#1日

#2日

★慶應3年1月2日、「若年寄保科正益「弾正忠・飯野藩主」京都を発し、帰府の途に就く。「19日、江戸に著す。」江戸岡山藩上邸「馬場先門外」、火く」。
★慶應3年1月2日、「親王踐祚を本月九日と治定す。幕府、大行天皇葬送法会の際、篠山藩主青山忠敏「左京大夫」に泉涌寺、丹波亀山藩主松平信正「後図書頭」に般舟三昧院の警守を、水口藩主加藤明実「能登守」に洛中防火を、膳所藩主本多康穣「主膳正」に同控を命ず」。

#3日

★慶應3年1月3日、「遣欧特使徳川昭武「民部大輔・清水家主・大将軍徳川慶喜弟」渡欧の為、是日、京都を発す。5日、兵庫を出帆、9日、横浜に至る。幕府、横浜に語学所を開設し、諸藩士にも英・仏語就学を許可す。尋で、英・米2国公使に英学教師の人選を依嘱す」。
★慶應3年1月3日、「山陵奉行戸田忠至「大和守・宇都宮藩支族」朝命を奉じ、皇陵の沿革を調査し、之を上陳す「慶応2年12月晦日」。延議、乃ち天皇の火葬を廃す「2日」。是日、大行天皇の山陵を古制に依り、泉山に造営することを布達す」。
#4日

★慶應3年1月4日、「米国弁理公使ロバート・ファン・ファルケンブルグ、米国太平洋郵船会社の希望に依り、長崎港に波止場及倉庫の新設を幕府に勧説す。尋で「12日」幕府、其可否を長崎奉行に諮問す」。
★慶應3年1月4日、「幕府、更令して、関八州・豆・駿・遠・三・甲・信・奥・羽・越・飛の幕領及麾下・寺社領等を硝石製造場と為し、其私製を禁じ、領主の自用に係るものは、之を鉄炮玉薬奉行に稟請せしむ」。
★慶應3年1月4日、「幕府、御軍艦奉行・同並等を軍艦奉行・同並等に改め、其の役俸・席次を改む。幕府、更令して、麾下士の兵賦を金納に改め、兵賦1人につき年額金20両の割を以て上納せしむ。「蔵米取金納の分は従来の倍額とす。」」。
★慶應3年1月4日、「幕府、大喪に依り、鳴物停止の令を布き、在府諸藩主以下に明5日総登城を命ず。尋で、若菜・具足祝等恒例の嘉儀を停む。幕府、外国奉行向山一履「隼人正」を勘定奉行格と為し、外国奉行支配組頭勤方田辺太一を同組頭と為す」。
★慶應3年1月4日、「山陵御用掛柳原光愛「権大納言・議奏」・広橋胤保「同上」、武家伝奏飛鳥井雅典・野宮定功「同上」、山陵奉行戸田忠至・所司代松平定敬「越中守・桑名藩主」等、泉山に詣り、大行天皇の陵地を検分す。17日、陰陽助幸徳井保源をして地鎮祭を修せしむ」

#5日

★慶應3年1月5日、「米国公使館書記官ポートマン、書を幕府に贈り、痘瘡横浜に流行せんとするを以て、牛痘種の分与を求む」。
★慶應3年1月5日、「幕府、書を仏国全権公使レオン・ロッシュに贈り、巴里万国大博覧会に大将軍慶喜弟徳川昭武を特使として差遣することを告げ、大将軍親書「仏国皇帝に寄するもの」の写を示し、昭武のために斡旋を求め、なほ英・米其他各国使臣にも其旨を報ず」。
★慶應3年1月5日、「幕府、富山藩の上野「江戸」山内警守を罷め、大聖寺藩をして之に代らしむ。又川越藩の京都警守を免じ、富山藩を以て之に代ふ。幕府、天皇崩御を駐紮列国公使等に報ず」。
★慶應3年1月5日、「前権中納言八条隆祐・式部大輔唐橋在光・式部権大輔清岡長煕勧進の大行天皇諡号を、現任公卿に命じて選び奏せしむ。熊本藩主細川慶順「越中守」書を上り、萩・香春2藩間の形勢なほ不穏なるを以て、弟護久「澄之助・後右京大夫」の上京猶予を請ふ」。

