★慶應3年10月2日、「高知藩、将に大政奉還の建議書を幕府に上らんとし、重臣後藤象二郎「元燁」・同福岡藤次「孝弟」等、其草案を鹿児島藩士小松帯刀「清廉」・同西郷吉之助「隆永」・同大久保一蔵「利通」に提示して同意を求む。折衝数次、是日、帯刀等異議なきを答ふ」。

★慶應3年10月3日、「萩藩、鹿児島藩兵来著遷延するを以て、三藩兵の東上延期を策し、特使を鹿児島・広島藩及京都鹿児島藩邸に急派して之を協商せしむるに決し、是日、藩士杉孫七郎「重華」・中村誠一・福田侠平「公明」を広島に赴かしむ。五日、孫七郎等、広島に入る。且、侠平を京都に上らしめ、六日、侠平、広島藩士永田権介と倶に、上京の途に就く。尋で五日、藩士野村靖之助「靖」・椙原治人「恒幹」を鹿児島に赴かしむ。八日、靖之助等、下関を発す」。

★慶應3年10月3日、「広島藩家老辻将曹「維嶽」等、大坂より書を藩庁に致し、京都の形勢一変せるを以て、三藩「鹿児島・萩・広島」兵の東上を延期せんことを請ふ「二日」。是日、広島藩、藩士黒田益之丞を山口に急派し、萩藩に其旨を通ぜしむ。益之丞、四日夜周防三田尻に著し、翌日山口に入り、萩藩主毛利敬親等と会す」。広島滞在中の萩藩士広沢兵助「真臣」書を益之丞に託して、旨を藩庁に報じ、且、直ちに広島藩士植田乙次郎「常戩」と倶に、上京の途に就く」。

★慶應3年10月3日、「在仏国全権向山一履「隼人正・若年寄並外国奉行」、仏国博覧会に出陳せる国産品を巴里に於て販売するに決し、其経費を定む。尋で、物品価格を定め、仏国人シエリオンに其販売を依託し、契約を締結す」。

★慶應3年10月3日、「幕府、横須賀製鉄所首長仏国人ウェルニー及英・仏・米三国士官に燈台建設地検分を委嘱し、軍艦富士山に搭乗して巡航せしめんとす。是日、英国公使館員サトウ、士官等氏名を軍艦頭肥田浜五郎に報ず」。

★慶應3年10月3日、「盛岡藩主南部利剛「美濃守」申ねて書を幕府に上り、凶作及び宿痾に依り、参覲し難きを稟す。元権中納言三条実美等不日帰洛せんとするを以て、警衛の鹿児島・福岡・熊本・久留米・佐賀五藩、各金五百両を贈る」。

★慶應3年10月3日、「前福井藩主松平慶永「大蔵大輔」、書を老中板倉勝静「伊賀守・備中松山藩主」に致し、藩の軍制改革のため、幕府奥詰西周助「周」・同津田真一郎「真道」の内一人を暫時傭聘せんことを請ふ」。

★慶應3年10月3日、「前高知藩主山内豊信「容堂」、藩士後藤象二郎・同福岡藤次をして、書を幕府に上り、大政を奉還せんことを建言せしむ。明日、藩士寺村左膳・同神山左多衛をして建白書写を摂政二条斉敬に上らしむ」幕府、麾下士小笠原長穀「加賀守」を留守居と為す」。

★慶應3年10月4日、「高知藩士後藤象二郎等、会津藩士外島機兵衛「義直」等と会見し、大政奉還を幕府に建白せしを告げ、援助を求む。幕府、英国特派全権公使パークスに委嘱して、大将軍徳川慶喜より同国香港総督に物を贈り、我が漂流民救助の好意を謝す」。

★慶應3年10月4日、「幕府、使番の平服を改む。幕府、兵庫に於て貿易商社を設立するも、他三港「長崎・神奈川・箱館」と同じく自由に商業を営むを得べきを令す。尋で「十一日」之を各国公使に報ず」。

