#1日

★明治1年2月1日、「松平慶永「議定兼内国事務総督」徳川慶喜の毎に恭順を口にすと雖も、未だ自責の誠を示さざるを憂へ、家士中根雪江「参与兼内国事務掛」に命じ、書を旧幕府会計総裁大久保忠寛に致し、慶喜の叛跡を数へ、速に恭順の実を表して朝裁を待たんことを勧めしむ」。
★明治1年2月1日、「東海道鎮撫総督岩倉具定、垂井駅「美濃国不破郡」を発して大垣「美濃」に至る。乃ち、名古屋藩に命じて福島関「信濃国西筑摩郡」及飛騨・信濃地方を管守せしむ」。
★明治1年2月1日、「裁判所総督の職掌を定む。陰陽頭土御門晴雄、上書して旧幕府天文方所掌の暦法授時の事を京都に復せんことを請ふ。之を聴す。鳥取藩主池田慶徳「因幡守」支族の江戸に在る者をして力を王事に效さしめんことを請ふ」。

★明治1年2月1日、「大和鎮台を廃し、参与久我通久を以て大和鎮撫総督・内国事務掛を兼ねしめ、名古屋・熊本二藩兵及十津川郷兵を之に属す。又総裁局顧問木戸準一郎「孝允・萩藩士」を外国事務掛を兼ねしめ参与兼外国事務掛小松帯刀「清廉・鹿児島藩士」と共に大坂に赴かしむ」。

#2日

★明治1年2月2日、「兵庫鎮台を改めて裁判所と為し、参与兼外国事務総督東久世通禧を以て総督を兼ねしむ。又長崎裁判所を置き、参与兼九州鎮撫総督・外国事務総督沢宣嘉「前主水正」を以て総督を兼ねしめ、参与兼外国事務掛井上聞多「馨・萩藩士」をして其参謀を兼ねしむ」。
★明治1年2月2日、「前左大臣近衛忠房を神祇事務総督と為し、前右大臣鷹司輔煕を制度寮事務総督と為し、参与兼外国事務掛小松帯刀をして総裁局顧問を兼ねしむ。佐賀藩主鍋島茂実「後直大・肥前守」京都に至る。尋で書を上り、父斉正「前藩主」疾を以て入覲遅延するを謝す」。
#3日

#4日

#5日

#6日
★明治1年2月6日、「鹿児島藩主島津忠義「議定兼海陸軍務総督」・前福井藩主松平慶永・前高知藩主山内豊信「容堂・議定兼内国事務総督」・熊本藩世子細川護久「右京大夫・議定兼刑法事務総督」・広島藩世子浅野茂勲「紀伊守・議定兼会計事務総督」・萩藩世子毛利広封「長門守」連署して疏を上り、宇内の大政奉還を察し、外交の規模を大にし、各国使臣入朝せしめんことを建議す。尋で、広封、又書を上り、癸丑依頼開鎖論の沿革・得失を陳じ、不抜の国是を確守し、万国と并立せんことを請ふ」。
★明治1年2月6日、「参与十時摂津「維恵・柳河藩士」・同神山左多衛「郡廉・高知藩士」を以て弁事を兼ねしめ、参与毛受鹿之助「洪・福井藩士」を史官と為す。東海道先鋒総督府参謀海江田武次「信義・鹿児島藩士」・同木梨精一郎「恒準・萩藩士」の桑名鎮定の功を賞す」。
★明治1年2月6日、「東海・東山・北陸・三道鎮撫総督を改めて、先鋒総督兼鎮撫使と為し、所属の諸藩兵を罷帰し、更に鹿児島・名古屋・和歌山・熊本・萩・佐賀・福井・彦根・高知等の二十二藩兵を以て之に属し、鹿児島・福岡・広島・萩・佐賀・高知・久留米の七藩に艦船を徴す」。
#7日
★明治1年2月7日、「薩摩、肥後以下二十七藩に令して、東海、東山、山陽、山陰、南海、西海諸道、旧代官の支配地を管せしめ、安芸、備前以下四藩の検査を罷む、又大垣、龍野以下十八藩に令して、旧幕府の預地及ひ松平容保、松平定敬の職田等の廩穀版図を検して、之を録上せしむ」
★明治1年2月7日、「薩摩、肥後以下二十七藩に令して、東海、東山、山陽、山陰、南海、西海諸道、旧代官の支配地を管せしめ、安芸、備前以下四藩の検査を罷む、又大垣、龍野以下十八藩に令して、旧幕府の預地及ひ松平容保、松平定敬の職田等の廩穀版図を検して、之を録上せしむ」
#8日