#6日

★慶應3年1月6日、「幕府、英国特派全権公使パークスに牒して、其館員「通弁官」アレキサンダー・フォン・シーボルトに、帰国の序を以て我遣欧特使徳川昭武と同船、旅次を斡旋せしめんことを依頼す。パークス、之を諾す。「九日」」。
★慶應3年1月6日、「幕府、書を仏国全権公使ロッシュに贈り昨年11月横浜に於て仏国水兵を殴打死に至らしめた邦人の罪を判し首犯者「美之吉」を死刑に処すべきを通告す。公使、其死を宥め更に軽刑に処せん事を求む。幕府之を容れ重追放に処し、6月7日、ロッシュに報ず」
★慶應3年1月6日、「幕府、令して、麾下士の遠国赴任・転勤等に関する給与の制を改む。広島藩主浅野茂長「安芸守」書を上り、世子茂勲「紀伊守」の病を謝し、上京の猶予を請ふ」。
#7日

★慶應3年1月7日、「蘭国総領事ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルック、書を幕府に贈り、新造艦開陽丸和蘭国を出帆して「慶応二年十月二十五日」日本回航の途に就けるを報じ、更に造艦を勧告す」。
★慶應3年1月7日、「幕府、目付榎本亨造「道章」を日田「豊後」に遣し、代官内海多次郎「利貞」と協議し、取締に当らしむ。 高知藩、書を幕府に上り、木材運搬のため、吉野川「阿波国」流材の解禁を請ふ」。

#8日

★慶應3年1月8日、「大坂町奉行竹内日向守・目付松野孫八郎、本覚寺「大坂」に於て英国海軍士官と会見し、大将軍の公使延見の事を議す。広島藩、大喪・踐祚及摂政の治定を萩藩に内報す」。
★慶應3年1月8日、「前松前藩主松前崇広「伊豆守」病没す。尋で「二月三日」、藩主徳広「志摩守」書を幕府に上りて其旨を陳じ、崇広なほ謹慎中なるを以て、其葬送に関し指令を請ふ。批して、密に之を葬り、且、墓碑を建つること勿らしむ」。
★慶應3年1月8日、「幕府、老中小笠原長行「壱岐守・唐津藩世子」に上京を命ず。尋で「十六日」其命を停む。幕府、仏人ペ・シェ・クーレーに上総地方の地質及石炭の有無調査の労を謝す。明日、其帰国を餞し、遣欧特使一行に対する斡旋を依頼す」。
★慶應3年1月8日、「征夷大将軍徳川慶喜、喪中の静寛院宮「親子内親王・故大将軍家茂夫人」に物を進め、起居を候す。幕府、歩兵奉行並久世広道「下野守」を奥詰銃隊頭と為す」。
★慶應3年1月8日、「征夷大将軍徳川慶喜、大行天皇の葬送に供奉せんことを請ふ。是日、之を聴す。尋で、京都守護職松平容保「肥後守・会津藩主」にも、亦之を聴す。侍従鷲尾隆聚、書を上り、諒闇に依り大赦を令し、幽閉の宮・公卿等を宥免せんことを請ふ」。

 

