#1日

#2日

『海舟日記』

慶応四年三月二日「旧歳、薩州の藩邸焼討のおり訴え出でし所の家臣南部弥八郎、肥後七左衛門、益満休之助等は頭分なるを以てその罪遁るべからず死罪に所せらる。早々の旨にて所々へ御預け置かれしが、某申す旨ありしを以て、此頃、此事上聴に達し御旨に叶う。此日、右三人、某へ預け終る」

#3日

★明治1年3月3日、「是より先、浪士相楽総三「武振・実名小島四郎左衛門将満・旧幕府麾下士酒井金之丞家士・贈正五位」等、先鋒嚮導隊と称し、信濃諸藩に金穀を徴す。其徒の内、良民を劫掠する者あり。小諸・上田・岩村田・安中四藩、兵を追分駅「信濃国北佐久郡」及碓氷関「上野国碓氷郡」旁近に出して其徒数人を捕斬す「二月十七日・十八日」東山道先鋒総督府、総三等を捕へ、是日、総三・大木四郎「大樹匡・秋田人」・小松三郎「福岡幸衛・土佐人」・竹貫三郎「菊池斎・秋田人」・渋谷総司「大谷総司・下総人・贈従五位」・西村謹吾「菅沼八郎・山本鼎・伊勢亀山人」・高山建彦「望月長三・多伸・館林人」・金田源一郎「宇佐美庄五郎・田中藩人と云ふ」を下諏訪駅に斬し、其余党を罰す」。
★明治1年3月3日、「三日、上巳、外国公使朝見するを以て、参賀を停む。英国公使スル・ハルリー・エス・パークス、及ひ書記官朝参す、勅諭奏対、略前儀の如し、又前日途上の変を宣慰す、是日、仏、蘭二国公使も亦禁内に参同す」。
★明治1年3月3日、「英国特派全権公使パークス朝参す。勅諭奏対略々前儀「二月晦日」の如し。前日途上の変を宣慰す。仏・蘭両国公使、亦禁中に参会す。「英国公使謁見畢る後、三国公使、三条・岩倉両輔相等を兵庫居留地の事を商議す」上巳。外国公使朝見するを以て、参賀を停む」
#4日

★明治1年3月4日、「英国公使を襲撃せし兇徒三枝蓊「真洞・大和浄蓮寺僧」・林田衛太郎「貞賢・変名朱雀操・旧幕府京都代官・小堀数馬の家士」を梟首に処し、其党川上邦之助・松林織之助・大村貞助を遠流に処す。旧幕府寄合近藤登之助「利用」勤王証書を東海道先鋒総督府に上る」
#5日

#6日

#7日

#8日

#9日
★明治1年3月9日、「萩藩世子毛利広封を議定と為し、議定鍋島斉正の軍防事務局輔を罷め、制度事務局輔を兼ねしむ。大総督府、徳川慶喜の支族徳川茂栄「権大納言・一橋家主」来りて慶喜の為に哀を請はんとするを聞き、東海道先鋒総督に令し、茂栄をして命を小田原に待たしむ」。
★明治1年3月9日、「旧幕府麾下士山岡鉄太郎「高歩」駿府に至り、大総督府参謀西郷吉之助に就いて徳川慶喜の為に哀を請ふ。旧幕府陸軍総裁勝義邦「安房守」亦書を吉之助に致して其情を陳ず。大総督府、乃ち謝罪の目七条を挙げ、義邦・鉄太郎及旧幕府若年寄大久保忠寛「一翁」をして速に其実効を立てしめ、且三人に命じ、緩急、慶喜の支族徳川慶頼を助けて静寛院宮を護衛せしむ」。
#10日
★明治1年3月10日、「議定松平慶永、王師東下し、江戸の物情洶洶たるの報を得、其変乱を生ぜんことを恐れ、書を副総裁岩倉具視に致して、姑く東征の師を停め、徳川慶喜の謝状を採納せんことを請ふ。具視、之を斥く。明日、慶永、亦家士中根雪江「参与」を遣して其意を申ぬ」。

★明治1年3月10日、「徳川慶喜、其臣梅沢亮を遣し、東山道総督岩倉具定に因りて、哀請書を上る、具定之を納れ、後命を俟しむ、是日、慶喜之を其臣僚に告く」。

★明治1年3月11日、「大総督府、英・仏二国兵神奈川駅に駐屯するを以て、東海道先鋒総督府参謀木梨精一郎「恒準・萩藩士」を横浜に遣して、官軍東進の事を英国特派全権公使パークスに告げしむ。海軍先鋒大原俊実「前侍従」京都を発す」。

★明治1年3月11日、「大総督府参謀西郷吉之助、江戸に入る。東海道官軍の前隊、亦至る。神武天皇祭。権中納言愛宕通祐を畝傍山東北陵に遣して幣帛を奉ず。在京の諸侯に令して、官位任叙の年月日を録上せしむ」。
 

★明治1年3月13日、「佐賀藩士副島種臣を参与兼制度事務局判事と為し、議定細川護久「熊本藩世子」の刑法事務局輔を罷む。萩藩主毛利敬親「大膳大夫・参議」の請を聴し、其支族吉川経幹「監物・後駿河守」を支封と為し、藩屏に列す。岩国藩と称す。尋で、城主格に班す」。
★明治1年3月13日、「静寛院宮、侍女土御門藤子を東海道先鋒総督橋本実梁に、侍女玉島を東山道先鋒総督岩倉具定に遣し、手書を贈りて徳川慶喜臣隷の帰順する者を恩宥し、進軍を止めんことを請ふ。
是日、藤子は沼津駅に、玉島は蕨駅に至りて、各其書を総督に上る。報至るに及びて、宮、再び旨を慶喜支族徳川慶頼「田安家主」に授けて、慶喜の臣隷を戒諭せしむ」。
 



