「青天を衝け」(16)「恩人暗殺」

内容:

篤太夫都成一郞は円四郎に命じられ、一橋の兵を集めるため関東に出張する。

その頃、水戸藩は天狗党の対応を巡って大きく揺れていた。

その余波は、血洗島の高尾家にも及び、惇忠と平九郎は捕らえられる。

一方、京都では土方歳三ら新撰組が池田屋を襲撃。

攘夷派志士の怒りは、慶喜、側近・円四郎に向かっていく。

 

*リンクあり。


1>町田 明広@machi82175302  2021年5月30日

本日は「青天を衝け」15回目です。今回も可能な限り、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、よろしければご一読ください(^^) なお、あくまでも個人的な見解ですので、ご理解いただける方のみ、お願いいたします。

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「青天を衝け」16回目を拝見!本日は平岡円四郎の無念の最期が劇的でした。慶喜との主従関係を超えた、人としてのかけがえのない繋がり、信頼関係が描かれ、慶喜を始め家中の深い悲しみに共感しました。渋沢の関東下向の顛末や池田屋事件もインパクトがありましたが、本日は平岡です。。
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先週から、渋沢栄一は篤太夫、渋沢喜作は渋沢成一郎、史実通りに改名している。過去の大河で、成人主人公が改名した例は多くないような気がする。考証陣の意気込みを感じる。ちなみに、さすがに桂小五郎は、木戸孝允だったか。なお、ここでは改名前で通します。
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元治元年(1864)5月、渋沢栄一は渋沢喜作と共に人選御用(一橋家家臣の取立)のため関東に下向した。当初、千葉道場の門下生などの旧知の勧説を企図するも、多くが天狗党の乱に加勢するため出払っており不首尾であった。このあたり、ドラマ通りの展開。
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渋沢栄一らは、関東一円(武蔵国・下総国・上総国)の一橋領を100余日も巡回し、壮士約50人を募り9月に中山道を率いて上京している。江戸到着時、尾高長七郎の救解に尽力するも不成功であった。一橋家家臣としても、現行犯逮捕の長七郎は救えなかったのだ。
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渋沢栄一の救済に尽力するも不首尾となり、尾高長七郎は約5年間も投獄されたままであった。明治元年(1868年)4月9日、ようやく長七郎は赦免されて出獄したものの体調を崩しており、故郷に戻って療養した甲斐もなく、11月18日に逝去、享年31歳の若さであった。
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渋沢栄一は、故郷である血洗島を訪問したかったが、岡部陣屋に不穏な雰囲気があるため帰省を諦め、他所で密に父および妻子に面会している。岡部藩にしてみれば、自藩の元農民であった渋沢らを受け入れることは、メンツからも許しがたいことであったろう。
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天狗党の乱について、世界大百科事典によって簡単に触れたい。1864年(元治1)水戸藩尊攘激派による挙兵事件。水戸藩主徳川斉昭の下で改革政治に登場した者が天狗と呼ばれ,尊攘激派を中心とした天狗党は,保守派とくに諸生党と激しく対立した。
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1863年(文久3)8月18日の政変で尊攘運動が挫折すると,天狗党藤田小四郎らは幕府に攘夷の実行を促すため,田丸稲之衛門を総帥として翌64年3月27日筑波山に挙兵した。当初、攘夷祈願のため日光に向かうが,はじめから軍資金不足に悩まされた。
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資金不足の天狗党は、近在の諸藩や豪農商に金穀を強要することが多かった。幕府が諸藩に追討を命ずると,諸生党の天狗党攻撃も激化し、しだいに水戸藩内の党争の色彩をつよめた。窮地に立った天狗党は、在京中の一橋慶喜を頼り、武田耕雲斎を主将として大挙西上した。
