「青天を衝け」(13)「栄一、京の都へ」

 内容:

栄一と喜作、激動の京へ!五大才助、土方歳三も登場!

慶喜は国政に口をはさむ薩摩などの雄藩に怒りを募らす。

京へ向かう長七郎は人を斬ってしまい、栄一も追い詰められる・・・

 

栄一と喜作は江戸で円四郎の妻・やすからご証文を受け取り、無事京へ辿り着く。

京では参与会議が開かれ、薩摩藩などが国政に影響力を持ち始め中、

”一度全てを捨て、新しい世を作ろう”と語る松平春嶽に、慶喜は静に怒りを募らせる。

一方、栄一からの文を喜んだ長七郎は京へ向かう。

しかし道中で誤って人を斬ってしまい捕らえられてしまう・・・

 

1>町田明広@machi82175302 5月9日
本日は「青天を衝け」13回目です。今回も可能な限り、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、よろしければご一読ください(^^) なお、あくまでも個人的な見解ですので、ご理解いただける方のみ、お願いいたします。

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「青天を衝け」13回目を拝見!舞台はいよいよ幕末京都、一気に登場人物も華やかになりました。史実を押さえながらも、ドラマとして楽しめる構成でした。憑りつかれた長七郎が飛脚を切ってしまう展開、鬼気迫るものがあり、渋沢らが絶体絶命から脱する平岡とのやり取り、面白く絶妙でした!!
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一橋慶喜の家臣たち、中根長十郎、平岡円四郎、川村恵十郎、黒川嘉兵衛、原市之進、そして渋沢栄一と、これだけちゃんとキャスティングしていることが普通に凄いと感じる。1人や2人、スキップされそうなところ、そうではない。一橋家がここまで描かれる大河、最初で最後かも。
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ドラマで描かれた文久3年から元治元年(1863~64)は、即時攘夷派と未来攘夷派が激しく抗争を繰り広げていた激動の時期に合致する。さて最初に、その間の政治動向について、私の専門対象である薩摩藩の動向を中心に概観しておこう。
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久光および藩重臣たちは、これ以上、英国との戦争を継続することは困難と悟ったため、早急な講和談判の開始を求めた。一方で当時の中央政局は、過激な攘夷行動に走る長州藩に牛耳られており、その打開が急務であった。
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しかし、英国との緊張関係のため薩摩藩・久光はなかなか乗りだすことができなかった。しかし、この段階では、久光の名代的存在である中川宮の窮地(「朔平門外の変」の首謀者であるとの嫌疑や、攘夷の先鋒である西国鎮撫大将軍への就任の強要)を救う必要が生じていた。

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中川宮の窮地を救うため、高崎正風など在京の薩摩藩士が画策した「八月十八日政変」によって、長州藩および三条実美ら過激派廷臣を京都から追放することに成功した。拙稿「文久三年中央政局における薩摩藩の動向について‐八月十八日政変を中心に‐」(『日本史研究』第539号、2007年)参照。
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薩英戦争の講和によって、英国の脅威を取り除いた島津久光は、八月十八日政変後の中央政局に進出することが叶った。この時の久光は、朝廷と幕府のどちらからも絶大な信頼を勝ち取り、まさに人生のクライマックスを迎えることになる。
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島津久光は朝政参与の実現(いわゆる参与会議)を画策し、元治元年1月には一橋慶喜、松平春嶽、松平容保、山内容堂、伊達宗城らとともに朝政参与に任命された。加えて、二条城での老中御用部屋入りを許され、念願の幕政への参加も実現したかに見えた。

