今日は天気も良かったので、久しぶりに史跡巡りをすることにし、愛車で西へと向かいました。庄内川を下志段味橋で越え、名古屋市守山区へと入っていきました。

〇志段味古墳群

 最初は、名古屋市守山区の志段味古墳群を訪れました。まず昨年開館した「しだみ古墳群ミュージアム」(展示室入室料200円)を訪れて、古墳群の成り立ちや配置などの予備知識を得た上で、古墳巡りをしました。国指定史跡となっていて、公園として整備されているので、散策コースや案内板もはっきりしていて、巡りやすくなっています。特に、志段味大塚古墳は、造成された当時の姿に復元され、埴輪も復元されていて、古墳の本来の姿をうかがい知ることが出来ました。さらに、白鳥塚古墳は周壕跡もよく残り、大きな前方後円′墳の全容が見て取れました。

〇朝日遺跡

 2時間ほどで散策を終えてから、昼食を取り、今度は清須市にある弥生時代の朝日遺跡へと向かいました。こちらも昨年資料館がリニューアルされ、遺跡公園も拡大されました。まず、「あいち朝日遺跡ミュージアム」に入館(入館料300円)して、遺跡の全体像を把握しましたが、三重の環濠を巡らした大規模な弥生遺跡で、まさに九州の吉野ケ里遺跡や奈良の唐子・鍵遺跡に匹敵する遺跡だということがわかりました。しかし、遺跡の主要部分は高速道路のインターチェンジ建設で破壊されており、ごく一部が残されているだけとのことで、とても残念な気がしました。それでも、膨大な発掘資料(2,028点)は国の重要文化財に指定され、資料館で見ることが出来るのは、せめてもの幸いです。
 館内見学後は、遺跡公園を散策しましたが、復元された竪穴式住居や高床式倉庫、環濠の一部、貝塚断面などを見ることが出来ました。また、旧資料館が「史跡貝殻山貝塚交流館」となっていて、こちらにも貴重な資料が展示されていました。館内では、係の方がいろいろと解説していただけたので、勉強にもなりました。特に、屈葬人骨やパレススタイル土器などは興味深いものです。勾玉づくりや土器制作など季節に応じた体験学習も出来るということなので、参加してみたら面白いかも.....。
 今日は、古墳時代と弥生時代の2つの遺跡を巡って、とてもよい学習ができましたし、そんなに寒くもなく心地よく散策できたのが何よりでした。


 農村地帯をを旅していて、美しいため池に出会ったことはありませんか?稲作を主に行ってきた日本では、ため池は古来からの農村風景で、全国に約21万ヶ所もあると言われています。
 稲作を振興するためには、水利の確保が重要で、大規模な河川から農業用水を取得できない地域では、古来からため池が作られてきました。降雨の少ない地域では、多くのため池が作られて水不足を補い、農業を維持するには必要不可欠のものとされています。そんなため池には、農山村に溶け込んだ景勝地であったり、周辺に桜などが木々が植栽されて憩いの場になっていたり、水鳥などの集まる自然環境上の重要な場所であったり、釣り人の集う場所であったりと地域にとって重要な役割も担わされてきました。
 そんな中で、2010年(平成22)に、農林水産省が「ため池百選」として100ヶ所のため池を選定しました。周辺の自然景観にマッチした所も多いので、農山村を訪れた時に立ち寄ってみることをお勧めします。

〇「ため池百選」とは?

 平成時代の2010年(平成22)に、日本全国に存在するため池の歴史や役割などについて、人々がより深い理解を得るための契機として、農林水産省が選定したものです。全国に約21万箇所あるため池の多くは長い歴史を有し、農業用水の水源して農業の礎を担うとともに、地域の文化にも深く携わり、周辺の農地や里山と一体となって多用な生物の生育・生息の場となってきましたが、農業者の減少、高齢化の中で管理が難しくなりつつあって、その歴史や多様な役割、保全の必要性が国民に理解される契機とするため企画されました。2009年(平成21) 4月20日~7月10日間、ため池百選候補の募集が行われ、827件の応募があり、11月20日の第一次選定で一般投票の対象とするため池候補をため池百選選考委員会で287件選定、翌年1月8日~2月8日まで、農業の礎、歴史・文化・伝統、景観、生物多様性、地域とのかかわり等々をポイントとして一般投票を実施し、約73,000票の投票があります。その結果をふまえ、ため池百選選考委員会で3月11日に選定され、3月25日に一般公表されました。選定されたため池は、いずれも人工的に造成されたもの(ダムなどは含まず)であり、その地域に存在する複数のため池(群)が選定されているものもあり、現在も農業に活用されているものだけとなります。

☆「ため池百選」一覧

1.美幌温水溜池(北海道美幌町)太陽光で河川水を温水化するため池
2.廻堰大溜池(青森県鶴田町)堰堤4.2km日本最大・愛称津軽富士見湖
3.境野沢ため池(青森県五所川原市)津軽藩の灌漑事業
4.藤枝ため池(青森県五所川原市)日本さくら名所100選
5.千貫石ため池(岩手県金ケ崎町)人柱伝説・千貫石森林公園
6.久保川流域ため池群(岩手県一関市)にほんの里100選
7.百間堤[有切ため池](岩手県一関市)東磐井地域棚田20選
8.内田ため池(岩手県奥州市)
9.加瀬沼ため池(宮城県多賀城市、塩竈市、利府町)加瀬沼公園
10.一丈木ため池(秋田県美郷町)一丈木公園
11.小友沼(秋田県能代市)東アジア地域ガンカモ類重要生息地ネットワーク指定地
12.大山上池・下池(山形県鶴岡市)ラムサール条約登録湿地
13.徳良池[徳良湖](山形県尾花沢市)
14.馬神ため池と大谷の郷(山形県朝日町)
15.玉虫沼(山形県山辺町)山辺町玉虫沼農村公園
16.藤沼貯水池[藤沼湖](福島県須賀川市)東北地方太平洋沖地震により決壊
17.南湖[南湖公園](福島県白河市)史跡・名勝・南湖県立自然公園
18.宍塚大池(茨城県土浦市)
19.砂沼湖(茨城県下妻市)茨城百景・砂沼広域公園
20.神田池(茨城県阿見町)阿見名所百選
21.大沼(栃木県小山市)
22.唐桶溜(栃木県芳賀町)唐桶宗山公園
23.妙参寺沼(群馬県太田市)
24.間瀬湖(埼玉県本庄市)県立上武自然公園
25.小中池(千葉県大網白里市)房総の魅力500選
26.月見が池(山梨県上野原市)
27.御射鹿池(長野県茅野市)八ヶ岳中信高原国定公園
28.菅大平温水ため池[あやめ公園池](長野県木祖村)
29.千人塚城ヶ池 長野県飯島町)中央アルプス国定公園
30.塩田平のため池群(長野県上田市)遊歩百選
31.荒神山ため池[たつの海](長野県辰野町)荒神山スポーツ公園
32.中郷温水池(静岡県三島市)平成の名水百選・疏水百選
33.青野池(新潟県上越市)
34.坊ヶ池(新潟県上越市)坊ヶ池湖畔公園
35.朝日池(新潟県上越市)新潟県立大潟水と森公園
36.じゅんさい池[下野](新潟県阿賀野市)
37.赤祖父溜池(富山県南砺市)水源の森百選
38.桜ヶ池(富山県南砺市)桜ヶ池ハイウェイオアシス・桜ヶ池県定公園
39.漆沢の池(石川県七尾市)
40.鴨池(石川県加賀市)ラムサール条約登録湿原
41.赤尾大堤(福井県勝山市)奥越高原県立自然公園・恐竜渓谷ふくい勝山ジオパーク
42.八幡池(岐阜県坂祝町)
43.入鹿池(愛知県犬山市)飛騨木曽川国定公園・博物館明治村・かんがい施設遺産
44.三好池(愛知県みよし市)
45.芦ヶ池(愛知県田原市)
46.初立池(愛知県田原市)
47.片田・野田のため池群(三重県津市)
48.楠根ため(三重県菰野町)国の天然記念物「田光のシデコブシ及び湿地植物群落」
49.八楽溜(滋賀県東近江市)
50.西池(滋賀県長浜市)
51.三島池(滋賀県米原市)
52.淡海湖(滋賀県高島市)家族旅行村ビラデスト
53.広沢池(京都府京都市)歴史的風土特別保存地区
54.大正池(京都府井手町)平成の名水百選
55.佐織谷池(京都府舞鶴市)
56.狭山池(大阪府大阪狭山市)日本最古の人工ため池、美しい日本の歩きたくなるみち500選、かんがい施設遺産
57.久米田池(大阪府岸和田市)かんがい施設遺産
58.長池オアシス[長池、下池](大阪府熊取町)
59.寺田池(兵庫県加古川市)疏水百選 
60.天満大池(兵庫県稲美町)天満大池公園
61.いなみ野ため池ミュージアム(兵庫県明石市、加古川市、高砂市、稲美町、播磨町)文化的景観180カ所、関西自然に親しむ風景100選、近代化産業遺産、疏水百選
62.西光寺野台地のため池群(兵庫県姫路市、福崎町)
63.長倉池(兵庫県加西市)
64.昆陽池(兵庫県伊丹市)
65.斑鳩ため池(奈良県斑鳩町)
66.箸中大池(奈良県桜井市)箸墓古墳の周堀
67.亀池(和歌山県海南市)生石高原県立自然公園
68.狼谷溜池(鳥取県倉吉市)因伯の名水(ふれあいの水辺)
69.大成池(鳥取県伯耆町)
70.うしおの沢池(島根県雲南市)
71.やぶさめのため池(島根県江津市)
72.神之渕池(岡山県久米南町)日本の棚田百選
73.鯉ヶ窪池(岡山県新見市)国の天然記念物「鯉ヶ窪湿性植物群落」
74.服部大池(広島県福山市)
75.長沢ため池(山口県阿武町)
76.深坂溜池(山口県下関市)
77.深田ため池(山口県長門市)日本の棚田百選
78.金清1号池・金清2号池(徳島県阿波市)
79.豊稔池(香川県観音寺市)国の重要文化財
80.満濃池(香川県まんのう町)登録有形文化財・ダム湖100選
81.蛙子池(香川県土庄町)
82.国市池(香川県三豊市)
83.山大寺池(香川県三木町)香川のみどり百選
84.通谷池(愛媛県砥部町)
85.赤蔵ヶ池(愛媛県久万高原町)
86.大谷池(愛媛県伊予市)皿ヶ嶺連峰県立自然公園
87.堀江新池(愛媛県松山市)
88.弁天池[内原野池](高知県安芸市)手結住吉県立自然公園
89.蒲池山ため池(福岡県みやま市)
90.池ノ内湖(佐賀県武雄市)
91.山谷大堤(佐賀県有田町)日本の棚田百選
92.野岳ため池(長崎県大村市
93.諏訪池(長崎県雲仙市)島原半島ジオパーク
94.大切畑ため池(熊本県西原村)
95.浮島(熊本県嘉島町)水の郷百選、平成の名水百選*浮島神社
96.野依新池(大分県中津市)
97.巨田の大池(宮崎県宮崎市)
98.松の前池(鹿児島県和泊町)
99.北大東村ため池群(沖縄県北大東村)
100.カンジン貯水池(沖縄県久米島町)世界初の地表湛水型地下ダム湖


〇南北朝時代
  1333年(元弘3/正慶2)の鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政を経て、1336年(延元元/建武3)に足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野転居により朝廷が分裂してから、1392年(元中9/明徳3)に皇室が合一するまでの時代となります。この時代には、南朝(吉野)と北朝(京都)に2つの朝廷が存在していましたが、現在の皇室は南朝を正統としていて、元号も南朝のものが使われています。この時代には、近畿地方を中心に全国で南朝方と北朝方による騒乱が続きました。しかし、次第に南朝勢力が衰微し、1392年(元中9/明徳3)の南北朝合一に至ります。この過程で、地方の守護は指揮権、所得給与、課税権などの権限を拡大していき、守護大名へと発展していく過程をたどります。この中で農村では、百姓の自治的・地縁的結合による共同組織である惣村が形成されるようになり、土一揆などの民衆の抵抗がおこる基盤となっていきます。「太平記」はこの時代と大きく重なって描かれました。

〇『太平記』の旅
 『太平記(たいへいき)』は、南北朝時代の1374年(文中3/応安6)頃までに成立したと考えられる、作者不詳の軍記物語で、流布本は、四十巻の他に剣巻一巻が付属します。1318年(文保2)の後醍醐天皇の即位以後、約50年間の南北朝の戦乱を南朝側の立場から華麗な和漢混交文で描いていています。内容は、3部に分けられ、第1部 (巻一~巻十一) は、鎌倉時代末期の北条高時の失政、後醍醐天皇の討幕に起筆し、北条氏の滅亡後、建武中興の成立まで、第2部 (巻十二~巻二十一) は、建武中興の失敗、足利尊氏の謀反、楠木正成や新田義貞の戦死、後醍醐天皇の崩御まで、第3部 (巻二十三~巻四十) は、南朝と北朝の対立、諸将の向背常ならぬ様子を描き、1368年(正平23/応安元)足利義満を補佐する細川頼之の執事就任をもって結びとしました。これは、物語僧によって語られて普及、「太平記読み」として講釈され講談の祖となると共に、謡曲、浄瑠璃、草双紙類などの後代文芸に大きな影響を与えたとされます。また、随所にみられる痛烈な政治批判や時世批判は、社会思想史的にも重要とされてきました。「太平記」に基づいて旅することは、自ずから鎌倉幕府滅亡から南北朝時代の史跡を巡ることと重なります。

