★元治1年7月2日、「萩藩、藩士井上聞多「馨」・伊藤俊輔「博文」を姫島沖碇泊の英艦バロッサに遣し、艦長ダウエル等と会見し、下関に於る外艦砲撃は朝旨遵奉の結果なるを以て、更に朝命を候し確答すべきを告げ、艦隊来航の延期を求めしむ。ダウエル等応ぜず。横浜に去る」。

★元治1年7月11日、「海陸備向掛手付雇佐久間修理、京都木屋町の街上に於て、浪士の為に、国是を誤り且鳳輩遷幸を図るものとして殺害せらる」。わが郷土の偉人、佐久間象山の命日だったか・・。拙著『グローバル幕末史』でも、象山先生は大きく取り上げています。

★元治1年7月12日、「鹿児島藩兵「四百余人」京都守衛之為、著京、二本松の同藩邸に入る。禁裏守衛総督徳川慶喜、在京諸藩の留守居を其館に召し、事態の切迫せるを告げて、萩藩士等追討の部署を内達す。会津藩、筑波山勢の領内遁入を慮り、封彊の守備を厳にす」。


★元治1年7月13日、「萩藩家老益田右衛門介、兵を率いて大坂に著し、直に淀川を遡る。明日、八幡山麓「山城国綴喜郡」に仮営し、次日、登山、石清水社堂宇を陣営と為し、浪士真木保臣・萩藩士久坂義助・同来島又兵衛等と謀議す」。禁門の変にまた一歩。

★元治1年7月13日、「幕府、使番中根市之丞の萩藩に使して、非常に死せるを憐み、仮養子渡辺錬次郎をして其後を嗣がしむ」。朝陽丸事件の犠牲者、中根に対する恩恵。ちなみに、現在千葉在住の中根の末裔の方と懇意にさせていただいております。

★元治1年7月14日、「萩藩、藩士伊藤俊輔に内命を授け、急に京都に往かしむ。尋で俊輔、途上岡山に至り、同藩士品川弥二郎「日孜」・同大楽源太郎等に会し、京師の変報「十八日の禁門変」を聞き山口に旋る」。

★元治1年7月18日、「英国全権公使オールコック・仏国全権公使ロッシュ・米国弁理公使プリュイン・蘭国総領事ファン・ポルスブルック及英国東印度艦隊司令長官キューパー、各書を幕府に致し遣欧使節池田長発「筑後守・外国奉行」の締結せるパリ約定に関して、会見を求む」。

 

★元治1年7月18日、「英国全権公使オールコック・仏国全権公使ロッシュ・米国弁理公使プリュイン・蘭国総領事ファン・ポルスブルック及英国東印度艦隊司令長官キューパー、各書を幕府に致し遣欧使節池田長発「筑後守・外国奉行」の締結せるパリ約定に関して、会見を求む」。

*元治元年7月19日

禁門の変蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、元治の変



★元治1年7月23日、「横浜鎖港談判使節池田長発・河津祐邦・河田煕等、帰朝す。是日三人、書を幕府に上りて復命し、且海外の形勢を説き鎖港の不可を論じ、弁理公使の派遣、列国との締盟、海外留学生の派遣、欧米諸新聞社との通信交換及邦人の海外渡航免許の必要を詳説す。

★元治1年7月24日、「幕府、佐賀藩家老鍋島安房・同鍋島志摩等に、大砲鋳造・蒸気船製作の功を賞す。幕府、英国特派全権公使オールコック・仏国全権公使ロッシュ・米国弁理公使プリュイン・蘭国総領事ファン・ポルスブルックに、巴里約定廃棄を宣言す」。