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しかし、参与会議の実態は単なる朝議の諮問機関に過ぎず、老中御用部屋入りも単なる形式的なものであり、久光の国政への参画は画餅に帰した。しかも、横浜鎖港をめぐって久光は慶喜と激しく対立した。
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さらに悪いことに、孝明天皇が嫌う山階宮の還俗を画策し、朝廷に無理強いをしたため、肝心の天皇とも疎遠になってしまった。こうして、朝政参与の体制はあっけなく瓦解してしまった。なお、久光の命に背き、島流しとなっていた西郷隆盛が沖永良部(おきのえらぶ)から召喚されたのはこの時期である。
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久光を始めとする参与諸侯は、この事態に失望し次々に京を去ったが、一方朝廷は幕府へ大政委任を通達し朝廷と幕府の関係は蜜月期を迎えた。中央政局では孝明天皇、朝彦親王(中川宮を改名)、関白・二条斉敬一会桑勢力(橋慶喜、津藩主・松平容保、名藩主・松平定敬)と癒着した。
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朝彦親王・二条関白・一会桑勢力体制が構築され、江戸の幕府本体とは距離を置きつつ、勢力挽回を狙った長州藩による率兵上京に備えた。一方で島津久光は在京の薩摩藩士に対し、幕府とは距離を取りながら禁裏の警護に専心するように指示した。ちなみに元治元年でなく文久4年、さすがの考証。
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朝彦親王に代わって中央政局において久光の名代的存在となった小松帯刀の下で、島津久光は自らの考えを遵守させて、幕府・長州藩双方からの働きかけには冷淡な対応をとった。ちょっと、先を行き過ぎたが、この先いよいよ、池田屋事件、その先の禁門の変に繋がることになる。

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ところで、文久3年11月の一橋慶喜の上洛時、慶喜と久光は蜜月状態にあった。文久2年6月、久光が勅使を伴って出府し幕府人事に介入した際、将軍後見職に就いた慶喜からも嫌疑を向けられていた。しかし、今回は朝廷とのパイプ役として、久光は慶喜から大いに期待される立場に変わっていた。
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文久3年11月26日、春嶽は上京した慶喜に対し「薩の心中を御疑ひなさるや」と尋ねたところ、「江戸にてハ大に疑ひ居り拙者も同様なりしか、疑ひたりとて何の益もなき事故、最早疑ハさる心得なり」(続再夢)と回答している。*続再夢紀事
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さらに慶喜は、「小生と三郎(久光)とハ兼て懇意に致し居る事なるか専ら正議を唱ふる人なり、然るを幕府にてしか疑ハるヽハ実ハ損あるも益なき事なり、尊卿愈疑はれすとならハ、今晩直に御投書明日御招きありてハ如何」との春嶽の提案に同意している。
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島津久光は12月1日に慶喜に再会しているが、その印象を「種々懇話、至極丁寧之会釈、去年以来之模様とは大ニ相違ニ而、只打解而之談判ニ而、仕合之至御坐候」 と述べており、感激の様子が窺える。
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しかし、元治元年1月に下賜された2回の宸簡の草案を薩摩藩が起草したとの疑惑を平岡円四郎が嗅ぎ取ったことから、事態は暗転する。慶喜は久光のこれ以上の朝廷・孝明天皇への容喙を極度に恐れ、久光を嫉視警戒するに至った。蜜月時代の終焉である。