★慶應3年10月5日、「権中納言中御門経之、鹿児島藩士大久保一蔵を引見し、広島藩の態度優柔不断、憂慮に堪へざるを告ぐ。一蔵、鹿児島・萩両藩の盟約確乎不動なるを陳じ、明日、萩藩士品川弥二郎「日孜」と共に、経之の岩倉村別業に、経之及前右近衛権中将岩倉具視「友山」に謁し、王政復古の方略を謀議す。具視、太政官の職制案を示し、又処士玉松操「真弘」の考案に成る錦旗の図を授け、其製作を一蔵等に託す。尋で、一蔵、其材料を購ひ、弥二郎、之を山口に携行して錦旗に調製し、山口と京都鹿児島藩邸に分ち、之を蜜蔵す」。

★慶応3年10月6日、「鹿児島藩士大山格之助「綱良」・堀直太郎「為影」・三島弥兵衛「通庸」等、藩命に依り兵四百人を率い、豊瑞丸に乗じ、上京の途、是日、周防国「佐波郡」三田尻に至る。明日、萩藩士柏村数馬・国貞直人等、藩命を以て来り、上国の形勢を陳じ、東上の延期を説く。格之助等、之に賛し、姑く三田尻に留り、弥兵衛・直太郎は、直人等と共に、即日、豊瑞丸に乗じ、広島を過り、上坂の途に就く。「九日、安芸江波に入港、十一日、大坂に著す」。尋で「九日」鹿児島藩軍艦翔鳳・平運二艦、周防国「佐波郡」小田浦に至り繋泊す」。

★慶応3年10月6日、「幕府、令して、麾下士「当主子弟厄介十五歳より三十五歳迄」の歩・騎・砲三兵伝習希望者は、本月二十日を限り、陸軍所に出願せしむ。広島藩主浅野茂長「安芸守」、家老辻将曹をして、書を幕府に上り、大政奉還を勧説せしむ」。

★慶應3年10月8日、「鹿児島藩士小松帯刀・同西郷吉之助・同大久保一蔵・萩藩士広沢兵助・同品川弥二郎・広島藩士辻将曹・同植田乙次郎・同寺尾生十郎「由慰」等、鹿児島藩士の仮寓「京都上立売」に会し、兵を備へて王政復古の大業断行を議決す。乃ち一蔵・兵助・乙次郎、権中納言中御門経之の邸に詣り、前権大納言中山忠能及経之に謁し、三藩士決議の要目を呈し、別に帯刀・吉之助・一蔵連署の三藩連合の趣旨を陳じたる書を上り、特に討幕の勅命降下に斡旋せられんことを請ふ。明日、前右近衛権中将岩倉具視も、また王政復古遂行に関する意見書を草し、忠能に頼り、之を密奏せしむ」。

★慶應3年10月8日、「征夷大将軍徳川慶喜、内命を京都守護職松平容保「肥後守・会津藩主」に下し、新撰組をして老中板倉勝静・若年寄格永井尚志等を護衛せしむ。幕府、令して、兵庫港碇泊の諸藩軍艦、石炭欠乏の際は、石炭会所に就きて之を購入するを許す」。

 

★慶應3年10月9日、「英国特派全権公使パークス・蘭国総領事ファン・ポルスブルック、書を幕府に贈り、七尾「能登」開港を断念し、新潟開港と共に、夷港「佐渡」を繋船場と為すに同意を表す。尋で、米国弁理公使ファン・ファルケンブルク・仏国全権公使ロッシュ、また然り。幕府、書を復して「二十九日」新潟開港の期を三个月延さんことを求む」。

★慶應3年10月9日、「在京老中板倉勝静・所司代松平定敬「越中守・桑名藩主」、高知藩の大政返上建議のこと及討幕の陰謀行はれ、時事切迫の事情を、在府老中稲葉正邦に報ず」。

★慶應3年10月10日、「萩藩士の上京と共に、鹿児島・広島藩士等暴発、戦端を開くべしとの説洛中に行はる。是日、京都守護職松平容保、自藩の在京大砲組頭等に令し、警戒を厳にせしむ。江戸市街中、劫盗横行するを以て、旧幕府、譜第諸侯に諭して、鎮緝の方を陳せしむ」。