#9日
★慶應3年1月9日、「萩藩士木戸準一郎「孝允」、書を同藩士広沢兵助「真臣」に寄せ、闔藩士気緊粛の要を述べ、藩士河瀬安四郎等の上海・香港留学に斡旋を求む」。
★慶應3年1月9日、「浪士中岡慎太郎「道正・石川清之助・大山彦太郎・元高知藩士」、太宰府「筑前国筑紫郡」に至り、天皇崩御及京都の近状を元権中納言三条実美等に告ぐ」。
★慶應3年1月9日、「鹿児島藩士小松帯刀「清廉」・寺島陶蔵「宗則」・吉井幸輔「友実」、大坂同藩邸に於て、英国公使館員ミットフォード、アーネスト・サトウに会し、大将軍の列国公使延見に関し、意見を交換す」。
★慶應3年1月9日、「横須賀製鉄所首長ウェルニー、書を幕府に贈り、製鉄所より巴里に在る我名誉領事フリューリー・エラールに交付すべき金額「弐拾万九千壱フラン余」を陳じ、銀行手形利用の方法を採らんことを勧む。尋で、幕府、之に従ふべきを答ふ」。
★慶應3年1月9日、「弾正尹朝彦親王「賀陽宮・国事掛」・入道純仁親王「仁和寺宮・後嘉彰親王」に命じ、麝香間に祗候せしむ。幕府、禁裏付松平清秀「若狭守」を罷め、目付大久保忠恒「筑後守」を以て之に代ふ」。
★慶應3年1月9日、「睦仁親王、清涼殿代小御所に出御、踐祚の儀を行ふ。関白二条斉敬「左大臣」を摂政と為す。准后九条夙子を女御と称するを停め、権大納言日野資宗・権中納言中院通富を准后肝煎と為す」。
#10日
★慶應3年1月10日、「幕府、高松藩主松平頼聡「讃岐守」に上京を命じ、大将軍に扈従せしむ。尋で、頼聡、病を以て入京の期を延べんことを請ふ。幕府、英・仏・米公使及蘭国総領事に牒して、大将軍の延見延期を告ぐ」。
★慶應3年1月10日、「大行天皇入棺の儀を行ふ。前権大納言中山忠能、書を内大臣近衛忠房に致し、後宮の制弛廃するを以て、之を匡正して古に復せんことを切論す。幕府、島原藩に長崎日見口新関を、平戸藩に長崎茂木口新関を、大村藩に長崎西山浦上口新関の警守を命ず」。
#11日

★慶應3年1月11日、「幕府、川越藩主松平直克「大和守・後前橋藩主」に令し、其警守に係る五料関門「上野国那波郡沼ノ上村」の旧記類を調査録上せしむ」。
★慶應3年1月11日、「遣欧特使徳川昭武、外国奉行向山一履・小性頭取山高信離「石見守」・外国奉行支配組頭田辺太一・勘定格陸軍付調役渋沢篤太夫「栄一・武蔵人」等二十五人及仏国領事ヂュリー・英国公使館通弁官シーボルト等と倶に横浜を解纜し、渡仏の途に就く」。
★慶應3年1月11日、「幕府、在京諸侯及麾下士に令し、二条城に登り踐祚を賀せしむ。尋で「十八日」、江戸城に於ても亦同じ。幕府、令して銃隊調練・髭剃の禁を弛め、尋で、月代・普請・鳴物等の禁を解く」。

#12日
★慶應3年1月12日、「佐伯藩、使者を熊本藩に遣し、萩藩兵の香春藩領侵入を報じ、救援を求む。明日、熊本藩、返書して、臨機の処置を為すべき旨を答ふ」。
★慶應3年1月12日、「英国特派全権公使パークス、書を幕府に贈り、横浜沼地埋立工事の速成を促す。尋で「十六日」幕府、書を復して其事務を神奈川奉行に委任せる旨を告ぐ」。
★慶應3年1月12日、「勘定吟味役小野広胖「友五郎・後内膳正」・開成所頭取並松本寿太夫に全権委任状を交付し、米国に至り、軍艦武器の購入及前駐日弁理公使ブリュキンとの軍艦建造費決算の事に従はしむ。尋で「二十三日」広胖・寿太夫、横浜出帆、米国渡航の途に上る」。
★慶應3年1月12日、「幕府、四品・十万石以上の諸侯に令し、天皇崩御を以て使者を京都に遣して香奠を献ぜしむ。尋で「十八日」十万石以下の諸侯にも亦之を令す。小浜藩主酒井忠氏「若狭守」三カ月詰警衛のため京都に至る」。
★慶應3年1月12日、「国事掛朝彦親王、曩に辞表を上り、久しく朝せず。是日、親王、申ねて書を上り、叡慮扶助の任を罷めんことを請ふ。聴さず。尋で「二十六日」復た之を請ふ。聴さず」。
#13日

