★慶應3年4月2日、「鹿児島藩主茂久「修理大夫」生父島津久光「大隅守」大坂に至る。先帝「孝明天皇」の遺物を宮・公卿・廷臣及京都守護職・所司代等在京幕吏に下賜す。静寛院宮「故大将軍家茂夫人」・征夷大将軍徳川慶喜・天璋院「敬子」等にも、亦之を頒賜す」。

 

★慶應3年4月7日、「幕府、書を米国弁理公使ファン・ファルケンブルグに贈り、朝鮮国と仏・米両国との紛議調停のため、外国奉行平山敬忠「図書頭」等を朝鮮に派遣せんとするを告ぐ」。

 

★慶應3年4月8日、「萩藩、藩士品川弥二郎・林宇一「伊藤俊輔」・野村靖・堀真五郎、積年の勤労を賞し30人通に陞す。蘭国総領事ファン・ポルスブルック、書を幕府に贈り、神奈川駐在領事ゲ・フ・プラットを罷め領事代理ファン・デル・タックを其後任と為すことを通告す」。

 

★慶應3年4月10日、「幕府、故征夷大将軍徳川家茂の1周年忌日近きを以て、旧例に従ひ、贈官位の宣下あらんことを奏請す。尋で「5月26日」復た之を請ふ」。

 

★慶應3年4月12日、「鹿児島藩主茂久「修理大夫」生父島津久光「大隅守」京都に至る。藩士小松帯刀「清廉」・西郷吉之助「隆永」等、随従す」。

 

★慶應3年4月13日、「幕府、英・仏・米公使及蘭国総領事に兵庫・大坂外人居留地規定書案を送付し、其同意を求む。老中板倉勝静「伊賀守・備中松山藩主」大坂に至り、是日、英国特派全権公使パークスと会談し、パークス一行の敦賀陸行を承認す。勝静、十五日、帰京す」。

★慶應3年4月14日、「萩藩士谷潜蔵「高杉晋作・東行・贈正四位」病みて馬関に在り。藩庁、特に其勤労を賞し、禄百石を給して一家を創立せしむ。是日、竟に歿す」。

 

★慶應3年4月15日、「英国特派全権公使パークスの一行、大坂を発して陸路敦賀に向ふ。幕府、蘭人伏見街道通行の先例に依り、之を許可せしことを稟す。朝廷、厳に其入京を禁ず。公使一行、十七日敦賀に著し、十九日帰路に就く」。

 

★慶應3年4月15日、「前宇和島藩主伊達宗城「伊予守」、鹿児島藩軍艦三邦丸に乗じて藩地を発し、是日、京都に至る」。

 

★慶應3年4月15日、「前宇和島藩主伊達宗城「伊予守」、鹿児島藩軍艦三邦丸に乗じて藩地を発し、是日、京都に至る」。四侯会議。

★慶應3年4月15日、「英国特派全権公使パークスの一行、大坂を発して陸路敦賀に向ふ。幕府、蘭人伏見街道通行の先例に依り、之を許可せしことを稟す。朝廷、厳に其入京を禁ず。公使一行、十七日敦賀に著し、十九日帰路に就く」。忠房等、即時参内之を執奏す。日暮、勅旨を久光に下し、滞京して、浪士鎮撫の任にあたらしむ」。島津久光の率兵上京。ここから、中央政局に舞台を移した幕末動乱が事実上始まる。

★慶應3年4月21日、「前福井藩主松平慶永・前宇和島藩主伊達宗城、鹿児島藩主茂久生父島津久光を訪ひ時事を談ず。久光、大将軍の未だ勅允を経ざるに兵庫開港の実施を列国公使に公約せるの早計を難ず」。

慶應3年4月23日、「高知藩士坂本龍馬「直柔・才谷梅太郎」座乗の伊呂波丸「大洲藩汽船、海援隊士操縦す」、備後鞆沖に於て、和歌山藩汽船明光丸と衝突し、沈没す。龍馬、纔に身を以て遁れ、鞆津に上陸す」。

★慶應3年4月23日、「京都の鹿児島藩邸に、英国公使等の近畿通行は、同藩の策謀に出づと為し、之を難ずる文を貼掲せし者あり。幕府、麾下士の采邑を有する者に令して、安政四年より慶応二年に至る間の租入を録上せしむ」。

★慶應3年4月24日、「日光奉幣使武者小路公香「左近衛権少将」、帰京の途、掛川駅「遠江国小笠郡」に次す。会々英国公使館通弁官サトウ・同国人ワーグマン「ロンドン・ニュース特派員・陸軍大尉・画家」の大坂より東下するに逢ひ、従士数人、深夜サトウ等の旅宿を襲ふ。警吏「別手組」克く禦ぎ、大事に至らずして寝む。五月朔日、掛川藩、其事情を幕府に具申す。同四日、公香も、亦之を朝廷に稟す」。

★慶應3年4月26日、「前右近衛権中将岩倉具視、航海・済時の策議二篇を前権大納言中山忠能・同正親町三条実愛に示し、其意見を求む。前福井藩主松平慶永、老中板倉勝静を訪ひ、幕府の兵庫開港実施を列国公使に公約せる不可を難詰す」。