☆『太平記』の関係地
 私が旅の途中に巡った『太平記』の関係地を8つ、物語順に紹介します。
 
(1)吉野<奈良県吉野郡吉野町>
 1336年(延元元/建武3)に、足利尊氏の京都占領により、吉野山に逃れた後醍醐天皇は、行宮を築き、南朝を樹立しました。この時、最初に吉野吉水院に入り、一時居所とし、その後近くの金峯山寺の塔頭・実城寺を「金輪王寺」と改名して行宮と定めました。その後、後醍醐天皇が崩御し、1348年(正平3/貞和4)には高師直率いる室町幕府軍が吉野に侵入して、行宮を焼き払い、後村上天皇が賀名生行宮に移るまで、この地が南朝の中心でした。その関係で、吉野山には南朝に関する史跡がいろいろと残されています。一時後醍醐天皇の居所となった吉水神社、後醍醐天皇の勅願寺である如意輪寺、金峯山寺の境内には吉野行宮跡があり、石碑が立っています。尚、2004年(平成16)には、「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つとして、世界遺産(文化遺産)に登録されました。吉野が北朝方に攻められた時、『太平記』では次のように描いています。
 
 吉野城軍事(巻第七)

  ・・・・・・・・
去程に、搦手の兵、思も寄ず勝手の明神の前より押寄て、宮の御坐有ける蔵王堂へ打て懸りける間、大塔宮今は遁れぬ処也。と思食切て、赤地の錦の鎧直垂に、火威の鎧のまだ巳の刻なるを、透間もなくめされ、竜頭の冑の緒をしめ、白檀磨の臑当に、三尺五寸の小長刀を脇に挟み、劣らぬ兵二十余人前後左右に立、敵の靉て引へたる中へ走り懸り、東西を掃ひ、南北へ追廻し、黒煙を立て切て廻らせ給ふに、寄手大勢也。と云へ共、纔の小勢に被切立て、木の葉の風に散が如く、四方の谷へ颯とひく。敵引ば、宮蔵王堂の大庭に並居させ給て、大幕打揚て、最後の御酒宴あり。宮の御鎧に立所の矢七筋、御頬さき二の御うで二箇所つかれさせ給て、血の流るゝ事滝の如し。然れ共立たる矢をも不抜、流るゝ血をも不拭、敷皮の上に立ながら、大盃を三度傾させ給へば、木寺相摸四尺三寸の太刀の鋒に、敵の頚をさし貫て、宮の御前に畏り、「戈?剣戟をふらす事電光の如く也。磐石巌を飛す事春の雨に相同じ。然りとは云へ共、天帝の身には近づかで、修羅かれが為に破らる。」と、はやしを揚て舞たる有様は、漢・楚の鴻門に会せし時、楚の項伯と項荘とが、剣を抜て舞しに、樊?庭に立ながら、帷幕をかゝげて項王を睨し勢も、角やと覚る許也。 ・・・・・・・・

    流布本『太平記』より


(2)鎌倉<神奈川県鎌倉市>
 鎌倉は、三方を山に囲まれ、南は相模湾に臨む要害の地で、当時の政治、文化、経済の中心でした。中央に鶴ケ岡八幡宮が鎮座し、往時をしのばせる円覚寺、建長寺などの寺々が狭い地域にひしめきあっています。その所々に源氏や北条氏の縁の地がちりばめられていて、鎌倉時代の歴史をたどることができます。鎌倉幕府の興隆から衰退に至るまでを様々な寺院や史跡に見い出し、時代を知ることができるのです。「太平記」には、鎌倉幕府最後の場面が描かれていますが、1333年(元弘3)に新田義貞軍に化粧坂、極楽寺坂、巨福呂坂の三方から攻められ、激戦となります。しかし、稲村ケ崎の引き潮に乗じて突破されて鎌倉に攻め込まれ、最後に菩提寺である東勝寺に籠ったものの、北条高時はじめ一族郎党が自刃して果て、北条氏は滅亡しました。その跡が、史跡として残り、北条高時腹切りやぐらとして知られています。北条氏滅亡の様子を『太平記』では次のように描いています。
 
 高時並一門以下於東勝寺自害事(巻第十)

去程に高重走廻て、「早々御自害候へ。高重先を仕て、手本に見せ進せ候はん。」と云侭に、胴計残たる鎧脱で抛すてゝ、御前に有ける盃を以て、舎弟の新右衛門に酌を取せ、三度傾て、摂津刑部太夫入道々準が前に置き、「思指申ぞ。是を肴にし給へ。」とて左の小脇に刀を突立て、右の傍腹まで切目長く掻破て、中なる腸手縷出して道準が前にぞ伏たりける。道準盃を取て、「あはれ肴や、何なる下戸なり共此をのまぬ者非じ。」と戯て、其盃を半分計呑残て、諏訪入道が前に指置、同く腹切て死にけり。諏訪入道直性、其盃を以て心閑に三度傾て、相摸入道殿の前に指置て、「若者共随分芸を尽して被振舞候に年老なればとて争か候べき、今より後は皆是を送肴
に仕べし。」とて、腹十文字に掻切て、其刀を抜て入道殿の前に指置たり。長崎入道円喜は、是までも猶相摸入道の御事を何奈と思たる気色にて、腹をも未切けるが、長崎新右衛門今年十五に成けるが、祖父の前に畏て、「父祖の名を呈すを以て、子孫の孝行とする事にて候なれば、仏神三宝も定て御免こそ候はんずらん。」とて、年老残たる祖父の円喜が肱のかゝりを二刀差て、其刀にて己が腹を掻切て、祖父を取て引伏せて、其上に重てぞ臥たりける。此小冠者に義を進められて、相摸入道も腹切給へば、城入道続て腹をぞ切たりける。是を見て、堂上に座を列たる一門・他家の人々、雪の如くなる膚を、推膚脱々々々、腹を切人もあり、自頭を掻落す人もあり、思々の最期の体、殊に由々敷ぞみへたりし。其外の人々には、金沢太夫入道崇顕・佐介近江前司宗直・甘名宇駿河守宗顕・子息駿河左近太夫将監時顕・小町中務太輔朝実・常葉駿河守範貞・名越土佐前司時元・摂津形部大輔入道・伊具越前々司宗有・城加賀前司師顕・秋田城介師時・城越前守有時・南部右馬頭茂時・陸奥右馬助家時・相摸右馬助高基・武蔵左近大夫将監時名・陸奥左近将監時英・桜田治部太輔貞国・江馬遠江守公篤・阿曾弾正少弼治時・苅田式部大夫篤時・遠江兵庫助顕勝・備前左近大夫将監政雄・坂上遠江守貞朝・陸奥式部太輔高朝・城介高量・同式部大夫顕高・同美濃守高茂・秋田城介入道延明・明石長門介入道忍阿・長崎三郎左衛門入道思元・隅田次郎左衛門・摂津宮内大輔高親・同左近大夫将監親貞、名越一族三十四人、塩田・赤橋・常葉・佐介の人々四十六人、総じて其門葉たる人二百八十三人、我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。庭上・門前に並居たりける兵共是を見て、或は自腹掻切て炎の中へ飛入もあり、或は父子兄弟差違へ重り臥もあり。血は流て大地に溢れ、漫々として洪河の如くなれば、尸は行路に横て累々たる郊原の如し。死骸は焼て見へね共、後に名字を尋ぬれば、此一所にて死する者、総て八百七十余人也。此外門葉・恩顧の者、僧俗・男女を不云、聞伝々々泉下に恩を報る人、世上に促悲を者、遠国の事はいざ不知、鎌倉中を考るに、総て六千余人也。嗚呼此日何なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

  流布本『太平記』より


(3)園城寺(三井寺)<滋賀県大津市>
 この寺は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山で、山号は長等山、開基は大友与多王、本尊は弥勒菩薩です。奈良時代末ごろの創建とされ、円珍が再興し、866年(貞観8)に延暦寺の別院となりましたが、円仁門徒と対立した円珍門徒は993年(正暦4)に当寺に拠って独立しました。延暦寺を「山門」というのに対して、「寺門」と呼ばれ、以後500年間にわたって、抗争を続けます。その中で、数度の火災にあっていますが、南北朝時代の1336年(建武3)には、園城寺の僧兵は北朝方に付き、細川定禅と共に園城寺に立て籠もって南朝方の北畠顕家・結城宗広を迎え撃たものの敗北、焼き討ちを受けて金堂が炎上しました。没落した時期もありましたが、安土桃山時代以降に再建され、金堂、勧学院客殿、光浄院客殿などは国宝建造物として現在まで残されています。また、寺宝も多く、円珍関係の資料、『不動明王画像』(黄不動)、勧学院や円満院の襖絵、智証大師座像や新羅明神像など、国宝・重要文化財に多数指定されてきました。また、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所で、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られています。南北朝時代の焼き討ちによる金堂炎上について、『太平記』では次のように描いています。
 
 三井寺合戦並当寺撞鐘事付俵藤太事(巻第十五)

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一の木戸已に破ければ、新田の三万余騎の勢、城の中へ懸入て、先合図の火をぞ揚たりける。是を見て山門の大衆二万余人、如意越より落合て、則院々谷々へ乱入り、堂舎・仏閣に火を懸て呼き叫でぞ責たりける。猛火東西より吹懸て、敵南北に充満たれば、今は叶じとや思けん、三井寺の衆徒共、或は金堂に走入て猛火の中に腹を切て臥、或は聖教を抱て幽谷に倒れ転ぶ。多年止住の案内者だにも、時に取ては行方を失ふ。況乎四国・西国の兵共、方角もしらぬ烟の中に、目をも不見上迷ひければ、只此彼この木の下岩の陰に疲れて、自害をするより外の事は無りけり。されば半日許の合戦に、大津・松本・三井寺内に被討たる敵を数るに七千三百余人也。抑金堂の本尊は、生身の弥勒にて渡せ給へば、角ては如何とて或衆徒御首許を取て、薮の中に隠し置たりけるが、多被討たる兵の首共の中に交りて、切目に血の付たりけるを見て、山法師や仕たりけん、大札を立て、一首の歌に事書を書副たりける。「建武二年の春の比、何とやらん、事の騒しき様に聞へ侍りしかば、早三会の暁に成ぬるやらん。いでさらば八相成道して、説法利生せんと思ひて、金堂の方へ立出たれば、業火盛に燃て修羅の闘諍四方に聞ゆ。こは何事かと思ひ分く方も無て居たるに、仏地坊の某とやらん、堂内に走入り、所以もなく、鋸を以て我が首を切し間、阿逸多といへ共不叶、堪兼たりし悲みの中に思ひつゞけて侍りし。山を我敵とはいかで思ひけん寺法師にぞ頚を切るゝ。」前々炎上の時は、寺門の衆徒是を一大事にして隠しける九乳の鳧鐘も取人なければ、空く焼て地に落たり。 ・・・・・・・・

  流布本『太平記』より


(4)湊川神社<兵庫県神戸市中央区>
 この神社は、楠木正成・正季・正行を祭る神社です。この辺で、1336年(延元元/建武3)に、南朝方の新田義貞・楠木正成軍と北朝方の足利尊氏・足利直義軍との間で、湊川の戦いがあり、北朝方が勝って、楠木正成・正季は自害しました。そこに墓があったのですが、1692年(元禄5)に徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立して、世に知られるようになります。幕末になって、尊王論が高揚してくると,楠木正成の顕彰が盛んになり,1872年(明治5)、明治政府によって湊川神社が創建されることになりました。境内には、殉節地や御墓所などがあって国の史跡になっていますし、宝物殿には、楠木正成着用と伝える段縅腹巻一領(国重要文化財)、1335年(建武2)大楠公自筆の法華経奥書一幅(国重要文化財)などがあります。楠木正成の最後について、『太平記』では次のように描いています。
 
 正成兄弟討死事(巻第十六)

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此勢にても打破て落ば落つべかりけるを、楠京を出しより、世の中の事今は是迄と思ふ所存有ければ、一足も引ず戦て、機已に疲れければ、湊河の北に当て、在家の一村有ける中へ走入て、腹を切ん為に、鎧を脱で我身を見るに、斬疵十一箇所までぞ負たりける。此外七十二人の者共も、皆五箇所・三箇所の疵を被らぬ者は無りけり。楠が一族十三人、手の者六十余人、六間の客殿に二行に双居て、念仏十返計同音に唱て、一度に腹をぞ切たりける。正成座上に居つゝ、舎弟の正季に向て、「抑最期の一念に依て、善悪の生を引といへり。九界の間に何か御辺の願なる。」と問ければ、正季から/\と打笑て、「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ。」と申ければ、正成よに嬉しげなる気色にて、「罪業深き悪念なれ共我も加様に思ふ也。いざゝらば同く生を替て此本懐を達せん。」と契て、兄弟共に差違て、同枕に臥にけり。橋本八郎正員・宇佐美河内守正安・神宮寺太郎兵衛正師・和田五郎正隆を始として、宗との一族十六人、相随兵五十余人、思々に並居て、一度に腹をぞ切たりける。菊池七郎武朝は、兄の肥前守が使にて須磨口の合戦の体を見に来りけるが、正成が腹を切る所へ行合て、をめ/\しく見捨てはいかゞ帰るべきと思けるにや、同自害をして炎の中に臥にけり。抑元弘以来、忝も此君に憑れ進せて、忠を致し功にほこる者幾千万ぞや。然共此乱又出来て後、仁を知らぬ者は朝恩を捨て敵に属し、勇なき者は苟も死を免れんとて刑戮にあひ、智なき者は時の変を弁ぜずして道に違ふ事のみ有しに、智仁勇の三徳を兼て、死を善道に守るは、古へより今に至る迄、正成程の者は未無りつるに、兄弟共に自害しけるこそ、聖主再び国を失て、逆臣横に威を振ふべき、其前表のしるしなれ。

  流布本『太平記』より


(5)金ヶ崎城跡<福井県敦賀市>
 金ヶ崎城は、現在の福井県敦賀市泉にあった中世の山城(標高86m)です。1336年(延元元/建武3)に、後醍醐天皇の命を受けた南朝方の新田義貞が皇太子恒良親王と皇子尊良親王を奉じて北陸路に向った際、気比氏治に迎えられて入城しましたが、北朝方の越前国守護斯波高経に包囲されました。しかし、日本海に突出した岬の山上にあった堅固な要害だったため、攻めあぐね、兵糧攻めを行います。翌年に足利尊氏は、高師泰を大将に各国の守護を援軍として派遣し、厳しく攻め立てました。新田義貞らは援軍を求めるため、二人の皇子と新田義顕らを残し、兵糧の尽きたこの城を脱出し、杣山城で態勢を立て直そうとします。その後、義貞は金ヶ崎城を救援しようとしますが途中で阻まれ、3月3日には北朝方が金ヶ崎城に攻め込みました。そのため、兵糧攻めによる飢餓と疲労で困憊していた城兵は次々と討ち取られて3月6日に落城、尊良親王は自害、新田一族の十余人、少納言一条行房ほかは殉死、恒良親王は脱出したものの、北朝方に捕らえられます。尚、現在は城跡に恒良、尊良両親王を祀る金崎宮があり、月見御殿(本丸)跡、木戸跡、曲輪跡、堀切りなどが残り、1934年(昭和9)に国の史跡に指定されました。金ヶ崎城落城について、『太平記』では次のように描いています。
  