明治1年3月14日、「天皇、紫宸殿に臨御、公卿・諸侯を率いて天神地祇を祭り、国是五条を誓約し公卿・諸侯をして誠意を奉戴せしむ。「爾後、朝覲の諸侯・中下大夫、亦必ず誓約に就く」又詔して洪業を継述し、蒼生を安撫せんと欲するを告諭し、各私見を去りて公議に遵はしむ」。

明治1年3月14日、「東山道先鋒総督府参謀板垣退助、鳥取・高知・高島三藩兵を率いて新宿駅に至る。尋で「十八日」移りて江戸「市ケ谷」名古屋藩邸に屯す。山陰道鎮撫総督西園寺公望、姫路に至る。旧幕府麾下士小出秀実等、岡山藩家老池田図書之介、公望に謁し、天機を候す」。

明治1年3月14日、「是より先、旧幕府麾下士山岡鉄太郎、駿府より江戸に帰り、大総督府の旨を旧幕府陸軍総裁勝義邦等に伝ふ。是日、義邦、大総督府参謀西郷吉之助と芝「江戸」田町の鹿児島藩邸に会して徳川慶喜謝罪の条款を陳じ、且申請する所あり。吉之助、乃ち東海・東山二道の先鋒総督に牒して、仮に明日の進撃を停む」。

明治1年3月17日、「大総督府参謀西郷吉之助、徳川慶喜の謝罪条款を大総督に帰報す。大総督、乃ち東海・東山・北陸三道先鋒総督に令して、江戸城進撃の期を延べ、吉之助を京都に遣して慶喜の処分を稟請せしむ」。

明治1年3月17日、「大総督熾仁親王、再び東海道先鋒総督府参謀木梨精一郎を横浜に遣し、書を英国特派全権公使パークスに贈りて、東征の旨趣及武蔵金沢藩主米倉昌言をして仮に横浜を警守せしむることを報じ、之を各国使臣に通告せんことを託す」。

明治1年3月17日、「長崎裁判所参謀大隈八太郎「重信・佐賀藩士」を参与兼外国事務局判事と為し、和歌山藩士陸奥陽之助「宗光」を外国事務局権判事と為し、並に横浜に駐在せしむ。議定兼軍防事務局督嘉彰親王「仁和寺宮」元服す。在京諸侯五節句参賀等の条規を定む」。

★明治1年3月19日、「横浜裁判所を置き、兵庫裁判所総督東久世通禧「外国事務局輔」を総督と為し、外国事務局権輔鍋島直大「佐賀藩主」を副総督と為す。「二人、外国事務局輔並に故の如し。」前右近衛権中将中山忠愛を以て参与と為す」。

★明治1年3月20日、「総督府参謀西郷吉之助、京都に至り、徳川慶喜処分の条款を奏す。朝議、其大綱を許し、慶喜の死一等を減ずるに決す。乃ち、旨を吉之助に授けて帰り報ぜしむ。吉之助、二十一日京都を発す」。

★明治1年3月20日、「鹿児島藩主島津忠義、封土十万石を献じ、軍政を宏張せんことを請ふ。是日、優詔して其請を停む。仙台藩主伊達慶邦、松島に至り、奥羽鎮撫総督九条道孝に謁す。道孝、命じて速に兵を発して会津を討ぜしむ」。

★明治1年3月21日、「車駕親征京都を発す。副総裁三条実美・輔弼中山忠能・議定細川護久・同浅野長勲・同毛利広封・同池田章政等供奉し副総裁岩倉具視・輔弼正親町三条実愛・議定島津忠義・同蜂須賀茂韶等京都を留守す。是日車駕、八幡に次し、賊徒平定を石清水社に祈りたまふ」
★明治1年3月22日、「横浜裁判所総督「元兵庫裁判所総督」東久世通禧、姫路を巡按し、鹿児島藩兵をして姫路城を管守せしめ、岡山・龍野・小野・林田諸藩の守兵を撤す」。

★明治1年3月22日、「車駕親征京都を発す。副総裁三条実美・輔弼中山忠能、議定細川護久・浅野長勲・毛利広封・池田章政等供奉し副総裁岩倉具視・輔弼正親町三条実愛、議定島津忠義・蜂須賀茂韶等京都を留守す。是日車駕、八幡「山城国」に次し賊徒平定を石清水社に祈りたまふ」
★明治1年3月27日、「旧幕府生野代官支配地の管理者折田要蔵「年秀・鹿児島藩士」をして、播磨国内の旧代官支配地を併管せしめ、龍野・赤穂二藩の管理を罷む。東山道先鋒総督府、梁田駅「下野国足利郡」旁近の兵禍に罹りし者を賑恤す」。

★明治1年3月28日、「仙台藩主伊達慶邦・米沢藩主上杉斉憲、前会津藩主松平容保の為に救解を謀り、慶邦は藩士玉虫左太夫「誼茂」・若生文十郎「景祐」を、斉憲は藩士木滑要人「政愿」・片山仁一郎「一貫」を各会津に遣す。是日、両藩使者、容保に会し、恭順謝罪を勧告す。

尋で「四月十六日」文十郎、再び藩士横山官平「一義」と会津藩に至り、要人・仁一郎と共に会津藩用人手代木直右衛門「勝任」・小野権之丞「義忠」と会して前議を申ぬ。二本松藩使者丹羽新十郎「茂正」・瀬尾右衛門兵衛、亦其議に与る」。