★慶應3年10月10日、「老中板倉勝静、大将軍徳川慶喜の意を承け、書を前福井藩主松平慶永に寄せ、高知藩大政返上建議の事情を報じて慶永の意見を求め、其上京を促す。慶永、書を復して輙く所見を明言する能はざるを陳じ、藩士酒井十之丞「忠温」を上京せしむべきを答ふ」。

★慶應3年10月11日、「徳川慶喜、直書を徳川慶勝及和歌山藩主徳川茂承に与へ、大政奉還の建議ありしことを告げ、該建議は大至当の理論なるも実行の利害得失は俄かに決し難き所以を陳じ、各其意見を徴し、入京を促す。是日、老中板倉勝静、二藩重臣を召し、之を伝ふ」。

★慶應3年10月11日、「遣欧特使徳川昭武「民部大輔・清水家主・大将軍徳川慶喜弟」、伊太利駐紮英国公使の勧誘を容れ、英艦に乗じ伊太利リヴォルノ港を発し「七日」 是日、英領マルタ島に上陸す」。

★慶應3年10月11日、「高知藩士後藤象二郎・同福岡藤次、大政奉還建白の採否を老中板倉勝静・若年寄格永井尚志に促す。是日、尚志、書を象二郎に復し、其採納を内示し、来会を求む」。

★慶應3年10月12日、「高知藩士福岡藤次・同神山左多衛「郡廉」、摂政二条斉敬に謁し、大政返上を幕府に建議せる趣旨を述べ、幕府奏請せば、之を允許せられんことを請願す」。

★慶應3年10月12日、「萩藩世子毛利広封「長門」、広島藩世子浅野茂勲「紀伊守」と新湊「周防国玖珂郡」に於て会見を約す。会々広封病あり。是日、山口発足を延期す」。

★慶應3年10月12日、「幕府、書を各国公使に贈り、江戸近郊に於る銃猟禁止を在留国人に布告せんことを求め、明日、更に之を府内士庶に令す。幕府、書を各国公使に贈り、中黒軍艦旗の掲揚廃止を告ぐ」。

★慶應3年10月12日、「老中格大給乗謨「縫殿頭・陸軍総裁・田野口藩主」書を老中稲葉正邦等に贈り、自藩財政困難の事情を訴へ、外国総裁の内命を辞す。熊本藩、藩内に節倹を令し、武備を修せしむ」。

★慶應3年10月12日、「徳川慶喜、大政奉還を決意し、松平容保・松平定敬等在京有司を二条城に召見して之を諭告す。老中板倉勝静等、また之を在府老中等に報じ、其一両名の上京を促す。若年寄並平山敬忠・目付新見正興、是日、京都を発し、江戸に帰る。十六日、帰著す」。

★慶應3年10月12日、「萩藩主毛利敬親、使番中谷茂十郎を中関「周防国佐波郡」碇泊の鹿児島藩軍艦「平運・翔鳳」に遣し、酒肴を贈りて、其労を慰す。幕府、香春藩の願に依り、豊前国「上毛郡」小祝村及高浜の上知を命じ、中津藩領同国同郡直江・土屋垣村等の地を給す」。

★慶應3年10月13日、「京都守護職松平容保、久世河原に於て、大砲実弾射撃を行はんことを請ふ。征夷大将軍徳川慶喜、在京十万石以上諸藩の重臣を二条城に召集し、大政奉還決意書を示して諮問し、且、其藩主の上京を命ず。鹿児島藩士小松帯刀・高知藩士後藤象二郎・広島藩士辻将曹・岡山藩士牧野権六郎・宇和島藩士都筑荘蔵、特に慶喜に謁して、直に奏請せんことを勧説す。慶喜、所司代松平定敬及目付梅沢孫太郎を摂政二条斉敬に遣し、在京諸藩の重臣等に大政奉還の決意を告げ、衆議を徴せんとするを報ぜしむ」。

