「青天を衝け」(16)「篤太夫、涙の帰京」

内容:

激闘・禁門の変!

円四郎の死を江戸で知り、衝撃を受ける篤太夫と成一郞。

その頃、京では慶喜が、御所に迫る長州藩兵と戦っていた。

そこに、西郷吉之助率いる薩摩藩兵も加勢する。

篤太夫は、集めた兵を引き連れ京に戻る途中、岡部の代官・利根が現れる。

水戸では、耕雲斎と小四郎が率いる天狗党が、慶喜を頼って京を目指していた。

 

*以下に他サイトへのリンクあります。


1>町田 明広@machi82175302 2021年5月30日

本日は「青天を衝け」17回目です。今回も可能な限り、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、よろしければご一読ください(^^) なお、あくまでも個人的な見解ですので、ご理解いただける方のみ、お願いいたします。 

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「青天を衝け」17回目を拝見!本日はやす宛書簡に涙する、平岡円四郎ロスに包まれた展開でした禁門の変での慶喜も迫力がありましたが、平岡の遺志を継ぎ、一橋家家臣として一皮脱皮する渋沢の苦悩、岡部藩代官の理不尽を乗り越えた、平岡ロスの渋沢の複雑な胸中が見事に描写されました。 

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平岡円四郎について、世間では「天下の権朝廷に在るべくして在らず幕府に在り、幕府に在るべくして在らず一橋に在り、一橋に在るべくして在らず平岡・黒川に在り」(『徳川慶喜公伝』)と喧伝した。それにしても、平岡に対する世間の評価は抜群であった。

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先週も言ったが、慶喜の活躍は平岡の存在があって初めて実現したものである。平岡は、もっと評価されてしかるべき人物であろう。今回をもって、いよいよ平岡円四郎とお別れ。とは言え、平岡ロスは、まだまだ続きそうな予感がする

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本日、慶喜と西郷が活躍した禁門の変について、やや詳しく。なお、西郷が慶喜に会っていましたが、実際は小松帯刀でしょうか。さて、元治元年(1864)6月14日、池田屋事件の急報を受け、長州藩世子毛利広封および三家老(国司信濃・福原越後・益田右衛門介)の率兵上京が確定した。

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翌6月15日には早くも、福原および木島又兵衛遊撃隊久坂玄瑞真木和泉も諸隊や浪士を率い三田尻に出陣した。出撃の順に浪士隊300人、福原隊300人、遊撃隊400人、国司隊100人、益田隊300人、清末藩毛利元純隊200人、第5陣として定封および吉川経幹が予定された。

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既に率兵上京の準備を始めていたものの、池田屋事件を契機とした狼藉者の一掃を口実にした、率兵上京が確定したことになる。6月21日に久坂玄瑞・入江九一・真木和泉らが、翌22日には福原越後・木島又兵衛らが大坂藩邸に到着した。

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久坂玄瑞らは6月24日に山崎周辺を占拠、老中稲葉正邦(淀藩主)を通じて七卿・藩主父子の雪免および入京を朝幕に懇請し、福原越後らは伏見藩邸入りした。25日に久坂らは陳情書を薩摩・鳥取・仙台・肥後等の諸藩京都留守居役に送付して、上京の事由を述べて斡旋を依頼した。

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長州藩の陳情書に対し、薩摩藩等は明確に拒絶の態度を示した。また、6月26日に木島又兵衛は京都に潜入していた浪士も糾合して、嵯峨天龍寺に駐屯した。翌27日に寺島忠三郎らは石清水八幡宮を占拠した。こうして、淀川を挟んで八幡・山崎は長州藩の手に落ちたのだ。

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6月23日、大坂城代大河内信古(三河吉田藩主)は大坂警衛諸藩および近隣諸藩に警備を沙汰した。幕府は翌24日に薩摩藩の京都留守居役に長州藩士の大坂への進出が多数になったため、淀へ出兵して京都の入り口を警衛し、粗暴な振る舞いが万一あった場合、厳重に対処すべきことを命じた。

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この幕命にたいし、薩摩藩小松帯刀は驚くことに拒絶した。朝政参与体制の崩壊後、薩摩藩が幕府と距離を明確に置き始めた起点として注目したい驚くべき行動であった。今回の大河ドラマでは小松は登場していないが、家老である小松が薩摩藩を代表して中央政局に対処していた。

