表文とほぼ同じでわかりやすくしたものです。草なぎ氏も台詞覚えが大変だったのではと推察。 

2>

慶喜の上表文は200余年の武家政治の失政と自分の薄徳があり、これからは「朝権一途」のため政権返上して「広く天下の公議を尽くし聖断を仰ぎ、同心協力すべし」と表明しています。じつに見事な辞表です。もっとも、その決断の裏には幕府がこのままではもたないという危機感あり。 

3>

当時の慶喜の危機感や情勢認識はどういうものだったか。それを示しているのが、王政復古派の公家、正親町三条実愛の手記に、大垣藩士の市川元之助の言葉として語られています。 「水会以下人数一万有之故、薩二千位は攘は、易きことに候へ共、本国大国故、敵にはなしかたきこと」 

4>

その意味は「水戸・会津の在京人数は1万人なので、薩摩藩の2000人を打ち払うことは容易だが、本国は大国なので敵にはできない」というもの。付け加えれば、薩摩藩は大国のうえ遠国でもあることでしょう。長州再征でさえも勝てなかったのに、さらに遠い薩摩まではとてもとてもという訳。 

5>

慶喜はたとえ京都で勝利しても、薩摩までは攻めていけず、戦乱が長期化することになり、外国の干渉を招きかねないから、戦争で決着をつけられない。だから、政権返上するしかないという理屈でしょう。慶喜は決して楽観せず、冷徹な情勢分析をしたうえでの決断だったことがわかります。 

6>

本日の大河ドラマ「青天を衝け」大政奉還編02。大政奉還についてはいろいろ誤解があります。まず有名な二条城二の丸御殿の絵があります(聖徳記念館絵画館所蔵)。あれは10月13日、幕府が諸藩の大名を召集したときではなく、前日12日、主だった幕臣を集めたときを描いたものです。 

7>

12日には慶喜が最初から出座しましたが、翌13日には老中が諸藩代表に政権返上を告げたのち、意見がある者は残れとなり、小松帯刀、後藤象二郎ら6名が居残ってから、初めて慶喜が出座したという流れです。この日のことは重要でよく知られていますが、前日12日はほとんど知られていません。 

8>

では、12日はどうだったか。この日は大名は老中、守護職、所司代くらいで、あとは大目付、目付、禁裏附、町奉行など主だった公儀の面々が総登城を命じられています。卯の刻(午後6時頃)から慶喜も出座しました。ところが、深更になっても誰も下城せず、松平容保が下城したのが七ツ半(午前5時頃)。 

9>

それから追々、下城し始め、東雲頃、つまり夜が明けた頃ようやく下城が終わったとのこと。じつに12時間くらいも城内に留まっていたことになります。慶喜が長演説したらしいですが、政権返上にほとんどの幕臣が青天の霹靂だったはずで、不平不満が噴出して大激論になったか、 

10>

あるいはあまりの衝撃に呆然自失となったか、詳しくは不明ですが、どうも慶喜の宣言に不満を抱きつつも服従したというのが実情らしい。例外はドラマにも登場する渋沢成一郎(目付支配書役)は意気軒昂で御三家の紀州家はじめ尾越など親藩にも働きかけ、幕府に抵抗する諸藩を鎮圧すべし、 

11>

『七年史』によれば、渋沢の訴えに、滝川具挙、竹中重固、平山敬忠など有力幕臣が賛成したようで、その後、会桑とともに強硬な主戦論を唱えるようになります。翌13日早朝、会津藩公用方の小野権之丞は慶喜を訪ねて、慶喜の参内に護衛という名目で会津藩兵を同道させたいと訴えました。 

12>

小野の真意は会津藩兵の武装参内であり、軍事的威圧に恐れをなした朝廷が慶喜の政権返上の上表を受理せず大政再委任を引き出し大政奉還を骨抜きにすることでした。しかし、慶喜は小野を叱りつけ会津藩兵の同行を拒絶しました。慶喜の政権返上はドラマで岩倉が述べたように、策略ではなく本音でした。 

13>

大河ドラマ「青天を衝け」小御所会議編。王政復古政変での有名な出来事だが、これにもよく知られた通説への疑問や誤解がある。まず睦仁天皇(明治天皇)出席の御前会議だとされているが、会議には天皇は不在だったと薩摩藩家老の岩下佐次右衛門が明治になってから回想している。 

14>

岩下は政変当日、禁裏御所に詰めていたから信憑性がある。 次に山内容堂が徳川慶喜を擁護し、会議に招かないのはおかしいと岩倉具視に反論した一件。容堂が「みだりに幼冲の天子を擁し、権柄を盗み取ろうとしている」と批判したのに対して、岩倉が「幼冲の天子」とは帝をないがしろにしていると反論。 

15>

岩倉に不敬だと反論されて容堂が沈黙したと『岩倉公実記』にあるが、多少盛ってある感あり。福井藩の『丁卯日記』によれば、容堂にまず反対の論陣を張ったのは大久保一蔵とある。大久保は慶喜に官位と領地の返上を命じて、慶喜が不満を見せず従えば、速やかに参内を命じてもよい、 

16>

もしそれを拒絶したら慶喜の譎詐であり、厳重に辞官納地を行い、その罪を問うべきだと主張。そのあと、岩倉が大久保のあとに意見したとある。容堂・春嶽VS大久保・岩倉の対決構図であり、決して岩倉が主役ではなかった。ドラマはそのあたりを勘案して岩倉を目立たせなかったのはお見事。 

17>

もっとも、大久保の舌鋒は鋭かったが、やや強引の気あり。薩摩藩は大政奉還の段階では、小松帯刀の活躍もあって、慶喜の「反正」(失政への謝罪・反省)を認めていた。王政復古政変は小松不在の下で決行されており、大久保・西郷の暴走ともいえる。 

