「青天を衝け」(9)「栄一と桜田門外の変」

 

内容:

井伊の”安政の大獄”は続き・・・ついに桜田門外の変が起こる。

斉昭死す!父の死に号泣する慶喜。

一方尊皇攘夷の心に傾く栄一は長七郎、喜作に続けと父に江戸行きを直訴する。

 

井伊直弼により、蟄居(ちっきょ)を命じられた斉昭や慶喜は無言の抵抗を続ける。

しかし井伊は桜田門外の変で暗殺され、斉昭も突然の死去。

父の死を耳にした慶喜は慟哭(どうこく)する。

そして京では和宮を徳川に降嫁させる話が進む。

一方江戸から戻った長七郎に感化され、尊王攘夷の心に傾斜し始めた栄一は、

喜作の後を追い江戸へ行きたいと市郎左衛門に懇願する・・・

 

1>町田 明広@machi82175302 4月10日

4月11日の大河ドラマ後のツイートですが、急用のため、お休みいたします。

2>

本日は戸定歴史館の企画展に伺う。このご時世なので、いつ何時、拝観できなくなるかも分からずなので。「青天を衝け」の時代考証をご担当の齊藤洋一名誉館長と数年振りにお目にかかり、暫しバックヤードで歓談。いろいろ伺え、楽しかったです

3>

明日は所用があって、事後ツイートはお休みですが、JBpressの新シリーズ、井伊直弼・全3回の1回目が12日(月)朝6時にアップロード予定です。明日のドラマは安政の大獄、桜田門外の変、恐縮ですが、JBpressでお楽しみください。

4>

NHK青山・新講座(対面:次週スタート!!)「新説 坂本龍馬」最新の研究に基づいて、龍馬の生涯を紐解き、志士・周旋家・交渉人・政治家として、多様性を持つ龍馬の動向を検証し、新たな知見に基づいて龍馬の実像に迫ります。
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NHK青山・新講座(対面:4月スタート)「新説 坂本龍馬」
4/17(土)龍馬の生い立ちと土佐勤王党
5/15(土)龍馬の海軍構想と第二次脱藩
6/19(土)薩摩藩士・坂本龍馬の誕生
7/17(土)薩長同盟と寺田屋事件
8/21(土)海援隊と薩土盟約
9/18(土)大政奉還と龍馬暗殺
http://www.nhk-

 

新説の日本史

著者名:亀田俊和(著者) 河内春人(著者) 矢部健太郎(著者) 高尾善希(著者) 町田明広(著者) 舟橋正真(著者)  定価:990円cul.co.jp/programs/program_1139333.html

 

 


1>こけし@kokeshinookimon4月11日
冒頭でコレラがでてきました。コレラは安政5年に長崎に入り、2ヶ月ほどで江戸に到達します。
異国がもたらした病ということで当時は「アメリカ狐」などと呼ばれていました。狐が狼や犬を苦手としていたため、コレラには山犬を祀る秩父三峯神社が御利益があるとされました。
2>
幕末のコレラをめぐる社会混乱については、高橋敏『幕末狂乱』(朝日新聞社、2005年)が超面白い。


1>桐野作人@kirinosakujin 4月11日
本日の大河「青天を衝け」第9回。いよいよ安政の大獄と桜田門外の変が勃発。激動の幕末の序曲でした。この問題は安政条約の不勅許調印と将軍継嗣問題が連動していたことが発端ですが、前回、水戸斉昭、一橋慶喜らが井伊大老率いる幕閣から厳しい処分が下されたことが引き金になりました。

2>
当時、御三家や親藩の大名は江戸城への登城日が決まっていた。ところが、幕閣の不勅許調印を知った水戸斉昭・家慶父子、尾張慶恕(のち慶勝)らが安政5年(1858)6月24日、揃って登城、井伊直弼らに猛烈に抗議した。ところが、これは登城日以外の不時登城、押しかけ登城だった。

