「青天を衝け」(8)「栄一の祝言」

 

内容:

栄一と喜作が千代との結婚をかけて剣術の大勝負!栄一の思いは届くのか・・・。

江戸では大老・井伊直弼による安政の大獄が始まり慶喜、斉昭も処分される。

 

遂に栄一は自分の思いを千代にぶつけ、結婚を申し込む。

と、そこに待ったをかける喜作。栄一都貴作は剣術で勝負する事に。

一方幕府では、大老になった井伊直弼が「日米修好通商条約」を結ぶが、

調印は違勅だと大問題に発展。井伊に意見した慶喜や斉昭には処分が下される。

この安政の大獄が、攘夷の志士たちの怒りに火を点けていく・・・。

 

1>町田 明広@machi821753024月4日
本日は「青天を衝け」8回目です。今回も可能な限り、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、よろしければご一読ください(^^) なお、あくまでも個人的な見解ですので、ご理解いただける方のみ、お願いいたします。
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「青天を衝け」8回目を拝見!今日も栄一と千代の青春譚、また喜作との友情もあり、胸熱で秀逸な展開だった。今日の主役は慶喜。慶喜を軸に井伊直弼をうまく配して、複雑な政治展開を巧みに緩和した。それにしても、草彅慶喜の演技が素晴らしかった。登城禁止になった表情、鬼気迫る演技!!
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本日の隠れた主人公である井伊直弼(1815~1860)について、日本大百科全書をベースにして、簡単にその生涯を紹介しよう。言わずと知れた江戸末期の幕府の大老であり、彦根藩第13代藩主。日米修好通商条約を違勅調印し、安政の大獄の中心人物。桜田門外で暗殺された。
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直弼は、文化12年12月29日、彦根藩35万石の第11代城主直中の14男として彦根城内に生まれる。母は側室お富の方(江戸麹町隼町伊勢屋十兵衛の女)。父50歳、母31歳の時の子で、直中は既に家督を直亮(三男、第12代藩主)に譲っていた。高齢になっていた両親の愛を一身に集めて成長した。
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1831年(天保2)、17歳の直弼は井伊家の家風に従って、藩から300俵の宛行扶持をもらい、彦根城中の槻御殿を出て、第三郭の尾末町の北の御屋敷に移った。この北の御屋敷を埋木舎と名づけ、1846年(弘化3)直亮の養子となるまでの15年間、ここで部屋住みの生活をした。
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井伊直弼が青春時代を過ごした舎、「埋木舎」。私も見学に伺ったが、必見のスポット。ぜひ、彦根城と共にご観覧ください。
https://www.hikoneshi.com/sightseeing/articles/umoreginoya
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井伊直弼は、この埋木舎時代に「なすべき業」として、禅、居合、兵学、茶道(代表作『茶湯一会集 』)など教養を積んだ。さらに国学者長野義言(通称主馬、のち主膳、号を桃廼舎)に師事し、国学、歌道、古学などを学び、また彼を重用した。
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1850年(嘉永3)、直亮の死去により直弼は彦根藩を襲封、掃部頭と称した。時に数え年36歳。1853年のペリー来航以降、外圧によって幕藩体制は揺らぎ、翌1854年(安政1)の日米和親条約で幕府の「祖法」としての鎖国体制も動揺を来たすに至った。
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開国政策をとった老中堀田正睦溜間詰大名に支持されたが、これらの譜代大名を牛耳っていたのが直弼であり、攘夷を主張する徳川斉昭(1800~1860)以下、松平慶永島津斉彬らによって代表される大廊下詰家門大名大広間詰外様大名と次第に対立するに至った。斉彬に出番はもうなしか?
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この対立は将軍継嗣問題と絡んでいっそう先鋭となり、家門・外様大名一派(一橋派)が、「年長、英明、人望」を将軍継嗣の原則として一橋慶喜(斉昭第7子)を担いだのに対し、直弼ら譜代大名の派(南紀派)は、「皇国の風儀」と「血脈」を強調して紀州藩主徳川慶福(のち家茂)を推した。
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1858年(安政5)4月、直弼は大老に就任し、将軍継嗣には慶福を決定。さらに勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印した。継嗣問題に敗れた一橋派は、違勅調印を理由に一斉に井伊攻撃に立ち上がり、ここに反幕運動としての即時攘夷運動に火がついた。
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幕府の危機をみてとった直弼は、徹底した弾圧策をとり、翌1859年にかけて、いわゆる安政の大獄を引き起こした。直弼のこの弾圧政策は、1860年(万延1)3月3日の桜田門外の変として彼の横死を招いたのである。桜田門外の変は、もう次週のようですね!
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本日から登場した徳川家茂(1846~1866)について、日本大百科全書をベースにして紹介しよう。江戸幕府第14代将軍。紀州11代藩主徳川斉順将軍家斉の子)の長子。つまり家定は従兄。弘化3年閏5月24日、赤坂の江戸藩邸に生まれる。幼名菊千代、のち慶福と称す。

