「青天を衝け」(15)「篤太夫、薩摩潜入」

内容:

栄一は武士になり”篤太夫”に!

円四郎からの任務で薩摩の折田要藏を隠密調査。

そこで出会う西郷吉之助。

篤太夫VS西郷・・・

この国の未来について、熱き激論が交わされる!

 

栄一と喜作は武士として初俸禄をもらい、

円四郎から「篤太夫(とくだゆう」「成一郎(せいいちろう)」と

新しい名を授かる。

篤太夫の初仕事は摂海防禦の要職に就く薩摩藩士・折田要藏の隠密調査だった。

そこで出会った西郷吉之助と鍋を囲み世の行く末を話す央、

”先の時代が読める優秀な人材ほど非業の最後を遂げる”と聞かされた栄一は、

円四郎の行く末を心配する・・・

 

 


1>町田 明広@machi82175302

·本日は「青天を衝け」15回目です。今回も可能な限り、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、よろしければご一読ください(^^) なお、あくまでも個人的な見解ですので、ご理解いただける方のみ、お願いいたします。

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「青天を衝け」15回目を拝見!渋沢がスパイとして薩摩藩士間に潜り込み、西郷と出会い渡り合う展開が小気味よく描き出され、しかも渋沢の異彩を放つ姿が十二分に堪能できましたOKサイン慶喜はメチャ優しいしイイね次回の平岡の悲劇の伏線が、そこかしこに散りばめられ、既に涙腺が緩くなってます
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渋沢栄一の改名について、『御口授青淵先生諸伝記正誤控』によると、「篤太夫と名を改めたに就て仰。「それは平岡がつけて呉れたのだ。平岡がね、『君は地味さうな男だから篤太夫がよからう』と云つてくれた。(続く)
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そこで渋沢は、「『篤太夫は何だか親父のやうな名前でどうも少し……』と云つたのだが、『それがよい』といふのでまアさうした。篤行を以て人を教へよとのつもりである」とのこと。まさに、ドラマ通りの展開(^^)
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元治元年(1864)2月8日、渋沢栄一は喜作(ここでは改名せず、栄一・喜作で通します)とともに、奥口番・御用談所下役出役(俸禄4石2人扶持、在京月手当金4両1分)で出仕、4月中旬に御徒士に昇進し、この頃、初めて慶喜に内御目見を許され、意見を述べている。
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渋沢は「幕府の命運は危うき状態になり、徳川宗家(将軍家)のためを思われるのであれば、一橋家の勢力を拡大して宗家を擁護すべきであり、そのためには「広く天下有為の士を招致すること第一の急務なり」(渋沢栄一伝稿本)と、人材の登用を勧説した。
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一橋家の京都屋敷は初め東本願寺の内に置かれ、元治元年春に小浜藩京都藩邸に移設された。渋沢と喜作は三条小橋の宿から通勤することになった。渋沢らの家は、池田屋から至近距離の可能性あり。この後、彼らは関東に下るため、池田屋事件には遭遇せず。もちろん、禁門の変にも。
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平岡円四郎は、渋沢栄一の政治力に目を付けており、非常に高く評価した。そのため、一橋家に仕官した当初から、渋沢は御用談所に勤務し、慶喜のために探索・周旋活動を行う非常に重要な政治的ポジションを付与された。常に朝廷・幕府・諸藩の関係者と接触を持ち、機密情報にも精通した。
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渋沢栄一は、平岡円四郎の密命を受けて大坂に下り、元治元年(1864)2月25日から4月7日までの間、薩摩藩士の摂海防禦御台場築造御用掛・折田要蔵の門下生となり、スパイ活動に従事した。渋沢にとって、最初の大仕事がなんと薩摩藩関連の「潜入捜査」であったのだ。