 金崎城落事(巻第十八)

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瓜生・宇都宮不斜悦て、今一度金崎へ向て、先度の恥を雪め城中の思を令蘇せと、様々思案を回しけれども、東風漸閑に成て山路の雪も村消ければ、国々の勢も寄手に加て兵十万騎に余れり。義貞の勢は僅に五百余人、心許は猛けれ共、馬・物具も墓々しからねば、兎やせまし角やせましと身を揉で、二十日余りを過しける程に、金崎には、早、馬共をも皆食尽して、食事を断つ事十日許に成にければ、軍勢共も今は手足もはたらかず成にけり。爰に大手の攻口に有ける兵共、高越後守が前に来て、「此城は如何様兵粮に迫りて馬をばし食候やらん。初め比は城中に馬の四五十疋あるらんと覚へて、常に湯洗をし水を蹴させなんどし候しが、近来は一疋も引出す事も候はず。哀一攻せめて見候はばや。」と申ければ、諸大将、「可然。」と同じて、三月六日の卯刻に、大手・搦手十万騎、同時に切岸の下、屏際にぞ付たりける。城中の兵共是を防ん為に、木戸の辺迄よろめき出たれ共、太刀を仕ふべき力もなく、弓を挽べき様も無れば、只徒に櫓の上に登り、屏の陰に集て、息つき居たる許也。寄手共此有様を見て、「さればこそ城は弱りてけれ。日の中に攻落さん。」とて、乱杭・逆木を引のけ屏を打破て、三重に拵たる二の木戸迄ぞ攻入ける。由良・長浜二人、新田越後守の前に参じて申けるは、「城中の兵共数日の疲れに依て、今は矢の一をも墓々敷仕得候はぬ間、敵既に一二の木戸を破て、攻近付て候也。如何思食共叶べからず。春宮をば小舟にめさせ進せ、何くの浦へも落し進せ候べし。自余の人々は一所に集て、御自害有べしとこそ存候へ。・・・・・・・・

  流布本『太平記』より


(6) 天龍寺<京都府京都市右京区>
 この寺は、臨済宗天龍寺派大本山で、山号は霊亀山、本尊は釈迦如来です。室町幕府を開いた足利尊氏が、夢窓疎石のすすめによって、1339年(延元4/暦応2)に、吉野の行宮で没した後醍醐天皇の冥福を祈るため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが起源とされています。尊氏は多くの荘園を、北朝は売官による成功の収益を、それに室町幕府は天竜寺船を元に派遣して、その貿易利益を当寺に寄せて造営費用にあてたことが知られています。しかし、何度か火災に会ったため、現在の建物は、明治時代以降のものですが、夢窓国師作の池泉回遊式庭園が残り、1923年(大正12)に史跡に、さらに、1955年(昭和30)に特別名勝に指定されています。また、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録されました。天龍寺建立について、『太平記』では次のように描いています。
  
 天竜寺建立事(巻第二十四)

武家の輩ら如此諸国を押領する事も、軍用を支ん為ならば、せめては無力折節なれば、心をやる方も有べきに、そゞろなるばさらに耽て、身には五色を飾り、食には八珍を尽し、茶の会酒宴に若干の費を入、傾城田楽に無量の財を与へしかば、国費へ人疲て、飢饉疫癘、盜賊兵乱止時なし。是全く天の災を降すに非ず。只国の政無に依者也。而を愚にして道を知人無りしかば、天下の罪を身に帰して、己を責る心を弁へざりけるにや。夢窓国師左武衛督に被申けるは、「近〔年〕天下の様を見候に、人力を以て争か天災を可除候。何様是は吉野の先帝崩御の時、様々の悪相を現し御座候けると、其神霊御憤深して、国土に災を下し、禍を被成候と存候。去六月二十四日の夜夢に吉野の上皇鳳輦に召て、亀山の行宮に入御座と見て候しが、幾程無て仙去候。又其後時々金龍に駕して、大井河の畔に逍遥し御座す。西郊の霊迹は、檀林皇后の旧記に任せ、有謂由区々に候。哀可然伽藍一所御建立候て、彼御菩提を吊ひ進せられ候はゞ、天下などか静らで候べき。菅原の聖廟に贈爵を奉り、宇治の悪左府に官位を贈り、讃岐院・隠岐院に尊号を諡し奉り、仙宮を帝都に遷進られしかば、怨霊皆静て、却て鎮護の神と成せ給候し者を。」と被申しかば、将軍も左兵衛督も、「此儀尤。」とぞ被甘心ける。されば頓て夢窓国師を開山として、一寺を可被建立とて、亀山殿の旧跡を点じ、安芸・周防を料国に被寄、天竜寺をぞ被作ける。此為に宋朝へ宝を被渡しかば、売買其利を得て百倍せり。又遠国の材木をとれば、運載の舟更に煩もなく、自順風を得たれば、誠に天竜八部も是を随喜し、諸天善神も彼を納受し給ふかとぞ見へし。されば、仏殿・法堂・庫裏・僧堂・山門・総門・鐘楼・方丈・浴室・輪蔵・雲居庵・七十余宇の寮舎・八十四間の廊下まで、不日の経営事成て、奇麗の装交へたり。此開山国師、天性水石に心を寄せ、浮萍の跡を為事給しかば、傍水依山十境の景趣を被作たり。所謂大士応化の普明閣、塵々和光の霊庇廟、天心浸秋曹源池、金鱗焦尾三級岩、真珠琢頷龍門亭、捧三壷亀頂塔、雲半間の万松洞、不言開笑拈花嶺、無声聞音絶唱渓、上銀漢渡月橋。此十景の其上に、石を集ては烟嶂の色を仮り、樹を栽ては風涛の声移す。慧崇が烟雨の図、韋偃が山水の景にも未得風流也。康永四年に成風の功終て、此寺五山第二の列に至りしかば、惣じては公家の勅願寺、別しては武家の祈祷所とて、一千人の僧衆をぞ被置ける。

  流布本『太平記』より


(7) 四条畷神社<大阪府四条畷市>
 この神社は、楠木正行を祭る神社で、旧社格は別格官幣社です。この辺で、南北朝時代の1348年(正平3/貞和4)に、南朝方の楠木正行と足利尊氏の家臣高師直との間で、四条畷の戦いがあり、北朝方が勝って、正行は弟の正時と刺し違えて自決しました。そこに楠塚と呼ばれる楠木正行の墓があったのですが、幕末・明治維新期になって、尊王論が高揚してくると、楠木氏の顕彰が盛んになり、1878年(明治11)に楠塚は「小楠公御墓所」と改められ、規模も拡大したのです。さらに、1889年(明治22)に神社創立と別格官幣社四條畷神社の社号の宣下が勅許され、翌年に住吉平田神社の南隣の地に創建しましたが、「小楠公御墓所」から、1km余りの場所です。現在、神社境内やその周辺には桜が多数植栽されていて、シーズンになると多くの花見客が訪れます。楠木正行の最後について、『太平記』では次のように描いています。
 
 楠正行最期事(巻第二十六)

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一日著暖たる物具なれば、中と当る矢、箆深に立ぬは無りけり。楠次郎眉間ふえのはづれ射られて抜程の気力もなし。正行は左右の膝口三所、右のほう崎、左の目尻、箆深に射られて、其矢、冬野の霜に臥たるが如く折懸たれば、矢すくみに立てはたらかず。其外三十余人の兵共、矢三筋四筋射立られぬ者も無りければ、「今は是までぞ。敵の手に懸るな。」とて、楠兄弟差違へ北枕に臥ければ、自余の兵三十二人、思々に腹掻切て、上が上に重り臥す。和田新発意如何して紛れたりけん、師直が兵の中に交りて、武蔵守に差違て死んと近付けるを、此程河内より降参したりける湯浅本宮太郎左衛門と云ける者、是を見知て、和田が後へ立回、諸膝切て倒所を、走寄て頚を掻んとするに、和田新発意朱を酒きたる如くなる大の眼を見開て、湯浅本宮をちやうど睨む。其眼終に塞ずして、湯浅に頭をぞ取られける。 ・・・・・・・・

  流布本『太平記』より


(8) 笛吹峠<埼玉県比企郡鳩山町・嵐山町>
 埼玉県比企郡鳩山町と嵐山町の境にある標高80mほどの峠で、岩殿丘陵の中央に位置し、南北に旧鎌倉街道が貫いています。1352年(正平7年)に、武蔵野の小手指原で新田義貞の三男新田義宗らが宗良親王を奉じた南朝方と足利尊氏の北朝方との間で戦いがありました。しかし、南朝方は押されて、新田義宗はこの笛吹峠まで撤退して陣を敷き、上杉憲顕と合流するなど兵力回復に務めます。そして、南朝方の新田義宗軍2万と北朝方の足利尊氏軍8万との戦いがここであり、新田義宗軍が大敗を喫しました。その結果、新田義宗は越後に逃げ、宗良親王は信濃に逃走、南朝方は関東で一掃され、足利尊氏による関東の完全制圧へと向かっています。後世に、この峠付近で、道路工事をした際に大量に人骨が出土し、この時のものではないかとされました。また、この峠の名称については、合戦時、折からの月明かりに宗良親王が笛を吹いたことから付いたとの伝承があり、「史跡笛吹峠」の碑や案内板が立ち、旧鎌倉街道の面影も残され、ハイキングコースともされています。笛吹峠の戦いについて、『太平記』では次のように描いています。
 
 笛吹峠軍事(巻第三十一)

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同二十八日将軍笛吹峠へ押寄て、敵の陣を見給へば、小松生茂て前に小河流たる山の南を陣に取て、峯には錦の御旗を打立、麓には白旗・中黒・棕櫚葉・梶葉の文書たる旗共、其数満々たり。先一番に荒手案内者なればとて、甲斐源氏三千余騎にて押寄たり。新田武蔵守と戦ふ。是も荒手の越後勢、同三千余騎にて相懸りに懸りて半時許戦ふに、逸見入道以下宗との甲斐源氏共百余騎討れて引退く。二番に千葉・宇都宮・小山・佐竹が勢相集て七千余騎、上杉民部大輔が陣へ押寄て入乱々々戦ふに、信濃勢二百余騎討れければ、寄手も三百余騎討れて相引に左右へ颯と引。引けば両陣入替て追つ返つ、其日の午刻より酉刻の終まで少しも休む隙なく終日戦ひ暮してけり。夫れ小勢を以て大敵に戦ふは鳥雲の陣にしくはなし。鳥雲の陣と申は、先後に山をあて、左右に水を堺ふて敵を平野に見下し、我勢の程を敵に不見して、虎賁狼卒替る/\射手を進めて戦ふ者也。此陣幸に鳥雲に当れり。待て戦はゞ利あるべかりしを、武蔵守若武者なれば、毎度広みに懸出て、大勢に取巻れける間、百度戦ひ千度懸破るといへ共、敵目に余る程の大勢なれば、新田・上杉遂に打負て、笛吹峠へぞ引上りける。上杉民部大輔が兵に、長尾弾正・根津小次郎とて、大力の剛者あり。今日の合戦に打負ぬる事、身一の恥辱也と思ければ、紛れて敵の陣へ馳入、将軍を討奉らんと相謀て、二人乍ら俄に二つ引両の笠符を著替へ、人に見知れじと長尾は乱髪を顔へ颯と振り懸け、根津は刀を以て己が額を突切て、血を面に流しかけ、切て落したりつる敵の頚鋒に貫き、とつ付に取著て、只二騎将軍の陣へ馳入る。数万の軍勢道に横て、「誰が手の人ぞ。」と問ければ、「是は将軍の御内の者にて候が、新田の一族に、宗との人々を組討に討て候間、頚実検の為に、将軍の御前へ参候也。開て通され候へ。」と、高らかに呼て、気色ばうて打通れば、「目出たう候。」と感ずる人のみ有て、思とがむる人もなし。「将軍は何くに御座候やらん。」と問へば、或人、「あれに引へさせ給ひて候也。」と、指差て教ふ。馬の上よりのびあがりみければ、相隔たる事草鹿の的山計に成にける。「あはれ幸や、たゞ一太刀に切て落さんずる者を。」と、二人屹と目くはせして、中々馬を閑々と歩ませける処に、猶も将軍の御運や強かりけん、見知人有て、「そこに紛て近付武者は、長尾弾正と根津小次郎とにて候は。近付てたばからるな。」と呼りければ、将軍に近付奉らせじと、武蔵・相摸の兵共、三百余騎中を隔て左右より颯と馳寄る。根津と長尾と、支度相違しぬと思ければ、鋒に貫きたる頚を抛て、乱髪を振揚、大勢の中を破て通る。彼等二人が鋒に廻る敵、一人として甲の鉢を胸板まで真二に破著けられ、腰のつがひを切て落されぬは無りけり。され共敵は大勢也。是等は只二騎なり、十方より矢衾を作て散々に射ける間、叶はじとや思けん、「あはれ運強き足利殿や。」と高らかに欺て、閑々と本陣へぞ帰りける。 ・・・・・・・・

  流布本『太平記』より

 


〇河井継之助と戊辰戦争
 河井継之助は、1827年(文政10)に越後の長岡城下に生まれました。諸国を遊学した後、長岡に戻り、その才知と先見性により、藩の要職を任されるようになります。幕末の越後長岡藩の家老上席で、戊辰長岡戦争の軍事総督でした。薩長諸藩と対峙する重大事に家老となり、奥羽越列藩同盟の結成に参加し、薩長軍(西軍)と対決することになります。地理的に、最初に西軍の攻撃を受け、会津藩等の支援を受け、奮戦しますが、長岡城が落城し、一度は八丁沖渡渉の奇襲により、奪還に成功しますが、再び敗走します。明治維新期の内戦として、多大な犠牲を払いながらも近代国家が形成されていく過程の出来事でした。これをテーマに書かれた小説はいくつかありますが、司馬遼太郎の『峠』は河井継之助に焦点を当てています。