★慶應3年1月13日、「幕府、大坂町奉行松平信敏「大隅守」を大目付、歩兵頭平岡準「越中守・後和泉守」を大坂町奉行と為す。萩藩、藩士井原小七郎を太宰府に遣し、大喪を元権中納言三条実美等に弔す。又騎馬銃及弾薬を贈る」。
★慶應3年1月13日、「征夷大将軍徳川慶喜、京都守護職松平容保・所司代松平定敬・老中板倉勝静「伊賀守・備中松山藩主」・同格大給乗謨「縫殿頭・田野口藩主」・同稲葉正巳「兵部大輔・前館山藩主」等を従へて参内、大行天皇の霊柩を拝す。大将軍独り焼香し、他は礼拝す」

#14日
★慶應3年1月14日、「幕府、書を英国特派全権公使パークスに贈り、倫敦東洋銀行頭取ガルキルを名誉領事と為し、在英邦人に関する事務の斡旋を委嘱せしことを報ず。萩藩士井上聞多、藩命を以て上京の途に就き、大坂鹿児島藩邸に至り、鹿児島藩士吉井幸輔と共に京都に入る」
#15日
★慶應3年1月15日、「萩藩士木戸準一郎、書を在京の同藩士品川弥二郎「日孜」及浪士坂本龍馬「直柔・才谷梅太郎・元高知藩士」に寄せ、幕府三度萩藩征討の説あるを以て、実情の探索を求む」。
★慶應3年1月15日、「蘭国総領事ファン・ポルスブルック、書を幕府に贈り、下関償金残額の支払を促す。尋で、仏国全権公使ロッシュ「正月二十三日」・英国特派全権公使パークス「正月二十六日」及米国弁理公使ファン・ファルケンブルク「二月二日」も、亦之を督促す」。
★慶應3年1月15日、「前関白九条尚忠「圓真」の重慎を解いて入京を允し、中務卿幟仁親王「有栖川宮」及権大納言正親町実徳・石山基文・平松時厚・五条為栄・五辻安仲の参朝を聴し、広幡忠礼・徳大寺実則・長谷信篤の遠慮を釈し、東園基敬・万里小路博房の差控を免ず」。
★慶應3年1月15日、「幕府、諸藩に令して府内組合辻番所の番人数及其給与額を録上せしむ。久保田藩、書を幕府に上り、領内の産銅を外国に売りて軍艦・銃砲購入の費に充てんことを請ふ」。
★慶應3年1月15日、「幕府、京都守護職松平容保・所司代松平定敬に命じ、大葬を以て萩藩征討解兵を奏請せしむ。容保、聴かず。尋で、定敬及老中板倉勝静をして之を奏請せしむ。 幕府、歩兵頭並佐久間小左衛門を歩兵頭、砲兵差図役頭取坂本復之助を砲兵頭と為す」。
#16日
★慶應3年1月16日、「英国特派全権公使パークス、書を老中板倉勝静等に贈り、大坂来著を報じ、両都「江戸大坂」・両港「兵庫新潟」の開市・開港公布を促す」。
★慶應3年1月16日、「幕府、普国代理公使フォン・ブラントを大将軍接見のため大坂に招請す。「18日、フォン・ブラント、書を復して之を諾し、後横浜領事館敷地の紛議に依り、遂に赴かず。」。福井藩主松平茂昭「越前守」京都に至る」。
★慶應3年1月16日、「明石藩、書を幕府に上り、財帑窮乏、且禾穀不熟を以て、3个年を限り貯穀3500石を借らんことを請ふ「2月21日」。是日、批して之を聴す。今治藩主久松定法「内膳正」書を幕府に上り、藩力疲弊を以て居城改築の猶予を請ふ」。
#17日

★慶應3年1月17日、「准后鷹司政通「拙山・前関白太政大臣」に宮中杖を允す。幕府、令して海軍所の新築「浜御殿に設く」落成に至る迄、同仮稽古場に於て、練習を開始せしむ。幕府、富士見宝蔵番頭及同組を廃す」。

