慶應2年8月3日、「鹿児島・福岡・熊本・佐賀・久留米の五藩士、太宰府「筑前国筑紫郡」に会して萩藩兵の来りて元権中納言三条実美等五名を擁去せんとするの風説に就て対策を議る。尋で「五日」実美等、従士中岡慎太郎「道正・大山彦太郎・元高知藩士」及鹿児島藩士伊集院直右衛門「兼寛・同大山格之助「綱良」・熊本藩士古閑富次等を萩藩に遣し、藩情を視察せしむ」。

慶應2年8月6日、「米国弁理公使ファン・ファルケンブルク、幕府に牒し、風波或困窮に遭遇せる際を除き、三港「長崎・横浜・箱館」以外の日本港湾に寄航碇泊すべからざる事を該国人に布告せしを告げ、公文を以て日伊条約締結を通知せんことを望む」。

慶應2年8月9日、「熊本藩主細川慶順「越中守」弟長岡良之助「護美」、書を前福井藩主松平慶永に贈り、萩藩処分に関する意見を告げ、且小倉に於ける老中小笠原長行の失体を報じ、慶永の時務に斡旋せんことを望む」。

慶應2年8月11日、「鹿児島藩士西郷信吾「従道」広島を発し、山口に赴く。明日、岩国に抵り、萩藩士広沢兵助・同井原小七郎・同河瀬安四郎「真孝」等と会談す。尋で、信吾、山口を経て太宰府に至る」。

 

慶應2年8月11日、「老中水野忠誠「出羽守・沼津藩主」大坂より広島に著す。会津藩在京家老、書を在藩家老に贈り、萩藩征討の軍振はず、京都危急に瀕するを以て、藩主松平容保の石見口出征を決意するに至れるの状を報ず」。

慶應2年8月11日、「一橋家主徳川慶喜、老中板倉勝静・京都守護職松平容保「会津藩主」・所司代松平定敬「桑名藩主」を召し、萩藩征討進発の事を議す。慶喜、其延期を主張し、容保、進発の説を執る。容保、更に書を慶喜に呈し、萩藩征討の休兵を非とする意を陳ぶ」。

慶應2年8月11日、「鹿児島藩士西郷信吾「従道」広島を発し、山口に赴く。明日、岩国に抵り、萩藩士広沢兵助・同井原小七郎・同河瀬安四郎「真孝」等と会談す。尋で、信吾、山口を経て太宰府に至る」。

慶應2年8月12日、「熊本藩士古閑富次・鹿児島藩士大山格之助、下関に至り、萩藩士谷潜蔵「高杉晋作」・前原一誠に会し、元権中納言三条実美等5人の護衛に関する意向を訊し、且曩に赤坂に於て熊本藩兵の萩藩兵と戦ひしは誤解に出で、敢て他意あるに非る旨を陳ず」。

慶應2年8月13日、「英国軍艦一艘、下関に来泊し、艦将、萩藩の砲台再築及英船砲撃のことを詰る。藩士谷潜蔵・前原彦太郎、之と応接し、弁明す。尋で24日、同藩、藩士木戸貫治「孝允・後準一郎」を遣し、応接せしむ」。

慶應2年8月14日、「新発田藩主溝口直溥「主膳正」品川・川崎間を通行中、英国特派全権公使パークスと遭遇し、其従者、パークスの護衛指揮官エフリンを侮辱す。明日、パークス、之を幕府に抗議す。尋で、幕府、釈明する所あり」。

慶應2年8月16日、「朝議あり。一橋家主徳川慶喜、召しに依り、老中板倉勝静を伴ひて参内、九州諸方面の形勢を聞し、萩藩征討の機に非ざるを以て、大将軍の喪を発し、征長の兵を解き、諸侯を会して公論を定めて善後策を樹てんことを請ふ」。

慶應2年8月16日、「一橋家主徳川慶喜、軍艦奉行勝義邦に命じて広島に赴き、萩藩との止戦の事を圖らしむ。「義邦、十九日、其途に就き、二十一日、広島に至る。」高知藩、松山「伊予」藩の応援出兵の請を謝絶す」。

慶應2年8月16日、「幕府伝習掛浅野氏祐「美作守・陸軍奉行並」・同小栗忠順「上野介・勘定奉行」・同朝比奈昌広「甲斐守・外国奉行」等、仏国政府の書籍・地図等の寄贈及語学伝習に関して仏国全権公使ロッシュの斡旋せるを以て、之に謝意を表せんことを幕府に請ふ」。

