★慶應3年11月1日、「英国特派全権公使パークス、大坂開市・兵庫開港準備の為、不日上坂せんとするを幕府に報じ、尚公使館員ミットフォード、サトウを同地に先行せしむべきを告ぐ」。

★慶應3年11月1日、「鹿児島藩主島津茂久「修理大夫」直書を家老等に与へ、召命に赴くに方り、国基を確立し、皇威の挽回に謁すべき素志を告げ、協心輔翼すべきを諭す」。

★慶應3年11月2日、「鹿児島藩士寺島陶蔵「宗則」書を藩主島津茂久に上り、封建の制を廃して王政の基礎を確立すべきを建議す。幕府、書を各国公使に致し、江戸開市期限「十二月七日」を改て、明年三月九日と為んことを告け、且国内布告文案を示す」。

★慶應3年11月2日、「元権中納言三条実美等、従士土方楠左衛門「久元・元高知藩士」を萩藩に遣し、上坂の事を謀らしむ。尋で「三日」実美等五人、警衛の鹿児島・福岡・熊本・佐賀・久留米五藩に上坂決意の趣旨を告ぐ」。

★慶應3年11月2日、「摂政二条斉敬、自邸に弾正尹朝彦親王・常陸太守晃親王・左大臣近衛忠房・右大臣一条実良・前関白近衛忠煕・同鷹司輔煕・内大臣大炊御門家信・権大納言九条道孝及議奏正親町三条実愛・武家伝奏日野資宗等を会し、朝基の確立及人材登用の事を議す」。

★慶應3年11月3日、「鹿児島藩京都邸吏、藩主島津茂久父子の内1人上京せんとするを以て、仁和寺に、宿陣として其塔頭を貸さんことを求む。萩藩支族吉川経幹、病に依り、家老宮庄主水「親美」をして代りて上坂せしむ。幕府、諸藩に令して、江戸郭内諸門を警守す」。

★慶應3年11月6日、「遣欧特使徳川昭武、巴里を発し、英国巡訪の途に就く。幕府、若年寄並兼外国総奉行平山敬忠「図書頭」に命じて長崎に赴かしむ。明日、外国奉行菊池隆吉に、江戸に於る対馬事務取扱を命ず。幕府、各国公使に品川台場以内に於る軍艦投錨の禁止を通告す」。

 

★慶應3年11月8日、「八日、是より先、九条尚忠「入道前関白」、久我建通「入道前内大臣」、千種有文「入道前少将」、岩倉具視「入道前中将○具慶の子」、富小路敬直「入道前中務大輔」、罪を獲て洛外に居る、是日、命して、各其家に帰らしむ」。

★慶應3年11月9日、「在京鹿児島藩士吉井幸輔「友実」江戸藩邸留守居篠崎彦十郎に大政奉還の事情を報じ、之に処するの方途を告ぐ。高知藩士福岡藤次「孝弟」京都福井藩邸に重役を訪ひ、前高知藩主山内豊信「容堂」の建言及大政奉還に至る実情を説く」。

★慶應3年11月9日、「遣欧特使徳川昭武、倫敦に至り、是日、ウインザー宮に於て、英国女王ビクトリアに謁す。佐土原藩主島津忠寛「淡路守」書を宗藩主島津茂久に上り、其の赴召に当り、邦家の為に尽瘁すべきを述ぶ。前田利鬯の朔平門前警衛を罷め、松平慶憲を以て之に代ふ」。

★慶應3年11月9日、「鹿児島藩家老新納刑部「久修」岩下佐次右衛門「方平」等、仏国人モンブラン等を伴ひ、新に購入せる軍艦春日丸に乗じて鹿児島に帰著す。明日、藩主島津茂久、モンブランを引見す」。

★慶應3年11月9日、「幕府の親戚譜第諸藩、陰に政権を復せんことを謀るものあり、福岡孝弟「藤治○土佐藩士」、辻維嶽「将曹○安芸藩士」等、松平慶永に説き、其詿誤する所と為ること勿らしむ」。