#9日
★明治1年2月9日、「萩藩主毛利敬親、藩士木戸準一郎「総裁局顧問・参与」・同広沢兵助「参与兼内国事務掛・大総督府参謀」・同楫取素彦「参与兼制度事務掛」の官職を解かんことを請ふ」。
#10日
★明治1年2月10日、「初め、旧幕府、仏国人フリュリー・エラールに嘱して総領事の職務を行はしむ。是に至り、議定兼外国事務総督伊達宗城、フリュリー・エラールを罷め、更に同国人モンブランに、巴里に於て総領事の職務を行ふべきを嘱す」。
#11日

#12日

★明治1年2月12日、「参与兼内国事務掛広沢兵助の大総督府参謀を罷む。前左大臣近衛忠煕・前右大臣鷹司輔煕、並に牛車を辞す。東征大総督熾仁親王、軍令・諸軍諸法度及廟算書を諸道総督に頒つ。尋で「二十五日」又軍令を従軍諸藩に頒つ」。

#13日

#14日
★明治1年2月14日、「議定兼外国事務総督伊達宗城、参与兼外国事務総督東久世通禧・参与兼大坂裁判所総督醍醐忠順「権大納言兼内国事務掛」英・仏・米・伊四国公使及蘭・普二国領事と大坂「西本願寺」に会し、新に外国事務局を置いて外交の事に管するを報じ、且天皇近日公使等を召見せんとすること及徳川慶喜征討の師を発せしことを告ぐ。参与兼外国事務掛小松帯刀及諸藩の老臣等之に参ず」。
★明治1年2月14日、「九州鎮撫総督兼長崎裁判所総督沢宣嘉「参与兼外国事務総督」長崎に至る。参謀井上聞多「馨・萩藩士・参与兼外国事務掛」之に随ふ。長門藩、松山討伐の際、獲し所の汽船を以て、運輸の用に充んと請ふ、之を聴す」。
★明治1年2月14日、「参与兼海陸軍務掛西郷吉之助「隆盛・鹿児島藩士」・参与林玖十郎「通顕・宇和島藩士」を大総督府参謀と為す。「吉之助の参与兼海陸軍務掛、玖十郎の参与、並に故の如し。」車駕、再び太政官代「二条城」に幸せんとす。不予を以て止む」。
#15日

#16日

★明治1年2月16日、「議定兼内国事務総督松平慶永・参与兼外国事務掛後藤象二郎「元耀・高知藩士」・参与内国事務掛大久保一蔵「利通・総裁局顧問・鹿児島藩士」・徴士総裁局顧問木戸準一郎・参与兼内国事務掛広沢兵助・同中根雪江に命じ、各国公使朝見の事を掌らしむ」。
#17日

#18日

#19日

★明治1年2月19日、「仏国全権公使レオン・ロッシュ、書を外国事務総督伊達宗城に致し、堺港争闘の処分を要求す。英国特派全権公使パークス、亦速に其要求に応ぜんことを陳ず。明日、朝議、要求を容るるに決し、旨を前高知藩主山内豊信父子に諭す」。

#20日

#21日

#23日

#24日

#25日

#26日

#27日

#28日

★明治1年2月28日、「便殿に臨御、在京の諸侯を召見し、同心協力、益々国事に勉めんことを詔諭し、宴を別殿に賜ふ。又特に鹿児島藩主島津忠義及其生父久光・萩藩主毛利敬親父子の勲労を賞して、各物を賜ふ。具し、之を弁事局に進啓せしむ。尋で「三月朔日」其進啓時限を定む」。