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さて、渋沢栄一に話を移そう。文久3年秋、渋沢らは横浜焼き討ち計画を立案し、実行寸前に至ったが、尾高長七郎が京都から戻り、八月十八日政変の勃発など即時攘夷派が逼塞せざるを得ない中央政局の情勢を説明したため、決行を主張した渋沢と大激論の末、中止決定となった。
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幕府に捕縛される危険もあったため、11月8日に渋沢栄一は喜作とともに、伊勢参拝を兼ね京都見物に出発すると吹聴して出村した。江戸に出て平岡円四郎の家来の名義を獲得し、14日に京都へ出立した。渋沢らが平岡を頼っている事実から、相当交流があったことがうかがえる。
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渋沢栄一・喜作の京都行き関しては、川村恵十郎の配慮、そして平岡円四郎の事前の了解があって初めて可能となったわけだが、留守を預かる平岡の妻「やす」とも話ができていたことを考えると、平岡はある程度、この展開を予想していたのかも知れない。
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ちなみに、平岡円四郎について、本人の情報も極端に少ないが、妻「やす」に至ると情報はほぼ無い。なお、息子は2人いたらしく、渋沢栄一も明治20年代までは消息を把握していたようだ。
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さて、渋沢らは11月25日に入京し、それ以降は志士と交わり、12月中旬に至り伊勢大神宮を参拝した。いよいよドラマは元治元年に突入する。この間、確かに放蕩したらしく、大金を所持したいたものの、あっという間に使い切り、謝金までしていたらしい。
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本日から、町田啓太さんの土方歳三(1835―1869)がさっそうと登場。日本大百科全書によって、極々簡単に紹介すると、幕末の新選組副長。武蔵国多摩郡石田村(東京都日野市)に土方義諄 (ぎじゅん) の4男に生まれる。近藤勇 とともに新選組の実権を握り副長となった。
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土方歳三は、1864年(元治1)の池田屋事件、禁門の変などで近藤を助けて働いた。1868年(慶応4)4月に下総(千葉県)流山で近藤と別れ、以後、宇都宮、今市、会津で官軍と戦った。仙台から榎本武揚の軍艦に同乗し、11月箱館五稜郭を占領し陸軍奉行並となった。
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土方歳三は、明治2年5月11日、箱館一本木で戦死。35歳。墓は日野市石田の石田寺寺(東京都日野市石田)にある。変名は内藤隼人尾高惇忠、渋沢喜作は函館戦争に従軍しており、当然、土方とは接点があった。ドラマでは、函館戦争まで描かれることを期待したい。
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ディーン・フジオカが演じる”五代様”、五代友厚が登場した。朝ドラで一大ブームを巻き起こした五代が同じディーンで復活した。こちらも、ブリタニカ・オンラインなどで簡単に紹介しておこう。五代は天保6(1835)12月26日、鹿児島で生まれ、明治18年(1885)9月25日、東京で没した。
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五代友厚は、明治初期の実業家,政商。薩摩藩の出身。安政4 (1857) 年藩命で長崎に留学し,航海,砲術,測量を学ぶ。慶応1 (65) 年藩命によってヨーロッパを視察,帰国後は藩の開明派の指導者となり藩の貿易発展に活躍。明治維新後外国官権判事,大阪府判事を経て,明治2 (69) 年退官した。
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官を辞した五代友厚は実業界に転身した。以来主として大阪の商工業の発展に尽力し,金銀分析所の開設,鉱山・製藍事業などの経営のほか,大阪堂島米会所復活,大阪株式取引所,大阪商法会議所,東京馬車鉄道会社,神戸桟橋会社などの創立に活躍した。
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五代友厚は、他方では大久保利通,木戸孝允,井上馨,伊藤博文,板垣退助らを集めた「大阪会議」の斡旋に成功するなど,明治初期の政界の黒幕的存在でもあった。明治14年開拓使官有物払い下げ事件をおこしたとされる。幼名は徳助、才助。号は松陰。
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この頃に至る五代友厚について、私の視点から少々説明を。幼年時からその才能を高く買われていたとされるが、五代にとってエポックとなったのは、安政4年(1857)であった。五代は郡方書役に任命されたが、特に重要なのは長崎海軍伝習所への遊学であった。

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五代はここでオランダ語や海軍技術を学び、世界に対する幅広い知識・認識を持つに至った。また以降も長崎に滞在することが多く勝海舟、榎本武揚、佐野常民、高杉晋作らと交遊しネットワークを構築した。中でも、トーマス・グラバーとの出会いは特筆すべきであるが、この点は後に触れたい。
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その後、五代は藩に重用され、文久2年(1862)に舟奉行副役に就任、幕府艦千歳丸で上海に渡航し、薩摩藩のために汽船・武器を購入した。また、文久3年(1863)には、生麦事件によって発生した薩英戦争において、風雲急を告げる情勢を察して急遽長崎から帰藩し、天佑丸船長として参戦した。
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五代は薩英戦争において、寺島宗則と共に英国海軍の捕虜となった。五代は自発的に捕虜となっており、その目的が攘夷から開国への藩論の転換を狙ったものと解釈されてきた。しかし、五代自身が上海から戻るとすぐに久光の命を受け長崎で上海貿易に従事し始めており、その必要性は窺えない。
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五代は潔く釈明を控えているが、おそらく、かけがえのない藩船の拿捕の責任を取り、また、情報収集もかねて居残ったものと理解したい。五代らは横浜で解放されたが、簡単に捕虜になったことから、藩からイギリスとの密通の嫌疑を受け、また幕吏にも追われることとなった。
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五代友厚は、こうして追われる身となり、江戸や武州熊谷での亡命生活を余儀なくされた。本日、渋沢と五代が熊谷で出会ったのはあり得る範囲である。脚本の妙に唸った。その後、寺島と別れて長崎に潜入し、ここでグラバーと再会したが、五代らは肝胆相照らす仲となっていたようだ。
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五代は、長年構想を練っていた富国強兵のための海外貿易や留学生派遣についての思いをグラバーに熱く語り、その構想の青写真を共同で作成することが叶った。これが「五代才助上申書」である。なお、薩摩スチューデントにかかわる一切の面倒は、このグラバーが見ることになる。