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池田屋事件を契機に長州藩が率兵上京したため、幕府から派兵を要求されたが、薩摩藩としてはあくまでも長州・会津両藩の私闘と規定し、幕命を拒絶したことになる。その背景には、禁裏守衛に専心するという島津久光の遺策の順守があった。

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薩摩藩の在京藩士の中には、こうした薩摩藩の幕命拒否に対して異論を唱える者もあったが、小松帯刀の強力なリーダーシップの下、西郷が実際には説得役となって沈静化させ、次なる事態に備えて藩邸全体が泰然自若を貫いたのだ。小松は良く訓練された藩兵を派遣するように鹿児島に要請した。

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小松帯刀は、長州藩は朝廷を欺き、有栖川熾仁親王正親町実徳を取り込んで8月18日政変以前を真の叡慮、薩摩藩は一番先に攻め崩されることは間違いなく、日本もこれ限りであり、征討の勅命が出た場合は戦闘に加わる決心であることを鹿児島に対して明言した。 

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島津久光は、直ぐに出兵を裁決し、7月6日には川上右膳島津頼母らに率兵上京を命令した。川上らは十分な武装を施した藩兵450人を伴い、翔鳳丸・胡蝶丸・安行丸で出港し、11日に大坂に到着した。そして、禁門の変直前の12日に入京を果たした。

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7月11日、この段階で最高意思決定会議である朝議が開催され、長州藩征討が本格的に議論された。12日に450人の薩摩藩兵が入京したこともあり、事態の切迫を受けて在京の薩摩藩要路は長州藩征討の勅命獲得に向けて動き出し、その任を吉井友実が担当した。

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吉井友実は各藩への周旋を行い、7月15日には土佐藩乾市郎兵衛久留米藩大塚敬介・田中文次郎と上書した。その中で、長州藩諸隊の駐屯をこのまま放置すれば、朝廷の威光にも関わるため断然なる処置が必要と訴えた。つまり、長州軍征討の勅命を発することを暗に要求したのだ。 

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7月16日には薩摩藩・土佐・越前・久留米・肥後等の在京諸藩の要路数10人が三本木に会して長州藩問題を議したが、薩摩藩からは西郷隆盛が参加し、関白二条斉敬からの要請であるとして、長州藩征討を例え薩摩藩一藩であっても実行すると断言し、一致協力を求めたため諸藩は同意した。

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7月18日夕刻に、有栖川宮幟仁親王・熾仁親王・大炊御門家信・中山忠能・橋本実麗らは急遽参内し、長州藩の嘆願を受け入れて松平容保を追放すべきことを奏請した。親長州藩廷臣の動向は、長州藩鳥取藩が中心となって岡山・加賀藩とも通じたクーデター計画であった。 

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有栖川宮幟仁親王らの列参に対し、孝明天皇は冷静に対処し、自派の廷臣を至急招来した。午後10時頃に朝彦親王・晃親王・関白二条斉敬・右大臣徳大寺公純・内大臣近衛忠房等は急ぎ参内し、大炊御門家信等からの松平容保征伐の議を不可として激しい論争となった。

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深夜2時頃、一橋慶喜もまた召命を受けて参内し、小御所における御簾前朝議において、関白以下列参廷臣全員の前で容保征討の不可を力説し、最早長州藩が鳥羽方面で戦火を交えており、その罪状は明白であるとして長州藩追討の勅許を懇請した。

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一橋慶喜獅子奮迅の奏聞によって、遂に7月19日早朝に慶喜以下在京諸藩主に対して、長州藩士等追討の勅命が下った。ところで、一会桑勢力の結成については諸説あるが、私はこの長州藩征討の勅命をもってその成立としたが、更に今後、検討を加えたい。 

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薩摩藩軍について、総指揮は小松帯刀が執り、西郷隆盛・吉井友実・伊地知正治・内田政風などが自身の部隊を統率した。薩摩藩長州藩の猛烈な攻撃にさらされる他藩の援護にも廻らざるを得ない情勢であったが、大砲・小銃隊を押し出し、激戦を繰り広げた結果、長州藩は敗走した。

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早朝より始まった戦闘は午前10時頃には大勢が決し、その後は市中での落ち武者狩りに移行した。猛烈な火災となり、鎮火が進まず洛中は焼失した。この激戦で、長州藩久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎を始めとする精鋭を数多く喪失したのだ。 