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天狗党は、西行の途中で加賀藩に降伏して拘禁された。翌慶應元年(1865)年2月の武田,藤田,田丸以下350人を超える死刑をはじめとし,大量の犠牲者を出した。なお、水戸出身の慶喜が天狗党と合体するのではと驚くほど幕府に警戒されていた。少し話が進み過ぎたこのあたり、再来週か?
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元治元年(1864)春からの中央政局の状況について、概観しておこう。3月25日、一橋慶喜は念願の禁裏守衛総督・摂海防禦指揮に就任したが、朝彦親王という朝廷切っての実力者を久光から奪い取ることで可能となった。これは、慶喜の参与諸侯に対する完全勝利を象徴する出来事であった。
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一橋慶喜の政治力に敗北した島津久光ら参与諸侯は、中央政局に見切りをつけて退京を開始し、諸侯の朝政参与という形態を伴った国事周旋はここに終焉を迎えた。諸侯の退京を待っていたかのように、4月20日に朝廷は庶政を幕府に委任したため、大政委任が国是として確立した。
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島津久光の退京後の中央政局について、島津久治(図書、久光次男)・小松帯刀・西郷隆盛・吉井友実・伊地知正治らが在京したが、久治は久光の傀儡的名代に過ぎず、あくまでも、小松が久光の名代として薩摩藩を代表し指揮命令権を掌握した。今回、小松は不在。
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久光は、3分の1にあたる500の兵力を残留させたが、その目的は御所の警衛とされた。当時は諸侯が次々に退京を始めており、財政問題も相まって兵力と呼べるような在京藩士は残っておらず、薩摩藩の500は過大な兵数で、長州藩の率兵上京に伴う戦闘を意識していたことは自明であった。
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薩摩藩の500は過大な兵数について、このころの薩長関係は、八月十八日政変および幕府汽船長崎丸(薩摩藩借用中)砲撃事件(文久3年12月24日、幕府からの借用船が砲撃され、68人の乗組員中28名が溺死)への砲撃によって、著しく険悪となり、一触即発な関係にあった。
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会津藩同様、薩摩藩は最も強硬な対応を求めており、幕府の長州征伐の方針に対して、積極的に支持を表明し、久光は国許の藩主茂久に出兵の怠りない準備を指示、茂久はそれに応えて軍事操練を継続していた。薩長は、とうに犬猿の仲である。
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久光は帰藩にあたり、「将来他事ニ亘ラス一向禁闕ノ守護ニノミ力ヲ尽スヘシ」(『忠義公』3)と、御所の警衛のみを命じる諭告を残しており、小松以下の在京藩士はその遺策を順守し周りの雑言を全く無視して禁裏守衛一筋に励み、長州藩およびそれを支持する廷臣や尊王志士の動向を熟視した。
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先週から登場した西郷隆盛は、沖永良部に流罪となっていたが、元治元年2月21日に鹿児島に帰還を許され、早くも3月4日に上京を命じられ、14日に着京後、18日には久光との謁見を許された。そして、19日に軍賦役兼諸藩応接係、4月8日に一代新番となる。
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西郷隆盛は、更に4月14日に小納戸頭取・役料米四八俵・御用取次見習、5月15日に一代小番・小納戸頭取と短期間に藩要路への復帰を果たした。久光帰藩後の中央政局において、西郷は小松の参謀として吉井・伊地知と共に、まずは元治期、禁門の変前後の中央政局の舵取りをすることになった。