〇河井継之助の敗走した道
 『峠』は、1966年(昭和41)から約1年半にわたって毎日新聞に連載された司馬遼太郎の歴史小説です。主人公は若い頃諸国を旅し、江戸から現在の岡山県高梁市まで行って、山田方谷に学び、果ては長崎まで遊学しています。しかし、小説中、最も印象的なのは、二度目の長岡落城後の敗走で、継之助は戦闘で左足に重症を負っており、戸板に乗せられて、見附、吉ヶ平を経て、八十里越を会津へ向います。会津藩領内に至ったものの、傷が悪化して、動けなくなり、会津城下にたどり着くことなく、会津塩沢において42歳で没しました。
 以下に、歴史小説『峠』の冒頭部分を引用しておきます。

☆『峠』冒頭部分
「幕末、雪深い越後長岡藩から一人の藩士が江戸に出府した。藩の持て余し者でもあったこの男、河井継之助は、いくつかの塾に学びながら、詩文、洋学など単なる知識を得るための勉学は一切せず、歴史や世界の動きなど、ものごとの原理を知ろうと努めるのであった。さらに、江戸の学問にあきたらなくなった河井は、備中松山の藩財政を立て直した山田方谷のもとへ留学するため旅に出る。  ・・・・・・・」

☆河井継之助最後の旅の行程
7月24日
 ・夜半から長岡城奪還の八丁沖渡渉作戦を開始
7月25日
 ・長岡城奪還に成功し、西軍を敗走させる
 ・午後3時頃、継之助が銃弾に当たって、左足を負傷
7月26日
 ・東軍の会津・米沢藩兵ら長岡城に入城する
7月29日
 ・長岡城が西軍の猛攻で再度落城し、敗走する
8月2日
 ・継之助、戸板に乗せられて見附を立つ
8月3日
 ・継之助、吉ヶ平に到着
8月4日
 ・継之助、八十里越の途中、山中で泊まる
8月5日
 ・継之助、会津領の叶津着、叶津番所に泊まる
8月6日
 ・五十嵐清吉宅に逗留して、傷の加療を行う
8月12日
 ・継之助、塩沢に到着するも重体で動けなくなる
8月16日
 ・塩沢の医家矢沢家で息を引き取る、享年42歳・10月30日

☆歴史小説『峠』の関係地
 
(1)河井継之助旧宅址・河井継之助記念館<新潟県長岡市>
 小説『峠』の主人公でもある幕末の長岡藩政を担った河井継之助ゆかりの品々などを展示する記念館です。長岡市制100周年・合併記念事業の一環として、河井継之助の屋敷跡にあった建物を改修し、2006年(平成18)12月27日にオープンしました。継之助が西国遊歴の際に書いた旅日記『塵壺(ちりつぼ)』や、旅先の九州で買った蓑、司馬遼太郎の小説『峠』の自筆原稿など、ゆかりの品約30点を展示しています。窓からは継之助が暮らした当時の面影が残る庭を眺めることもできました。継之助の足跡を調べたり、小説『峠』を訪ねたりする場合には、ぜひ立ち寄りたいところです。

(2)慈眼寺<新潟県小千谷市>
 薩長軍(西軍)との戦いを避けるため、1868年(慶応4)5月2日に西軍方の軍監岩村精一郎と会談した場所です。会談は30分ほどで決裂し、長岡藩は会津藩擁する奥羽列藩同盟に参加、長岡に同調する越後諸藩を加えて「奥羽越列藩同盟」を結成しました。この結果、戊辰長岡戦争へ突入することになります。現在でも、寺の中に、その会談の部屋が、“河井・岩村会見の間”として当時のまま残されています。2004年(平成16)10月23日の新潟県中越地震で建物が大きな被害を受けましたが、やっと復旧し見学できるようになりました。このときの会見の様子について、歴史小説『峠』では次のように描いています。

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「とにかくも、いましばらく、時日をかしていただきとうござりまする。時日さえかしていただければ必ず藩論を統一し、かつ会津、桑名、米沢の諸藩を説得して王師にさからわぬよう申し聞かせ、越後、奥羽の地に戦いのおこらぬように相努めまするでござりましょう」
(なにをほざいている)
と、岩村軍監はおもった。岩村の先入主からみれば、継之助の腹の中はすきとうるほどにあきらかである。「時日をかせ」というが、うかうか時日をかせばかならず戦備をととのえるであろう。戦備をととのえるための小細工に相違なかった。そういうことはすべて諸種の情報からみてあきらかなのである。岩村は、そうおもった。
継之助は、懐中から書状をとりだし、用意の三方にのせ、岩村に押しやり、
「嘆願書でござりまする。申しあげたきこと、すべてはこの書面にくわしく書き連ねてござりまするゆえ、ぜひぜひお取り次ぎくださりますように」
官軍総督である公卿に奉ってほしい、というのである。
岩村軍監は両膝の上においた手をにぎりしめ、肩を怒らせた。
-舐めるな。
と叫びたそうな心情が、その表情にあらわれている。すぐ声をはっした。
「お取り次ぎはできぬ」
つづけさまにいった。
「嘆願書をさしだすことすら無礼であろう。すでにこれまでのあいおだ一度でも朝命を奉じたことがあるか。誠意はどこにある。しかも時日をかせ、嘆願書を取り次げ、などとはなにごとであるか。その必要いささかもなし。この上はただ兵馬の間に相見えるだけだ」
 ・・・・・・・・
         歴史小説『峠』 司馬遼太郎著より


(3)長岡城跡<新潟県長岡市>
 戊辰長岡戦争の舞台となった所ですが、戊辰戦争後城跡は徹底破壊され、駅前の厚生会館脇に石碑が建っているだけです。しかし、旧城下には、長岡藩の本陣となった光福寺や“米百俵の碑”、“明治戊辰戦跡顕彰碑”、“河井継之助開戦決意の地記念碑”などの記念碑、関係者の墓石等が散在していて当時を偲ぶことがことが出来ます。「長岡市立科学博物館」(長岡市幸町2-1-1)内の「長岡藩主牧野家史料館」には、長岡藩関係の展示と共に、長岡城の復元模型が置かれていますが、とても立派な城郭だったことがわかります。

(4)『峠』文学碑<新潟県小千谷市高梨>
 司馬遼太郎の『峠』文学碑は小千谷市高梨の「越の大橋」のたもとの小公園にあります。信濃川を挟んだ対岸は長岡市妙見、そして南に小千谷に通じる険しい榎峠と朝日山が続くのが見渡せるところです。碑文の表面には、『峠』の一説で、この付近の事を書いた部分が書かれています。裏面には、作者の司馬遼太郎自身が書いた、『峠』の解説が載せられています。

     峠                                司馬遼太郎

 主力は十日町を発し、六日市、妙見を経て榎峠の坂をのぼった。坂の右手は、大地が信濃川に落ちこんでいる。
 川をへだてて対岸に三仏生村がある。そこには薩長の兵が駐屯している。その兵が、山腹をのぼる長岡兵をめざとくみつけ、砲弾を飛ばしてきた。この川越の砲弾が、その方面の戦争の第一弾になった。

   『峠』文学碑の碑文表面より

 江戸封建制は、世界史の同じ制度のなかでも、きわだって精巧なものだった。 17世紀から270年、日本史はこの制度のもとにあって、学問や芸術、商工業、農業を発展させた。この島国のひとびとすべての才能と心が、ここで養われたのである。
 その終末期に越後長岡藩に河井継之助があらわれた。かれは、藩を幕府とは離れた一個の文化的、経済的な独立組織と考え、ヨーロッパの公国のように仕立てかえようとした。継之助は独自な近代的な発想と実行者という点で、きわどいほどに先進的だった。
 ただこまったことは、時代のほうが急変してしまったのである。にわかに薩長が新時代の旗手になり、西日本の諸藩の力を背景に、長岡藩に屈従をせまった。
 その勢力が小千谷まできた。かれらは、時代の勢いに乗っていた。長岡藩に対し、ひたすらな屈服を強い、かつ軍資金の献上を命じた。
 継之助は小千谷本営に出むき、猶予を請うたが、容れられなかった。といって屈従は倫理として出来ることではなかった。となれば、せっかく築いたあたらしい長岡藩の建設をみずからくだかざるをえない。かなわぬまでも、戦うという、美的表現をとらざるをえなかったのである。
 かれは商人や工人の感覚で藩の近代化をはかったが、最後は武士であることにのみ終始した。武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現しきった集団はいない。運命の負を甘受し、そのことによって歴史にむかって語りつづける道をえらんだ。
 「峠」という表題は、そのことを小千谷の峠という地形によって象徴したつもりである。書き終えたとき、悲しみがなお昇華せず、虚空に小さな金属音になって鳴るのを聞いた。
 
    平成5年11月                        司馬遼太郎
    
   『峠』文学碑の碑文裏面より


(5) 八丁沖古戦場<新潟県長岡市>
 当時は、南北約5㎞、東西約3㎞にわたる大沼沢地でしたが、今では一面の水田地帯となっています。1868年7月25日未明、西軍によって5月19日に落城した、長岡城奪還のため、河井継之助の指揮のもと690余名が渡渉して奇襲した所です。この作戦は、西軍の虚を突き、みごと長岡城奪還に成功します。現在では、渡渉地に八丁沖古戦場パークが作られ、記念碑が建てられています。また、その近くの日光社には、この作戦の先導役を務め、戦死した鬼頭熊次郎の碑があって、激しかった戦闘を偲ぶと共に、継之助の戦術の巧みさに驚かされます。

(6) 吉ヶ平<新潟県三条市>
 7月25日、長岡軍は八丁沖から新政府軍を奇襲し長岡城を一時奪い返しましたが、この戦闘で軍事総督河井継之助が左膝下に鉄砲の玉を受けて負傷、戦線から離脱せざるを得なくなります。戸板に乗せられた継之助は昌福寺、見附、文納、葎谷を経由し、8月3日に吉ヶ平にたどり着き、庄屋椿家で泊まりました。ここからが会津へと向かう山越えの難所の八十里越で、苦労して越え、8月5日には会津側の叶津へ着いています。吉ヶ平は、この八十里越の越後側の最後の集落で、江戸時代から峠越えの拠点となっていましたが、1843年(天保14)に、塩の輸送を主目的として改修され、馬も通れるようになったため交通量も飛躍的に増加しました。しかし、大正末期に只見地方に鉄道が開通すると八十里越の交通は減少し、街道としては衰退していきます。それでも炭焼き等で生計を立ててきましたが、昭和30年代以降の木炭需要の減少や豪雪もあって、1970年(昭和45)に集団離村して廃村となりました。その後は、旧分校を利用した「吉ヶ平山荘」だけが残り、八十里越ハイキングや守門岳等の登山客の利用に応じ、近年は「吉ヶ平自然体感の郷」としてキャンプや釣り堀客などが訪れ、建物も新しくなっています。この吉ヶ平について、歴史小説『峠』では以下のように描いています。

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八十里 こしぬけ武士の 越す峠

 このときはじめて咆えた。「置いてゆけ」頼むからおれを戦場に置いてゆけ、という。きかずに担架をすすめた。担架は松蔵がつくったもので、ちょうどベットに屋根をつけ、棒を渡して大型の辻駕籠のようにしつらえたものであった。底には戦利品の毛布(ケット)をたっぷり敷いて、衝撃を緩和するようにしてある。
見附へゆき、そこから東方の烏帽子山をのぞみつつ幾日もかかって山村を通過してゆく。8月3日吉ヶ平に着いた。このさきは会津へ越える国境の八十里越である。
置いてゆけ。と、ここでも激しくむずかった。
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      歴史小説『峠』 司馬遼太郎著より


(7) 叶津番所跡(旧長谷部家住宅)<福島県南会津郡只見町>
 継之助が負傷し、戸板に乗せられて、八十里越した後、8月5日に1泊した所で、すでに重篤な状態でした。この建物は河井継之助が敗走時泊まった所としては、唯一当時のまま現在地に保存され、福島県の重要文化財に指定されています。江戸時代前期の1643年(寛政10)築といわれ、茅葺き屋根の曲り屋づくり、会津藩の役人が滞在するために造られた奥座敷や囲炉裏を囲む座敷、高い天井なども見られます。また、敷地内には隠し部屋なども残されてきました。尚、番所後方には築300年程度といわれる国重要文化財「旧五十嵐家住宅」があり、見学することもできます。

(8) 河井継之助記念館<福島県南会津郡只見町>
 継之助終焉の地で、医家矢沢家で息を引き取った部屋(矢沢家は1962年の滝ダムの建設で湖底に水没)が、記念館内に移築保存されています。享年42歳、8月16日のことで、塩沢に着いて4日後でした。館内の展示によって、彼の偉大な業績と先駆的な考えを知ると共に、戊辰長岡戦争の全貌を考える上では大変重要な施設です。近くの医王寺には、火葬後の細骨を集めて、村人が建てた墓があります。継之助終焉の様子について、歴史小説『峠』では以下のように描いています。

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「いますぐ、棺の支度をせよ。焼くための薪を積みあげよ」と命じた。
松蔵はおどろき、泣きながら希みはお待ちくだされとわめいたが、継之助はいつものこの男にもどり、するどく一喝した。
「主命である。おれがここで見ている」
松蔵はやむなくこの矢沢家の庭さきを借り、継之助の監視のもとに棺をつくらざるをえなくなった。
松蔵は作業する足もとで、明かりのための火を燃やしている。薪にしめりけをふくんでいるのか、闇に重い煙がしらじらとあがり、風はなかった。
「松蔵、火を熾(さか)んにせよ」と、継之助は一度だけ、声をもらした。そのあと目を据え、やがて自分を焼くであろう闇の中の火を見つめつづけた。
夜半、風がおこった。
8月16日午後8時、死去。