★慶應3年10月13日、「普国代理公使フォン・ブラント、書を幕府に贈り、北独逸連邦旗を掲揚せる船舶に対し、諸開港場に於て、普国船と同一に取扱はんことを求む「24日、公使館書記官スネルも、また之を外国奉行並糟谷義明に請ふ」11月朔日、幕府、書を復して諾す」。

★慶應3年10月13日、「所司代松平定敬、禁門内警衛の名古屋・和歌山・水戸三家を日御門・台所門等の守衛に変更せんことを請ふ。批して、姑く旧に仍らしむ。佐倉藩主堀田正倫「相模守・時に江戸に在り」書を幕府に上り、藩兵の操練検閲のため、一週間の帰暇を請ふ」。

★慶應3年10月13日、「前近衛権中将岩倉具視、鹿児島藩士大久保一蔵・萩藩士広沢兵助「真臣」を引見し、前権大納言中山忠能に代りて、鹿児島藩主島津茂久・同生父久光に賜へる討幕の詔書を一蔵に、萩藩主毛利敬親父子官位復旧の宣旨を兵助に授く」。

★慶應3年10月14日、「十四日、征夷大将軍正二位内大臣兼右近衛大将徳川慶喜、上表して、政権を奉還せんと請ふ。幕府、大宮御所造営費を全国に課し、其上納の節目期限を定む」。

★慶應3年10月14日、「幕府、鹿児島藩士小松帯刀・広島藩士辻将曹・高知藩士後藤象二郎・同福岡藤次等に旨を授け、摂政二条斉敬に謁し、大政奉還の奏請を速に勅許あらんことを請はしむ。幕府、軍艦奉行並赤松範静「左京・播磨守」を軍艦奉行と為す」。

★慶應3年10月14日、「前権大納言正親町三条実愛、鹿児島藩士大久保一蔵・萩藩士広沢兵助を引見し、兵助に萩藩主毛利敬親・同世子定広「広封」に賜ふ討幕の詔書「島津茂久父子に賜へるものと同文」を授く。一蔵・兵助の鹿児島・萩二藩主父子に京都守護職松平容保・所司代松平定敬誅伐を命ぜる宣旨及錦旗を授く。即日、一蔵・兵助及鹿児島藩士小松帯刀・同西郷吉之助・萩藩士福田侠平・同品川弥二郎、連署、請書を上る。「萩藩世子は、是より先広封と改名せるも、特に詔書の字に従ひ定広とす。」

★慶應3年10月14日、「征夷大将軍徳川慶喜、上表して大政を奉還せんことを請ふ。中務卿幟仁親王「有栖川宮」・弾正尹朝彦親王・太宰帥熾仁親王「有栖川宮」・常陸太守晃親王「山階宮」・摂政二条斉敬・左大臣近衛忠房・右大臣一条実良等に参朝を命じ、其措置を議せしむ」。

★慶應3年10月15日、「徳川慶喜に詔して、其政権奉還の請を允し、命して、国家の大事、及ひ外国の事項は、衆議を尽し、諸侯の稟奏、及ひ命令等は、議奏伝奏之を掌り、其他更革は、諸侯会同を待て之を議定し、支配地、及ひ都下取締は、姑く其旧に仍らしむ。乃ち十万石以上の諸侯を招集し、又特に松平慶永「大蔵大輔、春嶽と号す○越前藩主茂昭の父」鍋島斉正「前肥前守、閑叟と号す○肥前藩主茂実の父、時に松平氏を称す」山内豊信「容堂と号す○土佐藩主豊範の父、時に松平氏を称す」伊達宗城、島津久光「大隅守○薩摩藩主茂久の生父」を召す」。

★慶應3年10月15日、「征夷大将軍徳川慶喜、参内す。詔して大政奉還の請を允す。乃ち令して、政務委任の条目を定め、且十万石以上の諸侯に上京を命じ、特に徳川慶勝・松平慶永・島津久光・伊達宗城・山内豊信・浅野茂長・前佐賀藩主鍋島斉正・岡山藩主池田茂政を召す」。