3>
なお、松平慶永は御三家より家格が下だったため加われず、登城前に井伊の屋敷を訪れて不勅許調印に抗議したが、井伊は登城の刻限だからと座を立つと、慶永は井伊の袂を取って引き留めようとしたが、井伊はこれを振り切って登城している。一方の慶喜は御三卿同士、田安慶頼と登城した。

4>
慶喜は御三卿の定例の登城日で、決して不時登城ではなかった。慶喜は老中たちに条約調印を朝廷に知らせる使者派遣を決めたか尋ねた。まだ決まっていないことがわかると、慶喜は将軍に相談すると立ち上がったため、あわてた老中たちは慶喜を追いかけて袂にすがって止めるという一幕も。

5>
それからほどなくした7月5日、幕閣は不時登城を理由に、斉昭に「急度慎」、慶恕と慶永に「隠居・急度慎」、慶喜に「登城停止」、水戸慶篤に「登城停止」を命じた。その後、孝明天皇の密勅(戊午の密勅)が水戸藩に降ったことがわかると、8月27日、追い打ちをかける処分が下された。

6>
幕閣の追加処分で、斉昭は「永蟄居」、慶篤は「差控」、慶喜も「隠居・慎」となった。本日はこの場面だった。慶喜は家臣たちに「不肖の我等、御屋形を汚し候段、幾重にも詫び入れ候」と詫び状を出した。慶喜ときに23歳。若すぎる隠居である。だが、幕閣は次の一橋家の当主を決めなかった。

7>
一橋家の次の当主を決めなかったのは、「明屋形」(当主不在で一時断絶)にするつもりでもなさそうだし、ほかに適当な候補者がいなかったのか、はたまた慶喜を処罰する正当な理由がなかったせいか。ドラマでも、慶喜の剛情と呼ばれたが、それは無言の抗議だった。

8>
慶喜は昼でも雨戸を閉めて、ただ2寸(約6センチ)ほどの竹を雨戸の所々に挟んで明かり取りとした。書見も縁側に出ないとできなかった。朝は寝所を離れると、麻上下を着用して、夏の暑さにも沐浴せず、月代も剃らなかったという。のちに慶喜は慶永に「剛情公」と呼ばれるが、その端緒か。

9>桐野作人@kirinosakujin 4月11日
本日の大河「青天を衝け」第9回。謹慎している慶喜に、平岡円四郎が甲府勤番に異動する旨を知らせにきた場面。甲府勤番とは要するに甲府勝手小普請、いわゆる小普請組だから、左遷中の左遷。これも安政の大獄の余波だろう。慶喜が円四郎に大首するなとか、体を湿らせるなと忠告した件。

10>
これは父斉昭から伝授された養生法である。斉昭は脚気や慶喜の持病「溜飲」(胸焼け)の原因は水分の摂り過ぎにあるとし、湯茶は日に一口二口くらいにし、渇きを覚えたら烟草で紛らわせろと教えた。慶喜はその養生法を円四郎に知らせたわけだが、現在医学では非常に体に悪いやり方ですな。