★慶應3年11月10日、「十日、是より先、幕府、毛利敬親「長門藩主、食封三十六万九千石余」の支封主、及ひ老臣を大阪に召すの令「七月に在り」を停め、更に諸侯の公議を経、朝命を以て、之を召さんことを請ふ、之を可す、是日、幕府、浅野茂長をして敬親に伝諭し、後命を俟しむ」

★慶應3年11月10日、「鹿児島藩主島津茂久、藩士大久保一蔵「利通」を高知に遣し、前高知藩主山内豊信の上京を促さしむ。12日、一蔵、高知に抵り、15日京都に入る」。

★慶應3年11月10日、「前福井藩主松平慶永、二条城に登り、大将軍徳川慶喜に謁す。慶喜、大政奉還に至れる事情を説示す。慶永、亦藩士中根雪江「師質」を若年寄格永井尚志「玄蕃頭」に遣し、大政奉還前後の事情及意見を問はしむ」。

★慶應3年11月11日、「新撰組隊長近藤勇「昌宜」書を幕府奥医松本良順「順」に寄せ、徳川氏擁護の為、奮起を勧説す」。

★慶應3年11月11日、「征夷大将軍徳川慶喜、大政奉還に関する親諭書を老中格兼陸軍総裁大給乗謨・老中格兼海軍総裁稲葉正巳に与へて帰府せしむ。是日、乗謨等、京都を発し、海路江戸に至る。在京譜代諸侯、胥議し、諸事徳川氏の執達を仰がんことを奏請す。後之を請下す」。

★慶應3年11月13日、「前右近衛権中将岩倉具視、書を前権大納言中山忠能等に寄せ、左大臣近衛忠房等の建言を難ず。幕府、歩兵頭並森川荘次郎を外国奉行並と為す。幕府、一ノ宮藩主加納久宜「嘉元次郎・後遠江守」に上野山内の警守を命ず」。
 

★慶應3年11月13日、「鹿児島藩主島津茂久、家老島津伊勢・同岩下左次右衛門・側役西郷吉之助等を従へ、兵を率いて鹿児島を発し、上京の途に就く。前福井藩主松平慶永、藩士青山小三郎「貞」を京都に遣し、鹿児島藩兵大挙上京の風説の真偽を探らしむ」。

★慶應3年11月13日、「高知藩士寺村左膳「道成」京都より帰藩し、大将軍政権奉還建言の事情を報ず。熊本藩家老溝口蔵人「貞直・孤雲」、藩主細川慶順「越中守」に代りて上京の途に就く。京都町奉行、市中に令して、神仏符札降下と唱へ、異形して市中に乱舞するを禁ず。歇まず」。

★慶應3年11月15日、「福井藩士中根雪江、幕府麾下士渋沢成一郎・津藩士深井半右衛門等と会す。成一郎等、兵力を以て幕府の権威を回復すべきを説く。福井藩士中根雪江、若年寄格永井尚志を訪ひ、時事を談ず」。

★慶應3年11月15日、「前高知藩主山内豊信、朝命を奉じて上京するに決し、家老格後藤象二郎「元燁」をして先発せしむ。重臣小八木五兵衛・若尾直馬等、結党之を阻止せんとす。是日、豊信、藩主豊範「土佐守」と倶に藩士を城中に召し、親書を下して之を暁諭す」。

★慶應3年11月15日、「大政帰一・綱紀確立の策問を大将軍徳川慶喜及前名古屋藩主徳川慶勝・前福井藩主松平慶永に下し、議を上らしむ。尋で「十七日」 慶喜及諸藩に令して、各其意見を上陳せしむ。前名古屋藩主徳川慶勝の累年勤王の志を嘉賞し、官等降奪の願を卻く」。

★慶應3年11月15日、「萩藩、藩士木戸準一郎・同広沢兵助「真臣」を干城隊副督と為し、家老毛利内匠上坂留守中の同隊総管坐の事務を処理せしむ。徳山藩世子毛利元功「後大和守」、藩主元蕃「淡路」に代りて上坂するを以て、山口に至り、宗藩主毛利敬親に見ゆ。敬親、之を餞す」