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家茂は、12代藩主斉彊(斉順の弟)の養子となり、1849年(嘉永2)4歳で家督を継いだ。将軍継嗣問題で一橋派の推す慶喜に対抗する候補とされ、条約勅許問題と絡んだ激しい政争が展開した。南紀派井伊直弼が大老に就任したのち継嗣と定まり、家定の死去により将軍職を継ぎ家茂と改めた。
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桜田門外の変による井伊横死後、老中久世広周安藤信正らの画策により、1862年(文久2)孝明天皇の妹和宮を夫人に迎え公武合体による幕府権力の回復を計ったが、島津久光の率兵上京、久光と勅使大原重徳の東下によって幕政改革を迫られ、慶喜を将軍後見職、松平慶永を政事総裁職に迎えた。
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1863年(文久3)、家茂は慣例を破り自ら上洛、幕権回復を計ったが朝廷は即時攘夷派の勢力下にあり、攘夷祈願の賀茂社行幸に供奉させられた。しかし4月の石清水社行幸には随行を固辞して東帰した。その後、八月十八日の政変によって公武合体派が勢力を回復し、1864年(元治1)再度上洛した。
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長州藩が、第一次長州征伐ののちにふたたび抗戦の構えをみせたため、第二次の長州征伐となり、1865年(慶応1)、家茂は3回目の上洛ののち、大坂城の征長軍本営に入った。翌年6月に開戦された長州藩との戦争に、幕軍敗戦の報が相次ぐうちに、7月20日、21歳で城中に病死した。法号昭徳院。
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井伊直弼の描かれ方について、多くのご意見があることだろう。井伊の評価は難しい。ちなみに、私も井伊が赤鬼に化したのは「違勅調印」以降と考える。それ以前は、ややうっかりしたところもあったかも知れないが、その後の井伊は冷徹な政治家に変身したように感じる。