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渋沢栄一は、折田要蔵への入門の経緯として、回想録であるが「何でも幕府の失政を機会にして、天下に事を起さんとするものは、長か薩かの二藩であると思った」(雨夜譚)と、薩長両藩への嫌疑が発端であるとする。その発想、既に一橋家の一員である。
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渋沢栄一は続けて、「併し是等の事は直接に度々君公へ言上することも出来ないから、平岡円四郎へ忠告して、薩藩の挙動に注目せねばならぬ、之を知らむければ京都を警衛することは出来ませぬと申入れた」とする。平岡から命じられたのではなく、渋沢から平岡に申し入れたと述べる。
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ここに至る前提の話を少々。島津久光は摂海防備について、強い危機感を覚え、積極的な動向を示し、元治元年1月(日未詳)には建白書を幕府に提出した。それによると、横浜鎖港に対する大きな懸念を示し、摂海の無防備さを批判する。
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また、島津久光はその建白の中で、「往々人之国ニ兵艦を差向候ニは、必先ツ其国之都会咽喉之場所を攻撃すと相見得候得は、前条通摂海之形勢無人之地同然ニ而、迚も禁闕之保護、京畿之警衛如何可有之哉、実以不安心之儀」と、的確に摂海の重要性とその無防備な現状を指摘する。
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島津久光は、さらにその建白の中で、現状の摂海防衛レベルでは、御所も上方の警衛も不安極まりないと危機感を表明する。加えて、「摂海之要港ニは公武同一体ニ而、皇国之全力を以、彼カ砲艦ニ可対応海陸之実備を厳にし内外之見据屹度相付、速に叡慮相立候様有之度奉存候」と述べる。
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島津久光は、その建白によって、摂海防御は公武一体となって、皇国の全力を挙げて実現し、速やかに叡慮が叶う事を懇請している。久光は続けて建白の中で、軽率な攘夷実行を戒めて幕府の奮発を促し、攘夷のための攘夷として、至急の武備充実を進言した。
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最後に、「我ニ十分之武備さへ相立候得は、神州之気節ニ而は、数十年を経すして御国威海外ニ輝キ、宇宙ニ冠たる強国ト相成、夷賊御征服無疑義と奉存候」と、久光本来の東アジア的華夷思想を建白の中で吐露している。
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島津久光の対外認識はぶれがなく、将来の外国侵略、その上の華夷帝国創成のため、現行の通商条約を容認して即今破約攘夷といった軽挙妄動を否定し、当面の至急の武備充実を企図していた。
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元治元年2月に至り、横浜鎖港が国是となって、島津久光も一応黙認した形となったが、一方でその実現に関しては深甚な危機感を抱いており、重ねて建言を行った。横浜鎖港はとても列国が承認するところとはならず、兵端を開くことは疑いがないとする。
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また、島津久光は、欧米列強から仮に鎖港を承認されたとしても、引払い料は莫大な金額となり、そのことを日本人は認識していないため、国内が沸騰して鎮静ができなくなると指摘して、武備充実論を繰り返し展開した。
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島津久光は、開鎖については先送りとし、各要港での武備充実を厳整すべく、諸藩および富裕商人にも経費負担を命じ、軍艦は輸入するなど、皇国として成り立つように尽力すべきである。武備充実の上は開鎖の権は掌中となり、遂には国威が輝いて朝貢国を持つことになると論じる。
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島津久光の現実的な施策の建言であり、一方では生来の東アジア的華夷思想に基づく皇国観を示している。しかし、この建言にも拘らず、幕府は横浜鎖港方針を取り消さず、また、久光が摂海防御においてもイニシアティブを執り、朝政に深く関与することを嫉視警戒した。
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一方、島津久光は幕府からの要望に応え、2月18日に二条城において、「摂海砲台等ノ絵図差出候様トノ事故持参」して老中水野忠精に提出している。これは薩英戦争で砲台築造・大砲鋳造の主事を務めた藩士折田要蔵に作成させたものであった。
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この折田要蔵作成の「摂海砲台等ノ絵図」によると、木津川口・天保山・岸和田・尼崎等の摂海要衝14ヶ所に砲台を築造し、810門の大砲を設置する案であった。幕府はこれを受け入れ、兵学者として高名を博していた折田を摂海防禦御台場築造御用掛として登用した。折田、そこまでじゃない
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一橋慶喜は、禁裏御守衛総督摂海防禦指揮(3月25日)に任命されており、抗幕姿勢を憚らない薩摩藩に属する折田の動向は監視すべき対象えあった。その間、渋沢は折田を通じて、薩摩藩奈良原繁・川村純義・三島通庸・海江田信義・内田政風・高崎五六らと懇意となっている。
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さて、スパイ・渋沢栄一の話を聞いておこう。「折田要蔵は、大阪土佐堀の松屋といふ家に下宿して居たが、其玄関には、紫の幕を張つて、而して看板には、摂海防禦御台場築造御用掛折田要蔵と、如何にも筆太に大きな字を書いて掲て居たから、誰でも能く目がついた」(「雨夜譚」)と述べる。
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渋沢栄一は続けて、「同じ薩藩の連中で、常に此処へ遊びに来たのは、今の警視総監の三島通庸、前海軍卿の河村純義、日本鉄道会社々長の奈良原繁、それから中原直助だの、海江田信義、内田正風、高崎五六などの人々であつた」と、接触した薩摩藩士を列挙する。
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そして、「其中でも最も多く遊びに来たのは河村と三島で、是両人は藩から附属の様な役で、松屋の隣りに矢張下宿を取つて居た、然るに此の折田は、頗る容体を飾つて立派な様子をする、所謂殿様然とする事を好む人である」とし、折田を見栄っ張りと評する。
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渋沢は、「雨夜譚」で「折田に就て居るうちにも、折田から島津三郎へ建言したこと、又は西郷隆盛に意見書を出した事なども探り得たから、内々平岡まで通じたこともありました」と述べており、諜報活動をしていたことは間違いなさそうだ。
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「元来一橋公は、品によつては折田を召抱へる思召で、其人物を能く調べて見ろといふことを、平岡まで御内命になつて居た趣だが、自分が五月の始めに京都へ帰つて、平岡に面談した」と述べ、渋沢はいよいよ、その調査結果を平岡円四郎に語り始める。
