「青天を衝け」(21)「篤太夫、遠き道へ」  2021年7月4日

内容:

篤太夫は、慶喜の弟・昭武の随行でパリ行きを打診され、その場で快諾する。

一方、慶喜は第十五代征夷大将軍に就任。慶喜は篤太夫を呼び出し、

昭武の未来を託す。

その後、横浜で初めて勘定奉行・小栗忠順と対面した篤太夫は、

幕府復権のための密命を知らされる。

旅立ちの前、成一郞と再会した篤太夫。

二人は牢に囚われている長七郎と再会するが・・・

 


①関連資料 人物

②関連資料 語句

③関連史料 史料(デジタル史料含む) 


1>町田明広@machi82175302 2021年7月4日  
本日は「青天を衝け」21回目です。今回も可能な限り、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、よろしければご一読ください(^^) なお、あくまでも個人的な見解ですので、ご理解いただける方のみ、お願いいたします。いよいよ、渡仏前夜 !!

2>

「青天を衝け」21回目を拝見!本日は渡仏直前の渋沢栄一の高揚感が、慶喜との惜別、成一郎や長七郎との劇的再会とともに描かれました。そして、幕臣オールスターズも登場し、私にも高揚感がそれにしても、よくできた脚本、優秀な時代考証陣と感嘆しています。素晴らしい大河ドラマです! 

3>

孝明天皇から厚い信頼を得ていた徳川慶喜は、着々と準備を進め、慶応2年(1866)12月5日、在京諸侯の推戴を得たとして、いよいよ第15代将軍に就任した。政局運営を安定させたい慶喜は、幕府中心主義から方針転換を計り、有力諸侯との連携を模索し始めた。その矢先に不幸が襲う。

4>

慶喜の将軍就任後、僅か3週間後に思いもしない悪夢が慶喜を襲った。慶喜の最大の庇護者・孝明天皇天然痘で12月25日に崩御されたのだ。幕府を庇護していた天皇の崩御は、あまりに突然であり、在位21年、36歳という若さであった。

5>

孝明天皇はその治世において、大きな精神的ストレスを抱えたため、死の直前には心身ともに相当なダメージがあり、ぼろぼろな体調であったのではないか。在位期間にペリー来航通商条約の勅許問題、戊午の密勅安政の大獄和宮降嫁八月十八日政変禁門の変長州征伐があった。 

6>

孝明天皇の治世には、一生の間に一つも経験ができないような大事件が連続してあった。しかも、朝廷内での政争が継続し、まさに内憂外患の中で、孝明天皇は気が休まることなどなく、常に精神的ストレスと病気に苛まれていたのだ。天皇は激動の時代に翻弄され、その犠牲となったと言えよう。 

7>

ちなみに、孝明天皇は毒殺だった!という人が少なからず存在する。私が最も注目する論考は、医師であり、医学史研究者でもある杉立義一氏の「孝明天皇の死因について‐病死か毒殺か‐」(『公家と武家Ⅲ』、2006年)である。 

8>

「孝明天皇の死因について‐病死か毒殺か‐」では、病死・毒殺両説とも、天皇が天然痘に罹患して亡くなるまで、その2週間のみを詳しく検証している点を問題視する。そして、在位期間を通じて精神的・肉体的病歴について考慮する必要性を説く。 

9>

そして、「このように考えた結果、長年月の間に御体は蝕まれていたところに、痘瘡に感染して悪性化された」と結論づけているのだ。私は極めて妥当な結論と評価している。ちなみに、岩倉具視による毒殺説はあり得ないと考える。 

10>

岩倉の政界復帰は、王政復古クーデターの直前であり、孝明天皇の死と岩倉の復権には直接の関連性はうかがえない。また、岩倉の天皇崩御前後の政見は幕府の存在を前提にしており、天皇を毒殺する動機があったようには思えない。 

11>

岩倉書簡(坂木静衛宛)には「仰天驚愕、じつに言う所を知らず、天、皇国を亡ぼさんとするや、臣進退ここに極まり、血泣鳴號無量の極に至れり」と激しく嘆じる。岩倉が毒殺したのなら虚言となるが、あまりにうがった見方ではなかろうか。当時に言説に、嘘いつわりのない赤心が溢れている。 

12>

 薩摩藩史料でも、「主上崩御藩内布告」において、孝明天皇天然痘の病状を「表向は御軽目の筋」と公表していたが、実際には「全体初発より御難痘の御煩」だったとあり、病死説を推している事実は注視すべきである。黒幕に数えられる薩摩藩であるが、むしろ真実を伝えているのではないか。 