       歴史小説『峠』 司馬遼太郎著より


(9) 栄涼寺<新潟県長岡市>
 光輝山栄凉寺は、長岡藩主牧野氏の菩提寺で、長岡藩軍事総督として北越戊辰戦争の指揮をとった河井継之助をはじめ、12代藩主牧野忠訓や北越戊辰戦争後、廃墟となった長岡の復興に尽力した、三島億二郎らの墓があります。牧野氏が三河国牛久保(愛知県豊川市)城主時代に創建され、牧野氏の移封に伴って、上州大胡(群馬県前橋市大胡地区)を経て、現在地に移りました。


 安土桃山時代に花開いた文化で、織田信長が室町幕府第15代将軍足利義昭を奉じて、京都に上った1568年(永禄11)から、1603年(慶長8)江戸幕府開設までの時代の文化です。
 その特徴は、①新創味溢れる豪華・壮大なものであること、②新興大名や豪商によって培われたこと、③南蛮文化の影響を受けていること、などとされてきました。この時代には、新興大名が成長し、織田信長と豊臣秀吉によって天下統一事業が進められて、戦乱の世が終結していきます。その中で、豪商が出現し、さかんな海外交渉などを背景として、南蛮文化の影響も受け、自由闊達で豪壮・華麗な文化が開花していきました。壮大な城郭が建築され、豪華雄大な障壁画が発達、千利休によって茶の湯が大成され、能楽が盛んとなり、浄瑠璃や阿国おくに歌舞伎などが発達しました。
 この文化の代表として、松本城、彦根城、姫路城、二条城などの城郭建築、都久夫須麻神社本殿、西本願寺飛雲閣・大広間・唐門、大徳寺唐門、醍醐寺三宝院表書院などの寺社建築、『洛中洛外図屏風』、『唐獅子図屏風』、『山水図屏風』、『松林図屏風』、『花下遊楽図屏風』などの絵画、二条城二之丸庭園、醍醐寺三宝院庭園などの庭園も残されています。また、出版・文学としては、キリシタン版の『伊曽保物語』、『平家物語』、『日葡辞書』などが登場しました。尚、千利休によって茶の湯が大成され、妙喜庵茶室(待庵)、如庵などの茶室がつくられ、能楽、浄瑠璃、歌舞伎などの芸能も発達しています。

〇桃山文化を巡る旅六題

 旅先で桃山文化の関係地を訪れ、良かった所を6つ、北から順に紹介します。

(1) 松本城<長野県松本市>

 1504年(永正元)、島立貞永が築いた深志城がそのはじまりとされますが、1550年(天文19)、武田信玄によって落城しています。その後、武田氏がこの城に城代を置いていましたが、1582年(天正10)、勝頼の代になって織田信長に滅ぼされました。それからの深志城は信長の城代がおかれていましたが、本能寺の変によって信長が倒れてからは小笠原氏が入り、小笠原貞慶のとき城の名を松本城と改めたのです。豊臣秀吉の時代になって、石川数正が入封し、現在の松本城の築城にとりかかり、1598年(慶長3)、主要部分が完成しました。この頃に、現在国宝に指定されている天守閣が完成したものと考えられています。5層6階の大天守を中心に、3層の乾小天守を渡櫓で連結し、さらに2層の辰巳附櫓と1層2階の月見櫓を複合してきました。天守閣の外壁は各層とも上部は白漆喰で、下部は黒漆塗りの下見板で覆われていることから、別名「烏城」とも称されています。

(2) 都久夫須麻神社<滋賀県長浜市>

 琵琶湖北部に浮かぶ竹生島に鎮座し、竹生島弁財天として有名な神社です。創立は中世以前にさかのぼるとされますが、国宝の本殿は1567年 (永禄10) の再建で、1602年 (慶長7) に京都の豊国廟(豊国神社)の一部を移建して改造されたものとも言われてきました。内外は漆塗りで、蒔絵、障屏画、絵様彫刻などで飾られ、蒔絵は壮大なもので、鳥獣、草花などをモティーフとし、派手な彩色や牡丹唐草の精巧な透し彫など見るべきものが多く、華麗なものとなっています。

(3) 安土城跡<滋賀県近江八幡市>

 織田信長の居城跡で天下統一のシンボルとして建てられました。七重の黄金に輝く天守閣がそびえていましたが、本能寺の変で焼失しました。今でも、巨大な石垣が往時を忍ばせ、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定されています。その城跡を散策すると、その規模の大きさに目を見張らされます。当時は、大きな城下町も形成されていて、その跡にはセミナリオやコレジオといったキリスト教に関連するものもありました。琵琶湖と通じる舟運に関わる史跡をめぐることもできます。近くに、「滋賀県立安土城考古博物館」があって安土城跡発掘の成果が展示されています。またその並びに「安土城天主信長の館」があって、安土城の復元天守(5・6階部分のみ)を見ることができます。

(4) 西本願寺<京都府京都市下京区>

 現在地には、1591年(天正19)に豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転したとされています。境内には、安土桃山時代の文化を代表する建造物や庭園が数多く残されており、1994年(平成6)に国の史跡に指定され、同年に「古都京都の文化財」の一部として世界遺産(文化遺産)にも登録されました。豊臣秀吉が造らせた伏見城や聚楽第の遺構と伝わるものが多く移築されていて、飛雲閣、大広間、唐門等は安土桃山文化の代表的建造物と言われ、国宝建造物に指定された、絢爛豪華ですばらしいものです。

(5) 醍醐寺三宝院<京都府京都市伏見区>

 平安時代後期の1115年(永久3)に創建されましたが、応仁の乱の兵火で伽藍のほとんどを焼失、寺領も失ってしまいました。しかし、豊臣秀吉の援助によって再興され、1598年(慶長3)に、ここを中心に“醍醐の花見”が開催されたのは有名です。三宝院庭園は、豊臣秀吉の作庭によるものと伝えられ、今も安土桃山時代の華やかな雰囲気を伝えていて、1952年(昭和27)に、国の特別史跡・特別名勝に指定されました。また、そのころに建造された表書院と唐門が残されていて、共に1954年(昭和29)、国宝に指定されています。

(6) 二条城<京都府京都市中京区>

 江戸時代前期の1602年(慶長7)~1603年(慶長8)頃に、徳川家康が京都の守護および上洛時の居城として造営されたとされています。天守や本丸御殿は焼亡しましたが、二の丸御殿(国宝)は桃山時代の書院造りの形態を伝え、狩野派の画家による障壁画と共に重要な遺構とされてきました。また庭園は、小堀政一(遠州)の代表作とされる桃山様式の池泉回遊式で、神仙蓬莱の世界を表した庭園と言われ、別名八陣の庭とも呼ばれています。池には3つの島(蓬莱島、亀島、鶴島)が浮かび、4つの橋を併せ持ち,池の北西部には、二段の滝があります。二之丸御殿大広間上段の間(将軍の座)、二之丸御殿黒書院上段の間(将軍の 座)、行幸御殿上段の間(天皇の座)・御亭の主に三方向から鑑賞できるように設計されていました。明治時代以降に、宮内省に所管されてからは5回以上改修が行なわれ,離宮的・迎賓館的な城として利用されることになります。1939年(昭和14)に、宮内省が二条離宮を京都市に下賜し、それから、一般公開されるようになりました。これ以外にも城内には、明治時代に造られた本丸庭園、そして昭和に入ってから造られた清流園があります。四季折々に花が咲き、季節を愛でるにもよいところです。また、二条城は1994年(平成6)に、「古都京都の文化財」の一つとして、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。

☆桃山文化の主要な文化財一覧

<建築>

・松本城天守閣…[国宝]
・彦根城天守閣…[国宝]
・姫路城天守閣…[国宝]
・二条城二之丸御殿…[国宝]
・都久夫須麻神社本殿…[国宝]
・西本願寺飛雲閣…[国宝]
・西本願寺大広間…[国宝]
・西本願寺唐門…[国宝]
・大徳寺唐門…[国宝]
・醍醐寺三宝院表書院…[国宝]
・妙喜庵茶室(待庵)…[国宝]
・如庵…[国宝]

<絵画>

・『洛中洛外図屏風』…狩野永徳作[国宝]
・『唐獅子図屏風』…狩野永徳作[国宝]
・『山水図屏風』…海北友松作[国指定重要文化財]
・『松林図屏風』…長谷川等伯作[国宝]
・『花下遊楽図屏風』…狩野長信作[国宝]

<庭園>

・二条城二之丸庭園…回遊式浄土庭園[特別名勝]
・醍醐寺三宝院庭園…相阿弥作庭[特別史跡・特別名勝]

<文学・出版>

・『伊曽保物語』…キリシタン版
・『平家物語』…キリシタン版


 室町時代に花開いた文化で、1392年(元中9/明徳3)に南北朝に分裂していた朝廷が合一してから、織田信長が室町幕府第15代将軍足利義昭を奉じて、京都に上った1568年(永禄11)までの時代の文化です。
 その特徴は、①諸文化が融合して日本独特なものが芽生えてきたこと、②禅宗文化が普及してきたこと、③庶民文化が発展してきたこと、④文化の地方伝播がみられてきたこと、などとされてきました。この時代には、京都を中心に第3代将軍足利義満の時代に北山文化が栄え、その後第8代将軍足利義政の時代に東山文化として成熟していきます。続く戦国時代の混乱期には、庶民の社会的地位が高まり、商工業の発展の中で、町衆や農民が文化の担い手として登場、地方への伝播がみられ、猿楽・狂言・連歌・茶道などが広がっていきました。
 この文化の代表として、興福寺五重塔・東金堂、慈照寺銀閣・東宮堂などの仏教建築、『瓢鮎図』、『寒山拾得図』、『秋冬山水図』、『四季山水図巻』、『周茂叔愛漣図』などの絵画・絵巻物、鹿苑寺庭園、慈照寺庭園、龍安寺石庭、大徳寺大仙院庭園、常栄寺庭園などの庭園も残されています。また、文学としては、『新撰菟玖波集』、『水無瀬三吟百韻』、『犬筑波集』などの連歌集、『義経記』などの歴史物語、『一寸法師』、『浦島太郎』、『者くさ太郎』などの御伽草子が登場しました。尚、朝廷政治の本来のあり方を示そうとして有職故実をまとめた『公事根源』、古典研究としての『花鳥余情』、能学書としての『風姿花伝(花伝書)』なども書かれています。

〇室町文化を巡る旅六題

 旅先で室町文化の関係地を訪れ、良かった所を6つ、北から順に紹介します。

(1) 足利学校<栃木県足利市>

 栃木県足利市にあり、創立については、諸説ありますが、室町時代の永享年間 (1429~1441年) に、関東管領上杉憲実によって再興され、学校としての体制を整えたとされています。それ以後、上杉氏、後北条氏、徳川氏の保護を受けて継続し、武士、僧侶、医師等に儒書、易書、医書などを講述しましたが、1872年(明治5)に廃校になっています。以来、孔子廟など江戸時代に建てられたいくつかの建物を残すだけでしたが、1921年(大正10)、「足利学校跡(聖廟および附属建物を含む)」として国の史跡に指定され、1990年(平成2年)には、方丈や庭園が復元され、一般公開されました。館内の展示によって、中世以降の学校教育について、知ることもできる貴重な施設です。また、敷地内にある足利学校遺跡図書館には、『宋版尚書正義』、 『宋版礼記正義』、『宋刊本文選』、『宋版周易注疏』などの国宝や重要文化財を多数所蔵しています。

(2) 一乗谷朝倉氏遺跡<福井県福井市>

 福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡です。一乗谷城と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなります。遺跡全体(面積278ha)が国の特別史跡で、そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けています。また、発掘結果や史料等を参考に200mにわたって当時の町並みが復元され、公開されていて、戦国時代の城下町を知る上ではとても貴重です。何度も来訪しているのですが、年々遺跡の発掘が進み、以前なにもなかったところに戦国時代の町が復元されているのです。前に来たときには、遺跡の跡だけを見て、ここにどんな人々が生活し、どんな建物があったのだろうかと想像していたのですが、当時の武家屋敷や町屋が立体復元されていて、生活の様子が一部再現されていました。江戸時代の建物や集落を復元しているところは結構あるのですが、戦国時代は極めて少なく、貴重なものです。武家屋敷の中で、人形が2人で将棋を指している様子も復元されていてとても面白かったです。実は、この遺跡からは多数の将棋の駒が発掘されていて、当時から将棋を楽しんでいたことが分かったとのことです。私は、歴史も将棋も好きなのでとても興味深かったのです。近くには「福井県立一乗谷朝倉氏資料館」があって、出土品や一乗谷についての展示があります。尚、2006年(平成18)に、日本100名城に選定されました。

(3) 銀閣寺<京都府京都市左京区>

 京都府京都市左京区にある慈照寺の通称で、室町幕府8代将軍足利義政の山荘東山殿を義政の死後、1490年(延徳2)に遺言により禅寺に改めて開創されたものです。宗派は臨済宗相国寺派、本尊は釈迦如来で、初期書院造りの遺構である東求堂と、2層の観音殿(銀箔を押す計画があったところから、銀閣と呼ばれている)からなり、いずれも1951年(昭和26)に国宝に指定されました。また、瀟湘八景の意匠による庭園は相阿弥の造築で、室町時代の東山文化を代表する名園として知られており、国の特別史跡・特別名勝に指定されています。そして、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録されました。

(4) 金閣寺<京都府京都市北区>

 京都府京都市北区にある鹿苑寺の通称で、相国寺の山外塔頭寺院です。室町幕府3代将軍足利義満は別荘北山殿に金閣などの殿楼を造営しましたが、1408年(応永15)の義満の死後、遺言により夢窓疎石を勧請開山とし、禅宗の寺院とされました。宗派は臨済宗相国寺派、本尊は聖観世音菩薩で、当時は金閣以外に紫雲殿、天上間、拱北楼、反橋、芳徳殿、天鏡閣、泉殿、護摩堂、懺法堂などが立ち並び、壮観を極めたものの、のちに紫雲殿、天鏡閣は南禅寺に、天上間は建仁寺に、懺法堂は等持寺に移転され、焼失や破壊された建物もあって衰退したのです。しかし、天正年間(1573~1592年)から再建が始まり、徐々に堂舎の修理、復興が行われ、昭和時代前期には、金閣、方丈(本堂)、不動堂、大書院、夕佳亭などがありました。ところが、中心となる金閣は、1950年(昭和25)7月2日に放火によって焼失、現在のものは1955年(昭和30)に同じ様式で再建されたものです。金閣の前の庭は、室町時代初期に改修されましたが、池中の島の配置などに山荘時代の面影を残す名園で、1956年(昭和31)に国の特別史跡・特別名勝に指定されました。そして、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録されています。