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「時に熟ら折田の人となりを視察したが、左まで非凡の人才とは思はれぬ、西郷隆盛とは時々文通することもあるが、其言が充分に信ぜられやうとは思はれぬ、詰り折田は外面の形容程には実力のない人と断定することを憚らぬ」と、渋沢栄一は平岡円四郎に対し、折田のダメ出しをした。
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「自分が、日常の挙動言語までにも気を附けて、親しく見聞した上から話しをした処が、平岡は頻りに点頭(うなづき)て、それで能く事情が分つたといつて、大きに下阪中の勤労を褒められました」と、立派に渋沢栄一はスパイ活動を果たし、上司の平岡円四郎から褒められたことが分かる。
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渋沢が知り合った三島通庸(1835~1888)について、日本大百科全書によると、明治時代の内務官僚。天保6年6月1日、薩摩藩士通純の長男に生まれる。討幕運動、戊辰戦争に参加。維新後、東京府権参事、教部大丞を経て、1874年(明治7)酒田県令となる。
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三島は酒田県令時代、封建地代の廃止を求める農民運動「わっぱ騒動」を弾圧。1876年山形県令、ついで1882年福島県令となり会津若松から山形・栃木・新潟各県に通じる三方道路の工事を計画。福島県会(議長河野広中)と衝突し、抵抗運動を組織した県下自由党員に弾圧を加えた(福島事件)。
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三島は、翌1883年栃木県令を兼任して同県下でも土木工事を推し進め、また、急進的自由党員から命をねらわれた。1885年警視総監に就任。1887年三大事件建白運動を弾圧し、保安条例を執行して民権家570人を東京から追放した。同年子爵。明治21年10月23日死去。
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西郷隆盛折田要蔵の喧嘩について、『史談会速記録 合本22』渋谷直武の話が掲載されている。渋谷は大山巌西郷従道などと虎屋(宿屋)へ行き、「もし折田方にて今晩何事かあったら知らせ」るように伝えた。案の定、夜9時か10時頃に至って来るようにとの使いがやって来た。
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渋谷直武が現場に到着すると、暗闇の中で大乱闘が始まっていた。渋谷が明かりを点けると、西郷は折田の咽喉を押さえ、一方で折田は西郷の腕を噛み、2人とも酔っていたためか、相当激しい乱闘が展開されており、茶碗や皿が散乱していた。
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度肝を抜かれた同席者たちは、我に返って全員で2人を引き離し、別々の部屋に押し込んで騒ぎを収めた。翌朝、渋谷直武が様子を伺うと、2人は一緒に茶を飲み、折田が「どうも咽喉が痛くてたまらん」と言い、西郷は「貴様は腕を噛んだじゃないか」と笑い話になっていた。
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このエピソードは、管見の限り、渋谷直武の談話のみであり、その信憑性については、やや慎重を期したいが、少なくとも、西郷隆盛と折田要蔵は馬が合わなかったことは確かであろう。なお、渋沢栄一がその現場に居たかは、分からない。
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西郷隆盛について、元治元年(1864)3月14日の上京後、家老で島津久光の名代的存在であった小松帯刀の下、吉井友実と他藩との交渉や廷臣への入説を担当した。渋沢栄一と同様に、探索・周旋活動を実行していた。今回は小松が登場せず、大久保利通が一部ではその代わりの存在。
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この時期は、禁門の変に向けた慌ただしい政治状況の下であり、西郷隆盛もできる限り他藩の周旋担当者と接触を繰り返していた。既に薩摩藩士に知己が多かった渋沢栄一と、西郷が実際に面談した可能性は高いと考える。実際に、渋沢は西郷と会ったと回想している。
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渋沢の回顧録を見てみよう。「当時の青年の間では有名な人達を訪問して時事を論じ、意見を聞くことが流行であって、先生(渋沢)も亦盛に此名士訪問をし、種々の人々と談論したのである。先生が大西郷と初めて会つたのも、此意味からであった」とする。
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渋沢の回顧録によれば、政治的意味合いではなく、当時の若者たちが皆していたように、渋沢栄一も有名人で名士である西郷隆盛を訪問して、議論に及んだと説明している。果たして、本当に渋沢は事実を語っているのであろうか?
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渋沢栄一が初めて訪問した時、「或は攘夷を語り、藩政改革を論じ、或は又幕政整理を談じ」て、西郷の関心を得たと言う。渋沢は「大西郷は「中々面白い男ぢや、喰詰めての放浪でなく恒産あつて然も志を立てたのは感心ぢや、時々遊びに来るがよい。」などと云はれた」と続ける。
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渋沢栄一はこのように、西郷隆盛との初対面で西郷から気に入られたとして、得意げに発言している。渋沢はこれ以降も、西郷を何度も訪ねたと述べており、「大西郷は実に洒々落々で、一介の書生相手に豚鍋などをつゝいて談論した」と自慢している。
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この豚鍋というのが気になる。確かに、小松帯刀一橋慶喜にせがまれ、豚肉を献上しているが、西郷を始めとする薩摩藩士が気軽に鍋にできるほど、物量があったのであろうか。残念ながら、薩摩藩士が豚鍋を食していた史料を見たことがない。
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さて、渋沢栄一は高名な西郷隆盛を訪ねて議論し、西郷に気に入られたと得意になっているが、実際には、渋沢は薩摩藩の動静を探るために藩士たちに接近しており、その中に西郷も含まれるというのが真相であろう。
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特に他藩応接の中心人物であった西郷隆盛への接触は、渋沢栄一にとって至上命題であった。明治以降、そうした政治的背景は意図的であるかどうかは別として、全く消し去られてしまい、維新の巨星・西郷との関係の濃密さばかりが強調される回顧録になっているのだ。
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次週、平岡円四郎の最期が描かれる。前半のキーマンだっただけに、寂しい思い泣き顔。それにしても、今回のドラマは、様々な伏線が巧みに散りばめられている。見逃して、回収し損なっているものも多いかも知れない。
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NHK青山講座(対面)「新説 坂本龍馬」

