★元治1年4月3日、「幕府、松代藩士佐久間修理「象山」に海陸備向掛手付雇を命じ、扶持方二十人手当金拾五両を給す。禁裏守衛総督徳川慶喜、水戸藩家老武田正生「耕雲斎」に、禁闕守護及摂海防禦の大任を蒙れるを報じ、正生の兵を率いて上京し己を扶翼せんことを依頼す」。

★元治1年4月4日、「萩藩、僧宥信及藩士吉田稔麿「秀実」に命じ、京都藩邸内願就院安置の藩祖毛利元就等の霊牌を護衛して帰藩せしむ。宥信及稔麿、是日、京を発す。「十五日、山口に著す。」」。

★元治1年4月5日、「前宇和島藩主伊達宗城・鹿児島藩主茂久生父島津久光「大隅守」及熊本藩主細川慶順弟長岡良之助「護美」相議し、弾正尹朝彦親王・常陸太守晃親王「山階宮」・関白二条斉敬・前関白近衛忠煕及右大臣徳大寺公純に、帰藩の朝許を得んことを内請す」。

 

★元治1年4月8日、「鹿児島藩、長崎に於て、汽船翔鳳丸「英国船・原名ロチウス」を購入す」。

★元治1年4月10日、「常陸太守晃親王、海陸備向掛手付雇佐久間修理を召し、天文・地理・兵法を問ひ、其洋式馭馬を覧る。後屡之を引見す。元権中納言三条実美・元左近衛権少将東久世通禧、萩藩主毛利慶親を山口の居館に訪ふ」。

★元治1年4月11日、「松平慶永・池田茂政・島津久光・細川慶順弟長岡良之助、参内、賜暇の恩を謝す。各国事鞅掌の労を慰して天盃及物を賜ひ、慶永を正四位上参議に、久光を従四位上左近衛権中将に、茂政を従四位上左近衛権少将に叙任し、慶順を従四位上に叙す」。

★元治1年4月11日、「老中牧野忠恭・同板倉勝静・同井上正直・若年寄諏訪忠誠・同大給乗謨、忠恭の邸に英国特派全権公使オールコックと会見す。オールコック、横浜鎖港に応諾し難きことを陳じ、萩藩主の処分を問ひ英兵駐屯の為、横浜に兵舎建設の敷地を借らんことを請ふ」

★元治1年4月11日、「幕府、所司代稲葉正邦を老中に任じ、桑名藩主松平定敬「越中守」を所司代と為す。特に定敬を旧に依て溜詰に班す。横浜鎖港談判使節池田長発等、パリに於て、駐仏イタリア公使の日伊条約締結要求を拒否す」。

 

★元治1年4月17日、「幕府、鹿児島藩士小松帯刀「清廉」・同高崎猪太郎「友愛」・同高崎佐太郎「正風」を、国事周旋に依り賞す」。

★元治1年4月18日、「鹿児島藩主茂久生父島津久光、京を発し、帰藩の途に就く。「五月八日、帰藩す。」浪士あり、弾正尹朝彦親王の諸大夫武田信発「相模守」の家を襲ひ、其母及従士を殺す。信発、纔に身を以て遁る」。

★元治1年4月18日、「軍艦奉行並勝義邦、長崎より京に帰る。是日、大将軍徳川家茂に謁し、外人応接の顛末、萩藩の情勢等を復命す。明日、摂海警衛・神戸海軍局の事務を帯び、下坂を命ぜらる」。神戸海軍操練所への道程。

★元治1年4月22日、「萩藩主毛利慶親、藩士吉田稔麿・弘勝之進・有吉熊次郎を京都及江戸に遣し、事情を探索せしむ。征夷大将軍徳川家茂、直書を諸有司に観めして、物価低落の方策を樹てしむ」。

★元治1年4月23日、「海陸備向掛手附雇佐久間修理、常陸太守晃親王に謁し、世界地図を供覧し、時務に関する意見を上陳す。英艦、陸兵「千五百人」を搭載し、横浜に来り、之を上陸せしむ。普国領事フォン・ブラント、長崎居留民の為に、宅地貸渡を請ふ」。

★元治1年4月27日、「廷臣中、三港の閉鎖を論ずる者あり。是日、弾正尹朝彦親王・常陸太守晃親王・関白二条斉敬、参朝、朝議、横浜一港の閉鎖に決す。大将軍徳川家茂、朝議あるに依り参内を延期す」。

★元治1年4月28日、「横浜鎖港談判使節池田長発等、駐仏英国大使カウレーを訪ひ渡英して条約履行に関し協議せんことを告ぐ。カウレー、本国政府の条約権譲歩に応ぜざるべきを説く。また、仏国外務大臣リュイ・海軍兼殖民地大臣シャスルー等の晩餐会に招かれ交驩す」。