★慶應3年3年7月1日、「鳥取藩主池田慶徳「因幡守」書を在京前宇和島藩主伊達宗城「伊予守」に寄せ、上国の情勢を問ふ。尋で「二十九日」宗城、書を復して之に答ふ。遣露使節小出秀実「大和守・外国奉行兼箱館奉行」帰朝に依り、登営す」。

★慶應3年7月2日、「薩摩藩士小松帯刀「清廉」・大久保一蔵「利通」・吉井幸輔「友実」・内田仲之助「政風」等、土佐藩士後藤象二郎・佐佐木三四郎「高行」・福岡藤次「孝弟」・寺村左膳「道成」等と京都の旗亭に会し、象二郎の帰藩を餞す。明日、象二郎、帰藩の途に就く」。

 

★慶應3年7月3日、「鹿児島藩士大山格之助・同医前田杏斎、太宰府に三条実美の病を問ひ、是日、実美の従士水野丹後・土方楠左衛門「久元・元高知藩士」等と会し、養痾のため、実美の帰洛を促さんことを議る。尋で「十日」格之助、福岡藩士小河伊兵衛と共に上京の途に就く」。

★慶應3年7月4日、「前福井藩主松平慶永「大蔵大輔」書を幕府寄合大久保忠寛「一翁」に復して時事を報じ、幕府の仏国に借款せんとする説あるを難ず」。

★慶應3年7月4日、「鹿児島藩主茂久「修理大夫」生父島津久光「大隅守」・前宇和島藩主伊達宗城、連署して書を前高知藩主山内豊信「容堂」に寄せ、国事周旋のため上京せんことを促す」。

★慶應3年7月6日、「是夜、英国軍艦イカルス号水夫二人を長崎寄合町に於て襲殺せる者あり。明日、長崎奉行徳永昌新「石見守」、英国領事フラワーの請求に依り、倶に死体を検視し、旨を幕府に稟す。幕府、命じて加害者の逮捕に努めしむ」。

★慶應3年7月7日、「前宇和島藩主伊達宗城・鹿児島藩主茂久生父島津久光に参内を命ず。宗城・久光、病を以て之を辞す。前関白鷹司輔煕、内覧を辞せんことを請ふ」。

★慶應3年7月7日、「鹿児島藩士村田新八、鹿児島・高知両藩盟約の事情を報ずる同藩士西郷吉之助の書を齎して山口に至る。尋で、萩藩、藩士品川弥二郎・世良修蔵「砥徳」を新八と倶に上京せしめ、更に同御堀耕助「直方」・柏村数馬に上京を命じ、鹿児島藩と協商せしむ」。

★慶應3年7月7日、「浪士田中顕助「光顕・元高知藩士」太宰府に至り、上国の形勢を説き、鹿児島・萩両藩の決意を報ず。外国事務総裁小笠原長行「壱岐守・老中」書を仏国全権公使ロッシュに贈り、長崎在住仏人宣教師の浦上村に於て耶蘇教を布教するに抗議し、其禁止を要む」。

★慶應3年3年7月8日、「鹿児島藩主茂久生父島津久光、内帑金一万両を同藩海陸軍局に下付し、軍備拡張の資に充てしむ。英国公使館書記官ロコック、書を外国奉行江連尭則「加賀守」に贈り、江戸外国人旅館建築のために、英人建築家の雇傭を勧告す」。

★慶應3年7月9日、「幕府、外国奉行兼大坂町奉行柴田剛中を兵庫奉行と為し、大坂町奉行を兼ねしむ。在仏外国奉行向山一履、書を外国奉行塚原昌義等に致し、遣欧特使徳川昭武「清水家・大将軍徳川慶喜弟」在欧中の師傅として同国陸軍中佐ウイレットを依嘱せしことを報ず」。

★慶應3年7月10日、「在欧鹿児島藩留学生吉田太郎「清成・永井五百助」・鮫島誠蔵「尚信・野田仲平」・森金之丞「有礼・沢井鉄馬」・松井淳蔵・畠山義成「変名杉浦弘蔵」等、書を同藩士大久保一蔵・同伊集院左中に寄せる。依って家老岩下佐次右衛門「方平」等の仏国人モンブランを雇傭し、同伴帰朝するを難じ、且、英国人オリファントの意見書「軍事に外人を雇傭するの非を論ず」を添へて、警戒せんことを説く」。

★慶應3年7月14日、「英国特派全権公使パークス、長崎に至り、明日、長崎奉行徳永昌新と会し、英国軍艦イカルス号水夫暗殺下手人の未だ緝捕せられざるを難詰す。十七日・二十日、また同じ。パークス、高知藩帆船横笛丸「七月六日夜、長崎を出帆す」乗組員の犯行ならんことを疑ひ、昌新等、また厳に之を糺訊す。遂に踪跡を得ず。二十日、パークス、大坂に向ふ」。

★慶應3年7月15日、「普国代理公使館書記官ヘンリ・スネル、其弟エドワード・スネルと倶に馬車に乗じ、田町「江戸芝」を過り、沼田藩士三橋昌のために襲はれ、之を禦がんとして拳銃を以て狙撃し、誤て邦人「下駄商幸次郎の雇人浅次郎」を傷く。明日、スネル兄弟、之を幕府に訴へて、暴行者の逮捕を求む。尋で「17日」 沼田藩、書を幕府に上り、昌を其藩に拘禁せしことを稟す」。

 

★慶應3年7月19日、「鹿児島藩主茂久生父島津久光、書を前福井藩主松平慶永に贈り、其帰藩を暫く延期せんことを勧告し、且、家老小松帯刀を遣して、其意を申ぬ。慶永、肯ぜず」。