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小松帯刀書簡(鹿児島の大久保利通宛、7月20日)では薩摩藩は「両公子(島津珍彦・久治)ニも御出張御守衛御座候、宮公子陽明殿前、富公子ハ日御門内ニ而御警衛ニ御座候」と、在京の島津久光の2子を奉戴しながら戦闘したことを伝える。

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さらに、同じ小松帯刀書簡では、「大島(西郷吉之助)・いちゝ(伊地知正治)其外皆々下知ニ而、莫大之働ニ御座候」などと、実際の総指揮は小松が執り、薩摩藩の他藩に抜きんでた大活躍の次第を藩地に報告したのだ。

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小松帯刀の書簡には、「大島(西郷)・いちゝ(伊地知正治)・吉井(友実)・内田(政風)等も格別之働ニ御座候、大島も足ニ銃丸当り候へとも、少し之事ニ而、今日も天龍寺へ出張ニ相成仕合ニ御座候、税所長(篤)も余程相働申候小銃丸三ツ受、手負ニ御座候」とある。

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小松帯刀は、藩士の活躍などを個々に挙げ、西郷も小松の指揮の下、足に怪我をしながら自身の部隊を統率したと伝える。「其外一統之働も格別ニ御座候」と、藩主父子からの褒賞を懇請した。更に、久光の上京や更なる派兵は状況が流動的であるとして、暫時見合わせることを進言した。

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西郷隆盛も同様に、鹿児島にいる大久保利通宛に書簡(7月20日)を発して禁門の変の状況を伝えた。これによると、「此度之薩勢之鋒、衆人之耳目を驚し候事共ニ而大慶之儀ニ御座候」と薩摩藩の武威を強調する。

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西郷隆盛は続けて、「鳳輦を奉奪候謀計ニ而、実ニ薩兵ハあらすんハ危き次第ニて御座候」と、長州藩による孝明天皇を奪う謀略の存在を認め、薩摩藩の精兵がなければ危機的状況であったと、切迫した情勢を大久保利通に伝えた。

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西郷隆盛は、「此度ハ御所江向ひ砲発いたし候付而ハ、天下之人望を失ひ候而已ならす、大逆之罪を得、其上異人と和議を結ひ、旁是迄之詐謀一時ニ相顕、天罰を蒙り候事共ニ御座候」と、御所に向かって発砲したことにより、長州藩は天下の人望を失うのみならず、大逆の罪を被ったと指弾した。

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西郷隆盛大久保利通に対し、外国と和議を結ぶ(誤報)など、これまでの詐謀が一気に露見してしまい天罰を受けたと、長州藩に対する憎悪を披瀝した。ここから、長州征伐に向けた西郷の強硬論に直結したことが分かる。薩摩藩VS長州藩の構図は抜き差しできないレベルに昇華したのだ。 

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ちなみに、小松帯刀西郷隆盛大久保利通宛に書簡を発していますが、島津久光がそれを読むことが前提となっています。流石に、殿宛に直接手紙は書けないのです。

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元治元年(1864)5月、渋沢栄一は渋沢喜作と共に人選御用(一橋家家臣の取立)のため関東に下向した。当初、千葉道場の門下生などの旧知の勧説を企図するも、多くが天狗党の乱に加勢するため出払っており不首尾であった。このあたり、念のため復習も兼ねて。

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渋沢栄一らは、関東一円(武蔵国・下総国・上総国)の一橋領を100余日も巡回し、壮士約50人を募り9月に中山道を率いて上京している。江戸到着時、尾高長七郎の救解に尽力するも不成功であった。一橋家家臣としても、現行犯逮捕の長七郎は救えなかったのだ。

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渋沢栄一は、故郷である血洗島を訪問したかったが、岡部陣屋に不穏な雰囲気があるため帰省を諦め、他所で密に父および妻子に面会している。岡部藩にしてみれば、自藩の元農民であった渋沢らを受け入れることは、メンツからも許しがたいことであったろう。 

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本日から伊藤博文、井上馨が登場。ちょうど1年前、NHKのEテレ「知恵泉」の伊藤博文の回にスタジオゲストで出演したことを思い出しました。ちなみに、「BS歴史館」の長州ファイブの回も、スタジオゲストで呼んでいただきました。 

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本日から伊藤博文、井上馨が登場。彼らは長州ファイブとして、文久3年にロンドンに密航留学している。リーダー格の井上馨は、通商条約の破棄に向けた即時攘夷を実行しながらも、実際に対等な通商条約を結び直すには、西洋の文明、特に軍事技術を習得する必要があると判断した。