最新の研究に基づいて、龍馬の生涯を紐解き、志士・周旋家・交渉人・政治家として、多様性を持つ龍馬の動向を検証し、新たな知見に基づいて龍馬の実像に迫ります。途中からの参加も可能です。
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NHK青山講座「新説 坂本龍馬」
6/19(土)龍馬の海軍構想と第二次脱藩
7/17(土)薩摩藩士・坂本龍馬の誕生
8/21(土)薩長同盟と寺田屋事件
9/18(土)海援隊と薩土盟約
10/16(土)大政奉還と龍馬暗殺
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JBpressの最新記事、「渋沢栄一と時代を生きた人々」の最新連載、平岡円四郎(全3回)の初回分が明日24日(月)朝6時に公開されます。タイムリーに平岡です!!マークご味読をどうかよろしくお願いいたします。
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白鷺舎講演会「大河ドラマで語られなかった橋本左内-将軍継嗣活動を中心に-」 日時:8月1日(日) 13:00~16:00 オンライン
町田明広氏「将軍継嗣問題と橋本左内」
角鹿尚計氏 「橋本左内の道中日記を読む」
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高知県立坂本龍馬記念館 

令和3年度連続講演会「龍馬を考える5つの視座」
8月28日(土) 「薩摩藩と坂本龍馬」

講師:町田明広(神田外語大学外国語学部准教授)
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第229回照國講演会  
9月11日(土)(午前10時30分)「薩摩藩と大英帝国」
神田外語大学 町田明広