★慶應1年4月1日、「外国奉行柴田剛中・目付向山一履、米国弁理公使プリュインと横浜に会し、同国に建造を依頼せる船艦の回航を督促す。プリュイン、帰国の乗船出帆期迫るを以て、往訪訣別し難きを老中に謝し、且公使館書記官ポートマンに代理公使を命じたるを通告す」。
 

★慶應1年4月2日、「福岡藩士早川勇「養敬」、鹿児島藩士西郷吉之助「隆盛」・同吉井幸輔「友実」と会し、福岡藩の藩情を議す。萩藩家老毛利少輔三郎の政事掛を免じ、同志道安房「親良」をして之に代らしむ。尋で、諸司の任免を行ふ」。

★慶應1年4月2日、「萩藩支族吉川経幹「監物」、用人大草終吉「孝暢」を京都に遣し、鹿児島藩家老小松帯刀「清廉」に宗藩諸隊の鎮静を報じ、斡旋を依頼す。4日出発、21日帰邑」。

 

★慶應1年4月17日、「丸亀藩、付預中の元麾下士鳥居耀蔵「忠輝・元甲斐守」謹慎の状を幕府に具し、赦免を請ふ」。

★慶應1年4月22日、「大目付塚原昌義・目付御手洗幹一郎、帰府す。熊本藩主細川慶順弟長岡良之助、書を島津久光に致し、兄細川護久、上京・参府中止の事情を報ず。福井藩江戸留守居、藩主松平茂昭の大坂に出でて、大将軍を迎へんことを請ふ。幕府、之を允す」。

★慶應1年4月22日、「萩藩士高杉晋作「春風」・同伊藤俊輔「博文」・同井上聞多「馨」等、下関開港説を唱へ、藩士等の憤慨を購ひ、晋作は讃岐に、聞多は豊後に走り、俊輔は身を潜慝す。是日、同藩、下関開港の意なきを布告し、晋作等の下関応接掛を罷む」。

★慶應1年4月25日、「浪士坂本龍馬「直柔・元高知藩士」大坂を発し、鹿児島に向ふ。五月朔日鹿児島に著す」。

★慶應1年4月26日、「幕府、仏・英・米各国公使に牒し、洋銀交換期限を更に六ヶ月延期するを告ぐ。萩藩士桂小五郎、但馬の潜居を出で京坂を過ぎ、是日、下関に帰着し、潜伏す」。