(5) 旧古井家住宅<兵庫県姫路市>

 兵庫県姫路市にあり、戦国時代の建築と推定される古民家で、“古井千年家”の通称をもっています。1967年(昭和42)に、国の重要文化財に指定され、解体修理して建築当初の形にし、「千年家公園」として一般公開されました。入母屋造り、茅葺き屋根の農家で、入口には馬屋があり、この家の床下には亀石という大きな岩があり、厄除けとしてまつられています。この時代の現存する民家として大変貴重なもので、当時の農民の暮らしを知る上では重要です。

(6) 瑠璃光寺・常栄寺<山口県山口市>

 室町時代の山口は、大内氏の当主により文化人の庇護が行われ、訪問者たちが担い手となって大内文化と呼ばれる独自文化が隆盛しました。その中で、瑠璃光寺五重塔は、1442年(嘉吉2)頃の建立で、大内文化の最高傑作といわれて、国宝に指定されています。この塔は日本三名塔(京都の醍醐寺、奈良の法隆寺、山口の瑠璃光寺)の一つとも言われています。また、大内政弘は当時山口に滞在していた雪舟に対して庭園の造営を依頼し、雪舟は常栄寺の後庭を造営したと伝えられ、「常栄寺庭園」(通称:雪舟庭)として、国の史跡および名勝に指定されています。

☆室町文化の主要な文化財一覧

<建築>

・興福寺五重塔…[国宝]
・興福寺東金堂…[国宝]
・慈照寺銀閣…[国宝]
・慈照寺東宮堂…[国宝]
・瑠璃光寺五重塔…[国宝]

<絵画>

・『瓢鮎図』…如拙作[国宝]
・『寒山拾得図』…伝周文作[国宝]
・『秋冬山水図』…雪舟作[国宝]
・『四季山水図巻』…雪舟作[国宝]
・『周茂叔愛漣図』…狩野正信作[国宝]

<庭園>

・鹿苑寺庭園…回遊式浄土庭園[特別史跡・特別名勝]
・慈照寺庭園…相阿弥作庭[特別史跡・特別名勝]
・龍安寺石庭…枯山水[特別名勝]
・大徳寺大仙院庭園…[特別名勝]
・常栄寺庭園…[史跡・名勝]

<文学・歴史書>

・『義経記』…軍記物語
・『新撰菟玖波集』…宗祇編
・『水無瀬三吟百韻』…宗祇ら
・『犬筑波集』…宗鑑編

<有職故実>

・『公事根源』…一条兼良著

<古典研究>

・『花鳥余情』…一条兼良著

<能学書>

・『風姿花伝(花伝書)』…世阿弥元清著

 


 南北朝時代に花開いた文化で、1333年(元弘3/正慶2)の鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政を経て、1336年(延元元/建武3)に足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野転居により朝廷が分裂してから、1392年(元中9/明徳3)に皇室が合一するまでの時代の文化です。その特徴は、①南北朝の動乱を反映したものであること、②新興武士による「バサラ」(華美で贅沢)の気風が興隆したこと、③正統性の証として歴史書や軍記物語が発達したものであったこと、などとされてきました。
 この時代には、近畿地方を中心に全国で南朝(吉野)方と北朝(京都)方による騒乱が続きました。しかし、次第に南朝勢力が衰微し、1392年(元中9/明徳3)の南北朝合一に至ります。この過程で、地方の守護は指揮権、所得給与、課税権などの権限を拡大していき、守護大名へと発展していく過程をたどります。この中で農村では、百姓の自治的・地縁的結合による共同組織である惣村が形成されるようになり、土一揆などの民衆の抵抗がおこる基盤となっていきます。
 この文化の代表として、永保寺開山堂などの仏教建築、『観音猿鶴図』、『寒山図』、『四睡図』、『募帰絵詞』などの絵画・絵巻物、西芳寺庭園、天龍寺庭園などの庭園も残されています。また、文学としては、『風雅和歌集』、『新千載和歌集』、『新拾遺和歌集』、『新葉和歌集』、『新後拾遺和歌集』などの和歌集、『菟玖波集』、『応安新式』などの連歌集、『増鏡』、『太平記』、『難太平記』、『曽我物語』、『神皇正統記』、『梅松論』などの歴史書・歴史物語が書かれました。
 尚、朝廷政治の本来のあり方を示そうとして有職故実をまとめた『職原抄』、『建武年中行事』が書かれ、能楽や茶寄合、闘茶、連歌などが流行するようになります。

〇南北朝文化を巡る旅六題

 旅先で南北朝文化の関係地を訪れ、良かった所を6つ、北から順に紹介します。

(1) 永保寺<岐阜県多治見市>

 この寺は、1313年(正和2)に土岐氏の招きをうけた夢窓疎石が開創した臨済宗南禅寺派の古刹です。1339年(暦応2)には、北朝の光明天皇勅願所とされ、経済的基盤が確立し、伽藍が整備されました。現在に残る観音堂と開山堂は、南北朝時代に建てられたもので、いずれも1952年(昭和27)に、国宝に指定されています。両堂には南北朝期から室町初期における歴代住持や檀那の位牌が納められ、 開山堂には元翁本元と夢窓疎石の木像が安置されています。夢窓疎石の作庭と伝えられる観音堂前の庭園は、臥竜池と称する池に反り橋の無際橋がかかり、浄土教的庭園の様式を感じさせる名庭で、 1969年(昭和44)に国の名勝に指定されました。境内には、樹齢約700年の大銀杏があり、紅葉が見事なことで有名です。

(2) 北畠氏館跡庭園<三重県津市美杉町>

 北畠神社境内にある南北朝時代の代表的な日本庭園です。伊勢国司の北畠晴具の義父だった管領細川高国が作った池泉観賞様式の武家書院庭園でした。総面積は約850坪あり、武将の手による庭らしく 野生的で、素朴な力強さがあり、石組みと米字池、枯山水のある苔むした築山の緑がすばらしく、紅葉の名所としても知られています。滋賀県の「旧秀隣寺庭園」、福井県の「越前一乗谷朝倉氏庭園」と共に、日本三大武将庭園の一つとされてきました。伊勢国司・北畠顕能によって築かれた居館であった北畠氏館跡に隣接していて、1936年(昭和11)に、「北畠氏館跡庭園」として、国の名勝・史跡の指定を受けます。その後、1996年(平成8)からの館跡の調査によって、15世紀前半に造成された遺構では、日本最古の石垣や多くの建物跡が確認され、陶器、武具、仏具なども出土しました。そこで、2006年(平成18)に「北畠氏館跡庭園」と背後にある「霧山城跡」の2件を統合し、指定地域を追加の上、「多気北畠氏城館跡北畠氏館跡 霧山城跡」の名称で改めて国の史跡に指定されたのです。尚、2017年(平成29)に、「北畠氏館」が続日本100名城に選定されました。

(3) 天龍寺<京都府京都市右京区>

 この寺は、臨済宗天龍寺派大本山で、山号は霊亀山、本尊は釈迦如来です。室町幕府を開いた足利尊氏が、夢窓疎石のすすめによって、1339年(延元4/暦応2)に、吉野の行宮で没した後醍醐天皇の冥福を祈るため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが起源とされています。尊氏は多くの荘園を、北朝は売官による成功の収益を、それに室町幕府は天竜寺船を元に派遣して、その貿易利益を当寺に寄せて造営費用にあてたことが知られています。しかし、何度か火災に会ったため、現在の建物は、明治時代以降のものですが、夢窓国師作の池泉回遊式庭園が残り、1923年(大正12)に史跡に、さらに、1955年(昭和30)に特別名勝に指定されています。また、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録されました。

(4) 西芳寺庭園<京都府京都市西京区>

 臨済宗天竜寺派の西芳寺の庭園です。京都三名園の一つに数えられ、夢窓疎石が作庭した苔むした庭が有名で、別名「苔寺」とも呼ばれてきました。この寺は、京都府京都市西京区にある臨済宗天竜寺派の寺院で、奈良時代に行基が西方寺として建立したと伝えられ、平安時代には、空海や源空も住んでいたとのことです。その後、荒廃していたのを南北朝時代の1339年(延元4・暦応2)に、夢窓疎石が中興し、その時に庭園ができ、西芳寺と改称されました。それからも、何度も兵火で焼失したり、洪水で流されたりしましたが、その都度再興されたのです。明治維新後の廃仏毀釈により、境内地は狭められ、再び荒廃しましたが、これも復興したものの、湘南亭(国の重要文化財)以外の建物のほとんどは、明治時代以降の造営となっています。しかし、庭園は良く残されていて、1923年(大正12)に国の名勝に、1952年(昭和27)には特別名勝に指定され、さらに、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録されました。

(5) 吉野<奈良県吉野郡吉野町>

 1336年(延元元/建武3)に、足利尊氏の京都占領により、吉野山に逃れた後醍醐天皇は、行宮を築き、南朝を樹立しました。この時、最初に吉野吉水院に入り、一時居所とし、その後近くの金峯山寺の塔頭・実城寺を「金輪王寺」と改名して行宮と定めました。その後、後醍醐天皇が崩御し、1348年(正平3/貞和4)には高師直率いる室町幕府軍が吉野に侵入して、行宮を焼き払い、後村上天皇が賀名生行宮に移るまで、この地が南朝の中心でした。その関係で、吉野山には南朝に関する史跡がいろいろと残されています。一時後醍醐天皇の居所となった吉水神社、後醍醐天皇の勅願寺である如意輪寺、金峯山寺の境内には吉野行宮跡があり、石碑が立っています。尚、2004年(平成16)には、「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つとして、世界遺産(文化遺産)に登録されました。

(6) 湊川神社<兵庫県神戸市中央区>

 この神社は、楠木正成・正季・正行を祭る神社です。この辺で、1336年(延元元/建武3)に、南朝方の新田義貞・楠木正成軍と北朝方の足利尊氏・足利直義軍との間で、湊川の戦いがあり、北朝方が勝って、楠木正成・正季は自害しました。そこに墓があったのですが、1692年(元禄5)に徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立して、世に知られるようになります。幕末になって、尊王論が高揚してくると,楠木正成の顕彰が盛んになり,1872年(明治5)、明治政府によって湊川神社が創建されることになりました。境内には、殉節地や御墓所などがあって国の史跡になっていますし、宝物殿には、楠木正成着用と伝える段縅腹巻一領(国重要文化財)、1335年(建武2)大楠公自筆の法華経奥書一幅(国重要文化財)などがあります。

☆南北朝文化の主要な文化財一覧

<建築>

・永保寺開山堂…[国宝]

<絵画>

・『観音猿鶴図』…牧溪作
・『寒山図』…可翁作[国宝]
・『四睡図』…黙庵作
・『募帰絵詞』…本願寺三世覚如を描く絵巻物

<庭園>

・西芳寺庭園…夢窓疎石作庭[特別名勝]
・天龍寺庭園…夢窓疎石作庭[特別名勝]
・北畠氏館跡庭園…[名勝]

<文学・歴史書>

・『菟玖波集』(1356年)…わが国最初の連歌集で、二条良基ら編集
・『応安新式』…二条良基編
・『増鏡』(1370年)…元弘の変を中心に後鳥羽天皇から後醍醐天皇間の編年体歴史物語
・『太平記』(1374年)…約50年間の南北朝の戦乱を描いた軍記物語
・『難太平記』…今川了俊著
・『曽我物語』…東国武士社会を題材
・『風雅和歌集』(1349年)…花園院監修、光厳院親撰
・『新千載和歌集』(1359年)…後光厳天皇下命、二条為定撰
・『新拾遺和歌集』(1364年)…後光厳天皇下命、二条為明・頓阿撰
・『新葉和歌集』(1381年成立)…長慶天皇下命、宗良親王撰
・『新後拾遺和歌集』(1384年)…後円融天皇下命、二条為遠・二条為重撰
・『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』…北畠親房著
・『梅松論(ばいしょうろん)』…足利政権の成立過程を記述

<有職故実>

・『職原抄(しょくげんしょう)』…北畠親房著
・『建武年中行事』…後醍醐天皇著


 鎌倉時代に花開いた文化で、鎌倉幕府が成立する12世紀末からその滅亡する14世紀前期までの文化です。その特徴は、①鎌倉幕府を支える武士の生活と関わったものであること、②伝統的な貴族文化も継承しつつ、大陸からの文化も取り入れていったこと、③新しい鎌倉仏教の普及にも伴って、武士や庶民にも指示されたものであったこと、などとされてきました。
 貴族中心の支配体制が崩れ、本格的な武士の政権が誕生し、続いていきましたが、2回の元寇によって、御家人の不満が高まって、鎌倉幕府は衰退していきます。この時代には、新しい仏教の宗派が生まれて、民衆への布教活動が活発化しました。浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、法華宗の日蓮、時宗の一遍などが活躍し、その足跡が日本中に印されています。地方を旅すると○○が流刑になった所だとか、布教活動をした地だとかにめぐり会うことがよくあります。それとともに民衆の中に根付いていった仏教文化の奥深さを感じざるをえないのです。
 その代表として、東大寺南大門(大仏様)、正福寺千体地蔵堂・円覚寺舎利殿・功山寺仏殿・浄土寺浄土堂(唐様)、石山寺多宝塔・蓮華王院本堂[三十三間堂](和様)、観心寺金堂(折衷様)などの仏教建築、東大寺南大門金剛力士像・僧形八幡神像・重源上人像、興福寺金剛力士像・無著象・世親像・天灯鬼像・竜灯鬼像、蓮華王院本堂[三十三間堂]千手観音坐像、六波羅蜜寺の空也上人像、高徳院阿弥陀如来坐像[鎌倉大仏]、明月院上杉重房像、浄土寺阿弥陀三尊立像などの彫刻、一遍上人絵伝、法然上人絵伝、石山寺縁起絵巻などの絵巻物、親鸞聖人像、明恵上人樹上坐禅、蘭渓道隆像などの絵画も残されています。また、文学としては、『新古今和歌集』、『山家集』、『金槐和歌集』などの和歌集、『水鏡』、『愚管抄』、『吾妻鏡』などの歴史書、『十訓抄』、『古今著聞集』、『沙石集』などの説話集、『保元物語』、『平治物語』、『平家物語』、『源平盛衰記』 などの戦記物語、『海道記』、『東関紀行』、『十六夜日記』などの紀行文、『方丈記』、『徒然草』などの随筆が書かれました。その中で、多くの分野に独特の創造的・個性的文化を生み出していきます。
 尚、庶民の生活と関わって、瀬戸焼、常滑焼、備前焼などの陶器が発達し、武士の生活と深く関わって、刀剣・甲冑も優れたものが製作されました。