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本日の政治的なハイライトは、通商条約の調印と将軍継嗣問題の決着であった。老中堀田正睦岩瀬忠震らを伴い、上京して勅許を求めたが失敗し、失意の中で江戸に戻った3日後の安政5年(1858)4月23日、井伊直弼が突如として大老に就任した。
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5月1日、家定は継嗣慶福を大老・老中に達し厳秘を命じた。5月2日・6月19日、事情を知らない松平春嶽は井伊に意見を求められ、継嗣は慶喜とすること、条約調印は先延ばしすることを申し入れるも不発、5月13日、伊達宗城は堀田・井伊に対し春嶽を京に派遣して勅問に奏答することを勧説した。
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伊達宗城の春嶽の京都派遣提案に対し、堀田は同意も井伊は不同意であった。なお、5月22日も同様に井伊は宗城からの直接の提案にも不同意を示した。5月15日、形勢不利と見た春嶽は堀田と会見、井伊も松平忠固も論破して建儲(将軍継嗣)の大策を定めるよう熱弁した。
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同日の5月15日、堀田は井伊に対し、継嗣も通商条約も違勅ではただではすまないと強弁するもやはり不発であった。なお、5月6日に大目付土岐頼旨が大番頭、勘定奉行川路聖謨が西丸留守居、5月20日に目付鵜殿長鋭が駿府町奉行に左遷されており、一橋派への弾圧が始まっていた。
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6月1日、幕府は三家以下溜詰諸侯に将軍継嗣決定(具体名なし)を告げ、翌2日に朝廷に奏聞し、勅裁をもって18日に発表の段取りであった。実は、朝廷からの返信は直ぐにあったものの(日付未詳)、堀田正睦はあえて井伊に告げず、一橋派のための時間稼ぎを行った。
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6月17日、ハリスより英仏連合軍が清との戦争に圧勝し、5日以内に連合艦隊が来航し通商条約を迫ると通告があった。18日、井上清直岩瀬忠震は小柴沖碇泊の米艦ポーハタンに赴き、ハリスと条約調印に関し談判。早期調印をすれば英仏を米国がその線で抑えるとの言質を獲得した。

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6月19日の城中での大評議は混迷を極めたが、調印先送りを唱えたのは井伊大老のみであった。岩瀬らは現実を直視できずに逡巡する井伊を罵倒したが、井伊はまだ約束の猶予期間が40日ほど残っており、その間に勅許を得て、更には岩瀬ら海防掛などの敵対者の一掃を企図していた。
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井伊の裁断は、勅許を得るまでの調印延期であったが、岩瀬・井上は再び米艦に赴き日米修好通商条約14箇条・貿易章程7款に調印した。これは、やむを得ない場合は「調印やむ無し」の言質を井伊が与えていたことによる。もちろん、その責任は井伊に帰せられることになる。
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ちなみに本日、日米修好通商条約の調印の場面がありましたね。「岩瀬忠震」のキャプション、震えました!!なお、岩瀬は調印にやや躊躇している表情に見えましたが、私だけか?
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一橋派は対外情勢から調印は止むを得ないとの意見で一致していたが、一方で違勅調印を強行し、弁明のために京都に使者(春嶽)派遣、その際に朝廷から一橋継嗣との内勅を得る策略であった。つまり、井伊に違勅調印の責を追わせて追い落とし、春嶽を擁立し形勢逆転を企図したのだ。

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6月23日、井伊直弼堀田正睦松平忠固両老中を罷免。同日、堀田は朝廷からの継嗣決定承認の返信を公表したが、その経緯は不分明ながら罷免と関係しているかも知れない。流石にドラマではここまで及べないが、このあたりは劇的な展開である。
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井伊政権が条約調印を宿継奉書で朝廷に知らせる選択をしたことに、慶喜が激怒した。ドラマでも初めて見せる激しい慶喜であったが、その不可の理由を慶喜の平岡を相手にした問答で、分かり易く視聴者に教えてくれたのでは。
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6月23日、慶喜は井伊と対面し、違勅による無断調印を詰問したが、暖簾に腕押し状態であった。ちなみに、将軍継嗣を確認して、井伊より家茂内定を聞き及んだのは史実。両者の最初で最後のサシの面談。ドラマでも非常に緊迫感漂うこの場面がうまく描かれていたのでは。

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ちなみに、慶喜が将軍継嗣が家茂に決まったことに対し、ホッとしたような残念なようなといった場面、恐らくそうであろうと思う。何しろ、「ねじあげの酒飲み」である。