13>

拙稿「孝明天皇は毒殺されたのか?」(『歴史人』31号、2013年)は、病死説と毒殺説がある孝明天皇の死因について、両方の著名な学説と論争を紹介。私自身は孝明天皇が幕末の激動の中で、死の直前だけでなく常に精神的ストレスや病気に苛まれていたことを重視し、病死説を支持しています。 

14>

孝明天皇崩御後、慶喜は諸侯との連携を、ますます意識せざるを得ず、側近の原市之進薩摩藩家老小松帯刀の許にしばしば派遣して、明治天皇践祚を機に行われた大赦や五卿の京都復帰などについて意見調整をさせている。 

15>

慶喜サイドからのアプローチによって、慶喜が西国雄藩と連携をして政局運営を図るのではないかとの希望を、慶喜の政敵とも言える薩摩藩小松帯刀に抱かせた。折しも、長州問題に加え、兵庫開港問題が切迫していた。慶喜は両問題の早期決着を図るためにも、薩摩藩の協力は必須であった。 

16>

小松帯刀は、こうした慶喜が焦って薩摩藩に接近しようとしている機会を逃さず、諸侯会議を至急開催して、外交権を幕府から朝廷に移管することによって、なんとか廃幕に持ち込もうと画策したのだ。このあたり、今後の拙稿で言及する予定。 

17>

慶応2年11月14日、15代将軍徳川慶喜実弟昭武パリ万国博覧会使節としてフランスに派遣し、かつ5年間留学させることを決定した。渡仏目的は、江戸幕府を代表してパリ万博に出席し、その後に欧州各国を訪問することによって、幕府の存在を国際的にアピールすることであった。 

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更に、昭武の渡仏目的として、昭武を将来の指導者とするため、つまり将軍継嗣とするため、長期留学も計画していた。慶応2年11月28日、水戸藩家老へ昭武のフランス派遣を申し渡し、かつ清水家相続を沙汰した。 

19>

慶応2年11月29日、原市之進は慶喜からの内命を渋沢栄一に伝えた。昭武の渡仏随行を打診された渋沢は、快諾した。慶喜が宗家相続以降、幕臣となった渋沢は居場所がなくなり、致仕を決意するほど鬱々としていただけに、青天の霹靂であった。しかし、横浜焼討ちを計画した渋沢の大転換である。

20>

12月7日、渋沢栄一は、渡仏時に俗事(会計・書記)担当を拝命し、21日に勘定格に栄転した。この時、未だ男子がなかったため、義弟の渋沢平九郎養嗣子と決定した。平九郎の人生は、ある意味、これで定まった感がある。

21>

慶応3年(1867)1月11日、渋沢栄一は、徳川昭武に従い横浜より乗船してフランスに向け出航した。御勘定格陸軍附調役として随行し、約1年半の渡欧中、庶務・経理等を担当した。いよいよ、次週からパリ万博 

22>

昭武同行者は外国奉行・向山一履、博役・山高倍離、医師・高松凌雲田辺太一杉浦譲、昭武督護役の水戸藩士7名、伝習生、 商人で万博に参加した清水卯三郎なども含め総勢33名であった。維新後、新政府で活躍する人物も少なからず含まれた。 

23>

渋沢栄一ら一行は、上海・香港・サイゴン・シンガポー ル・セイロン・スエズ・カイロ・アレキサンドリア・マルセイユ・リヨン等を経て、3月7日にパリに到着し、カプシンヌ街のガランドホテルに宿泊した。いよいよ、次週からパリ編が始まる。期待したい!

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本日より、幕臣として初登場の人物が多数いたが、既に登場した人物も含め、その内の何人かを朝日日本歴史人物事典、日本大百科全書およびデジタル版日本人名大辞典によって、紹介してみたい。しかし、これだけの幕臣人物群像が観られる大河、うれしい限り(^^)  

25>

小栗忠順について、生年は文政10(1827)、没年は明治1.閏4.6(1868.5.27)。幕末の幕府官僚。安政2(1855)年家督相続、同6年9月目付に登用され、日米修好通商条約批准交換の遣米使節監察に任命され、安政7年1月横浜を出航し9月帰国した。 

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小栗忠順は、万延元年11月外国奉行、翌文久1(1861)年5月ロシア艦対馬占拠事件の発生で同地に赴いたが、現地解決を断念し帰府、7月辞職。同2年6月勘定奉行。公武合体運動、尊王攘夷運動を朝廷、雄藩による幕政介入とみて抵抗、徳川慶喜松平慶永の幕政指導を批判し翌3年4月辞職。 

27>

小栗忠順は、元治1(1864)年8月勘定奉行に復職、次いで軍艦奉行、翌年2月罷免されたが同年5月勘定奉行に3度目の復職。栗本鋤雲と共にフランス公使ロッシュの助言と援助を受けつつ、横須賀製鉄所など軍事施設の建設を開始、また軍制改革に着手して幕府軍事力の増強を図る。 