★慶應3年10月17日、「外国事務総裁小笠原長行・若年寄立花種恭「出雲守・下手渡藩主」等、長行の邸に於て、英国特派全権公使パークスとイカルス号水夫殺害犯人検挙に関し、会議す。外国総奉行平山敬忠、帰府「十六日」し、是日、其席に列せんとす。パークス、之に快からず退座す。尋で「19日」 長行等、またパークスと会見す」。

★慶應3年10月17日、「鹿児島藩士小松帯刀・西郷吉之助・大久保一蔵、京都を発し、帰藩の途に就く。在京高知藩士後藤象二郎、書を在長崎同藩士佐佐木三四郎に致し、大政奉還の事情を告げ、なほ、前藩主山内豊信上京を命ぜられたるを以て、藩船夕顔丸の藩地帰航を求む」。

★慶應3年10月18日、「本願寺光沢、大坂の支院を以て、三条実美等「三条西季知、東久世通禧、壬生基修、四条隆謌」の旅寓に充るを稟す。是より先、徳川慶喜、十万石以上の諸侯をして京師に至らしむ、「細川護久、池田輝知家記」、是日、又一万石以上の者を召集す」。

★慶應3年10月18日、「鹿児島藩長崎聞役汾陽次郎右衛門、仏国人モンブランを同藩に招聘することあるべきを長崎奉行に稟す。20日、奉行所、外人の不開港場に至るを禁ずる旨を達す。十八日、徳川慶喜、書を上り、在京諸侯及ひ藩士を召して、外国事務を商議せんと請ふ」。

★慶應3年10月18日、「鹿児島藩、更に藩兵一大隊を上京せしめんとし、藩士中異議を生ず。是日、藩主島津茂久、直書を下し、禁闕守衛のため、出兵避け難き所以を論示す」。

★慶應3年10月18日、「元権中納言三条実美、鹿児島・萩・広島3藩兵東上の計画遷延するを憂ひ、従士安芸盛衛を萩藩に遣して、事情を探らしむ。盛衛、25日、山口に抵り、晦日、太宰府に還り、復命す。後月輪東山陵、竣工す。御内儀諸人及摂政以下堂上の参拝を許す」。

★慶應3年10月19日、「老中板倉勝静、申ねて書を前福井藩主松平慶永に致し、大政奉還を報じて其の上京を促す「17日」。是日、慶永、書を復して、先づ家士酒井十之丞「忠温」をして出京せしむべきを答ふ」。

★慶應3年10月20日、「征夷大将軍徳川慶喜、書を仏国全権公使ロッシュに贈り、幕府成立の由来と、這次、大政を奉還するに至りたる心事とを告げ、其厚誼を謝し、尚一層の尽力を嘱す。幕府、製鉄所奉行並岡田忠養を作事奉行、歩兵頭向井豊前守を製鉄所奉行並と為す」

★慶應3年10月21日、「徳川慶喜、三条実美等の措置を稟す、前田利鬯、島津茂久、徳川徳成、伊達慶邦、徳川茂承、細川応順、黒田斉溥、浅野茂長、鍋島茂実、徳川慶篤、池田慶徳、、池田茂政、蜂須賀斉裕等。家臣も亦各答議を上る」。

★慶應3年10月20日、「前権大納言正親町三条実愛等10人、連署して親族元権中納言三条西季知・同三条実美との義絶を宥免せんことを請ふ。尋で、元左近衛権少将東久世通禧・元修理権大夫壬生基修・元侍従四条隆謌の親族等も、また同じく之を奏請す」。

★慶應3年10月21日、「幕府、在府諸侯及麾下士の登営を命じ、大政奉還の勅許及其後の朝旨を達示す。二十一日、十万石以下の諸侯を召集す。「石川成徳家記」10万石以下の諸藩主に命じ、速に京都に上らしむ」。

★慶應3年10月21日、「書を前権大納言正親町三条実愛邸に投じ、摂政二条斉敬以下廷臣、大将軍徳川慶喜の大政奉還後更に改革を行はず、再び政権を慶喜に委任せんとする態度ありと、弾劾する者あり」。