11>桐野作人@kirinosakujin 4月11日
本日の大河「青天を衝け」。ドラマでは水戸斉昭の永蟄居とそれに激高する水戸家家臣たちからいきなり桜田門外の変へと飛んだが、その間に変の原因となった重要事件が省略された。「戊午の密勅」降下である。安政5年(1858)8月8日に孝明天皇から水戸藩に与えた秘密の勅諚である。
12>
安政条約の不勅許調印を孝明天皇は違勅だと激怒し、事情説明のため、幕閣に御三家か大老のうち1人の上洛を命じた。幕閣では格下の老中間部詮勝を派遣すると返答したため、天皇の怒りは増し、朝幕関係は決裂寸前となった。一方で水戸・福井・薩摩の藩士たちは青蓮院宮や近衛忠煕らに入説。
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橋本左内や西郷吉兵衛(のち隆盛)らは公家衆への周旋につとめた。京都でも梁川星巌・梅田雲浜らも呼応。こうして8月8日に水戸藩に密勅が降った。内容は、幕府の不勅許調印と水戸・尾張・福井3藩への処罰を攻め、大老以下幕閣は御三家・御三卿・親藩・列藩と評議し、
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国内治平、公武合体の実をあげ、徳川家を扶けて外夷の侮りを受けぬようにというものだった。密勅は武家伝奏の万里小路公房から水戸藩留守居役の鵜飼吉左衛門の手を経て水戸に届けられた。また密勅の内容を御三家、御三卿、家門以上に隠居に至るまで知らせよとあった。
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なお、幕閣にも水戸藩への降下から2日後に届けられた。密勅の内容もさることながら、井伊ら幕閣が問題にしたのは、幕府の頭越しに水戸藩に密勅が伝達されたことだった。そのため、水戸藩に勅諚の外部への伝達を禁じ、密勅を幕府に返却するよう命じた。
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密勅を返却するかどうかで、水戸藩では幕命に従うべきだとする鎮派と、勅命のみを奉じるべしという激派に分裂した。水戸藩では最終的に密勅返上が決定したが、それに不満の激派の一部が脱藩し、井伊を付け狙った。安政の大獄が始まったのは、まさに戊午の密勅降下が原因といえる。
17>桐野作人@kirinosakujin 4月11日
大河「青天を衝け」第9回。桜田門外の変はよく知られているが、少しだけ。安政7年(1860)3月3日、上巳の節句(桃の節句)は大雪となった。新暦だと3月24日にあたる。五節句は諸大名が江戸城に総登城する日。井伊直弼も桜田堀に面する上屋敷を午前9時半頃に出立した。
18>
井伊家上屋敷から桜田門まではおよそ500メートルと短い。行列は総勢60余名。折からの雪のため雨合羽を嫡子、刀にも雪で濡れないように柄袋をかけて抜刀しにくかった。天候も井伊家に不利だった。
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当時は江戸観光が盛んで、地方の武士なども大名家のデータ集である「武鑑」片手に江戸見物していた。水戸浪士など18名は江戸見物のふりをして、外桜田門の道の両側に分かれて待ち構えた。そしてドラマでもあったように、浪士の一人が訴状を掲げて飛び出してきた。駕籠訴である。
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駕籠訴は越訴(おっそ)なので処罰の対象。護衛の彦根藩士たちが阻止しようとして斬り合いとなった。警固の藩士たちが駕籠から離れた隙に浪士が合図の短銃1発を駕籠に向けて放った。不運にもこの一発が駕籠の中の井伊に命中。腿から腰に抜ける貫通銃創だった。
21>
井伊は居合いの達人だったが、この深手のため身動きできなくなった。駕籠に刀を突き入れたのは薩摩浪士の有村次左衛門と水戸浪士の広岡子之次郎だった。井伊は銃創だけでなく刀創も負った。井伊の体を引きずり下ろして首級を挙げたのは有村だった。
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有村は井伊の首級をもって走ったが、彦根藩士から背後から斬られて頭部に重傷を負い、辰之口にある若年寄の遠藤但馬守の屋敷までたどり着くと、井伊の首級を置いたまま門前で切腹息絶えた。写真は千住小塚原にある処刑された橋本左内、水戸浪士たちの墓と青山墓地にある有村次左衛門の墓。
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遠藤家門前に置き去りにされた井伊直弼の首級はどうなったか。幕閣では井伊の死を極秘扱いにしたため、彦根藩では主君の首級としては受け取れず、闘死した供廻の首級としてもらい受けたうえ、途中で買い求めた飯櫃に入れて藩邸に持ち帰ったという。井伊の墓は菩提寺の世田谷豪徳寺にある。
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補足。井伊直弼は大老であり、事実上、当時の日本政府首班だったため、桜田門外の変は世界のニュースとなって流れた。ニューヨークタイムズにも記事が掲載されたが、幕府がその死を隠して負傷しただけだとリリースしたため、記事は暗殺計画は未遂に終わったと誤報する結果になった。