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ドラマでは尺の関係で描かれないが、中央政局における長州藩の動向について、当時は京都留守居役の乃美織江の他に、桂小五郎・久坂玄瑞・入江九一らが潜行して周旋活動を継続しており、福岡・鳥取・芸州・対馬・水戸の諸藩士と連携し、長州藩主の宥免活動を展開した。
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長州藩は廷臣への入説の攻勢も強めており、例えば4月17日、乃美と桂は正親町三条実愛を訪ね、藩主父子いずれかの上京や攘夷国是の確立等を懇願して理解を得ていた。しかし5月10日、朝廷は長州藩に対し幕府に大政委任したため支藩主等の上坂を取り消し、幕府からの沙汰を待つように命じた。
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当初、藩政府は率兵上京による嘆願に消極的であったが、京都に潜入した来島又兵衛や久坂らは、諸侯の退京や上方の人心が長州贔屓であることを事由に、率兵上京を進言した。これによって、藩論は一気に率兵上京に向かうことになった。
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そのため、世子定広の上京の機は熟したとし、5月27日には国司信濃に上京を、福原越後水戸藩の内訌に乗じて幕府に哀訴するため出府を命じるに至った。6月4日に国司に続いて定広が上京することに決し、6日には繁枝野(周防国吉敷郡)において諸隊による操練に参加した。
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既に率兵上京の準備を開始していた6月14日、新選組が尊王志士を襲撃した池田屋事件の急報が届いたため一藩動揺を来し、益田右衛門介にも上京を命じたため、ここに世子および3家老(国司・福原・益田)の率兵上京が確定した。
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6月15日には早くも、福原越後・来島又兵衛・久坂玄瑞・真木和泉らが諸隊や浪士などを率いて三田尻を発し、その後、定広および吉川経幹の出陣が予定された。6月21日に久坂・入江九一・真木らが、翌22日には福原・来島らが大坂藩邸に到着、久坂らは24日に山崎周辺を占拠した。
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久坂玄瑞らは老中稲葉正邦(淀藩主)を通じて七卿・藩主父子の雪免および入京を朝幕に懇請し、また木島又兵衛らは伏見藩邸に陣取った。元治元年6月25日に久坂らは陳情書を薩摩・鳥取・仙台・肥後等の諸藩京都留守居役に送付し、上京の事由を述べて斡旋を依頼した。
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これに対し、薩摩藩等は明確に拒絶の態度を示した。元治元年6月26日、来島又兵衛は京都に潜入していた浪士も糾合して嵯峨天龍寺に駐屯し、27日に寺島忠三郎らは石清水八幡宮を占拠したため、淀川を挟んで八幡・山崎は長州藩の手に落ちた。
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そのような中で、6月23日、大坂城代大河内信古は大坂警衛諸藩および近隣諸藩に警備を沙汰し、翌24日に幕府は薩摩藩の京都留守居役に長州藩士の大坂への進出が多数になったため、淀へ出兵して京都の入り口を警衛し、粗暴な振る舞いが万一あった場合、厳重に対処すべきことを命令した。
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これに対して小松帯刀は、久光帰藩時に朝廷から相当数の御所守衛人数を残すように命じられており、また、久光からも禁裏守衛をきつく申し付けられている。時勢に緊迫度が時々刻々増しており、他方への守衛に人数を割くことはできないとして、出兵要請を拒否した。
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小松帯刀の対応は、朝政参与体制の崩壊後、薩摩藩が幕府と距離を明確に置き始めた起点として注目したい。 このように、長州藩が率兵上京したため、幕府から派兵の要求があったものの、薩摩藩としてはあくまでも長州・会津両藩の私闘と規定し、幕命を拒絶してした。