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井上馨による長州ファイブ結成は、未来攘夷のためではなく、あくまでも目前にあると信じる通商条約の再締結のためであり、一見矛盾した即時攘夷と海外渡航という2つの方向性は矛盾していないと考えられていたのだ。

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文久3年(1863)5月12日、英国領事エイベル・ガウワーの助けを借り英国留学のため横浜から密出国した井上馨(28歳 小姓役)、遠藤謹助(27歳 壬戌丸乗組)、山尾庸三(26歳 壬戌丸測量方)、伊藤博文(22歳 京邸内用掛)、野村弥吉(井上勝、20歳 壬戌丸船将)が長州ファイブである。

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長州ファイブは、新生明治日本の建設にそれぞれ役割を果たした。井上は外交の、遠藤は造幣の、山尾は工学の、伊藤は内閣の、野村は鉄道の、それぞれ「父」と呼称され、全員が日本の近代化を担う活躍をすることになる。伊藤・井上以外の3人にも注目して欲しい。 

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長州ファイブについて、手前味噌で恐縮ですが、

拙著『グローバル幕末史』に詳しいです。

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長州ファイブの誕生についてもう少し。安政5年(1858)の日米通修好商条約の調印を期に、即時攘夷主義が台頭した。一方で井上馨攘夷実行後の日本が欧米列強のような強国になるため、今からその軍事技術や様々な文物を吸収した「生きたる器械」の必要性を唱え藩はイギリス渡航を黙認した。 

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長州ファイブはロンドンでの留学生生活を開始したが、1863年10月21日(文久3年9月9日)のロンドンタイムズの中に驚くべき情報を発見した。長州藩による下関での外国船砲撃事件薩英戦争の詳細な経緯が記されていたのだ。 

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しかも、英仏米蘭の四ヶ国が長州藩を砲撃するための最終協議をしているという衝撃的な文言が目に飛び込んできた。井上と伊藤が帰国したのは、元治元年(1864)6月10日前後であり、井上らは志半ばという断腸の思いで、しかし、我が国の危機を救うために帰国の道を選択したのだ。 

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元治元年6月10日頃、伊藤博文井上馨は横浜に到着し、ガウワーに会って急遽帰国した説明をしたところ、ガウワーは英仏蘭米4カ国が下関を襲撃する計画がある事を告げた。伊藤らは長州藩の安危に関する大事件と改めて認識した。 

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英国公使館の通訳アーネスト・サトウを介して公使ラザフォード・オールコックと会見し、自分たちが長州藩に帰って藩論を一変したいと説明、停戦講和を懇請した。オールコックは、フランス、アメリカ、オランダの公使と協議して回答するから数日間、居留地のホテルに宿泊して待てと命じた。 

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オールコックは更に、その際に長州人と分からないように、日本語を使ってはならないと申し渡した。伊藤と井上は、ホテルのボーイらが、「今回ホテルに来たポルトガル人の顔付きは日本人に似ているが、ケチで金銭を使わないことには驚いた」と噂された。ポルトガル人に間違えられたのだ! 

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ホテルのボーイらは、伊藤らが「金銭を使う道をしらぬのではあろうが、彼等2人の風貌から見てもポルトガル人の中でも最下等の貧乏野郎」など、日本語が分からないものと思って勝手な事を話していたようだ。

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ホテルのボーイらは、伊藤らが「金銭を使う道をしらぬのではあろうが、彼等2人の風貌から見てもポルトガル人の中でも最下等の貧乏野郎」など、日本語が分からないものと思って勝手な事を話していたようだ。

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その後、オールコック英国公使から連絡があり、他の3国も了解したから国に帰って尽力して欲しいとして、伊藤らは藩主あての公使からの書簡を手渡された。書簡に対する返答は到着から12日後と決まった。そして、6月18日、英国艦に乗り豊後姫島まで送られる。 

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伊藤博文と井上馨は、藩要路とオールコック英国公使の間を行き来して、武力衝突の回避を画策した。このあたりが、本日の冒頭の場面であろう。 

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伊藤博文と井上馨は、藩要路とオールコック英国公使の間を行き来して、武力衝突の回避を画策したが交渉は時間切れとなり、四国艦隊下関砲撃事件(元治元年8月)を阻止することに失敗した。事件後、講話談判では使節宍戸刑馬(高杉晋作)に従い、通訳を務めた。 

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伊藤・井上とやり取りしていた通訳官アーネスト・サトウ。サトウと言えば、

『一外交官の見た明治維新』

2021年4月に講談社学術文庫から鈴木悠さん訳で刊行されています。私は「監修協力」として関わらせていただきました。 

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ちなみに、アーネスト・サトウはこれ以降、伊藤博文・井上馨と文通をしている。サトウは日本語に堪能で、なんと候文を読み書きできた。文通ももちろん、候文。サトウ、恐るべし! 