1>桐野作人@kirinosakujin 4月12日
昨夜の大河「青天を衝け」で桜田門外の変が描かれた。昨日、事件がニューヨークタイムズ紙(当時は前身のニューヨーク新聞)を通じて世界に伝えられたことを紹介した。記事は手許にあるのだが、著作権の関係でアップできない。日付は1860年7月10日付、旧暦だと万延元年6月22日。
2>
ニューヨークタイムズ紙の記事は事件から100日以上経っている。なぜそんなに時間がかかったかというと当時の情報通信事情による。当時、日本にはまだ電信が引かれておらず、この記事も香港か上海駐在の記者によるものと思われる。開港したばかりの横浜から中国へ向かう米船からの情報か。
3>
そして中国駐在の記者から電信で伝えられて掲載されたのではないかと推測される。じつはそれから2年後、天璋院篤姫のことが同じくニューヨークタイムズ紙に掲載されている。これは米国初代総領事のタウンゼント・ハリスが勤務を終え離日する直前、横浜駐在の米人記者の記事である。
4>
記事は1862年3月25日付、旧暦の文久2年2月25日。内容は「日本の大君」(将軍家茂)が「前大君」(前将軍家定)に贈られたミシンへの返礼として、ハリスを通じてミシン会社に贈り物をしたというもの。篤姫の様子も書かれていて大変興味深い。これも記事コピーが手許にあるがアップできず。
5>
前御台所の篤姫を「ザ・ウィドー・オブ・ザ・フォーマー・タイクーン」(前大君の未亡人)と表記し、「前大君未亡人、我々はハリス氏からそのように知らされていたが、彼女は贈られたミシンをとても上手に使いこなしている」と紹介。おそらく篤姫が日本人で初めてミシンを使った人だろう。
6>
この篤姫とミシンの記事を拙著で紹介したことがあった。大河ドラマ「篤姫」でも、彼女がミシンを使う場面が描かれた。このミシンはペリーの2度目の来航時、安政元年(1854)の日米和親条約締結を祝して、徳川家に贈呈されたものである。このミシンはボビンケースを備えた当時の最新式。
7>
なお、日本に電信が引かれるのは明治初年。長崎と上海、長崎とウラジオストクの間に海底ケーブルが敷設された。その後、長崎から東京にもケーブルが引かれた。明治11年(1878)、内務卿大久保利通が暗殺されたとき、その記事はわずか2日後にイギリスの新聞に掲載されている。長足の進歩。

8>桐野作人@kirinosakujin 4月12日
昨夜の大河「青天を衝け」。とうとう水戸斉昭も水戸で他界した。桜田門外の変から5カ月後のこと。万延元年(1860)8月15日、ドラマで再現されたように、仲秋の名月を愛でる月見の宴のさなか、厠で倒れたという。享年61。死因は心筋梗塞。狭心症の発作からか、持病の脚気によるものという
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斉昭の心筋梗塞の予兆はあったらしい。幕臣の川路聖謨の日記『座右日記』には、医師(江戸城のお目見え医師か)の浅田宗伯からの話として、以前から「御腫気と御胸痛」の持病があったという。息子の慶喜も胸焼けの気があったので養生法を伝授していたが、自分も同病だったようだ。
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浅田宗伯の証言によれば、斉昭は死の1週間前、廉中の登美宮吉子に「いかなるわけか、われこれほど心物さびしきといふがごとく、いかなる大切の病を引き出すべきもしらず」と告白しており、斉昭も持病の自覚があったようである。なお、浅田宗伯は有名な「浅田飴」を創始した漢方医。
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また慶喜も斉昭から持病のことを聞いていた。『昔夢会筆記』で「ちょっと庭などを御覧になっている時に(胸が)痛み出すことがあった。すると側の者が、体を極めて力一杯に握り拳を出すとだね。それをずっと押し付けている。ああもういいと言うとなおってしまう」と証言している。
12>
なお、斉昭の代名詞といえる諡号の「烈公」は「公(斉昭)、夙(つと)に忠誠を秉(と)り、深く夷狄の患たることを慮り、威武を震耀し、以て英烈を揚ぐ」(『烈公行実』)の一節から採ったという。幕末の風雲児の最期だった。ドラマは天に満月を配するなどかなり史料に忠実に描いていた。