18>

のちにその反動が起こり、松平春嶽や尾張慶勝らが慶喜を京都に復帰させるべきだと主張、辞官納地も徳川だけに押し付けるのはおかしいという議論が起こり、大久保・西郷は孤立する。両人は失脚するか否かの瀬戸際に追い込まれた。そこで江戸での薩邸焼き討ち事件が起きる。 

19>

事実上の幕薩開戦だった。これもまた、西郷が仕組んだ謀略だという通説があるが、誤解である。大政奉還以前では、西郷らは江戸での挑発を命じていたが、大政奉還が実現してからは挑発行動を中止するよう、益満休之助や伊牟田尚平に再三命じていたが、彼らは暴走した。それが結果オーライとなる。 

20>

ドラマでは江戸城二の丸放火事件を取り上げ、映像でも火災シーンがあったのは初めてかも。これは伊牟田尚平が天璋院付きの女房に手引きさせて放火したともいう。その際、伊牟田はマッチを使ったという。わが国初のマッチでの放火かも。どうでもいい話題です。 

21>

昨日の大河ドラマ「青天を衝け」慶喜の大政奉還の上表は、彼の歴史認識も含まれていて興味深い。現代語訳すると、 「臣慶喜、謹んで皇国の時のめぐり合わせを考えるに、昔、王の政治の大綱が緩み、相家(摂関家)が権を執り、さらに保平の乱(保元・平治の乱)で政権が武家に移ってから、

22>

祖宗(徳川家)に至り、さらに寵眷(寵遇)を蒙り、二百余年子孫が引き継いだ。そして臣(慶喜)がその職を奉じるといえども、政刑(政治と刑罰)が当を失うこと少なからず、今日の形勢に至ったのも、畢竟(結局)、(慶喜の)徳が薄いためであり、慚愧に堪えない。況んや当今外国の交際、(続く 

23>

日に盛んになってきたことにより、朝権一途にならなければ(朝廷と幕府の並立を否定)、綱紀は立ちがたいので、従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し、広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護すれば、必ず海外万国と並立するでしょう。臣慶喜は国家に尽くすところ、 

24>

これにすぎないと存じます。去りながら、なお見込みもあれば、申し聞く旨、諸侯へ相達しおきました。これにより、この段を謹んで奏聞致します。以上」 これは10月14日に朝廷に提出したものだが、日本の政治の流れが、天皇→摂関家→武家→徳川家に移ったと、慶喜が認識している。 

25>

さらに自らの失政を認めて徳川家は諸侯の列に降ることを明らかにし、「公議」を重視し「聖断」を仰ぎ、もって「万国対峙」を実現するとして、当時の重要なキーワードを使用している。これは慶喜に限らず、薩長や越土などの諸藩でも共通認識であり、反対する勢力はまずいないだろう。 

26>

ドラマでは草彅氏がこれをわかりやすく演説していた。とくに「公議」(公論も同義)の2文字は松平春嶽、山内容堂など公議政体派諸侯はむろん、薩摩藩も悲願としたもので、これまで慶喜から阻止されてきたルールだったから、ドラマでも松平春嶽が感無量だったのである。同じスタートラインに立てたと。 

27>

ドラマでは描かれなかったが、10月13日、二条城で慶喜に謁見して進言した小松帯刀が下城後、大久保一蔵に宛てた書簡で「王政復古の義は十分立ち、じつに意外だった」と感慨を洩らしている。これ以降、小松は慶喜の政権返上が勅許されるよう働くことになる。なぜかといえば、 

28>

大政奉還はそれを表明するだけでは完結せず、朝廷の勅許が必要だった。昨夜書いたように、会桑勢力のように勅許を阻止して大政奉還を骨抜きにしようとする動きが強かった。そこで慶喜はかつて手を結んだこともある小松を頼りにした。個人的には、大政奉還は慶喜と小松の密約で実現したと考えている。 

29>

小松は当面の武力行使を回避するうえは、交渉で取れるものはすべて獲得するとして、西郷・大久保の支持を得たうえで、慶喜へ協力する条件5カ条を要求した。①政権返上の勅許、②長州寛典を新政府の立ち上げで実現、③雄藩諸侯の召集、④将軍職の返上、⑤五卿の帰京。慶喜はすべて呑んだ。 

30>

土佐藩の大政奉還建白には、老公容堂に遠慮して、④将軍辞職の一項がなかったが、小松はこれを慶喜に念押しして認めさせている。慶喜とひそかに合意した小松は禁裏御所に乗り込み、王政復古派の公卿とともに二条関白を動かして勅許を得る。しかもその案文に小松は関与した形跡あり。 

31>

ドラマでは、そうしたプロセスはストーリーが複雑になるから描かれなかったし、この大河には小松の出番はないので省略されたのは残念だが、致し方ない。 なお、王政復古政変での大久保・西郷の辞官納地による慶喜追及は小松が敷いた路線から逸脱しているといえるだろう。 

32>

小松帯刀は持病の足痛が重症化して国許で療養中で上京できなかった。一方、大久保・西郷にしてみれば、慶喜を新政府に迎え入れると、その門地家柄と無敵の弁舌により、新政府とはいい条、事実上の幕府復活ではないかという危機感があり、真正の王政復古を悲願とする岩倉具視とそれを共有していた。 

33>

そのため、小御所会議の場で慶喜の欠席裁判で一気に慶喜排除を決しようとした。いったんは成功したものの、慶喜擁護派が巻き返しに出て多数派となり、慶喜の京都復帰が決まった。岩倉さえも動揺して慶喜と協調しようとしたほど。 慶喜の新政府復帰、京都復帰は目前だったのだが……。