慶應3年8月2日、「英国特派全権公使パークス、書を幕府に贈り、パークス及副領事等の大坂滞在のため、大坂東町奉行所・一橋邸及神戸元海軍操練所の賃貸を請ふ。幕府、奉行所を拒み、他の貸渡を諾す。尋で「晦日」 パークス、なほ、奉行所を借らんことを要む」。

慶應3年8月3日、「高知藩士由比猪内・佐佐木三四郎「高行」等、帰藩し、英国特派全権公使パークス長崎に於る同国水夫暗殺事件審糺のため、近日来航すべきことを報ず」。

慶應3年8月3日、「英国特派全権公使パークス、公使館員ミットフォード等を伴ひ、海軍中将ケッペルと共に、徳島藩の招きに応じ、阿波国勝浦郡小松島浦根井に著し、是日、徳島に至る。藩主蜂須賀斉裕「阿波守」之を城内に引見す。明日、パークス等、徳島を発し高知に向ふ」。

慶應3年8月4日、「前福井藩主松平慶永・前高知藩主山内豊信「容堂」・前宇和島藩主伊達宗城「伊予守」・鹿児島藩主茂久「修理大夫」生父島津久光「大隅守」の、曩に「五月二十六日」萩藩処分及兵庫開港に関し、朝旨を候せるに批答し、旨を幕府に請はしむ」。

慶應3年8月6日、「元権中納言三条実美等、家士及随従諸士に、時勢の切迫に鑑み、文武に精励すべきを諭し、其規定を定む。
遣欧使節徳川昭武「民部大輔・清水家主・大将軍徳川慶喜弟」仏国巴里を発し、連盟各国歴訪の途に就く。是日、瑞西国に入る」。

慶應3年8月6日、「鹿児島藩主茂久生父島津久光・前宇和島藩主伊達宗城、連署して書を上り、朝旨を幕府に問ふべしとの曩日「四日」の朝命、其理なきを陳じ、申ねて旨を候す。久光等に兵庫開港勅許の事由を諭示し、伺書を却下す」。

慶應3年8月6日、「英国特派全権公使パークス、英艦に乗じ、須崎港「土佐国高岡郡」に至る。高知藩主山内豊範「土佐守」藩士渡辺弥久馬・後藤象二郎「元耀」・由比猪内・佐佐木三四郎を遣し、パークスと応接せしむ。外国総奉行平山敬忠「図書頭」等、之に列す。パークス、長崎に於る同国水夫殺害を高知藩人の所為と疑ひ、厳談す。象二郎等、其証跡なきを弁じ、折衝三日に亘る。乃ち藩士佐佐木三四郎を英国公使館通弁官サトウと共に長崎に差遣し、犯人を探査せしむるに決す。敬忠及幕府大目付戸川安愛等、また長崎に向ふ、パークスは、兵庫に帰航す「九日」

慶應3年8月7日、「海軍奉行勝義邦「安房守」書を前福井藩主松平慶永に復し、幕府財政窮迫して施政の見るべきものなく、唯、大勢の推移に委するの外なきを述ぶ」。

慶應3年8月7日、「征夷大将軍徳川慶喜、書を仏国皇帝ナポレオン三世に贈り、国情未だ信教の自由を認むるに至らざるを告げ、同国宣教師の布教を禁止せんことを求め、又、同じく書を全権公使ロッシュに与へ、教徒処分に同意せるを謝し、布教を厳禁せんことを要む。老中板倉勝静、また書をロッシュに致して其意を申ぬ。尋で、外国事務総裁小笠原長行「壱岐守・老中・唐津藩世子」在仏外国奉行向山一履「隼人正」・同栗本鯤「安芸守」に事情を報じ、仏国政府に懇談、誤解なからしむ」。

慶應3年8月8日、「幕府、郡山藩に令し、九月朔日以後、大坂天保山砲台に於て、同港出入の連盟各国軍艦と、礼砲を交換せしむ。山陵衛士伊東申子太郎「武明・元新撰組士・元本堂親久家士」等、書を朝廷及幕府に上り、萩藩の処分を寛大にせんことを請ふ」。

慶應3年8月8日、「征夷大将軍徳川慶喜、京都守護職松平容保を召見し、政局の危急累卵の如く、特に鹿児島藩の態度憂慮すべきものあるを告げ、容保のなほ滞京して幕府を輔翼せんことを諭す。容保、命を奉ず。尋で「二十八日」世子喜徳「若狭守」の帰藩の請を聴す」。