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NHK青山講座(対面「新説 坂本龍馬」

最新の研究に基づいて、龍馬の生涯を紐解き、志士・周旋家・交渉人・政治家として、多様性を持つ龍馬の動向を検証し、新たな知見に基づいて龍馬の実像に迫ります。途中からの参加も可能です。

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NHK青山講座「新説 坂本龍馬」

6/19(土)龍馬の海軍構想と第二次脱藩 

7/17(土)薩摩藩士・坂本龍馬の誕生 

8/21(土)薩長同盟と寺田屋事件 

9/18(土)海援隊と薩土盟約 

10/16(土)大政奉還と龍馬暗殺

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 JBpressの最新記事、「渋沢栄一と時代を生きた人々」

の最新連載、平岡円四郎(全3回)の3回目が明日7日(月)朝6時に公開されます。平岡です!ご味読をどうかよろしくお願いいたします。なお、1・2回目はこちらです。

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65340

 

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65341

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白鷺舎講演会

「大河ドラマで語られなかった橋本左内-将軍継嗣活動を中心に-」 

日時:8月1日(日) 13:00~16:00 オンライン

 町田明広氏「将軍継嗣問題と橋本左内」

 角鹿尚計氏 「橋本左内の道中日記を読む」

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高知県立坂本龍馬記念館 

令和3年度連続講演会「龍馬を考える5つの視座」

 8月28日(土) 「薩摩藩と坂本龍馬」

講師:町田明広(神田外語大学外国語学部准教授)

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第229回照國講演会  

 9月11日(土)(午前10時30分)

「薩摩藩と大英帝国」 神田外語大学 町田明広

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次週は、明治維新史学会大会のため、事後ツイートはお休みいたします。どうかよろしくお願いいたします。 

 


1>桐野作人@kirinosakujin 6月6日

坂本龍馬が姉乙女に宛てた書簡で、日本を今一度「せんたく(洗濯)」いたし申し候云々と述べたことは有名。 じつは渋沢栄一も同様の言葉を述べている。『雨夜譚』で攘夷挙兵のとき、「幕政の腐敗を洗濯した上でなければとうてい国力を挽回することは出来ない」と。共に文久3年(1863)。 

2>

もっとも、龍馬書簡は同時代の一次史料だが、渋沢自伝『雨夜譚』は明治30年代に刊行されたものだから、多少は割り引いて考えないといけないが、渋沢が坂本やこの書簡を知っていたとも思えない。龍馬もまた「せんたく」前段で「姦吏を一事に軍(いくさ)いたし打ち殺し」と過激である。 

3>

本日の大河ドラマ「青天を衝け」。最後のほうに天狗党の挙兵から西上が描かれました。最後の大河紀行で紹介された武田耕雲斎、藤田小四郎率いる天狗党の利根川渡河。写真は渡河したあたりの利根川、天狗党勢の渡河を解説した案内板、耕雲斎が陣を置いたとされる不動堂です。

4>

本日の大河ドラマ「青天を衝け」。今回は禁門の変(元治甲子戦争)が中心でした。そのなかでも、一橋慶喜と薩摩藩の西郷吉之助の冷戦とその後の対立を暗示させるような場面が描かれました。ドラマでは乗馬姿の慶喜でしたが、実際はもっと劇的だったと思います。 

5>

長州勢が禁裏御所に迫ったと知らされた慶喜は宿舎の若州屋敷から愛馬「飛電」に跨がり、一気に禁裏御所まで駆け抜けました。若い頃、橋本左内の「橋公略行状」でも強調された慶喜の巧みな馬術が活かされました。そして全線に出た慶喜は禁裏御所西側の御台所門まで進んだ所で銃撃されます。