〇鎌倉文化を巡る旅六題

 旅先で鎌倉文化の関係地を訪れ、良かった所を6つ、北から順に紹介します。

(1) 称名寺と金沢文庫<神奈川県横浜市金沢区>

 称名寺は、真言律宗別格本山の寺院で、山号は金沢山といい、本尊は弥勒菩薩です。この寺は、金沢北条氏一門の菩提寺で、鎌倉幕府の要人・北条実時が、1258年(正嘉2年)に六浦荘金沢の屋敷内に建てた持仏堂が起源とされています。その後、北条実時の孫・金沢貞顕が平泉の毛越寺をモデルに金堂や三重の塔を含む七堂伽藍を完備し、庭園などを整備ましたが、鎌倉幕府滅亡とともに金沢北条氏も滅び、以後寺運も衰退しました。しかし、江戸時代に入って大幅な復興が実現し、現存する建物が作られました。現在、境内は国の史跡に指定され、赤門、仁王門、金堂、釈迦堂などがあります。また、金堂前の阿字ヶ池を中心とする浄土式庭園は、1972年(昭和47)からの大がかりな発掘調査を経て、1987年(昭和62)に復元されたものです。この浄土庭園の向こうには、緑豊かな金沢三山(金沢山・稲荷山・日向山)を見ることができます。春の桜、初夏の黄菖蒲、秋の紅葉と四季折々の景観が美しく、遠く鎌倉時代に心馳せさせてくれます。金沢文庫は、1275年(建治元)頃、北条実時の邸宅内に造った武家の文庫が起源とされています。蔵書の内容は政治・文学・歴史など多岐にわたるものでしたが、金沢北条氏滅亡後は、菩提寺の称名寺に文庫の管理がゆだねられたものの、寺運の衰退とともに蔵書も次第に散逸したとのことです。現在の金沢文庫は1930年(昭和5)に、神奈川県の施設として復興したもので、1990年(平成2)には新館が完成し、現在は、中世文化に関する博物館兼図書館の役割を果たしています。国宝の金沢北条氏歴代(実時、顕時、貞顕、貞将)の肖像画と文選集注を収蔵していることで有名です。

(2) 鎌倉<神奈川県鎌倉市>

 やはり、この時代を巡るには神奈川県鎌倉市に行くのが一番です。三方を山に囲まれ、南は相模湾に臨む要害の地で、鎌倉幕府が置かれ、当時の政治、文化、経済の中心でした。中央に鶴ケ岡八幡宮が鎮座し、往時をしのばせる円覚寺、建長寺などの寺々や鎌倉大仏等が狭い地域にひしめきあっています。その所々に源氏や北条氏の縁の地がちりばめられていて、鎌倉時代の歴史をたどることができます。鎌倉幕府の興隆から衰退に至るまでを様々な寺院や史跡に見い出し、時代を知ることができるのです。

(3) 塩田平<長野県上田市・青木村>

 上田市の西南に広がる塩田平一帯は、“信州の鎌倉”と呼ばれています。それはかつて、塩田北条氏三代の居城「塩田城」があったからで、鎌倉幕府の要職にあった北条義政から、その孫まで、三代に渡り約六十年間、信濃の一大勢力としてこの地方を統治していました。それによって、鎌倉時代から室町時代にかけて造られた神社仏閣など、数多くの文化財が残されているのです。中でも、安楽寺の木造八角三重塔は、1290年代(鎌倉時代末期)には建立されたと考えられ、木造の八角塔としては全国で一つしかないという貴重な建築です。1952年(昭和27)に、長野県では一番早く国宝に指定されたもので、見ごたえがあります。また、青木村にある大法寺の三重塔は、東山道を旅する人々が「見返りの塔」といったと言われ、美しい塔の姿が有名です。この塔は、1333年(正慶2)の鎌倉時代から南北朝時代に造営されたもので、これも国宝に指定されています。それ以外にも、常楽寺、前山寺など鎌倉時代縁の寺があり、塩田城跡と共に巡るとまさに鎌倉時代の散策気分です。

(4) 東大寺・興福寺<奈良県奈良市>

 この聖武天皇発願の廬舎那仏(奈良の大仏)で有名な奈良時代を代表する東大寺は、平安時代になると、失火や落雷などによって講堂や三面僧房、西塔などが焼失、南大門や大鐘楼も倒壊したのです。しかも、1180年(治承4)に、平重衡の軍勢により、大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失してしまいました。しかし、鎌倉時代に俊乗房重源によって再興され、鎌倉文化が凝縮されているのです。この時代の建築物では天竺様の南大門と開山堂が残され、国宝となっています。その南大門に佇立する仁王像を作った運慶、快慶を代表とする慶派の仏師の技はすばらしいものです。また、近くにある興福寺も、鎌倉時代に復興され、その時に建造された北円堂、三重塔が残り、国宝館には、金剛力士像、無著象、世親像、天灯鬼像、竜灯鬼像などの慶派の傑作があって、いずれも国宝に指定されています。そして、1998年(平成10)に、この2つの寺は、「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産(文化遺産)に登録されました。

(5) 蓮華王院<京都府京都市東山区>

 鎌倉時代の代表的な建築様式和様の本堂(三十三間堂)が有名で、1952年(昭和27)に国宝に指定されています。その中には、本尊である鎌倉時代の仏師湛慶作の国宝の木造千手観音坐像(寄木造)をはじめ、木造千手観音立像(1,001躯)、木造風神・雷神像、木造二十八部衆立像など、鎌倉時代の仏像が多数並んでいて、圧巻です。また、江戸時代には各藩の弓術家により本堂西軒下(長さ約121m)で矢を射る「通し矢」の舞台となったことで知られています。

(6) 功山寺<山口県下関市>

 ここの仏殿は、鎌倉時代の代表的な唐様建築と呼ばれるもので、鎌倉時代の建築様式の推移を見る上でとても貴重なので、1953年(昭和28)に国宝に指定されています。寺伝には、1327年(嘉歴2)創建とありますが、 柱の墨書により1320年(元応2)の建立と判明しています。木造の禅宗様建築で、典型的な唐様仏殿としては、我国最古の物です。二重屋根入母屋造りの桧皮葺、扇垂木に花頭窓、柱は上下部を細めた粽型で礎石と柱との間に礎盤を入れ、内陣の天井は鏡天井で石南花を描き、外陣は化粧屋根裏、床は四半瓦敷で建物は一切彩色していません。鎌倉の円覚寺舎利殿と共に仏殿建築の代表と云われて、堂内には本尊千手観音坐像を安置しています。

☆鎌倉文化の主要な文化財一覧

<建築>

・東大寺南大門(奈良県奈良市)…大仏様[国宝]
・正福寺千体地蔵堂(東京都)…唐様[国宝]
・円覚寺舎利殿(神奈川県鎌倉市)…唐様[国宝]
・功山寺仏殿(山口県下関市)…唐様[国宝]
・浄土寺浄土堂(兵庫県)…唐様[国宝]
・石山寺多宝塔(滋賀県大津市)…和様[国宝]
・蓮華王院本堂[三十三間堂](京都府京都市)…和様[国宝]
・観心寺金堂(大阪府)…折衷様[国宝]

<彫刻>

・東大寺南大門金剛力士像…運慶、快慶作[国宝]
・東大寺僧形八幡神像…快慶作[国宝]
・東大寺重源上人像…[国宝]
・興福寺金剛力士像…伝定勝作[国宝]
・興福寺無著象・世親像…[国宝]
・興福寺天灯鬼像・竜灯鬼像…[国宝]
・蓮華王院本堂[三十三間堂]千手観音坐像…湛慶作[国宝]
・六波羅蜜寺の空也上人像…康勝作
・高徳院阿弥陀如来坐像[鎌倉大仏]…[国宝]
・明月院上杉重房像
・浄土寺阿弥陀三尊立像

<絵画>

・一遍上人絵伝…円伊作[国宝]
・法然上人絵伝…[国宝]
・石山寺縁起絵巻…高階隆兼作[国宝]
・北野天神縁起絵巻…[国宝]
・平治物語絵巻…[国宝]
・蒙古襲来絵巻
・男衾三郎絵巻
・後三年合戦絵巻
・紫式部日記絵巻
・餓鬼草紙…[国宝]
・病草紙…[国宝]
・地獄草紙…[国宝]
・伝源頼朝像…[国宝]
・後鳥羽上皇像…[国宝]
・親鸞聖人像…[国宝]
・明恵上人樹上坐禅図…[国宝]
・蘭渓道隆像…[国宝]

<文学>

・『新古今和歌集』(藤原定家ら撰)
・『山家集』(西行法師著)
・『金槐和歌集』(源実朝著)
・『小倉百人一首』(藤原定家撰)
・『保元物語』
・『平治物語』
・『平家物語』
・『源平盛衰記』
・『方丈記』(鴨長明著)
・『徒然草』(吉田兼好著)
・『水鏡』
・『愚管抄』(慈円著)
・『吾妻鏡』
・『海道記』
・『東関紀行』
・『十六夜日記』(阿仏尼著)
・『十訓抄』
・『古今著聞集』(橘成季者)
・『沙石集』(無住著)


 平安時代後期に花開いた文化で、院政が開始された11世紀末から鎌倉幕府が成立する12世紀末までの文化です。その特徴は、①民間布教者による浄土教が全国へ広まってきたこと、②地方へ伝播し庶民や武士が担い手となってきたこと、③歴史物語、軍記物語、絵巻物などの展開がみられること、などとされてきました。
 貴族の摂関政治が衰え院政へと向かう転換期で、また武士が台頭してきていて、治安が乱れて戦乱が増え、1156年(保元元)の保元の乱、1159年(平治元)からの平治の乱、そして、源平合戦へと続いていきます。そして、1177年(治承元)の太郎焼亡、1178年(治承2)の次郎焼亡、1181年(養和元)の養和の大飢饉などの天変地異も加わって、社会不安が増大していくことになりました。その中で、阿弥陀仏信仰が民衆の中に広められていき、それと共に、京都、奈良から地方にも普及して、日本各地で阿弥陀堂が建設され、阿弥陀仏が祀られるようになります。
 その代表として、中尊寺金色堂、白水阿弥陀堂、富貴寺大堂などの仏教建築、臼杵磨崖仏、伝乗寺真木大堂仏像、蓮華王院千手観音像、浄瑠璃寺九体阿弥陀如来像などの彫刻、高野山有志八幡講十八箇院『阿弥陀聖衆来迎図』、青蓮院の『不動明王二童子像』などの仏教絵画、厳島神社の『平家納経』、四天王寺の『扇面古写経』なども残されています。また、文学としては、『後拾遺和歌集』、『金葉和歌集』、『詞花和歌集』、『千載和歌集』の勅撰和歌集、『栄花物語』、『大鏡』、『今鏡』、『今昔物語集』などの歴史物語・説話集、『将門記』、『陸奥話記』などの戦記物語が書かれました。その中で、『源氏物語絵巻』、『信貴山縁起絵巻』、『伴大納言絵巻』などの物語性のある絵巻物も製作されています。
 尚、田楽や猿楽なども貴賤を問わず親しまれるようになり、流行歌謡である今様を集めた『梁塵秘抄』が後白河法皇によって編纂されたりしました。

〇院政期文化を巡る旅六題

 旅先で院政期文化の関係地を訪れ、良かった所を6つ、北から順に紹介します。

(1) 平泉<岩手県西磐井郡平泉町>

 中尊寺境内は、1979年(昭和54)に国の特別史跡に指定されていますが、中でも、金色堂は、1124年(天治元)に建立されたもので、奥州藤原氏三代の栄華を象徴し、そのミイラを収め、平安時代を代表する国宝建造物として知られています。鞘堂内の金色の堂宇と仏像はまばゆいばかりで、古代人の阿弥陀信仰が目に浮かぶようでした。また、毛越寺には、平安時代後期の遺構として、浄土庭園が残されており、苑池も橋脚をのこして中島・庭石については旧態をよく示して、学術上の価値が高いので、境内が1952年(昭和27)に国の特別史跡、庭園が1959年(昭和34)に国の特別名勝になっています。それ以外にも、1955年(昭和30)に国の特別史跡となった無量光院跡、1997年(平成9)に国の史跡となった柳之御所・平泉遺跡群などがあって、平安時代後期の史跡めぐりができる稀有の場所でした。また、2011年(平成23)には、「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」として世界遺産(文化遺産)に登録されています。

(2) 白水阿弥陀堂<福島県いわき市>

 この阿弥陀堂は、平安時代後期に建てられたもので、1952年(昭和27)に国宝建造物になりました。また、周囲の浄土庭園と共にすばらしい景観を成していて、境域は1966年(昭和41)に国の史跡に指定されています。復元された平安時代の浄土庭園と国宝阿弥陀堂建築のバランスは絶妙で、当時の雄大な感覚と極楽浄土への思いが伝わってくるようです。特に、紅葉の季節は阿弥陀堂脇のイチョウの大木が真黄色に色づいて、それは見事でした。

