日本人で年に10万人に1人しか、かからない不治の病、慢性リンパ性白血病/小リンパ球性リンパ腫を患ってしまったジィジ。縁者にがん、白血病を罹った人はない。なぜ、どうして・・



 ジィジは25年前まで自動車の整備士をしていたが、35歳のとき、転職を決意。家族の反対を押し切り、記者になった。整備業では30までにすべての資格を取得し、生活も安定していた。しかし「このままでいいのだろうか?」と思い始め、偶然、見つけた募集広告を見て、応募した。

 動機は前社長が執筆していたコラム。政治、経済からスポーツ、芸能まで広い視野を持ち、中でも地元をはじめ、日本の政治に詳しく、「あかんことはあかん」「今しかない」と鋭い切り口でペンを走らせ、識者を圧倒。共感する読者も多く、市町村合併などをリード。「この人についてゆこう」と決心した。


 社長の面接で一発合格し、入社することになったが、母や妻が猛反対。「お伺い」(占い)をしてくれる寺院まで連れていかれ「長続きしない」と断言されたが、ジィジの信念は揺るがなかった。

 記者というのはテレビドラマのようなカッコいい仕事でなく地味。ネタ探し、取材、写真撮り、記事書きなどのほか、小さな会社だったため、配達や印刷、広告の営業までこなした。


 当初は活版印刷だったが、オフセット印刷に変わり、記事もパソコンで入力するように。毎日、紙面を2人の記者で埋めなくてはならず、大手新聞の記者とは数十倍の出稿をしていた。毎日、長時間、モニター画面とにらめっこしているため、視力も大幅ダウンした。
 この25年間で大きく変わったのは読者。当初はクレーム・問い合わせなど、ほとんど無かったが、年々、増えてゆき、今ではほぼ毎日、メール、ファクス、手紙、電話などが寄せられる。対応するのは「書き手」(記者)。長い時は1時間以上、対応に追われ、受話器を持つ手が震えたことを覚えている。
 そのほか、さまざまなストレスが蓄積するようになり、3年前、突然、右腕が動かなくなった。原因不明。仕事に復帰するまで1ヶ月を要した。

 これを機に体に留意するようになり、10㌔ダイエット。毎日、1時間ウォーキング。体重や血圧などを測るようになった。


 仕事面では土日はもちろん、早朝、深夜までの取材も当たり前だったが、会社と交渉し、フレックスタイム・テレワーク制を導入。新聞も土日休刊になった。
 「定年(60)まで、あとわずか」。現社長と今後について話し合っていた矢先の病気発覚。「これもひとつのターニングポイントか」と病床で考えている。
 この病気の原因は未だ、わかっていない。しかし、体に何らかの負荷がかかっていたのは間違いないと思う。やがて結婚し、今、孫を育てている子どもたちには、伴侶を悲しませないためにも、同じような道を歩んでほしくない。