★慶應1年11月1日、「水戸藩主徳川慶篤弟松平昭武「民部大輔」二条城に登り、大将軍徳川家茂に謁す。幕府、浪士赤禰武人「是一・元萩藩士」・同淵上郁太郎「祐広・元久留米藩士」の繋獄を釈し、諭して幕府・萩藩の間に斡旋せしむ。尋で大目付永井尚志、之を伴うて西下す」。

★慶應1年11月7日、「老中本荘宗秀、鹿児島藩側役大久保一蔵「利通」を招き、徳川・島津両家の因縁深きを説き、倚頼する所あるを告ぐ」。

 

★慶應1年11月7日、「老中本荘宗秀、鹿児島藩側役大久保一蔵「利通」を招き、徳川・島津両家の因縁深きを説き、倚頼する所あるを告ぐ」。

 

★慶應1年11月14日、「鹿児島藩士西郷吉之助、京都より書を同黒田嘉右衛門「清綱・在坂中」に寄せ、若年寄田沼意尊の上坂を告げて其情勢を探らしむ。明日、嘉右衛門、大坂の近況を答ふ」。

★慶應1年11月18日、「海援隊士上杉宗次郎「長次郎・近藤昶次郎」・萩藩士井上聞多「馨」・同伊藤俊輔「博文」等の依頼に依り、長崎に於て鹿児島藩の名を仮りて英商グラバーより汽船ユニオン「乙丑丸」を購入し、下関に回航す。是日、萩藩主毛利敬親、宗次郎を引見し、短刀を与へて其労を慰す。会々同藩海軍局員等、宗次郎の同船管理法に異議を唱ふ。萩藩士木戸貫治「孝允」・同谷潜蔵「春風」・海援隊長坂本龍馬「直柔」等、其間の調訂に努む」。

★慶應1年11月20日、「大目付永井尚志・目付戸川安愛・同松野孫八郎、国泰寺「広島」に臨み、萩藩使者宍戸備後助を訊問す。明日、尚志等、尋問書を下付し、書を以て答申せしむ。「22日訊問箇条を追加す。」尋で「24日」備後助、答弁書を提出して藩状を陳情す」。
 

★慶應1年11月22日、「鹿児島藩主島津茂久「修理大夫」、家老桂右衛門に上京を命ず。「12月6日出発、明年3月11日帰藩。」 元権中納言三条実美等、従士清岡岱作「公張・変名武部諌尾・元高知藩士」・同中岡慎太郎「道正・変名大山彦太郎・同上」を応接掛と為す」。

★慶應1年11月22日、「広島藩、征長諸軍の下向を藩内沿道の代官に達し、宿舎・糧食等を処弁せしむ。 英国特派全権公使パークス、幕府に牒し、総理大臣パーマーストン卒し、新にラッセルを総理大臣に、クラレンドンを外務大臣に任ぜしことを報ず」。

★慶應1年11月23日、「米国代理公使ポートマン、幕府に牒し、故大統領アブラハム・リンカーン遭難弔問に対する政府の謝意を致す。又本国の内乱戡定し、艦船の来航増加すべきを告げ、横浜に病院の建設地を貸与せんことを求む」。

★慶應1年11月23日、「萩藩士谷潜蔵、書を同太田市之進「直方・後御堀耕助」・同佐佐木男也「一貫」・同山県狂介「有朋」・同片野十郎・同福田良輔「公明」・同林半七「友幸」・同堀真五郎「義彦」・同赤川敬三等に寄せ、各隊一致して内変外敵に当るの急務を説く」。

★慶應1年11月24日、「老中本荘宗秀・若年寄立花種恭「出雲守・下手渡藩主」等、大坂より横浜に帰著す。即日、仏国全権公使ロッシュ、明日、ロッシュ及英国特派全権公使パークスと会し、国交の増進・兵庫開港の中止及下関償金支払の延期等に就て相議す」。