注: 皆が飲め飲めと言うのになかなか飲まず、もったいをつけて嫌だ嫌だと言いながら結局最後は飲むという人のこと
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6月24日、水戸斉昭尾張藩主徳川慶勝水戸藩主徳川慶篤は不時登城し、井伊に条約の無断調印を面責した。これは、将軍継嗣の公表を遅らせる深謀でもあった。春嶽も登城し、老中久世広周に将軍継嗣発表の延期を勧説した。実際はかなり待たされた上での井伊との対面だった。
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6月25日、家茂の継嗣発表、7月5日に不時登城者に隠居・謹慎の沙汰があり、ここに一橋派の敗北が確定した。ちなみに、慶喜は井伊に言われての登城なので、不時登城とは言い難い。しかし、慶喜も登城停止の処分を受ける。繰り返すが草彅慶喜の演技、引き込まれた。役者・草彅の発見だった。名優か!
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なお、安政6年(1859)8月27日、慶喜にも隠居・謹慎の沙汰がなされた。1年後の処分である。これをどう解釈するか、いずれ機会があればお話ししたい。
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戊午の密勅(安政5年8月8日)であるが、次週でも良いのでは。
ナレーションを聞き漏らしたか?
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さて、日米修好通商条約に関連し、通商条約は不平等であったかについて。当時の幕府外交官の失態として語られることが多いが、「必ずしも」不平等とは言い難い、失態との断罪は酷ではないかと考えている。

注:『新説の日本史』(SB新書)参照
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片務的領事裁判権(治外法権)について、当時は日本人が外国に渡航することは国禁であった。通商といっても、現実的には外国船による日本の港での取引であり、つまり、この段階では海外渡航など想定外であったことを考慮しなければならない。

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関税自主権について、確かにない。ただし、通商条約での輸入税は、おおむね20%。当時のアメリカは30%!自由貿易主義のイギリスは5%。20%という数字だけ見ると、日本に有利とも言え、不平等な数字ではない。
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文字通り不平等条約となったのは、慶応2年(1866)5月に英仏米蘭との間に結ばれた改税約書。輸入税が一律5%になったことによる。四国連合艦隊による下関砲撃事件(1864)の賠償金を2/3に減免するための措置であり、このあたりも考慮して欲しい視点である。
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攘夷運動を推進した長州藩薩摩藩の下級藩士たちは、明治の官僚に成り上がった。自身の行為を棚に上げ、ことさら幕府の外交政策を弱腰などと非難しているが、実際にはこうした背景もある。岩瀬らの功績を隠蔽し、否定しなければ彼らの立場がなかったのかも知れない。
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岩瀬忠震については、山のように語りたいことがありますが、いずれJBpressでもシリーズ連載を予定しています。

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橋本左内が本日も登場。次回が桜田門外の変なので今週まで?あるいは次週も?本来なら左内ツイート満載のところですが、今夏、橋本左内で講演するかも知れない雰囲気になってきました。よって、それを楽しみにお待ちください
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本日は渋沢栄一に関するツイートがありませんでした。申し訳ございません。次週は安政の大獄、朝廷関係者も登場するのだろうか?孝明天皇中川宮、どうであろうか?

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【オンライン】渋沢栄一とその時代
4/24(土) 10:30~12:15「徳川慶喜と幕末政治― 将軍時代を中心に」1回のみの受講可能です。草彅慶喜ファンの皆さまも、ぜひ!どうかよろしくお願いいたします。

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NHK青山・新講座(対面:4月スタート「新説 坂本龍馬」最新の研究に基づいて、龍馬の生涯を紐解き、志士・周旋家・交渉人・政治家として、多様性を持つ龍馬の動向を検証し、新たな知見に基づいて龍馬の実像に迫ります。

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NHK青山・新講座(対面:4月スタート)「新説 坂本龍馬」
4/17(土)龍馬の生い立ちと土佐勤王党
5/15(土)龍馬の海軍構想と第二次脱藩
6/19(土)薩摩藩士・坂本龍馬の誕生
7/17(土)薩長同盟と寺田屋事件
8/21(土)海援隊と薩土盟約
9/18(土)大政奉還と龍馬暗殺