6>

おそらく中立売門を破った長州兵に銃撃されたと思われます。慶喜のすぐ近くで銃弾が弾け、愛馬「飛電」も負傷したといわれます。これが慶喜の初陣でした。慶喜は自分の軍勢を率いていました。全部で700名ほどでした。内訳は直属の床几隊100人、水戸藩兵150人、

7>

文久2年(1862)の軍制改革で編成された歩兵隊・講武所小筒組・別手組合わせて350人とされます。慶喜は戦闘中、前線にいただけでなく、禁裏にじつに4回も参内しています。それは御所内に長州シンパである親王・公家が少なからずおり、彼らが孝明天皇の比叡山動座を画策していたからです。

8>

本日の大河ドラマ「青天を衝け」。御所内の長州派の計略は有栖川宮らがまず知恩院への遷幸を勧め、天皇が禁裏六門を出たところで、鳳輦を鳥取藩士らが奪い取り、これに岡山藩も加担して、鳳輦をさらに宇治か奈良へと遷幸させ、天皇を長州の勢力下に置こうという策だったともいわれる。

9>

鳥取藩主(池田慶徳)も岡山藩主(池田茂政)も慶喜の兄弟、烈公斉昭の子息たちだったから皮肉である。いや、斉昭の「尊攘」を継承していたというべきか。それを阻止したのが慶喜だった。2度目の参内で、慶喜は天皇の即位式が行われる紫宸殿で長州派の親王公家と対決した。 

10>

このとき慶喜に同行していたのが薩摩藩家老の小松帯刀。その様子を国許に知らせている。「(一橋公は)紫宸殿へイタグラメ(胡座)で有栖川宮を初め長州びいきの暴論公家衆多人数とご対座、一橋公は一人にて舌戦、ついにことごとく説破され、公家衆閉口の由」と慶喜の弁舌が冴え渡った。 

11>

慶喜はたった一人で多数の親王・公家を圧倒した。3度めに参内したら、今度は天皇の下賀茂遷幸の話が持ち上がり、紫宸殿には三種の神器や鳳輦も仕度されていた。慶喜は紫宸殿に上がると、天皇の袖を引き留めながら「私が守護し奉りますからには、未だご遷幸の時機ではありませぬ」と諫言。 

12>

慶喜の様子を見た小松帯刀は「その節の一橋公のお振る舞いは威儀堂々、誠に無双の豪傑と見えました」と感嘆している。「無双の豪傑」とは最大級の賛辞だろう。しかも、薩摩藩の大立て者、小松帯刀の言葉だから重い。慶喜の宮廷政治家としての才能に、以降、薩摩藩は苦しめられる。 

13>

本日の大河ドラマ「青天を衝け」。慶喜と薩摩藩の微妙な関係は駆け足と省略のため、詳しく描かれませんでした。また薩摩藩の代表が西郷吉之助になっていましたが、代表で総大将はあくまで家老の小松帯刀です。残念ながら登場しませんでした。長州藩兵は山崎、天龍寺、伏見から迫ります。 

14>

慶喜は最初、長州に撤退するようにと説諭方針をとったため、会津藩に長州と内通しているのではないかと疑われます。新選組などは慶喜の宿舎に乱入しようとしたともいわれます。そのためか、慶喜は薩摩藩に支援を求めますが、応対した小松は長州追討の勅命がないのに薩摩は動けないと拒否。 

15>

薩摩藩は当初、会津と長州の私戦と見て傍観する態度で、勅命なら応じるが、幕命には従わないとした。それが変わったのは7月12日、薩摩藩の援軍400人が藩邸に入り、薩摩藩の兵力が1000人を超えてから。長賊が再三の勧告に従わないなら、追討の勅命が下ったら断固駆逐すべしと主張。 

16>

18日深夜、追討の勅許が下ると、薩摩藩は慶喜に協力している。当初、天龍寺に一隊を派遣する予定だったが、長州藩が御所に迫ったので、引き返して長州兵と交戦。ドラマで描かれた大砲でも、とくに砲術家の中原猶介率いる奇兵隊(長州ではない)が長州の国司信濃隊を背後から砲撃した。 

17>

長州勢は堺町門近くの鷹司邸に立てこもったが、慶喜が砲撃を命じたために潰滅。久坂玄瑞や寺島忠三郎も自害。 戦後、長州勢力の退潮とは反対に、慶喜を中心とする一会桑勢力が京都政局の主導権を掌握する。 しかし、京都の町は戦争によって、4分の3が焼失したという。