★慶應3年10月21日、「宮津藩主本荘宗武、書を幕府に上り、京都の形勢不穏なるを以て、八幡警守の兵を増し、自ら同地に赴くべきことを稟す。鳥取藩主池田慶徳、藩士永田蘇武之助等を岡山藩主池田茂政に遣し、時局変転に際し、進止を一にせんことを求む。茂政、之に賛す」。

★慶應3年10月21日、「前権大納言中山忠能、鹿児島藩士吉井幸輔を召し、大将軍徳川慶喜大政を奉還せるを以て、鹿児島・萩二藩に討幕の実行を中止すべき聖旨を伝達す。征夷大将軍徳川慶喜及鹿児島・広島・高知・仙台・名古屋・和歌山諸藩重臣、各昨日の諮問に奉答す」。

★慶應3年10月22日、「外国事務総裁小笠原長行、書を各国公使に贈り、大政奉還勅許ありしことを通告す三田藩主九鬼隆義「長門守」家士に大将軍徳川慶喜大政奉還の事を告げ、徳川氏の累恩に一藩の力を挙げて報ずべきを説き、士気の砥砺を諭す」。

★慶應3年10月22日、「広島藩世子浅野茂勲、書を家士寺尾生十郎等に授けて鹿児島・高知・福井・宇和島4藩に遣し、協力して国事に尽力せんことを議らしむ。福知山藩士飯田節「高節・贈従五位」、鹿児島藩士と誤認せられ、京都祇園に於て幕府巡邏のために殺害せらる」。

★慶應3年10月22日、「萩藩士椙原治人、鹿児島より山口に帰著す。鹿児島藩士黒田嘉右衛門「清隆」また山口に至る。徳川慶勝「大納言○尾張藩主、徳成の父」、幕府親藩の首に居り、匡輔すること能はさるの罪を謝し、其官爵を貶黜せんと請ふ」。

★慶應3年10月22日、「前名古屋藩主徳川慶勝、書を岡山藩主池田茂政及鳥取藩主池田慶徳に致し、慶勝、親藩の地位に在りて、幕府匡輔の任を尽す能はざりしを公武に陳謝せるを告げ、両人の速に上京せんことを促す」。

★慶應3年10月22日、「前名古屋藩主徳川慶勝、書を弟会津藩主松平容保に致し、京都守護職を辞職せんことを慫慂す。尋で「25日」慶勝、家士尾崎八右衛門「忠征」を前関白近衛忠煕の邸に遣し、容保を諭して辞職・帰藩せしめんことを内請せしむ」。

★慶應3年10月22日、「外国総奉行並山口直毅「駿河守」等、書を幕府に上り、横浜・長崎・箱館3港に於る貿易は、大政奉還諸事決定に至る迄、依然改変なき旨を、3港奉行より布達せしめ、市民に動揺なからしめんことを建議す」。

★慶應3年10月22日、「在京10万石以上諸藩の重臣を召し、幕府禀奏の8个条・外交処置及元権中納言三条実美等上坂後の措置に関する朝裁を示達す。大将軍徳川慶喜、疾に依り、参内せず」。

★慶應3年10月23日、「鹿児島藩士小松帯刀・同西郷吉之助・同大久保一蔵、萩藩士広沢兵助・同品川弥二郎等と共に、三田尻に上陸「二十一日」す。是日、帯刀・吉之助、弥二郎に伴はれ、山口に入り、萩藩主毛利敬親に謁し、上国の形勢を陳じ、凝議す。「二十一日、兵助既に討幕の密勅を敬親に伝達す。」 明日、帯刀・吉之助・一蔵、三田尻を発し、鹿児島に向ふ。「曩に三田尻滞泊の鹿児島藩兵は別に軽舸を以て上坂せしめ、汽船は鹿児島に回航す。」幕府、書を仏朗西国公使に与へ、浦上村耶蘇教徒処分の事を告く」。