慶應3年8月9日、「普国代理公使フォン・ブラント、蝦夷地視察より横浜に帰著す」。

慶應3年8月10日、「鹿児島藩士本田弥右衛門「親雄」 在京同藩士大久保一蔵「利通」に藩帑窮乏の情を陳べ、若し京都出兵等の事あらば、人心動揺の虞あるを告げ、京情を問ふ。又家老岩下左次右衛門「方平」の仏国人モンブラン等を伴ひ帰朝せることに関し、其事情を報ず」。

慶應3年8月10日、「幕府、長崎奉行に令し、曩に拘留せる浦上村耶蘇教徒を悉く村預と為さしむ。明日、之を仏国全権公使ロッシュに通告す。福岡藩士小川伊兵衛、京都より帰藩し、是日、太宰府「筑前国筑紫郡」に至り、元権中納言三条実美等帰洛の期に関し、其事情を報ず」。

慶應3年8月11日、「高知藩主山内豊信、英国公使館通訳官サトウを高知城下開成館に引見す。明日、藩士佐佐木三四郎、藩命を以て、サトウを伴ひ、藩船夕顔丸に搭じ須崎港出帆、長崎に向ふ。藩士坂本龍馬「直柔・才谷梅太郎」等、同船す。下関を経て、十五日、長崎に著す」。

 

慶應3年8月11日、「久保田藩主佐竹義尭「右京大夫」を右近衛権中将に任ず。棚倉藩主阿部正静「美作守」幕府使番梶清三郎等臨検の下に、其保管に係る元居城白河城を二本松藩主丹羽長国「左京大夫」に引渡を了す」。

慶應3年8月11日、「高知藩主山内豊信、英国公使館通訳官サトウを高知城下開成館に引見す。明日、藩士佐佐木三四郎、藩命を以て、サトウを伴ひ、藩船夕顔丸に搭じ須崎港出帆、長崎に向ふ。藩士坂本龍馬「直柔・才谷梅太郎」等、同船す。下関を経て、十五日、長崎に著す」。

慶應3年8月12日、「英国特派全権公使パークス、大坂より帰還し、是日、外国事務総裁小笠原長行を訪ひ、英国水夫暗殺犯人捜索及長崎奉行の後任に関し、質問す」。

慶應3年8月12日、「鹿児島藩家老桂右衛門「久武」在京家老小松帯刀「清廉」に藩政及出兵準備の状況を報じ、仏国人モンブラン等の招聘解除に関する措置及藩士の長崎遊学生銓衡困難の事情を告ぐ」

慶應3年8月12日、「京都三条通寺町に貼紙して、府下両替商等、物価昂騰の奸策を弄すと為し、なほ改心せざれば天誅を加ふべしと、威嚇する者あり。幕府、浜田藩主松平武聡「右近将監・時に美作国鶴田に在り」に居城帰還に至る迄、特に美作国に於て二万石を給す」。

慶應3年8月13日、「米国弁理公使ファン・ファルケンブルク 書を幕府に贈り、英国汽船の津軽海峡に於る難破に鑑み、日本近海航路図を得んことを請ふ。尋で、幕府、軍艦奉行勝義邦に命じ、之を交付せしむ」。

慶應3年8月13日、「英国特派全権公使パークス、書を幕府に贈り、箱館奉行杉浦勝静「兵庫頭」等の津軽海峡に於て難破せる「七月二十九日」英国汽船シンガポール船員を救済せし厚意を謝す」。

慶應3年8月13日、「幕府、大目付黒川盛泰「近江守」の致仕を聴す。外国奉行石野則常「筑前守」、白耳義全権公使ト・キントと光林寺「江戸麻布」に会し、修好通商及航海条約本書を交換す」。

慶應3年8月13日、「鹿児島藩主茂久生父島津久光、大坂に退いて病を養はんことを奏請す「十二日」。是日、之を聴す。「十五日、久光其途に就く。」前宇和島藩主伊達宗城、帰省を請ふ「十日」。是日、之を聴す」。

慶應3年8月14日、「萩藩士御堀耕助「直方・太田市之進」・柏村数馬、藩命を帯び入京、是日、鹿児島藩邸に於て小松帯刀・西郷吉之助「隆永」・大久保一蔵等と会見し、同藩の斡旋を謝し、藩情を問ふ。帯刀等、討幕挙兵の決意を告げ、方策戦略を協議す。尋で「十七日」 耕助等、京都を発し、鹿児島藩船「三邦丸」に乗じ帰藩す。「二十日、大坂出帆、二十四日、山口に帰著す。」

