★慶應2年7月2日、「仏国全権公使ロッシュ、下関より兵庫に至る「六月二十八日」。是日、老中板倉勝静、ロッシュを乗艦ラプラースに訪ひ、征長作戦上に就き、意見を交換し、且軍艦大小砲等購入の斡旋を依頼す。ロッシュ、之を諾す」。

★慶應2年7月11日、「鹿児島藩主島津茂久「修理大夫」征長不可の議を上り、其軍令に服し難き状を禀す。是日、廷議、事を幕府に委任せるを以て、其疏を却下す」。

★慶應2年7月13日、「老中井上正直・老中格大給乗謨、英国特派全権公使パークスと正直邸に会し、征長中外国船の下関通峡・碇泊禁止の事を談判す。尋で「二十二日」幕府、パークスに牒し、下関碇泊を禁止せるを以て、船中欠乏品は小倉に於て給すべきを告ぐ。仍て、パークス、之を同国民に布告せるを告ぐ「二十八日」。幕府、更に之を仏・米・蘭・普・露・葡諸外国使臣に通牒し、各其国船に布告せんことを求む」。

★慶應2年7月16日、「外国奉行柴田剛中「日向守」・同朝比奈昌広「甲斐守」・目付牛込忠左衛門、伊国使節ヴィツトリオ・アルミニヨンと修好通商条約23箇条・貿易定則6則・附属約書11箇条を締結す」。

★慶應2年7月17日、「鹿児島藩京都留守居内田仲之助、征長開始に依り、禁闕守衛の為、藩兵を上京せしむる旨を禀す」。

 

★慶應2年7月20日、「萩藩士林宇一「伊藤博文」、大村藩士渡辺昇「変名滝口大助」等を伴ひ、長崎より下関に帰著す。外国奉行江連尭則「加賀守」、米国代理公使ポートマンを仮公使館「麻布善福寺」に訪ひ、曩に同国に依頼せし軍艦建造の状況を問ふ」。

★慶應2年7月21日、「鹿児島藩主島津茂久「修理大夫」及生父久光「大隅守」連署書を上りて、幕府の失政を挙げ、征長の条理正しからざるを論じ、萩藩を寛典に処し、国内を整へて外患を攘ひ、以て中興の功を遂げんことを禀す。尋で「八月五日」之を却下す」。

★慶應2年7月22日、「鹿児島藩京都留守居内田仲之助、萩藩士民の陳情表を伝献し、同じく陳情書を金沢・仙台・福井・熊本・福岡・広島・佐賀・鳥取・岡山・津・徳島・高知・久留米・盛岡・米沢・津山・松江・川越・宇和島・弘前忍・中津・新発田・郡山等の諸藩に回達す」。

★慶應2年7月23日、「是夜、在京鹿児島・会津両藩兵争闘の流言ありて洛中騒然たり。尋で「二十七日」鹿児島藩留守居、其虚説なるを藩邸付近の町役人に諭す」。

★慶應2年7月27日、「鹿児島藩大坂留守居木場伝内「清生」申ねて征長出兵の命に服し難き所以を幕府に陳じ、至公至平の措置を請ふ。鳥取藩、漸次征長の藩兵を石見より出雲に撤退す。外国奉行菊池隆吉「伊予守」葡国特派全権使節ド・アマラルと改税約書に調印を了す」。

★慶應2年7月27日、「鹿児島藩、藩士大野正作等30名を英国に、同伊東彦次郎等29名を仏国に、同飯山九郎太等29名を米国に、同河野伊兵衛等30名を露国に、同河野剣蔵等29名を蘭国に留学せしめんとし、渡航免状の下附を幕府に請ふ。尋で「八月十日」申ねて之を請ひ、且巴里博覧会所用の為に急派する要あるを陳じ、特に藩士玉井鉄矢等10名に対し、速に下附せんことを請ふ。鹿児島藩主茂久生父島津久光、書を前宇和島藩主伊達宗城に復して、萩藩処置に関する所見を問ふ」。

★慶應2年7月29日、「萩藩、奇兵隊総督山内梅三郎を若年寄と為し、下関口海陸軍諸兵指揮役を命じ、海軍総督谷潜蔵「春風・高杉晋作」を其参謀と為す」。

★慶応2年7月是月、「軍艦奉行勝義邦、屡次書を幕府に呈して、征長用兵の迅速なるべきを論じ、且自ら海軍を指揮して萩藩の要津を攻撃せんことを陳ず。又大将軍の疾、大漸に及ばば大事を慶喜に委し、大将軍は帰府すべしと禀し、更に通商貿易の途を開て、富国強兵を計るべきを言ふ」。