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その背景には、禁裏守衛に専心するという久光の遺策の順守があった。在京藩士の中には異論を唱える者もあったが、小松の強力なリーダーシップの下、西郷が実際には説得役となって沈静化し、次なる事態に備えて藩邸全体が泰然自若としていた。次週は禁門の変、これが背景です。
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本日の主役、平岡円四郎について、少し語っておきたい。大河ドラマでは、知られざる人物の発掘、一般への周知という期せずしての役割がある。幕末大河でいうと、「篤姫」の小松帯刀が最たる人物だが、今回の平岡円四郎もそれに匹敵する。
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一橋慶喜が歴史に名を残せたのは、平岡円四郎の活躍もあってのことである。慶喜の前半生、例えば将軍継嗣問題における慶喜擁立運動、将軍後見職時代の文久の改革、朝政参与時代の薩摩藩との暗闘、禁裏守衛総督・摂海防禦指揮への就任など平岡が陰で支えていたことは数えきれないほど多い。
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一方で、平岡円四郎はそれだけの実績があるにも関わらず、その名前が歴史に埋もれていることは実に惜しいことである。これほどの重要人物でありながら、十分な史料が残されていないことも相まって、その実像がよく見えない。今回の大河は、その平岡に光が照射された。
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嘉永6年(1853)、一橋慶喜水戸藩からの「直言の士」、すなわち、物おじせずに慶喜に諫言してくれる、頼りがいのある家臣を派遣してくれるよう、懇請する書簡を実父の斉昭に送っている。ここで白羽の矢が立ったのが、平岡円四郎であった。
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当時、平岡は昌平坂学問所の役職を務めていたが物足らず、武芸修行を口実に飛び出してしまい、その後はブラブラして世に出る機会をうかがっていたらしい。どうみても、ひねくれものの部類に属し、生まれつき人付き合いも悪く、変人扱いされていたことも不思議ではない。
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しかし、そんな平岡の本質を見抜く人物が現れる。勘定奉行の川路聖謨である。間違いなく、平岡の実父、岡本花亭との縁であろう。そうでなければ、大身の幕臣である川路が平岡に出会うことは考えにくい。
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川路は、平岡が非凡で「直言の士」であることを見込み、日ごろから水戸藩藤田東湖戸田忠太夫に対して、平岡の能力や人となりを吹聴していたらしい。ちょうど慶喜が、「直言の士」を斉昭に求めていた時でもあり、東湖は斉昭に平岡を推薦した。
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斉昭はその提案を受け入れ、平岡を慶喜の小姓とすることに決めた。平岡もそうそう遊んでいるわけにもいかず、取りあえずその申し出を受けることにした。しかし、本心から望んでいるわけではなく、幕臣の出世コースと言える勘定方への出仕を期待していた。つまり、乗り気ではなかったのだ。
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嘉永6年12月、平岡は一橋家に仕官して慶喜の近侍に採用された。時に平岡は32歳、慶喜は16歳であった。平岡は、生来の粗野な振る舞いを仕官後も通しており、保守的な一橋家の中では浮きまくっており、何故あのような者を側に置くのかと陰口をたたかれるなど、ひんしゅくを買っていた。
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しかし、面白いことに、その粗暴さがかえって慶喜の気を引くところとなった。まったく空気を読めない平岡に対し、慶喜はさすがにこのままではまずいと感じ、策を講じた。こうして、平岡の半分の年齢の慶喜自身が、平岡に礼儀作法を教えるという珍事が始まったのだ。 