★慶應3年11月15日、「高知藩士坂本龍馬「直柔・変名才谷梅太郎・贈正四位」・同中岡慎太郎「道正・変名石川清之助・贈正四位」、京都河原町龍馬の寓舎に於て、京都見廻組佐佐木唯三郎等に襲撃せられ、龍馬は即死し、尋で「十七日」慎太郎も亦逝く」。

★慶應3年11月15日、「鹿児島藩家老島津伊勢・同岩下左次右衛門等、兵を率いて三田尻に至る。大政帰一綱紀確立の策問を、徳川慶喜及ひ徳川慶勝、松平慶永に下し、尋て之を在京諸侯に下問す」。

★慶應3年11月16日、「鹿児島藩士大久保一蔵、前右近衛権中将岩倉具視に謁し、前高知藩主山内豊信・鹿児島藩主島津茂久の近日入京するを告げ、王政復古に関し、謀議す。後、具視、屡一蔵の仮寓を訪ふ」。

★慶応3年11月17日、「鹿児島藩主島津茂久、藩士西郷吉之助等を従へ、三田尻に著す。明日、萩藩世子毛利広封と会し、上国出兵を議す。吉之助、亦萩藩家老毛利内匠・藩士楫取素彦・国貞直人・山田顕義・等と会し、鹿児島・萩・広島3藩出兵の部署を定む」。

★慶応3年11月18日、「是より先、英国公使館附属士官サトウ、掛川駅「遠江」に泊す、人あり其室に闌入して、将に之を刺さんとす、果さす「本年四月二十五日に在り」、幕府、逮捕擬刑し、是日、之を英国公使に報す」。

★慶応3年11月18日、「島津茂久、三田尻港「周防」に至り、毛利広封を見て、前途の策を議し、直に上国に赴く、広封、浅野茂長に報知し、共に兵を出して、東上せしめんことを約す」。

★慶応3年11月18日、「山陵衛士隊長伊藤甲子太郎「武明・元本堂親久家士・贈従五位」、新撰組隊士の為に、京都油小路に於て撃殺せらる。其党服部三郎兵衛「武雄・元赤穂藩士」等、変を聞いて急馳し、闘死する者更に3人に及ぶ」。

★慶応3年11月18日、「萩藩、藩士宍道直記を広島藩に遣し、徳山藩世子毛利元功・支族吉川経幹の臣宮庄主水及家老毛利内匠等の上坂を報じ、嚮導の為に1艦を借らんことを求む。直記、広島に至り、広島藩士植田乙次郎「常戩」と事を協議す。24日、直記、帰藩す」。

★慶応3年11月18日、「幕府、英国特派全権公使パークスに牒して、曩に掛川駅「遠江国小笠郡」に於て英国公使館員サトウ等を襲ひし元櫛笥家家士林式部・元今城家家士山田主殿を死刑に、其他を遠島に処すべきを報ず」。

★慶応3年11月18日、「征夷大将軍徳川慶喜、下問に対へて、諸侯の上京を待ちて奉答すべきも、広く公議を尽し、万機の基本を確立すべきを奏す。征夷大将軍徳川慶喜、書を和歌山藩主徳川茂承に致し、其上京を促す」。

★慶応3年11月19日、「鹿児島藩士吉井幸輔「友実」大坂に於て英国公使館通訳官サトウを訪ひ、我政情に就き談ず。長岡藩主牧野忠訓「駿河守」書を幕府に上り、病に依り、重臣をして朝召に赴かしめ、徳川家の為に哀訴歎願せんとするの衷情を陳ぶ」。

★慶応3年11月19日、「高知藩士寺村左膳、前福井藩主松平慶永に謁し、前藩主山内豊信の上京及藩地の事情を告ぐ。在京目付梅沢孫太郎「亮」福井藩士中根雪江を訪ひ、大将軍徳川慶喜大政奉還の趣旨を陳べ、同藩の戮力を求む」。

