慶應2年9月1日、「常陸太守晃親王「山階宮」書を前福井藩主松平慶永「大蔵大輔」に贈り、前日「八月晦日」の諸卿列参等の状を報じ、且天下の為に努力せんことを求む。慶永、書を親王に復し、諸侯朝召の遅延せざらんことを請ふ。親王、亦書を之に復す」。

慶應2年9月2日、「軍艦奉行勝義邦「安房守」、萩藩士広沢兵助「真臣」・高田春太郎「惟精・後馨・井上聞多」・太田市之進「直方・後御堀耕助・変名春木強四郎」・長松文輔等と厳島大願寺に会し、幕府・萩藩休兵の事を議す。義邦、是夜、厳島を発し、三日、広島に至る」。

 

慶應2年9月5日、「鹿児島藩士大山格之助「綱良」・同西郷信吾「従道」等、博多「筑前」を発し、山口に赴く。尋で「九月二十四日」太宰府「筑前国筑紫郡」に帰る」。

慶應2年9月8日、「萩藩士木戸準一郎「孝允・前名桂小五郎」・同前原彦太郎「一誠」、互に書を往復し、小倉藩と講和に関する意見を交す。尋で「二十一日」鹿児島藩士大山格之助、書を準一郎に寄せて、休戦・撤兵の事を勧む」。

慶應2年9月8日、「福井藩主松平慶永、藩士青山小三郎「貞」を鹿児島藩京都邸に遣し、同藩主茂久生父島津久光の朝召応否に就て、同藩士岩下佐次右衛門「方平」に問はしむ。佐次右衛門、同藩士大久保一蔵「利通」と議し、邸議、趨命に決せる旨を答ふ。慶永、書「七日付」を佐次右衛門に託して久光に贈り、速に上京し、匡救に戮力せんことを促す。慶永、亦書「七日付」を高知藩士武市八十衛に託して、前同藩主山内豊信に贈り、諸侯朝召に至れるの状を陳じ、病を力めて上京せんことを望む。二十日、豊信、復書し、宿痾依然、上京し難き旨を答ふ」。

慶應2年9月16日、「福岡藩士藤四郎「親茂」等、萩藩士谷潜蔵「春風・初名高杉晋作」等と謀り、野村望東「福岡藩士野村貞実妻」を姫島「筑前国・糸島郡」の囚獄より奪ひ、下関に至り、商白石正一郎「資風」の家に扶養す」。

慶應2年9月19日、「英国特命全権公使パークス、幕府に牒し、速に海外渡航者に旅行券を発行するの確証を得んことを要む。尋で「二十九日」幕府、旅行券を制定して、英・米・蘭・露等諸国使臣に移牒す」。

 

慶應2年9月21日、「福井藩士青木小三郎、鹿児島藩士内田仲之助「政風」を訪ひ、其藩主茂久生父島津久光上京のことを糺す。黄昏、仲之助、小三郎を訪ひ、朝議の情偽を問ふ」。

慶應2年9月23日、「英国公使館通弁官シーボルト・士官ブラッドショウ、故大将軍葬送の行列を観んとし、愛宕山「芝」其他に於て警固の士と衝突す。明日、幕府、状を同国特命全権公使パークスに報じ、抗議す。パークス、亦之に応酬す」。

慶應2年9月27日、「鹿児島藩士大山格之助、書を萩藩士木戸準一郎等に贈り、福岡藩使者真藤登等の修好の為、萩藩に赴くことを報じ、依頼するところあり」。大山綱良、研究を深めたい人物。

慶應2年9月27日、「前左近衛権中将岩倉具視「友山」、書を近衛家家士井上石見「長秋・鹿児島藩士」に与へ、鹿児島藩に倚頼する意を叙べ、時務策数条を披陳し其密謀を援助せんことを要む。熊本藩主細川慶順弟長岡良之助、京都に至る。側衆室賀正容「伊予守」京都に至る」


慶應2年9月28日、「幕府、英国特派全権公使パークスに牒し、派遣すべき留学生の姓名「川路太郎・中村敬輔・設楽岩太郎・成瀬錠五郎・外山捨八・箕作奎吾・林桃三郎・伊東昌之助・億川一郎箕作大六等」を提示し、之を本国政府に報じて便宜を与へられんことを依頼す」

慶應2年9月28日、「英国特派全権公使パークス、幕府に牒し、米価暴騰の為、府下窮民等の旅館に来りて賑恤を請ふ者多きを告げ、速に外国米を輸入して、之を救済せんことを勧告す。尋で、仏国全権公使ロッシュ「九月二十九日」・米国弁理公使ファン・ファルケンブルグ「十月六日」等、また同じく之を勧告す。幕府、パークスに復し「十月三日」承諾の旨を答ふ」。