★慶應2年4月4日、「萩藩第二奇兵隊士立石孫一郎「維敬・津山藩浪士」等100余名、暴発して隊付書記楢崎剛十郎「義綱・毛利隠岐家臣・贈従五位」を殺し、岩城山「周防国熊毛郡」の陣営を脱して大島郡に遁る。萩藩、赤川又太郎を広島に派し、老中小笠原長行に禀せしむ」。

★慶應2年4月4日、「鹿児島藩士黒田嘉右衛門「清綱」、藩士30余名を率いて太宰府に抵る。明日、目付小林甚六郎「政富」を其旅館「二日市」に訪ひ、主命あるに非されば元権中納言三条実美等を付する能はざるを陳じ、強て拉し去らんとせば死を以て抗すべきを告ぐ」。

 

★慶應2年4月7日、「幕府、令して学術修業及商業の為海外に渡航するを聴し、之に免許証を附与す。尋で「13日」之を英・仏・蘭・葡・米各国使臣に報じ、旅行者の保護を求む」。

 

★慶應2年4月9日、「浪士立石孫一郎の徒党、備中国窪屋郡西ノ浦に上陸し、夜、倉敷代官所を襲いて之を焼き、軍資を富豪に徴し、観龍寺に屯す」。

★慶應2年4月9日、「米国代理公使ポートマン、幕府に牒し、申ねて日露条約の付録書寫を得んことを請ふ、尋で「十八日」 幕府、下田条約の付録書を送る。ポートマン、安政五年以降の日露条約書殊に樺太・北海道に関するものを求む」。

 

★慶應2年4月10日、「高知藩家老福岡宮内「孝茂」、老中小笠原長行を広島の旅館に訪ひ、曩日の内命を辞す。尋で「十三日」再び長行を訪ひ、京都警衛の為、征長従軍を罷めんことを請ふ」。
 

★慶應2年4月12日、「英国特派全権公使パークス、幕府に牒し、海軍伝習士官の招聘及留学生派遣に関する協議の為、有司と会見せんことを求む。又横浜駐屯兵の交代「二十連隊を第九連隊に」を報じ、陸軍大佐ブラウンに代りて同ノックスの之を指揮するを告ぐ」。

★慶應2年4月12日、「建春門外作事場に火あり、鹿児島藩兵、武装して乾門を警衛す。時に流言あり。新撰組隊長近藤勇・同隊士伊東甲子太郎等、広島より帰京す」。

★慶應2年4月13日、「萩藩世子毛利広封、鹿児島藩士黒田了介「清隆」を湯田別野に召見し、時事に関する意見を聞く。幕府、英国特派全権公使パークスに復して、「アイヌ」人墳墓発掘に関し、既に処罰されし者以外になお容疑者あるを告げ、僕庄太郎の釈放し難きを答ふ」。

★慶應2年4月14日、「鹿児島藩士大久保一蔵、同藩大坂留守居木場傳内と倶に大阪城に登り、老中板倉勝静に謁し、書を呈して征長の非を論じ、出兵を辞す。勝静、論弁して之を却下せんとす。一蔵、反駁して肯ぜず」。

 

★慶應2年4月19日、「鹿児島藩士大久保一蔵、再び老中板倉勝静に謁す。勝静、鹿児島藩の征長出兵を辞する書を撤せしめんとす。一蔵、幕府は朝旨を矯めて萩藩を討つと難じ、其理由を列挙して之を峻拒す」。

★慶應2年4月19日、「鹿児島藩士大久保一蔵、再び老中板倉勝静に謁す。勝静、鹿児島藩の征長出兵を辞する書を撤せしめんとす。一蔵、幕府は朝旨を矯めて萩藩を討つと難じ、其理由を列挙して之を峻拒す」。

★慶應2年4月20日、「鹿児島藩京都留守居内田仲之助、同藩大坂留守居木場伝内の征長出兵の幕命を峻拒せる状を奏す。是日、廷議、批して其疏を却く。萩藩、藩士木梨平之進「信一」を津和野藩に遣し、藩情を陳じ、緩急兵を封疆外に出すことあるべきを告げしむ」。

★慶應2年4月21日、「英国特派全権公使パークス、幕府に牒し、其財政窮迫を理由として下関事件償金支払の延期を要求し、却て横須賀造船所の建設に巨費を投ずるを詰り、其事情を問ふ。尋で「5月21日」幕府、之に回答す」。

★慶應2年4月24日、「吉川経幹、用人横道外記を大坂に遣し、上国の事情を探らしむ。外記、鹿児島藩邸に潜伏し、同藩士大久保一蔵・岩下佐次右衛門「方平」、萩藩士品川弥二郎等と会し、是日、帰邑復命す。明日、経幹、用人大草終吉を宗藩に遣し、外記の探聞書を致さしむ」