「青天を衝け」(18)「一橋の懐」

内容:

篤太夫は、天狗党討伐のため慶喜とともに京を発つ。

一方、成一郞は慶喜の密書を耕雲斎に届け、天狗党の惨状を目撃する。

慶喜を苦しめていたことに心を痛めた耕雲斎は幸福を決めるが・・・。

京に戻った篤太夫は新たな兵の招集を建白。

慶喜の命により一橋領のある備中へと向かう。

江戸では京に向かうことになった家茂が、和宮との別れを惜しんでいた。


*途中リンクを貼り付けています。

*備中井原 阪谷朗廬 


1>町田 明広@machi82175302 

 今週はお休みです。

 

渋沢栄一の恩人、平岡円四郎の功績と暗殺の真実 

渋沢栄一と時代を生きた人々(10)「平岡円四郎③」 

今もお読みいただき、多謝!

 


 「維新の十傑」その功績を再考する! 

1>桐野作人@kirinosakujin 

本日の大河ドラマ「青天を衝け」。本日はあまり時間なく少しだけ。渋沢篤大夫は天狗党の潰滅後、慶応元年(1865)2月、小十人組の番士待遇となり、17石5人扶持ながら御目見以上の格式となった。小十人組は幕府の職制のうち、番方(軍事担当)に属している。 

2>

小十人組は大番・書院番・小性組番・新番と合わせて五番方と称され、将軍外出時は前駆として供奉する幕府直轄軍事力のひとつだが、他の四番方が騎乗なのに対し、小十人組は徒士で格式は下だった。それでも、短期間に御目見にまで昇進したのは異例。ドラマであったように駕籠に乗れる。 

3>

ドラマであったように、渋沢は慶喜の禁裏守衛総督にふさわしい兵員を揃えるべきで、とくに歩兵隊の編制を意見具申した。禁門の変で慶喜の率いた軍勢は700人だったが、借用が多く、直属の兵は床几隊100人で、あくまで警固任務。そのほか講武所小筒組(銃隊)などもいたが、わずかだった。

4>

前年初め、栄一と喜作は関東の一橋領2万石へ兵の徴募に出向いたが、一橋領は合計10万石で、西に多かった。次のような内訳。 摂津1万5000石 和泉7000~8000石 播磨2万石 備中3万石2000~3000石 栄一は歩兵取立御用掛に任命されて、もっとも石高の多い備中後月郡の井原村に向かう。 

5>

ドラマでの代官とのやりとりや百姓たちとの交流は『雨夜譚』の記述をほぼ忠実に踏まえている。わずか数日の徴募活動で、栄一は井原村で200名、播磨・摂津・和泉と合わせて450名以上の徴募に成功している。ちなみに上京した彼らは紫野の大徳寺に止宿して歩兵隊としての調練を受けた。 

6>

昨夜の大河ドラマ「青天を衝け」。天狗党の悲劇が描かれたが、ここでは側面史を少しばかり。薩摩藩家老の小松帯刀は中村半次郎(のち桐野利秋)を天狗党探索に向かわせた。中村の動向と報告が小松帯刀書簡と、天狗党の上京阻止のため出動した会津藩の史料『会津藩庁記録』に残る。 

7>

中村半次郎の大胆なところは、天狗党の奥懐に潜入、最高幹部の武田耕雲斎、藤田小四郎、田丸稲之衛門らと会見したこと。会津藩の軍事奉行、栃木大学の報告(元治元年12月13日)には「賊(天狗党)の上京の主意は姦臣の讒言によって罪を得たことを嘆き、上京のうえ、一橋公へ嘆願するため  

8>

だと聞いていたが、薩州の中村半十郎(半次郎)と申す者が濃州金原(岐阜県本巣市)辺に賊が居た頃、武田と藤田小四郎に面会、談判したら、全く世上の風説とは相違して、すなわち攘夷の機会を失ったのは畢竟、幕吏の因循による。よって上京の上、姦吏を払ってのち攘夷も自然に行われる。 

9>

よって、千死万死の覚悟で素懐を達せんと思うと申したという。また賊内には長州人3人にたまたま遭遇したという。この思いを書簡で加賀藩侯の陣所に送りたいと」。3人の長州人がいたのも重要で、天狗党と長州は連絡したことを示す。中村はかつて密偵として長州藩邸に潜入したことあり。 

10>

一方、小松帯刀が国許の同僚に送った書簡には、中村が天狗党と会ったのは濃州の谷汲(岐阜県揖斐川町)あたり。「中村半次郎を浪士方に送り込んだところ、(天狗党は)王政復古にならないと、皇国のためにならないので、そのために上京したという。 

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さらに「(王政復古については)賀陽宮(朝彦親王)がいては何事も行われない。次に会津と薩摩が滞京していては、大政も行われないので、これも排除するという趣旨だという。竹田(武田耕雲斎)と田丸(稲之衛門)が頭取だとのこと。人数は千余人が必死であり、なかなか勢いが強い。

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(天狗党が)彦根を攻めれば食い止られるのか。橋公(慶喜)と内通しているという噂だが、そのことは突き止められなかった」。中村を通じた薩摩藩の関心は、天狗党の動向や行き先のほか、長州や慶喜との内通があるのか、あるとすればどの程度かを確認しようとすることにあったようだ。 

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なお、後世の回想だが、支藩の佐土原藩士で中村と知友だった富田猛次郎は「中村が武田耕雲斎に大垣城を夜襲したらどうか。同意していただければ先鋒を務めてもよい」と提案したという。天狗党は薩摩藩を敵視している。中村はなぜ武田などに会えたのか。長州シンパだと告げたからだろうか。 

14>

中村半次郎は剣客として知られているが、文久・元治年間は密偵として長州藩邸に潜入したりしている。天狗党への潜入も同様で、長州藩士との人脈を利用して信用させたか。密偵としての中村については、拙著『薩摩の密偵 桐野利秋』(NHK出版新書)に詳しいです。