#18日

★慶應3年1月18日、「征夷大将軍徳川慶喜、大目付兼外国奉行永井尚志に命じ、佐賀に赴き、前佐賀藩主鍋島直正に上京を促さしむ。28日、尚志、佐賀に至る。盛岡藩主南部利剛、書を幕府に上り、藩力疲弊せるを以て、江戸の警守を罷めんことを請ふ。批して之を聴さず」。
★慶應3年1月18日、「幕府、久保田藩の日華門警守を罷めて小浜藩に、川越藩の朔平門警守を罷めて富山藩に、各交代せしむ。なほ富山藩兵の入京遅延するを以て、姑く小浜・郡山二藩兵をして富山藩兵に代て朔平門を警守せしむ」。

#19日

★慶應3年1月19日、「幕府、海軍奉行大関増裕「黒羽藩主」を若年寄兼海軍奉行、陸軍奉行並石川総管を若年寄兼陸軍奉行と為し、陸軍奉行並織田信愛を海軍奉行並に、海軍奉行並駒井朝温を陸軍奉行並に、軍艦奉行藤沢次謙を歩兵奉行に、麾下士池田長発を軍艦奉行並に任ず」。

#20日

★慶應3年1月20日、「幕府、膳所藩の八幡「山城」旁近警守を罷め、宮津藩を以て之に代ふ」。

#21日

★慶應3年1月21日、「長崎奉行支配組頭吉岡艮太夫「政成」、長崎運上所に於て、米・蘭・葡・普四国領事と会し、外人遊歩道路改築に関し談判す。尋で、奉行徳永昌新「石見守」も、亦英・米等五国領事と商議す」。
★慶應3年1月21日、「川越藩主松平直克、前橋城「上野国」の再築竣功並に同城を以て居城と為すことを幕府に禀す。二月二日、幕府、使番土方兼三郎等を遣して之を検せしむ」。

#22日

★慶應3年1月22日、「幕府、書を列国使臣に贈り、本月九日を以て天皇踐祚ありしこと、並に来二十七日、大行天皇の大葬を行ふことを報ず。幕府、郡山藩主柳沢保申「甲斐守」京都三个月詰警守の期満つるを以て帰藩を許す。尋で「二十九日」保申、其途に就く」。
★慶應3年1月22日、「幕府、一橋家老大井信道「丹後守」・同松浦啓「加賀守」を罷め、勘定奉行小笠原広業「摂津守」を以て之に代へ、組合銃隊頭土岐伊勢守を目付と為し、大坂町奉行平岡準を罷め、後「二十九日」、寄合小笠原長功「刑部・後伊勢守」を以て之に代ふ」。

#23日

★慶応3年1月23日、「幕府、福岡・熊本・久留米・鹿児島・佐賀五藩に令し、太宰府に在る元権中納言三条実美・同三条西季知・元左近衛権少将東久世通禧・元修理権大夫壬生基修・元侍従四条隆謌の保監を罷め、其帰京を警固せしむ」。
#24日
★慶応3年1月24日、「鹿児島藩士小松帯刀・同西郷吉之助・同大久保一蔵「利通」・同吉井幸輔等、前福井藩主松平慶永「大蔵大輔」・前高知藩主山内豊信「容堂」・前宇和島藩主伊達宗城「伊予守」及鹿児島藩主茂久「修理大夫」生父島津久光「大隅守」の京都会同を策す」。
★慶応3年1月24日、「萩藩、藩士杉孫七郎「重華」・遠藤謹助を長崎に遣し、一艦「第二丙寅丸」を売卻し、更に砲艦二艘を購入せしむ」。

#25日

★慶応3年1月25日、「萩藩支族吉川経幹「監物・後岩国藩主・後駿河守」、用人大草終吉を福岡に遣し、藩主黒田長溥「美濃守」・世子慶賛「下野守」よりの来使に酬ひ、また太宰府に元権中納言三条実美等五人の起居を候せしむ。終吉、二月七日博多に、同十日太宰府に至る」。

