#1日

#2日

元治1年2月2日、「参予松平慶永・同伊達宗城・同島津久光二条城に登り、大将軍後見職徳川慶喜・政事総裁職松平直克「大和守・川越藩主」及老中等と勅書「去月27日所賜」及大将軍奉答書の布告・横浜鎖港及萩藩処分等に関し、会議す。久光、固く横浜鎖港の不可を論ず」。
#3日
元治1年2月3日、「征夷大将軍徳川家茂、近侍を参予島津久光・同伊達宗城に遣し、物を賜ふ。久光、亦物を献ず。参予松平慶永、勅書「大将軍に所賜」の写を同山内豊信「容堂・前土佐藩主」に送り、幕府が之を公布すべき旨を告ぐ。明日、豊信、慶永に其不可を論ず」。
#4日

#5日
元治1年2月5日、「参予松平慶永・同伊達宗城・同島津久光、二条城に参集し、大将軍後見職徳川慶喜・政事総裁職松平直克及老中等と時事を協議す。幕府、軍艦奉行並勝義邦「麟太郎・後安房守」に、摂海警備及神戸海軍操練所に関する意見を徴す」。

#6日

#7日

#8日

#9日

★元治1年2月9日、「鹿児島藩主茂久「修理大夫」生父島津久光、摂津国「武庫郡」湊川に社を立て、護良親王・楠木正成及北畠親房等勤皇殉国の士の霊を祀らんことを請ふ。朝議、之を聴す」。楠木正成は、幕末人にっては崇高な存在。
#10日

#11日
★元治1年2月11日、「参予松平慶永・山内豊信・伊達宗城・島津久光、連署して書を徳川慶喜に致し、大将軍上洛して優詔を賜はる聖恩鴻大にして、君臣一和時勢を挽回するは此秋に在り、宜く英断を以て天下の耳目を一新し、上宸襟を安んじ下衆庶の輿望に副ふべきを建言す」。
★元治1年2月11日、「参予松平慶永・山内豊信・伊達宗城・島津久光、連署して書を徳川慶喜に致し、大将軍上洛して優詔を賜はる聖恩鴻大にして、君臣一和時勢を挽回するは此秋に在り、宜く英断を以て天下の耳目を一新し、上宸襟を安んじ下衆庶の輿望に副ふべきを建言す」。
#12日

#13日
★元治1年2月13日、「参予松平慶永・同伊達宗城・同島津久光、召に依り、参内す。朝議あり。弾正尹朝彦親王・常陸太守晃親王・関白二条斉敬・右大臣徳大寺公純・内大臣近衛忠房、参集す。垂簾之を聴きたまふ。幕府奏請の萩藩処分を議す」。
#14日
★元治1年2月14日、「参予島津久光、無謀の攘夷を避け、先づ摂海の防備を厳にせんことを建議す。鹿児島藩主茂久生父島津久光、藩是を在京の家士に明示して、浮説に惑ひ、方向を誤るが如きこと勿らしむ」。
#15日

#16日
★元治1年2月16日、「幕府、参予諸侯に命じ、用部屋に出入して枢機に参与せしむ。是日、参予伊達宗城・同島津久光、登営す。大将軍徳川家茂、宴を帳り、親く献酬して之を労ふ。参予山内豊信、会せず」。久光の朝廷・幕府の両方への政治参画が、形の上では実現した。

★元治1年2月19日、「幕府、鹿児島藩士折田要蔵「年秀」に命じ、砲台建設の為、摂海沿岸を巡見せしむ。横浜鎖港談判使節池田長発「筑後守・外国奉行」等、スエズに著し、カイロを訪ふ」。

★元治1年2月20日、「改元定の儀を行ひ、文久四年を改めて元治元年と為す」。

 

★元治1年2月26日、「萩藩士水井精一「通一」・同山本誠一郎「朝正」鹿児島藩船上乗大谷仲之進の首を、大坂東本願寺門前に梟し、其旁に自刃す。京都守護職松平容保、捕吏を遣して足利尊氏等の木像を梟首したる浪士三輪田綱一郎等を捕縛す」。