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JBpressで連載を開始しました。渋沢栄一と時代を生きた人々「渋沢栄一」①②③が公開中です。ぜひ、ご覧下さい。 
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64521


https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64524
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JBpressの最新記事、渋沢栄一と時代を生きた人々(4)「渋沢栄一④」が明日5日(月)朝6時に公開されます。ご味読を、どうかよろしくお願いいたします。

50>町田 明広@machi82175302 4月5日

渡欧中の大政奉還、渋沢が徳川慶喜に失望した理由 渋沢栄一と時代を生きた人々(4)「渋沢栄一④」

 

 

 

1>桐野作人@kirinosakujin
大河ドラマ「青天を衝け」第8回。いよいよ条約勅許問題と将軍継嗣問題をめぐる争闘始まる。この大河は時代考証がしっかりしているが、不勅許調印や老中首座堀田正睦の上京と慶喜継嗣の推挙、水戸斉昭・松平慶永らの不時登城一件は描かれなかった。事情が錯綜しているからやむをえないか。
2>
井伊直弼の大老就任はいわば、保守本流の登場である。井伊家は江戸城の殿席で溜間詰めである。この格式にある大名は譜代大身の井伊・会津・高松の常溜(代々常時)と、伊予松山・姫路酒井・忍松平・桑名松平の飛溜(特命による)、その他、老中経験者など一代限りの大名で構成される。
3>
なかでも「常溜」(じょうだまり)がもっとも格式高く、井伊家はその筆頭といえた。直弼の大老就任は順当な人事だといえた。ただ、その登場のしかたが条約府勅許調印への批判と一橋慶喜の将軍継嗣擁立を図る斉昭ら一橋派を制裁する形になったことが、のちのちまで大きな禍根となった。
4>
一橋派の一時の攻勢は幕閣にも影響を与えた。老中首座の堀田正睦は当初、血統論者で、紀州慶福(のち家茂)擁立派だったが、条約調印の勅許を得るために上京すると、朝廷の攘夷気分や反幕傾向を知り、さらに堂上公家の88人列参運動という条約勅許反対の実力行動にも直面する。
5>
もともと幕府寄りだった関白九条尚忠は孤立し、老中堀田は楽観論的すぎたことを悟る。当時、京都では薩摩藩の西郷吉之助、福井藩の橋本左内が朝廷に入説し、大老就任前の井伊も腹心の長野主膳をひそかに派遣して九条関白を説いたので、一橋、紀州両派の暗闘が繰り広げられた。
6>
一橋派は松平慶永が建白した将軍継嗣の要件である「賢明・年長・人望」の線で、朝廷から将軍継嗣の内勅を得ようとしたが、九条関白が三要件を削った形での内勅を下した。もともと一橋派は保守本流である紀州派に幕府内では劣勢にあったので、朝廷権威を利用しようとして工作していた。
7>
しかし、一橋派苦心の周旋も失敗に終わってしまった。一方、成果を得られず江戸へ帰った老中堀田は京都の空気を察して、一橋派に傾き、海防掛で堀田に同行した岩瀬忠震や橋本左内が献策する松平慶永の大老(宰輔)就任により慶喜擁立を有利に進めようとした。
8>
老中堀田は将軍家定に謁して慶永の大老就任を進言した。すると、家定は「大老は家柄・人物から、彦根(井伊)を差し置いて越前(慶永)というわけにはいかぬ」と反対し、堀田の策を打ち砕いた。家定のいう家柄とは、大老職は溜間詰めから選ぶことを意味する。先例は井伊と酒井だけだった。
9>
これに対して、松平慶永は家門大名で、殿席は大広間詰めで、溜間詰めより家格が高い。家格が上の者が、下の大老に就任するのはおかしいというのが家定の論理だった。平時では正当な考え方だったといえる。将軍継嗣や大老職は有事にそれでいいのかという一橋派の主張は敗れ去った。