★慶應3年10月24日、「征夷大将軍内大臣徳川慶喜、上表して大将軍職を辞せんことを請ふ。批して「二十六日」諸藩主上京後朝命あるまで姑く旧に依らしむ」。

★慶應3年10月24日、「二十四日、徳川慶喜、上表して、征夷大将軍を辞す。遣欧特使徳川昭武、英領マルタ島を発航し「十六日」、仏国馬耳塞に上陸「二十二日」、是日、また巴里に帰る」。

★慶應3年10月24日、「幕府、書を英国特派全権公使パークスに贈り、江戸居留地規則及江戸横浜間運送船規則の実施を報じ、且、外国居留民の夜間外出は、危険の恐あるを以て、必ず護衛を付すべきを通告す。尋で、仏・米・蘭・普各国公使にも、また同じ」。

★慶應3年10月25日、「是より先、薩、芸、長三藩謀を通し、薩兵周防港に来会し、将に芸兵と倶に東上して計画する所あらんとす、幕府大政奉還の表入り、諸侯の召命新に出るに会す、三藩乃ち其図を改め、薩兵をして先つ京に入らしめ、又島津茂久若くは久光を其藩より迎ふ」。

★慶應3年10月25日、「在京鹿児島藩士吉井幸輔、書を在江戸同藩士益満休之丞「行高」・伊牟田尚平に致し、上国の形勢及本藩の態度を告げ、江戸藩邸内の諸浪人を姑く鎮静し、後報を待たんことを求む」。

★慶應3年10月26日、「二十六日、本多忠民「美濃守」家臣、伏見警守事項の稟請、及ひ三条実美等待接の事を幕府に請問す、幕府、令して、稟請は姑く其旧に依らしむ。米国人ヴァン・リード、書を外国奉行江連尭則「加賀守」等に贈り、我政府に傭聘せられんことを請ふ」。

★慶應3年10月26日、「幕府、邦内寄寓の支那人、及ひ条約未済国人取締法を設け、之を各国公使領事に告く。神奈川奉行水野良之「若狭守」、未締盟国臣民取締規則に依り、在留清国人に、免許状下付の手続を履行せんと欲し、先づ之を英国特派全権公使パークスに議る」。

★慶應3年10月26日、「英国特派全権公使パークス、書を幕府に贈り、兵庫に商社設立の趣旨及経営者の通告を求め、又石炭無税輸出の承諾書を得んことを請ふ。幕府、書を復して、前者の需に応じ、後者を拒否す」。

★慶應3年10月26日、「鹿児島藩家老島津備後「忠鑑・珍彦・藩主茂久弟」参内、天機を候す。内旨を幕府に下し、今明年を以て静寛院宮上洛の事を議せしむ。是日、幕府、来る午年「仁孝天皇聖忌」まで、便宜、之を延期せんことを請ふ」。

★慶應3年10月26日、「鹿児島藩士小松帯刀・同西郷吉之助・同大久保一蔵等、鹿児島に帰著す。即日、藩主島津茂久父子に謁し、上国の形勢及討幕の勅書降下の事を陳ず。尋で「二十九日」 茂久、兵を率いて上京するの藩議を決す」。

★慶應3年10月27日、「英国特派全権公使パークス、幕府の招聘せる教師英国海軍士官トレシー大尉・ウイリソン中尉等四人を随へ、外国事務総裁小笠原長行を其邸に訪ひて、之を紹介す。徳川慶喜の辞表に批し、姑く其旧に仍り、諸侯朝会公議決裁を待たしむ」。

★慶應3年10月28日、「高知藩士坂本龍馬「直柔・才谷梅太郎」前藩主山内豊信の書を齎らして、是日、福井に至り、前福井藩主松平慶永の上京を促す。前福井藩主松平慶永、重臣と上京の可否を議し、公武の召命に応ずべきに決す」。

★慶應3年10月29日、「在長崎鹿児島藩士伊地知壮之丞「貞馨」、在藩大久保一蔵に軍艦購入の事を報じ、且、各国軍艦摂海に集合せんとする形勢あるを告げ、一蔵の上京を促す。高知藩士神山左多衛・福岡藤次、正親町三条実愛に謁し、王政復古・庶政変革等に関して建議す」。