★慶応3年11月19日、「広島藩主浅野茂長「安芸守」藩士吉田兼次郎等を萩藩に遣し、同藩末家及老臣等の上坂発程を止めて朝命を待つべしとの幕令を伝達せしむ。是日、兼次郎等、宮市「周防国佐波郡」に至り、萩藩家老毛利筑前「元統」・藩士柏村数馬「信」と会して幕令を伝へ、又同藩士木戸準一郎・同広沢兵助・同楫取素彦等、兼次郎と凝義し、広島藩に託して支藩及老臣等既に上途せしを稟申するに決す。尋で「二十一日」兼次郎、帰途、岩国に到り、萩藩支族吉川経幹に同じく幕命を伝ふ」。

★慶応3年11月19日、「萩藩世子毛利広封、鞠府「周防国佐波郡」松原に於て上坂の諸隊兵を閲し、且諸隊の参謀に萩・鹿児島2藩盟約の条項を示す。萩藩、徳山藩世子毛利元功・支族吉川経幹の名代宮庄主水及家老毛利内匠等の率兵上坂に依り、令して封内の警備を厳にす」。

★慶応3年11月19日、「徳川慶勝、上書して、楠正成に神号を贈り、祀典に列し、近古国事に死する者を従祀せんことを建議す、乃ち命して、死事者の姓名事蹟、及ひ営祠の地を録上せしむ」。

★慶応3年11月20日、「幕府、仏国全権公使ロッシュに牒し、鹿児島藩雇傭同国人モンブランの処置を求む。幕府、在仏国の遣欧特使徳川昭武に、電信を以て大政奉還及政情を報ず」。

★慶応3年11月20日、「鳥取藩主池田慶徳、病を謝し、朝覲の延期を奏請す。前福井藩主松平慶永、二条城に登り、大将軍徳川慶喜に謁す。慶喜、大政奉還の趣旨を告ぐ。慶永、其誠意に感激し、輔翼せんことを誓言す」。

★慶応3年11月20日、「長崎奉行河津祐邦、薩摩藩の仏国人モンブラン等を雇ふて、其軍事に参し、又英国汽船の長崎港に在る者を購買し、告けすして其藩に帰るを幕府に報す、是日、幕府、書を仏国公使に与へて、其事由を問ふ」。
 

★慶応3年11月21日、「英国公使館書記官ミットフォード同通訳官サトウ大坂高知藩邸に同藩家老格後藤象二郎を訪ひ英艦イカルス乗組水兵殺害事件に関し交渉す。
後、象二郎英国の政治組織及議会制度等を質問す。明日、サトウ等、鹿児島藩士西郷吉之助を訪ひ、吉之助・岩下佐次右衛門及仏人モンブランと談ず」。

★慶応3年11月21日、「宇和島藩士須藤但馬・西園寺雪江、英国公使館通訳官サトウを訪ふ。英国公使パークス、長崎駐在同国領事の送付せる高知藩士島村雄二郎と英米人との争闘事件調書を幕府に送致す」。

★、慶応3年11月21日、「萩藩、藩士広沢兵助を広島藩に遣し、萩・鹿児島両藩盟約を報じ、出兵のことを協議せしむ。尋で、兵助、広島藩士植田乙次郎・同石井修理と会し、略ぼ其事を議定し、広島藩軍艦に搭じて御手洗港「周防国熊毛郡」に至る」。

★慶應3年11月27日、「二十七日、島津茂久既に京に入る、浅野茂勲二十四日を以て国を発し、毛利敬親の支封主老臣等、二十六日を以て芸兵に御手洗港に会す「指華入京日載」、是日、茂長、敬親の報状を上り、且召命停格の令、途上齟齬するの状を稟す」。

★慶応3年11月29日、「鹿児島藩士大久保一蔵、前右近衛権中将岩倉具視・前権大納言正親町三条実愛を訪ひ、朝議の内状を求め、王政復古の勇断を入説す」。