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平岡も平岡で、主君から手ほどきを受けることに疑問を感じない。慶喜は箸や椀の持ち方、飯の盛り方から食べ方など、自ら親しく平岡を教育した。平岡はこうしたやり取りを通じて、慶喜の英明さに深く心酔するようになり、これ以降は心を込めて慶喜に尽くすようになった。 

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一方で、慶喜も聡明であり、かつ学問好きな「直言の士」、平岡を次第に重用することになった。こうしたことから、ドラマのように相思相愛な主従関係であったことが伺える。元治元年2月、平岡は側用人番頭を兼務、5月に一橋家家老並、6月2日に慶喜の請願により太夫、近江守に叙任していた。 

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しかし、6月16日に在京水戸藩士江幡広光、林忠五郎らによって暗殺された。本日の暗殺場面は、過去の暗殺の描写に比して、出色の演出ではなかったか、それほど胸を打った。平岡円四郎、享年43、働き盛りの年齢である。円四郎ロスが始まる。

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JBpressの最新記事、「渋沢栄一と時代を生きた人々」の最新連載、平岡円四郎(全3回)の2回目が明日24日(月)朝6時に公開されます。平岡です!ご味読をどうかよろしくお願いいたします。なお、1回目はこちらです。

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渋沢栄一は、平岡の死に大いに落胆悲憤したものの、黒川嘉兵衛が代って一橋家の主席用人として渋沢を平岡同様に処遇し、渋沢もまた発奮して職務に精励した。渋沢は9月に上京したため、禁門の変時には京都に不在であり、同月末、御徒歩に昇進(俸禄8石2人扶持、在京月手当金6両)した。

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それにしても、本日の池田屋事件、町田啓太さんの殺陣の見事さが際だった感じ池田屋事件については、『池田屋事変始末記―新選組と吉田稔麿』(1975年)、『新選組・池田屋事件顛末記』(2001年)など、冨成博先生に大変にお世話になった。 

https://www.kadokawa.co.jp/product/201216011400

(Amazonがリンク出来ない為)

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池田屋事件の最高峰は、中村武生さんの『池田屋事件の研究』(講談社現代新書)である。既に初版から10年、改訂版を期待したい。

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000210617

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拙稿「池田屋事変における吉田稔麿について」(霊山顕彰会 / 霊山顕彰会霊山歴史館 〔編〕 『霊山歴史館紀要』16号、2003年4月)ですが、改稿して「池田屋事変における吉田稔麿」(マツノ書店『松陰先生と吉田稔麿・増補版』)に掲載いただきました。後者をご覧ください。

http://www.matuno.com/bookimages/48772.htm

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なお、拙稿「池田屋事変における吉田稔麿」の内容ですが、これまでの描かれ方を概観し、事件の実相とも言える、稔麿が池田屋事変時に池田屋に居なかった新事実を論証しています。 

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マツノ書店『松陰先生と吉田稔麿・増補版』、私も紹介文を書いています。こちらで閲覧可能です(^^) http://matuno.com/bookimages/48772.pdf…

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松下村塾門下の杉山松助に注目している。池田屋事件に巻き込まれ、吉田稔麿と同様に落命しているが、品川弥二郎は非常に高く評価している。「文久二年壬戌上京久坂通武等ト力ヲ王事ニ盡ス」とされるが、如何せん史料が乏しい。

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杉山松助、文久2年5月に藩主の命により、幽閉されていた真木和泉の解放周旋のため、山縣九右衛門久留米藩へ赴いている。池田屋事件で斃れていなければ、相当の事績を残せただろう。

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NHK青山講座(対面)「新説 坂本龍馬」

最新の研究に基づいて、龍馬の生涯を紐解き、志士・周旋家・交渉人・政治家として、多様性を持つ龍馬の動向を検証し、新たな知見に基づいて龍馬の実像に迫ります。途中からの参加も可能です。 

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NHK青山講座「新説 坂本龍馬」 

6/19(土)龍馬の海軍構想と第二次脱藩 7/17(土)薩摩藩士・坂本龍馬の誕生 8/21(土)薩長同盟と寺田屋事件 9/18(土)海援隊と薩土盟約 10/16(土)大政奉還と龍馬暗殺

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白鷺舎講演会「大河ドラマで語られなかった橋本左内-将軍継嗣活動を中心に-」 

日時:8月1日(日) 13:00~16:00 オンライン 町田明広氏「将軍継嗣問題と橋本左内」 角鹿尚計氏 「橋本左内の道中日記を読む」

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高知県立坂本龍馬記念館 

令和3年度連続講演会「龍馬を考える5つの視座」 

8月28日(土) 「薩摩藩と坂本龍馬」

講師:町田明広(神田外語大学外国語学部准教授)

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第229回照國講演会  

 9月11日(土)(午前10時30分)

「薩摩藩と大英帝国」 神田外語大学 町田明広 

 


1>桐野作人@kirinosakujin 2021年5月30日

大河ドラマの進行より少し遡るが、将軍後見職となった一橋慶喜が文久3年(1863)正月に上洛したものの、公家衆や藩士の攘夷勢力からしきりに攘夷勅旨の奉承を執拗に迫られ、とうとう2月14日に攘夷期限を4月中旬とすると、国事掛の三条実美らに回答してしまった。署名したのは4人である。 ·