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こうした五代友厚の幕末期の活躍が等閑視されていることは非常に残念である。

拙著『グローバル幕末史』(草思社、2015年)で、薩摩スチューデントの生みの親として、また偉大な外交家として紹介している。「男児、財産をつくるためにこの世に生をうけたのではない」という信条に共感する。
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五代友厚について、幕末維新期に活躍したメンバーの中に、なかなかその名が挙がらない。これは政治家の道ではなく、明治に入ってすぐに財界人に転身したことによろう。五代がそのまま政治家を志し、もう少し長生きできれば、総理大臣も夢ではなかったと個人的には確信している。
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五代友厚については、いずれ講演でも取り上げたいし、伝記の類も書いてみたい、そんな魅力的な人物である。しかし、ディーン・フジオカ、流石かっこいい!
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大久保利通が登場。この時代の超重要人物の1人なので、日本大百科全書によってその前半生をごく簡単に確認しておきたい。幕末・明治前期の政治家。木戸孝允、西郷隆盛とともに「維新三傑」の1人。薩摩藩下級武士の出身。正助、一蔵と称し、のちに利通と改め、また甲東と号した。
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大久保は、文政 13年8月10日鹿児島城下高麗町で生まれ、まもなく加治屋町に移住。生家は西郷隆盛の家格と同じく、御小姓組に属した。利通は17歳で記録所書役助に任ぜられたが、1849年(嘉永2)に起こった薩摩藩主の家督争いである「お由良騒動」に巻き込まれ父利世が流罪、一家は困窮した。
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大久保利通は、藩内の尊王攘夷を唱える下士たちと交わり、政治に開眼した。その後、同藩内の高崎派が支持する島津斉彬が家督を継いで藩の実権を握ると、父利世は赦免された。西郷隆盛らと志を通じ、同藩の改革派下士層の中心として活躍を始めた。
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1858年(安政5)斉彬の死去、安政の大獄を契機に、利通は島津久光・小松帯刀の下で藩の意見の統一を図り、公武合体運動を推進する方向で活躍した。利通は1860年(万延1)勘定方小頭、次いで御小納戸頭取へ昇任し、藩政の中枢へ進出した。
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1866年(慶応2)、薩長同盟(私は「小松・木戸覚書」と呼称)以降、反幕府的な公卿の岩倉具視と提携し、朝廷より薩摩藩あてに討幕の密勅を下賜させることに成功し、討幕派の有力者として王政復古の大号令発布を実現させ、明治維新の指導者となったとしている。
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新政府の成立とともに、利通はその指導者の一人として、参与から徴士そして参与内国事務局判事、さらに参議へ昇任して内政の中枢を握り、また木戸孝允らとともに、版籍奉還、次いで廃藩置県を断行した。
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当時、元討幕派公卿と薩長土肥などの旧西南雄藩出身者から構成される雄藩連合政権のもとで、大蔵省を拠点に木戸と結んでいた大蔵卿大隈重信の開明的姿勢と比べて、利通は保守的そして漸進的態度をとり、その政治勢力も木戸―大隈らのそれに一歩譲っていた。
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しかし、廃藩置県の直前に、大蔵卿に就任すると、政府財政の基礎確立のため地租改正を提案し、のちに地租改正事務局総裁としてその事業にあたり、また富国強兵を目ざして、殖産興業政策を発足させることになる。なお、渋沢栄一とは対立関係となるが、ドラマの展開を期待して待ちたい。
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なお、今回の大河ドラマでは、薩摩藩家老の小松帯刀は登場せず。本日の大久保利通の登場場面、本当は小松帯刀かな。まだ、ネームバリューが。。もっと頑張らねば!
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NHK青山・新講座(対面:来週スタート)「新説 坂本龍馬」