慶應2年8月17日、「幕府、米・仏・普・瑞・蘭・露各国使臣に牒して、横須賀造船所建設の趣旨を陳ず。外国奉行朝比奈昌広、書を仏国公使館書記官カシヨンに贈り、仏国博覧会出陳品を開成所に陳列するを以て来観せんことを求む」。

慶應2年8月17日、「一橋家主徳川慶喜、用人梅沢孫太郎「亮」を鹿児島藩主茂久生父島津久光「大隅守」・前高知藩主山内豊信「容堂」・前佐賀藩主鍋島斉正「閑叟」・熊本藩主細川慶順弟長岡良之助等に遣し、各其上京を促す」。

慶應2年8月21日、「勅して大将軍徳川家茂の薨去を以て、姑く萩藩征討の兵を戢め、また萩藩をして速に隣境侵掠の兵を撤せしむ。幕府、一橋家用人榎本亨造「道章・後対馬守」・同雇原市之進を目付に補す。幕府、令して組与力より転役せる者の姓名・禄高等を録上せしむ」。

慶應2年8月24日、「徳川家主徳川慶喜、目付原市之進を関白二条斉敬に遣し、朝命を以て諸侯を召集せられんことを請はしむ。尋で「二十八日」朝議あり、決せず」。

慶應2年8月25日、「鹿児島藩家老新納刑部「久修」・藩士吉井幸輔「友実」京都に至る。下野国今市駅に農民屯集、騒擾す」。

慶應2年8月25日、「軍艦奉行勝義邦、広島より厳島「安芸国佐伯郡」に至り、広島藩士植田乙次郎に託して、書を萩藩支族吉川経幹の家臣安達十郎右衛門に贈り、萩藩との情実疎通の為、岩国に赴かんとすることを告ぐ。明日、乙次郎、岩国に至る。十郎右衛門等、相議して今津港「周防国玖珂郡」を応接地と為し、之を乙次郎に告ぐ「二十七日」。乙次郎、去る。既にして宗藩の指令あり、応接地を厳島に更め、大草終吉をして旨を乙次郎に報ず。乙次郎、之を諾す。「二十八日。」

慶應2年8月26日、「萩藩、藩士広沢兵助・同高田春太郎「惟精・井上聞多・後馨」・同太田市之進「変名春木強四郎・後御堀耕助」同長松文輔「幹」等を厳島に遣し、幕府使節勝義邦と止戦の事を議せしむ」。

慶應2年8月27日、「徳川家主徳川慶喜、書を仏国全権公使レオン・ロッシュに贈り、大将軍徳川家茂薨去及発喪・萩藩征討止戦の勅命降下の事情を報じ、此機に於て綱紀を改革し、兵制を一新するの決意を陳じ、我が軍備充実の為に尽力せんことを望む」。

慶應2年8月30日、「参議中御門経之・前左衛門督大原重徳等22人「左京権大夫北小路随光・侍従千種有任・同岩倉具綱・従三位高野保美・同穂波経度・同高倉永祜・右近衛権中将櫛司隆韶・同園池公静・右近衛権少将愛宕通致・同植松雅言・左近衛権少将高野保建・少納言高辻修長・美濃権介長谷信成・大夫四条隆平・同西洞院信愛・同西四辻公業・同愛宕通旭・同岩倉具定・主水正沢宣種・左馬頭大原重朝」闕下に列参す。時事危殆の状勢を聞し、速に諸侯を召集して国是を諮り、且中務卿熾仁親王「有栖川宮」・前関白鷹司輔煕等の幽閉を解き、朝政を改革せられんことを奏議す。勅して後命を俟たしむ。前左近衛権中将岩倉具視、最も此謀議に参画す」。

慶應2年8月是月、「浪士田中顕助「光正・後光顕・元高知藩士」小倉に至り、鹿児島藩士伊集院直右衛門等に頼り、萩・小倉両藩間の調停を請ふ。直右衛門等、更に同藩士大山格之助をして熊本藩士古閑富次に依頼し、其間に斡旋せしむ」。

慶應2年8月是月、「勅して鹿児島藩主島津茂久の禁闕警衛の為、出兵の労を賞す。所司代松平定敬、書を上り、樺太境界問題協定の為、使臣を露国に派遣することを聞す。大洲藩主加藤泰秋「遠江守」帰藩の途次、伏見駅「山城」より使者を京都に遣し、天機を候す」。