28>

小栗忠順は、慶応3(1867)年10月大政奉還の報に接しこれに反対、討幕派諸藩との軍事対決の姿勢を示し江戸薩摩藩邸焼打ちを実行、翌明治1(1868)年鳥羽・伏見の戦で敗北した徳川慶喜が江戸に帰るや、主戦論を建議。かえって遠ざけられ、同年3月知行地の上野国権田村に居住した。 

29>

小栗忠順は、閏4月東山道先鋒総督府軍に捕らえられ斬られた。「精力が人にすぐれて計略に富み、世界の大勢にもほぼ通じて、しかも誠忠無二の徳川武士、…三河武士の長所と短所とを両方備えておったのよ」とは政敵だった勝海舟の評。参考文献は蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』など。 

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東郷会機関紙「東郷」(平成30年1・2月号)によると、日本海海戦を勝利に導いた連合艦隊司令長官・東郷平八郎は、日露戦争から7年後の明治45年7月、小栗家の遺族貞雄とその息子又一(明治31年生)を東京麹町の自宅に招いた。 

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東郷平八郎は小栗らに「この度の日本海海戦において完全な勝利を収めることが出来たのは、軍事上の勝因の第一は上野介殿が横須賀造船所を建設しておいてくれたことで、これがどれほど役立ったか計り知れない」と、東郷は実に気持ちよく素直に感謝の気持ちを表した。 

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総理大臣を2度勤め、早稲田大学の創設者でもある大隈重信は、小栗忠順を「明治の近代化はほとんど小栗上野介の構想の模倣に過ぎない」と評価している。さて、その小栗は、慶応4(1868)年閏4月6日、小栗斬首。享年42歳。釈明のため高崎に出向いていた又一主従4名も捕えられ斬首された。

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処刑が終わると、小栗忠順と家臣3名の首は青竹に刺して近くの土手の上に晒さらされ、次の罪状を記した立札が立てられた。「小栗上野介 右之者奉対朝廷企大逆候明白ニ付 令蒙天誅者也 東山道先鋒総督府」。罪なき罪であったが、新政府にとって、それだけ脅威であったのだろう。 

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栗本鋤雲について、文政5年3月10日生まれ。幕末の政治家。明治初期の新聞記者。名を鯤、通称瀬兵衛。匏庵・鋤雲と号し、安芸守を称する。幕府の医官喜多村槐園の三男。同じく医官の奥詰医師・栗本瑞見の養子となる。

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栗本鋤雲は、1850年(嘉永3)内班侍医となったが、上司の忌諱に触れて1858年(安政5)蝦夷地に移住を命ぜられた。10年間を箱館に過ごし、この間フランス人宣教師メルメ・ド・カション(1828―1889)と親交を結び、1862年(文久2)士籍に列し箱館奉行組頭となる。 

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栗本鋤雲は、その後に目付、外国奉行などをつとめ、幕末の外交交渉にあたる。また幕臣となってから一貫して親仏派の領袖として幕末外交史上に活躍した。1864年(元治1)目付に任じ、横浜鎖港談判にあたり、翌1865年外国奉行となる。 

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栗本鋤雲は、この間、フランス軍事顧問団の招聘横須賀造船所の設立に尽力し、フランス文化の移植と殖産興業に努めた。1867年(慶応3)に渡仏した将軍名代徳川昭武(1853―1910)をたすけてフランスに派遣され、幕仏間の親善を図ったが、幕府倒壊により1868年帰国した。 

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栗本鋤雲は、1872年『横浜毎日新聞』に入り、翌1873年『郵便報知新聞』(『報知新聞』の前身)に編集主任として招かれ、1885年に同社を退くまで才筆を振るい、成島柳北、福地桜痴らとともに声名を馳せた。60余編の遺著が『匏庵遺稿』に収められている。明治30年3月6日死去。76歳。

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杉浦譲について、生年は天保6.9.25(1835.11.15)、没年は明治10.8.22(1877)。日本郵便事業の最初の実施者。幼名昌太郎。通称は愛蔵。号は温斎。甲府勤番同心の幕臣・杉浦水(かんすい)の長男。甲府勤番士ののち、江戸に出て外国奉行支配書物出役になる。 

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杉浦譲は、徳川幕府の遣外使節池田長発一行に加わり欧州へ行ったのち、外国奉行支配調役となりフランスへ赴く。維新後は、徳川家達に随従し静岡に蟄居。訪欧の経験により、明治3(1870)年新政府に徴用され、前島密外遊中、 初代駅逓権正として郵便実施に尽力。 