最新の研究に基づいて、龍馬の生涯を紐解き、志士・周旋家・交渉人・政治家として、多様性を持つ龍馬の動向を検証し、新たな知見に基づいて龍馬の実像に迫ります。

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NHK青山・新講座(対面:5月スタート)「新説 坂本龍馬」
5/15(土)龍馬の生い立ちと土佐勤王党
6/19(土)龍馬の海軍構想と第二次脱藩
7/17(土)薩摩藩士・坂本龍馬の誕生
8/21(土)薩長同盟と寺田屋事件
9/18(土)海援隊と薩土盟約
日時未確定 大政奉還と龍馬暗殺

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JBpressで連載を開始しました。渋沢栄一と時代を生きた人々「渋沢栄一」①②③④、「井伊直弼」①②③が公開中です。ぜひ、ご覧下さい! 
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64843
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第229回 照國講演会  
9月11日(土)(午前10時30分)「薩摩藩と大英帝国」
神田外語大学 町田明広
 

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1>桐野作人@kirinosakujin5月9日
今夜の大河ドラマ「青天を衝け」第13回。冒頭にさっそく五代様が登場して耳目を集めた。いつ、どこで、どういう形で登場するか気になっていたが、ここかという意外な場面だった。五代才助と松木弘安(のち寺島宗則)は文久3年(1863)7月の薩英戦争で、船奉行副役として従軍した。
2>
薩摩藩が所有する蒸気船3隻(天佑丸・白鳳丸・青鷹丸)を避難させていたが、英国艦隊に見つかり、拿捕された。このとき、2人は捕虜となった。2人は英国艦隊に横浜まで連行されて鶴見あたりで釈放された。釈放に骨折ったのは、英国艦隊に通詞として乗り込んでいた瑞穂屋こと清水卯三郎
3>
清水卯三郎は寺島と旧知の間柄だった。文久元年の第1回幕府遣欧使節に通詞として乗り組んだ仲だった。2人の上陸を周旋したのは米国貿易商のヴァン・リードだとされる。上陸した2人は卯三郎に連れられて、実家のある武蔵国埼玉郡羽生村に匿ったが、実直な兄に遠慮して別の場所に移す。
4>
卯三郎は近くの熊谷四方寺にある親類(妹聟)の吉田六左衛門を頼り、その分家の別宅に2人を匿った。2人は翌文久4年(元治元、1864)1月までの数カ月ここに潜伏した。もっとも、活動的な五代は何度も江戸に出て行ったという。長崎で旧知の医師、松本良順を頼り、情報収集したという。
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当時、松本良順は死去した緒方洪庵の跡を継ぎ、幕府の西洋医学所頭取だった。五代は大胆にも友人とはいえ、幕府方の人間と度々会っていた。じつは五代と寺島は薩摩藩からも外国に内通したという嫌疑をかけられて探索されていたのである。
6>
英国との講和交渉に来ていた重野安繹吉井幸輔大久保一蔵宛ての書簡で、2人は横浜にいるか、箱館にいるか不明だと報告しており、外国人も黙して語らないと述べている。文久4年1月、五代は寺島を残して、恩人の吉田六左衛門の養子二郎を伴って熊谷を脱出し、長崎に向かう。
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ドラマ冒頭に登場した五代様は、松本良順などと会うため江戸に潜入したときか、長崎行きの途中で江戸を通過したときのどちらかだが、京都で参預会議が設置されたのと同時期なので、後者、長崎に向かう途中という設定だろう。