2>

その4名は慶喜のほか、松平春嶽、松平容保までは幕府の要路だからわかる。でも、もう一人が松平容堂すなわち山内容堂なのである。この時期、容堂は上京しているが、どういう立場、資格で署名したのか。まだ朝議参豫には任命されていないはず。たまたま在京していただけではないと思うが。 

3>

本日の大河ドラマ「青天を衝け」。平岡円四郎が刺客に襲撃されて最期を遂げました。平岡は暗殺直前、急激な出世を遂げています。小普請組支配、勘定評定所留役当分助という閑職から一橋家の用人へと栄転。文久4年(1864)2月には側用人兼番頭、5月15日には家老竝(家老並)となります。 

4>

旗本としての家格も新番頭格となり、暗殺の半月前の6月2日、諸大夫(しょだいぶ)に列し、近江守と名乗ります。諸大夫成は従五位下に叙せられるとともに、いわば公儀の一員です。慶喜の信任厚く、その推挙もあったと思われます。事件は池田屋事件の10日ほどのちの6月16日夜に勃発。

5>

平岡と川村恵十郎は一橋家家老の渡辺甲斐守孝綱宅を訪れた帰り、水戸藩士の林忠五郎と江幡貞七郎に襲撃された。2人は川村に斬られ、川村も顔面を斬られたのはドラマの通り。平岡の諱は方中。「徳川慶喜公伝」では「ケタチ」と読むという。 

6>

一橋家家老の渡辺孝綱はドラマには登場しませんでしたが、知行高3100石の上級旗本。安政6年(1859)9月に外国奉行をつとめ、11月には辞職してます。安政の大獄の影響でしょうか。文久2年(1862)11月には番方のひとつ、書院番頭に昇進したエリート旗本です。 

7>

文久2年(1862)12月、慶喜が上京するときに供奉、翌3年8月には大目付まで出世し、元治元年(1864)5月に一橋家家老に就任しています。新任だったせいか、平岡との相談もいろいろあったと思われ、下位の平岡のほうから渡辺宅を訪れたか。慶喜の実家の水戸藩士がなぜ平岡を襲撃したのか。

8>

水戸藩士が平岡を襲撃した理由について、館林藩士で『名将言行録』の著者でも知られる岡谷繁実は『史談会速記録』で、平岡の出世が猜疑されるともに「その頃まで外見では慶喜公の開国論者なることを知らず、攘夷論者と信じており、公が政局に関わっても、攘夷が実行されないのを見て、

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望みを失い、その謀臣である円四郎を誹謗し、円四郎が開国論で慶喜を誘惑する者、獅子身中の虫で奸物だと罵り、攘夷党のために除くべきだと意を決した」とする。もっとも、前年夏以降、栄一や喜作も水戸藩士の不穏な動向を摑んでいたとも書いている。これは数回前にドラマで再現された。

10>

本日の大河ドラマ「青天を衝け」で、もう登場しないかと思われた岡部藩の捕り方が尾高惇忠と弟の平九郎が召し捕られて連行されました。その岡部藩の陣屋跡が史跡になっています。有名な高島秋帆が収容されたので、秋帆の案内板も立ち、小さな駐車場も出来ていました。 

11>

本日の大河ドラマ「青天を衝け」。非業の最期を遂げる前、平岡円四郎が慶喜に「殿は東照大権現の再来」と真情を吐露していた。円四郎がそう言ったという史料があるか知らないが、慶喜が徳川家康に喩えられていたのはたしか。そういえば、今日は北大路家康は登場しなかったような。 

12>

慶喜を家康にたとえたのは木戸孝允。ドラマから3年ほどのち。土佐藩士の土方久元『回天実記』慶応3年3月21日条に「一橋の胆略決して侮るべからず、若し今にして朝政挽回の機を失い、幕府に先を制せらるる事あらば、実に家康の再生を見るが如し」と述べる。木戸の慶喜への非常な警戒心。