10>
大河ドラマ「青天を衝け」第8回。一橋慶喜の動向。安政5年(1858)6月19日、大老井伊直弼は神奈川で、勅許が得られないまま日米州城通商条約の調印に踏み切った。総領事のハリスの圧力も大きい。そういえば、ハリスが江戸城に入り、将軍家定に拝謁した場面もえがかれなかったのは残念。
11>
ドラマで慶喜が井伊直弼と対決する場面があった。これはほとんど史実どおりに描かれていて感心した。まず、御三卿が幕閣を預かる大老や老中を呼びつけるのは先例がないこと。家老たちが反対すると、慶喜は「大老こそが先例のない不届き(不勅許調印)を働いたではないか。先例がなくても搆うまい」
12>
その後、慶喜が幕閣は忙しいから自分が登城するといって、城内で対面。このとき、慶喜22歳、井伊44歳と倍も違った。慶喜が「条約調印はそなたがしょうちだったのか」と尋ねると、井伊は「恐れ入り奉り候」と暖簾に腕押しの応答に終始した。業を煮やした慶喜がさらに責め立てる。
13>
「違勅かもしれないことを老中奉書(宿継奉書)で奏上するとは何事か」と、朝廷に対する手続きの軽さを非難した。これは天皇に対しては「台旨」(将軍の意向)として奏上すべきで、老中奉書で済ますのは不敬だというわけである。また慶喜が将軍継嗣について井伊に質問していた。
14>
これも史料に書かれている。井伊は相変わらず「恐れ入り奉り候」と答えないが、慶喜が「堀田から聞いている。紀州殿に決まったのだろう」と切り出すと、井伊もそうだと認めた。慶喜が「恐悦至極。自分も巻き込まれて心配していたが、これで安心した」と答えた。さらに、
15>
慶喜が紀州慶福を殿中で見て、「背丈も大きく安心した。まだご幼年なのでそなたが大老として補佐すれば何の不足もない」と答えると、井伊が喜色を表したという。父斉昭の落胆が見えるようだが、じつはドラマにない両者のやりとりがまだ続いた。「慶福が継嗣となれば、紀州家の跡はどうなるのだ」と
16>
慶喜が問いただすと、井伊はそこまで考えていなかったようだったが、思い浮かんだのか、「御前にお考えはありませんか。お望みならばお取りはからいしますが」と答えた。つまり、慶喜を紀州家の次の当主にするのを手伝うというのである。これにはさすがの慶喜も虚を突かれたらしい。
17>
結局、慶喜の鋭い舌鋒は井伊をタジタジにさせたかもしれないが、格別の言質や成果を得たわけでなく、むしろ、慶喜が将軍継嗣候補から降りたと宣言したことで、むしろ、井伊は自信を得たかも知れない。なお、井伊を大老に据え、堀田の罷免工作は老中の松平忠固(信州上田藩主)である。
18>
慶喜の井伊評も残っている(『昔夢会筆記』)。
「掃部頭は断には富むが、智は乏しい。その動作は傲岸で、人を見下す風あり。体軀は肥満で反り身をなしているからそう見られるのだろう」。
ふんぞり返って人を見下しているように見えるというわけである。

19> 4月6日

久しぶりに対面講座再開のお知らせ。武蔵野大学生涯学習講座の三鷹サテライト教室にて、5月21日(金)13:00より「『織田信長文書』を読む」を開講です。月一の6回講座です。今期は信長が四面楚歌となった元亀争乱が中心です。詳細と申込は以下から。http://lifelongstudy.musashino-u.ac.jp/site/course/detail/4550/…

この講座は全講義を収録して、後日、Web配信します。遠隔地の方も受講できます。

 

馬場弘臣@omikun_1603 4月6日

安政将軍継嗣問題&岩瀬忠震の書画