★文久2年4月6日、「西郷吉之助、小河弥右衛門、平野国臣等と屡伏見鹿児島藩邸に会す。西郷、本田弥右衛門らと倶に客を避けて、宇治万碧楼に在り、大久保一蔵の急請に依りて藩邸に帰り之と会す。一蔵、其主命を待たずして上坂せるを詰る。吉兵衛、陳弁し、談夜半に及ぶ」。

★文久2年4月8日、「高知藩士那須信吾「重民」、同安岡嘉助「正定」、同大石団蔵「祐之」、同志武市半平太「小楯」の旨を承け、仕置役吉田元吉「正秋、東洋」を刺殺して脱藩す。浪士平野二郎、曇華院「京都、東洞院」候人吉田玄蕃「重義」に頼りて、回天三策を上る」。

★文久2年4月11日、「鹿児島藩主茂久生父島津久光、徒目付西郷吉兵衛及藩士村田新八、同森山新蔵の諭告に違ふを怒り、鹿児島に拘送し、ついで、流罪に処す」。

 

★文久2年4月16日、「鹿児島藩主茂久生父島津久光、側役小松帯刀、小納戸中山尚之助、同大久保一蔵等を従へ、伏見を発して京に入り、権大納言近衛忠房に謁し、国事建言の心事を陳じ、趣意書を呈す。議奏中山忠能、同正親町三条実愛、席に在り。

★文久2年4月18日、「浪士田中河内介「綏猷、元中山家家士」、岡藩士小河弥右衛門等、鹿児島藩主茂久生父島津久光の為す所にあきたらず。其藩士有馬新七、田中謙助・柴山愛次郎、橋口壮助等と謀り、まず関白九条尚忠、所司代酒井忠義を除き以て革新の機運を促さんとす。久光、侍士奈良原喜左衛門「清」、同海江田武次「信義」に命じ、往いて之を懇諭せしめ、明日、更に藩士大久保一蔵を遣す。河内介等、陽に服従するも、なお其図を棄てず」。

★文久2年4月22日、「浪士田中河内介、同真木和泉、岡藩士小河弥右衛門、鹿児島藩士柴山愛次郎・橋口壮助等、萩藩士久坂玄瑞等と諜し、将に明日を以て事を京に挙げんとして其部署を定む。萩藩家老浦靱負、禁裏警衛の方略を定め、部下を戒飭して進退其度を失はざらしむ」。

★文久2年4月23日、「鹿児島藩士有馬新七、同田中謙助、浪士田中河内介、同真木和泉、同吉村寅太郎等、まさに京に向はんとし、黎明結束して大坂を発し、淀川を遡り、薄暮伏見に達し、逆旅寺田屋に憩う。鹿児島藩主茂久生父島津久光、報を得て、侍士奈良原喜八郎「繁」、同道島五郎兵衛「正邦」同大山格之助「綱良」等九人を遣りて諭旨鎮静せしむ。新七等聴かず。すなわち新七「正義」、謙助「盛明」及同藩士柴山愛次郎「道隆」、同橋口伝蔵「兼備」、同橋口壮助「隷三」、同森山新五左衛門「永治」、同弟子丸龍助「方行」、同西田直五郎「正基」を斬る。五郎兵衛また之に死す。喜八郎等、即夜、さらに河内介、和泉等を京都藩邸に収容す。旦日、岡藩士小河弥右衛門等、また伏見に達して変を聴き、同所の鹿児島藩邸に入る」。

★文久2年4月27日、「外国奉行菊池隆吉・同並柴田剛中、神奈川に至り、英国代理公使「ニール」と会見す。「ニール」、幕府決答の遷延を難ず。明日、隆吉等、再会し、償金交付承諾の意を通ず」。

★文久2年4月27日、「福岡藩士平野二郎、下関に於て藩吏の為に捕はる。尋で、獄に下る。鹿児島藩士山本四郎「義徳、初神田直助」縲紲の辱を受くるを憤り、京に於て屠腹す」。

★文久2年4月30日、「鹿児島藩、元久留米藩士真木和泉・真木菊四郎「弦」・酒井伝次郎「重威」・鶴田陶司「道徳」・原道太「盾雄」・荒巻羊三郎「真刀」・古賀簡次「磐勒」・中垣健太郎・淵上謙三・吉武助左衛門、元高知藩士吉村寅太郎・同宮地宜蔵を各本藩に引渡す」。