★慶応3年1月25日、「幕府、岡藩主中川久昭「修理大夫」の野州降人「人足寄場に置けるもの」の非常警守を罷め、伊予吉田藩主伊達宗孝「若狭守」をして之に代らしむ。 篠山藩主青山忠敏、京都に至る。尋で「二十七日」参内、天機を候す」。

★慶応3年1月25日、「太宰帥熾仁親王「有栖川宮」・前権大納言中山忠能・権中納言橋本実麗・前右少弁勧修寺経理の参朝を允し、大蔵卿豊岡随資・左近衛権少将正親町公董・同橋本実梁・侍従烏丸光徳及左近衛権中将滋野井実在の差控を解く」。

#26日
慶応3年1月26日、「幕府、関東郡代木村勝教「・河津祐邦を勘定奉行並と為し、関東在方掛を命ず。仍て関東郡代を廃す。熊本藩主細川慶順、書を幕府に上り、香春藩士民一万余人、領内に避難の状を具し、救恤の力及ばざるを以て、幕府に於て速に之を扶助せんことを請ふ」。

#27日

★慶応3年1月27日、「遺詔奏、廃朝五日。是夜、大行天皇を泉涌寺後月輪東山陵に葬り奉る。仏国全権公使ロッシュ、海路、大坂に至る」。

#28日

★慶応3年1月28日、「是より先、幕府、川越藩主松平直克・棚倉藩主松井康直・白河藩主阿部正静に転封を命ず。乃ち直克を上野国前橋に移し、川越の城地を康直に、康直をして棚倉の城地を正静に交付し、なほ正静をして白河城を管せしむ」。

★慶応3年1月28日、「幕府、麾下士に令し、八歳以上の子弟を学問所に入れ、修学せしむ。幕府、村上藩主内藤信民「豊前守」・白河藩主阿部正静「長吉郎」・山形藩主水野忠弘「真次郎」の目通差控を免ず」。

#29日

★慶応3年1月29日、「幕府、製鉄所調役を置き、役俸・席次を定む。老中稲葉正邦「美濃守・淀藩主」京都に至る。鳥取藩、兵制改革を令す」。

★慶応3年1月29日、「准后九条夙子、後月輪東山陵に参拝す。征夷大将軍徳川慶喜、疾に依り老中板倉勝静をして代りて参内、天機を候せしむ。「大葬終了を以てなり」。所司代松平定敬も、亦参内す」。

 

 

 

★慶応3年1月是日、「西国郡代窪田治部右衛門、書を幕府に上り、萩藩処分未だ決せず、幕府所領防備の要あるを以て、其租を軍費に充当し、且、各藩の管地を更改すべきこと等を条陳す。幕府、之を容る」。

★慶応3年1月是日、「鳥取藩主池田慶徳、書を大将軍徳川慶喜に上り、病を以て上京の遅延を謝し、近時麾下士の服装等、洋風に汚染の態あるを難じ、遣欧特使徳川昭武の渡航を止めんことを請ふ。萩藩、其の支配下にある香春藩領内の庄屋等に、田租半減を令す」。

★慶応3年1月是日、「徳島藩主蜂須賀斉裕「阿波守」書を幕府に上り、萩藩及3港開鎖の措置、一に朝旨に遵ひ、公武一致の基本を樹つべきを建言す。京都堺町門に、大葬に際し武家伝奏以下雑掌に至る迄私利を計る者あらば、天誅を加ふべき旨を書し、貼紙する者あり」。

★慶応3年1月是日、「英国特派全権公使パークス、書を幕府に贈り、川崎駅「武蔵国橘樹郡」に於る士官通行の阻止及江戸市中に於る公使館員への侮辱を詰問し、謝罪・戒飭を要求す。仙台藩、書を幕府に上り、領内の生糸生産取締のため、金五十万両を貸与せんことを請ふ」。

★慶応3年1月是日、「浪士坂本龍馬、高知藩士溝淵広之丞を伴ひ、萩藩に至り、藩士木戸準一郎と会し、時事を議す。準一郎、高知藩の奮起を促す。香春藩、使者を熊本藩に遣し、時難に関し援助を求む。岡・森等の諸藩も、亦同じく熊本藩に協議するところあり」。