慶應3年8月15日、「米国弁理公使ファン・ファルケンブルグ、外国奉行江連尭則「加賀守」と会し、申ねて同国人ロバートソン損害賠償金「一万両」の決定を促す。浪士田中顕助「光顕・元高知藩士」下関より上京し、尋で、陸援隊に入隊す」。

慶應3年8月16日、「外国総奉行平山敬忠・大目付戸川安愛・長崎奉行能勢頼之・同徳永昌新「石見守」等、英国公使館通訳官サトウ・長崎駐在英国領事フラワーと会し、イカルス号水夫殺害犯人逮捕に関し、折衝す。爾後、会見数次「月を踰ゆ」。高知藩横笛・南海両船船員を喚問して、厳に犯跡の有無を審理し、其嫌疑殆ど解く。「高知藩士佐佐木三四郎・坂本龍馬等、此間に奔走、大に勗む」。尋で「九月十五日」サトウ、長崎を去る」。

慶應3年8月20日、「遣欧特使徳川昭武、瑞西を去り、蘭国に赴き、18日、首府海牙に入る。是日、国王ウイリヤム三世に謁す。高知藩士佐佐木三四郎・坂本龍馬、長崎に於て萩藩士木戸準一郎「孝允」と会し、時事を談ず。明日、準一郎、書を龍馬に致し、同藩の奮起を促す」

慶應3年8月20日、「前高知藩主山内豊信父子、重臣を召見し、不日、幕府の大政返上・万国公法による外国交際等大改革の議を朝廷及幕府に建言せんとするを告ぐ。藩主豊範も、亦海運を開き、商法を盛にすべきこと及討幕を唱ふるの不可を諭す」。

慶應3年8月20日、「幕府、故征夷大将軍徳川家茂「昭徳院」の1周忌法会を増上寺「江戸芝」に修す。是日、大将軍徳川慶喜、また知恩院「京都」に詣り、家茂の霊を拝す。幕府、海外渡航者には免状を下附し、其手数料を徴する旨を令し、手続を布告す」。

慶應3年8月22日、「征夷大将軍徳川慶喜、弾正尹朝彦親王「賀陽宮・国事掛」に面謁し、元武家伝奏野宮定功等4人の復職・萩藩の処分・静寛院宮「親子内親王・故大将軍徳川家茂夫人」の帰洛及外国公使等の入京等に関し、協議す。是日、慶喜、また摂政二条斉敬を訪ふ」。

慶應3年8月26日、「幕府、見廻組の左近衛権中将滋野井実在・左近衛権少将正親町公董・侍従鷲尾隆聚邸警守を罷め、会津・桑名2藩兵を以て之に代へ、明日、又見廻組の清所門及摂政二条斉敬邸勤番を罷め、会津・桑名2藩兵に清所門を、遊撃隊に斉敬邸を代り守らしむ」。

慶應3年8月26日、「元権中納言三条実美、従士戸田雅楽「尾崎三郎」を鹿児島藩士前田杏斎に附して長崎に遣し、外人の情況を捜らしむ」。

慶應3年8月28日、「仏国全権公使ロッシュ、書を大将軍徳川慶喜に呈し、幕府の職制・財政・軍制改革の要綱を陳説す。英・仏・普・伊国公使及露国領事、芝増上寺に将軍の霊廟を観る。遣欧特使徳川昭武、蘭国より白耳義国に赴き「27日」是日、国王レオポルド二世に謁す」。

慶應3年8月29日、「横浜在住米国商人ヴァン・リード 外国奉行江連尭則等に布哇国王の全権委任状の到著を報じ、日布条約に調印せんことを求む。尋で「9月12日」尭則等、米国弁理公使ファン・ファルケンブルグと会し、ヴァン・リードの全権を承諾する能はず、調印を延期するを告げ、之を同人に説明せんことを依嘱す」。

慶應3年8月是月、「弾正尹朝彦親王、大将軍徳川慶喜の内大臣宣下に斡旋す。幕府、堺奉行を廃し、其事務を大坂町奉行に移管す。「奉行池野好謙を罷め、勤仕並寄合と為す。」幕府、京都見廻組の制規を定め、之を厳守せしむ」。

慶應3年8月是月、「鹿児島藩、藩内に令して、外国人に対し軽挙暴行すること勿らしむ。萩藩、藩主毛利敬親の山口永住を布告し、軍政を刷新し、又石見・豊前二国に於ける占領地の租税を軽減す」。