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大河ドラマ「青天を衝け」続き。薩摩藩からは国父島津久光大久保一蔵が登場した。長州勢力追放後、文久3年(1863)12月晦日、一橋慶喜のほか、松平春嶽、伊達宗城、山内容堂、松平容保が参豫に任命された。久光は当時まだ陪臣のため無位無官だったので、まだ任命されていない。

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久光が参豫に任命されたのは翌4年1月14日。同時に従四位下・近衛少将に叙任され、晴れて公家成を遂げた。ドラマであった参内しての孝明天皇への参豫一同の謁見は17日、場所は禁裏内の小御所で天盃を受けている。久光はこのとき、天皇から薩英戦争で英国艦隊を撃退したことを嘉賞された。

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参豫は朝廷参豫ともいい、このとき初めて設置された役職。2日おきに参内し、簾前、つまり天皇の前で朝議に参画すると同時に、二条城では老中御用部屋への出入りが許されたので、朝幕双方にまたがって、格別に地位が高い役職である。

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島津久光松平春嶽の真意は雄藩諸侯(外様・親藩)から成る参預会議を幕閣=老中の上に置こうとしたのではないかと評されている。当然、幕府は参預会議が機能するのを傍観できず、その阻止、解体に動こうとする。幕府と雄藩の間の板挟みになった一橋慶喜がどう動くかは次回のお楽しみ。

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大河ドラマ「青天を衝け」続き2。参豫の一人として参内した京都守護職の松平容保が咳き込んでいた。細かい演出でした。当時、容保は長く病中にあった。そのため、関白二条斉敬は典薬頭の高階丹後守を派遣して病状を尋ねているほど。そのため容保は参内当日の1月14日に辞職を願い出ている。

13>

松平容保は参豫就任の少し前、文久3年(1863)10月9日、孝明天皇から有名な宸翰と御製を下賜される栄誉によくした。さらに参豫就任の直前、禁裏東隣の寺町の清浄華院(塔頭松林院=写真)に移り、禁裏守護を命じられるとともに黒谷へ帰ることを禁じられた。それほど天皇の信任が厚かった。

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大河ドラマ「青天を衝け」続き3。参豫たちが集まった場で、松平春嶽が古い幕府は不要、政権返上すべきとか豪語していたけど、時期が違うよね。そもそも幕府側から政権返上論が出てきたのは、もう少し早く、文久2年(1862)10月、春嶽ではなく、幕臣の大久保忠寛(一翁)が唱えたもの。

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『続再夢紀事一』によれば、大久保は攘夷決行に反対して「万一京都(朝廷)がお聞き入れなく、あくまで攘夷を断行すべきだと仰せになるなら、その節は断然政権を朝廷に奉還されて、徳川は神祖(家康)の旧領である駿河・遠江・三河の三州を請い、一諸侯の列に下るべし」続き

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「政権を奉還されたら、天下はどうなるかわからないが、徳川家の美名は千載に伝わるだろう」。それを聞いた横井小楠は卓見だと感服したという。もっとも、大久保の本音は政権返上にはなく、政権返上をするくらいの覚悟で、攘夷断行を阻止すべきだということに重きを置いたものと。

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一方、松平春嶽の政権返上論は参預会合ではなく、大久保忠寛より少し後の文久3年(1863)3月のこと。『続再夢紀事一』によると、攘夷運動の激化に苦慮する将軍家茂に対して「将軍のご職掌が立ち兼ねるなら、そのことを主上に仰せ上げられ、速やかに辞職なさるほかないと存じますのでご思慮ありたく」

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春嶽は将軍辞職を勧告するとともに、自らも政事総裁職辞任を申し出ている。だから、攘夷運動が下火になった参預会議で、春嶽が政権返上を訴えるのには違和感あり。もっとも、2年後、慶応2年(1866)7月、将軍家茂が死去すると、慶喜は徳川宗家を継いでも、将軍職就任を拒否した。

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すると、春嶽は慶喜に対して、将軍にならないなら、幕府はないも同前、徳川家は諸侯に命令するのを止め、御三家と同等になるべきだ。将軍職は天下の祝儀で決めればよい」と主張している。慶喜と春嶽の関係はくっついたり離れたりで複雑である。先走って失礼。