★慶應3年7月21日、「前福井藩主松平慶永、書を朝廷及幕府に上り、帰藩を請ふ。批して、国事多端なるを以て、なほ暫く滞京せしむ。前福井藩主松平慶永・前宇和島藩主伊達宗城、前佐賀藩主鍋島斉正を其旅館「妙顕寺」に訪ひ、時事を議す」。

★慶應3年7月23日、「幕府、品川砲台警守諸藩に令し、備砲の実弾試放を禁ず。幕府、萩藩を寛典に処すべしとの朝命下りたるを以て、広島藩に命じ、萩藩の末家一人及同吉川経幹並家老一人を上坂せしむべき旨を伝達せしむ」。

★慶應3年7月23日、「英国特派全権公使パークス長崎より兵庫に至り書を老中板倉勝静に致し、英国水夫殺害事件に就き大坂に於る会談を求む。勝静、書を復し「26日」近日、外国総奉行平山敬忠・大目付戸川安愛」・目付設楽能棟を高知に派遣を告げ、之と交渉せん事を説く」

★慶應3年7月25日、「征夷大将軍徳川慶喜、仏国全権公使ロッシュを大坂城に引見し、茶菓子を饗し、装刀を贈る。午後、慶喜、仏国軍艦を訪ふ。明日、ロッシュ、再び登城、慶喜に謁す」。

★慶應3年7月26日、「元権中納言三条実美、従士水野丹後「正名・元久留米藩士」等の遊惰の行状あるを譴め、謹慎を命ず。
幕府、書を米国弁理公使ファン・ファルケンブルグに贈り、米国人ヴァン・リードの僕喜三郎の海外密航の罪を宥し、其帰朝を許可することを報ず」。

★慶應3年7月26日、「鹿児島藩士西郷吉之助、大坂に至り、英国公使館通訳官サトウと会す。サトウ、仏国全権公使ロッシュの幕府援助に意あるを告げ、且、我政体の革新を勧説す。明日、サトウ、吉之助を訪ふ」。

★慶應3年7月27日、「幕府、外国奉行兼箱館奉行小出秀実を勘定奉行勝手方と為す。在仏外国奉行向山一郎、書を外国奉行塚原昌義等に致し、仏国に於る金六百万両の借款成立せず、特使徳川昭武一行旅費欠乏の状を告げ、送金を求む」。

★慶應3年7月27日、「征夷大将軍徳川慶喜、英国特派全権公使パークスを大坂城に引見す。征夷大将軍徳川慶喜、夕刻、大坂を発し、翌暁、京都に帰著す」。

★慶應3年7月28日、「征夷大将軍徳川慶喜、前福井藩主松平慶永を召し、長崎に於る英国水夫殺害事件に関し、英国特派全権公使パークスの抗議及パークスの将に幕吏を共に高知に赴かんとするを告げ、慶永をして之を前高知藩主山内豊信に報ぜしむ。慶喜、また手書を豊信に与へて、事情を報じ、至当の処置を講ぜしむ。在京高知藩支族山内豊積「兵之助」病を以て帰藩を請ふ。之を聴し、更に名代をして上京せしむ」。

★慶應3年7月29日、「高知藩士中岡慎太郎、京都白川高知藩邸を本陣と為し、諸藩の浪士を召集して、陸援隊を組織す。在京高知藩仕置役由比猪内・同大目付佐佐木三四郎等に、幕府の命に依り下坂し、老中板倉勝静に謁す。勝静、長崎英国水夫殺害下手人捜索のため、英国特派全権公使パークスの高知に赴くこと及外国総奉行平山敬忠・大目付戸川安愛等を同じく其藩に差遣するを告ぐ。明日、猪内等、鹿児島藩船「三邦丸」に乗じ、海援隊長坂本龍馬「直柔・才谷梅太郎」と共に帰藩す」。

★慶應3年7月30日、「鹿児島藩、藩内に令し、西洋模倣の弊を排し、採長補短の要を諭す」。

★慶応3年7月是月、「鹿児島藩、時局の推移如何に依り、藩主島津茂久、また上京し、生父久光と倶に、王事に尽すべきを藩内に布告し、警戒を加ふ。在京鹿児島・高知・広島等の諸藩士の集会・密議、頻に行はる」。

★慶応3年7月是月、「諸藩の態度を復古勤王「鹿児島及萩藩」・佐幕勤王「福井・名古屋藩等」・待変蚕食「佐賀・高知藩等」・佐幕「水戸・和歌山・会津・桑名・高松等諸藩」・依勢進退「金沢・仙台・広島・久保田藩等」に分ちて批評せるものあり」。面白い。

★慶応3年7月是月、「是頃、鹿児島藩士大久保一蔵・同吉井幸輔・浪士香川敬三「鯉沼伊織・元水戸藩士」・同三宮義胤「耕庵・近江人」・処士玉松操「山本真弘」等、岩倉村「山城国愛宕郡」に幽居せる前右近衛権中将岩倉具視「友山」と竊に往来し、王政復古の変革に関して計画す」。

★慶応3年7月是月、「溜詰諸藩の在京藩士等、屡、会合し、萩藩征討再役を以て無名の師と為すの論議に対し、厳明の朝命あらんことを建言すべしと協議す。浪士山県小太郎「元岡藩士」書を鹿児島藩家老小松帯刀に致し、兵庫開港の不可を説き、萩藩主毛利敬親の入京允許の斡旋を請ふ」。