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杉浦譲は、幕臣出身ながら新政府に貢献し続け、その後は駅逓正、内務大丞兼地理頭、内務省大書記官地理局長となる。43歳で没。参考文献は、高橋善七『初代駅逓正杉浦譲伝』、土屋喬雄編『杉浦譲全集』全5巻など。

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高松凌雲について、生年は天保7.12.15(1837.1.21)、没年は大正5.10.12(1916)。幕末明治期の医者、社会福祉事業家。筑後国(福岡県)御原郡古飯村生まれ。幼名権平、のち荘三郎。石川桜所緒方洪庵J.C.ヘボンらに師事した。 

43>

高松凌雲は、慶応1(1865)年一橋家軍制所付表医師、慶応3年徳川昭武の随員としてパリに行き、公務を解かれたあと同地で医学を学ぶ。明治1年帰国、戊辰戦争では榎本武揚と共に五稜郭の戦に加わり、敵味方なく負傷者の手当てに当たったが、これは赤十字思想の我が国の初期の実践とされる。 

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高松凌雲は、戊辰戦争の敗戦後の2年阿波(徳島)藩預けとなるが、翌年には解かれ、東京浅草に医院を開く。西南戦争でも負傷者の治療に当たった。12年、同愛社を設立して貧民救療事業を行ったが、これは民間社会福祉事業の先駆である。 

45>

高松凌雲は、その後は内務省地方衛生会委員、東京医会の役員などを歴任。谷中墓地に葬られる。81歳。著訳書『保嬰新書』『虎列剌病論』『内科枢要』など。参考文献は、伴忠康『高松凌雲と適塾』、後藤清治『高松凌雲の生涯』など。 

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田辺太一について、生年は天保2.9.16(1831.10.21)、没年は大正4.9.16(1915)。初名は定輔。号は蓮舟。幕末明治期の外交官僚。幕臣田辺石庵の次男に生まれ、昌平黌の学問吟味に甲科及第、甲府徽典館教授を経て安政6(1859)年外国方、外国奉行調役に就任した。 

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田辺太一は、文久3(1863)年同組頭に進み、横浜鎖港使節池田長発に従ってパリに赴く。鎖港交渉は失敗、使節一行は開国を具申しようと帰国、これが幕府に咎められ、免職・差控に処せられた。慶応2(1866)年組頭に再任。 

48>

田辺太一は、翌3年1月パリ博覧会使節徳川昭武、駐仏全権公使向山黄村に随従して当地に赴き、フランス政府と折衝の任に当たった。帰国後、明治1(1868)年3月目付、徳川宗家の静岡移住に従い沼津兵学校教授。同3年1月外務少丞として新政府に登用、翌年岩倉遣外使節団の一員として米欧に渡る。 

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田辺太一は、明治7年大久保利通に従って北京に出張、清国政府と台湾出兵の処理交渉に当たる。同12年清国勤務、一時臨時代理公使。同16年元老院議官、同23年貴族院議員。詩文に親しみ、同31年『幕末外交談』を公刊。福地源一郎(桜痴)の『幕府衰亡論』と並ぶ名著。大正4年9月16日死去。85歳。 

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NHK青山講座(対面)「新説 坂本龍馬」最新の研究に基づいて、龍馬の生涯を紐解き、志士・周旋家・交渉人・政治家として、多様性を持つ龍馬の動向を検証し、新たな知見に基づいて龍馬の実像に迫ります。途中からの参加も可能です。 

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NHK青山講座「新説 坂本龍馬」

                7/17(土)薩摩藩士・坂本龍馬の誕生 

*誕生日 8/21(土)薩長同盟と寺田屋事件 

               9/18(土)海援隊と薩土盟約 

               10/16(土)大政奉還と龍馬暗殺

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JBpressで明日の朝6時、

渋沢栄一と時代を生きた人々「徳川慶喜」

全6回シリーズの2回目が公開されます。ぜひ、ご覧下さい!

なお、1回目は以下となります。

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65801 

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白鷺舎講演会

「大河ドラマで語られなかった橋本左内-将軍継嗣活動を中心に-」

 日時:8月1日(日) 13:00~16:00 オンライン 町田明広氏「将軍継嗣問題と橋本左内」 角鹿尚計氏 「橋本左内の道中日記を読む」

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高知県立坂本龍馬記念館 

令和3年度連続講演会「龍馬を考える5つの視座」 

8月28日(土) 「薩摩藩と坂本龍馬」

講師:町田明広(神田外語大学外国語学部准教授)

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第229回照國講演会  

 9月11日(土)(午前10時30分)

「薩摩藩と大英帝国」 神田外語大学 町田明広

 


「維新の十傑」その功績を再考する!

1>>桐野作人@kirinosakujin