(3) 三佛寺投入堂<鳥取県東伯郡三朝町>

 平安時代後期に造られたとみられる奥院の建物(投入堂)は、垂直に切り立った絶壁の窪みに建てられた他に類を見ない建築物で、1952年(昭和27)に国宝に指定されました。この建物に行くのは、高低差200m、全長約700mの険しい登山道(行者道)しかなく、場所によっては鉄の鎖やロープを伝い、時にはむき出しになっている木の根だけを掴みながら登るという想像を絶する悪路です。それだけに、投入堂にたどり着いたときには、感動します。また、三仏寺のある三徳山は国の名勝、史跡に指定されました。宝物殿には、木造蔵王権現立像、木造十一面観音立像などの平安時代の仏像も安置されていて、見学することができます。

(4) 厳島神社<広島県廿日市市>

 平安時代の寝殿造りの粋を極めた建築美で知られる日本屈指の名社です。平家一門の権勢最盛期を象徴する国宝建造物で、平家の栄華の一端を見る思いがしました。有名な、舞楽が始まったのもこの時代からといわれています。廻廊で結ばれた朱塗りの社殿は、潮が満ちてくるとあたかも海に浮かんでいるように見えました。全国に約500社ある厳島神社の総本社で、1996年(平成8)には、ユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されています。また、ここに収められている『平家納経』は、1164年(長寛2)厳島神社に平清盛が奉納した全32巻の経典で、それに清盛の願文を加えた33巻が完在し、1954年(昭和29)に国宝となりました。それらは、宝物館で見ることができます。

(5) 富貴寺大堂<大分県豊後高田市>

 国東半島の山間部にあり、西日本を代表する平安時代の建造物で、1952年(昭和27)に国宝に指定されています。堂内には、肉眼では見えませんが、赤外線写真でみごとな壁画があることが確認され、1978年(昭和53)に国の重要文化財に指定されました。また、平安時代作の本尊木造阿弥陀如来坐像も国の重要文化財であり、 2013年(平成25)には、富貴寺境内が国の史跡に指定されています。周辺には、多くの石仏が残されており、素朴な中にすばらしさを感じさせるところです。

(6) 臼杵石仏<大分県臼杵市>

 臼杵石仏(磨崖仏)は、大部分の像は平安時代後期の作とされ、ホキ石仏第一群の一部等は鎌倉時代に追刻されたものと推定されています。石仏群は4群に分かれていて、地名により、ホキ石仏第1群(堂ヶ迫石仏)、ホキ石仏第2群、山王山石仏、古園石仏と命名されました。その規模、数量、彫刻の質の高さでは、日本を代表する石仏群なので、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、1995年(平成7)には、国宝に指定されています。それぞれに、とてもすばらしい彫刻であり、表情の豊かな仏像群は、見る人々に感動を与えてくれました。

☆院政期文化の主要な文化財一覧

<建築>

・中尊寺金色堂(岩手県西磐井郡平泉町)[国宝]
・白水阿弥陀堂(福島県いわき市)[国宝]
・富貴寺大堂(大分県豊後高田市)現存する九州最古の木造建築物。[国宝]
・往生極楽院(京都市左京区)[国指定重要文化財]
・三仏寺投入堂三仏寺奥院(鳥取県東伯郡三朝町)1108年(天仁元)頃に建造された。[国宝]
・當麻寺本堂(奈良県葛城市)[国宝]
・鶴林寺太子堂(兵庫県加古川市)聖徳太子創建と伝えられる天台宗寺院で、太子堂は当初法華堂として建造。[国宝]
・浄瑠璃寺三重塔(京都府木津川市)[国宝]
・一乗寺三重塔(兵庫県加西市)[国宝]
・宇治上神社本殿(京都府宇治市)流造によって建造されており、平等院の鎮守とされた神社。[国宝]

<庭園>

・毛越寺浄土庭園(岩手県西磐井郡平泉町)[特別史跡・特別名勝]
・白水阿弥陀堂境域浄土庭園(福島県いわき市)[国史跡]

<彫刻>

・中尊寺一字金輪像(岩手県平泉町)[国指定重要文化財]
・臼杵石仏(大分県臼杵市)[国宝]日本の代表的な石仏群。
・伝乗寺真木大堂仏像(大分県豊後高田市)[国指定重要文化財]
・蓮華王院千手観音像(京都市東山区)[国指定重要文化財]
・浄瑠璃寺九体阿弥陀如来像(京都府木津川市)[国宝]現存する唯一の九体仏。
・往生極楽院阿弥陀如来像・両脇侍像(京都市左京区)[国宝]三千院境内にある往生極楽院の本尊。
・円成寺大日如来坐像(奈良県奈良市)[国宝]奈良仏師運慶の現存する最古の作品。
・大倉集古館普賢菩薩騎象像(東京都)[国宝]
・興福寺板彫十二神将立像(奈良県奈良市)[国宝]

<絵画>

・『源氏物語絵巻』[国宝]
・『年中行事絵巻』
・『伴大納言絵詞』[国宝]
・『信貴山縁起絵巻』[国宝]
・『寝覚物語絵巻』大和文華館所蔵[国宝]
・『地獄草紙』東博本、奈良博本、ともに[国宝]
・『餓鬼草紙』京博本、東博本、ともに[国宝]
・『病草紙』京博本=[国宝]ほか
・『辟邪絵』奈良国立博物館所蔵 
・『鳥獣人物戯画』全4巻[国宝]
・『吉備大臣入唐絵巻』アメリカのボストン美術館蔵

<装飾経>

・『平家納経』厳島神社蔵[国宝]
・『紺紙金銀泥一切経(紺紙金銀字交書一切経)』
・『久能寺経』現存最古の一品経(法華経二十八品を一巻毎に書写したもの)。
・『扇面古写経』四天王寺蔵[国宝]

<仏教絵画>

・『孔雀明王像』(東京国立博物館所蔵)
・『不動明王二童子像』(京都市東山区)青蓮院蔵[国宝]
・『孔雀明王像』東京国立博物館蔵[国宝]
・『釈迦金棺出現図』京都国立博物館蔵

<歌謡>

・『梁塵秘抄』後白河法皇編

<歴史物語・説話文学>

・『栄花物語』
・『大鏡』
・『今鏡』
・『今昔物語集』

<軍記物語>

・『将門記』
・『陸奥話記』


 平安時代中期に花開いた文化で、遣唐使が廃止された894年(寛平6)から11世紀の摂関政治期を中心とする文化です。その特徴は、①遣唐使の中止などによって唐文化の影響が弱まり、日本の風土に合致したものとなってきたこと、②優美な貴族文化であること、③かな文字と国文学の発達がみられること、④浄土信仰の普及が見られること、などとされてきました。
 平安時代中期には、班田収授の法が崩れ、全国に寄進地系荘園が増加します。それを基盤に貴族が力を持ち、摂関政治を基に藤原氏が台頭していきます。また、それまでの寺院は、鎮護国家を唱える支配者のためか、学問の場でしたが、空也、源信などの登場によって、浄土教の教えが広がり、阿弥陀仏信仰が盛んになっていきました。その頃広まったのが、末法思想で、故に極楽浄土に救いを求める阿弥陀仏へすがるようになっていき、阿弥陀仏を祀り、経塚を造って念じるようになります。
 その代表として、醍醐寺五重塔(951年)、平等院鳳凰堂(1053年)などの仏教建築、平等院鳳凰堂阿弥陀如来像、法界寺阿弥陀如来像、平等院鳳凰堂雲中供養菩薩像などの彫刻、高野山の涅槃図・聖衆来迎図、平等院鳳凰堂扉絵、源氏物語絵巻などの絵画、書道では和風が流行し、小野道風・藤原佐理・藤原行成が三蹟と称せられ、真筆としては、小野道風筆『屏風土代』、藤原佐理筆『離洛帖』、藤原行成筆『白氏詩巻』などが残されています。また、文学としては、『古今和歌集』、『後撰和歌集』、『拾遺和歌集』、『和漢朗詠集』などの詩歌集、『竹取物語』、『伊勢物語』、『うつほ物語』、『落窪物語』、『源氏物語』などの物語、『土佐日記』、『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記』などの日記、歴史書・辞典としては『日本三大実録』(901年完成)、『倭名類聚抄』などが編纂されました。
 尚、貴族の住宅建築として寝殿造が現れ、男性用衣服として、束帯・直衣・狩衣、女性用として十二単が登場し、朝廷での儀式が整備され、年中行事が執り行われるようになり、陰陽道の強い影響を受けます。

〇国風文化を巡る旅七題

 旅先で国風文化の関係地を訪れ、良かった所を7つ、北から順に紹介します。

(1) 金沢公園・後三年の役金沢資料館<岩手県横手市>

 金沢公園は後三年の役(1083~1087年)の際に金沢の柵があった場所で、公園になっていて、山そのものが崖で囲まれ強固な天然の要塞になっています。後三年の役は、清原氏の族長、真衡(さねひら)が病死し、領土の配分をめぐって、家衡、清衡の異父兄弟が争った合戦です。弟の家衡に妻子を殺された清衡が、源義家に助けを求めて戦いの火ぶたが再び切られました。戦の中で沼の柵に立てこもって、源義家を退けた家衡は、叔父武衡のすすめにより、難攻不落といわれる金沢柵に移りました。ところが、義家の実弟 源義光の参戦でますます意気あがる義家軍の執拗な攻撃と、兵糧攻めにあい、必死の防戦もむなしく、金沢柵は落ち、家衡、武衡は捕らえられようやく合戦が終わりました。近くに、「後三年の役金沢資料館」があって、この戦いの様子を描いた絵巻や考古資料が展示されていて参考になります。

(2) 平将門関係地(茨城県坂東市)

 平将門の正確な生年は不詳ですが、9世紀終わり頃から10世紀初めとされ、下総国で生まれたと言われ、940年(天慶3)に没しています。10世紀に関東で起きた内乱“平将門の乱”の中心人物として知られ、939年(天慶2)に常陸、下野、上野の国府を占領し、一時関東を支配下において新皇を称しました。しかし、940年(天慶3)に平貞盛・藤原秀郷らに討たれて終りました。死後は御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られましたが、坂東市周辺には、石井の井戸、九重の桜、胴塚などの伝説地が残され、巡ってみると楽しいものです。

(3) 春日井市道風記念館<愛知県春日井市>

 小野道風は、平安時代中期の書家、歌人で、894年(寛平6)に尾張国(現在の愛知県春日井市)に生まれたと伝えられています。参議・小野篁の孫にあたり、父は、大宰大弐・小野葛絃です。醍醐天皇、朱雀天皇、村上天皇に仕え、最高官位は正四位下で、木工頭、内蔵頭などを勤めました。若い頃から書道に秀で,宮廷の障子や屏風に筆をふるい、66歳の時に天徳詩合の清書をして、「能書之絶妙也,羲之再生」と称賛されました。また、『源氏物語』でも、道風の書を高く評しています。この時代には、和風の書道が発達しましたが、藤原佐理、藤原行成と共に三蹟と言われました。歌人としても有名で、「後撰和歌集」に5首載っていますが、967年(康保3)に73歳で死去しました。真跡とされるものに「智証大師諡号勅書」「屏風土代」などがあり、名は「とうふう」とも読まれます。道風の生誕地と伝わる春日井市には、1981年(昭和56)に「春日井市道風記念館」が建てられ、全国的にも数少ない書専門の美術館として、また書道史の研究施設となっていて、小野道風の事績をたどることができます。

(4) 日野法界寺<京都府京都市伏見区>

 創建が平安時代中期の藤原氏の一族である日野家の氏寺で、開基は伝教大師最澄とされています。真言宗醍醐派別格本山の寺院で、山号を東光山と称します。ここに安置されている国宝の阿弥陀如来像は、11世紀末頃の作で、定朝様式の典型的なものとして知られています。国宝建造物の阿弥陀堂は、1221年(承久3)の兵火で焼失後、まもない頃の建立と推定されています。

(5) 京都府京都文化博物館<京都市中京区>

 平安建都1200年記念事業として創立された京都の歴史と文化の紹介を目的とした博物館です。前身は平安博物館で、1988年(昭和63)に開館し、京都文化の紹介を主目的として、考古、歴史、民俗史料、美術工芸作品、映像を展示、公開してきました。平安京は何度も火災にあって、古い建物はほとんどが焼失し、羅城門跡、朝堂院跡、大極殿跡など標柱が立っているくらいのところが多くなています。その中で、この博物館では模型や映像等によって、往時を再現し、貴族文化にも触れることができるように工夫されてきました。「国民文化祭・京都2011」の開催を控えた2011年(平成23年)に、全面リニューアルされ、当時の文化を知る上でもお勧めです。

(6) 宇治平等院<京都府宇治市>

 平安時代に栄華を誇った藤原氏ゆかりの寺院で、平安時代後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園などを今日に伝え、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の一つとして、世界遺産(文化遺産)に登録されています。とりわけ、中心的な建造物である鳳凰堂(国宝)は、平安時代後期を代表する現存建築物で、堂内の木造阿弥陀如来坐像、木造雲中供養菩薩像、鳳凰堂中堂壁扉画と浄土式庭園と共に、西方極楽浄土と阿弥陀如来の世界を再現しているものと言われ、当時の宗教観を知る上にも重要なところです。

(7) 宇治市源氏物語ミュージアム<京都府宇治市>

 「源氏物語」は、平安時代中期に成立した日本の長編物語で、紫式部の著だといわれています。日本の古典文学の最高峰だとも言われていて、多くの人に親しまれてきましたが、平安時代の雰囲気を知る上でも貴重だと思います。「宇治市源氏物語ミュージアム」は、物語ゆかりの宇治市にあり、「源氏物語」の幻の写本とよばれる「大沢本」など「源氏物語」に関する資料の収集・保管等を行ない、源氏物語の世界を展示公開しています。

☆国風文化の主要な文化財

<文学>

・『古今和歌集』:905年(延喜5)に醍醐天皇が紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑等に編纂を命じて出来た最初の勅撰和歌集。
・『後撰和歌集』:951年(天暦5)頃成立? 第二勅撰和歌集
・『拾遺和歌集』:1007年(寛弘4)第三勅撰和歌集
・『和漢朗詠集』:1018年(寛仁2)頃に藤原公任が編集した漢詩集。
・『竹取物語』:現存する最古の仮名の物語。
・『伊勢物語』:在原業平を主人公にしたといわれている歌物語。
・『うつほ物語』:遣唐副使・清原俊蔭とその子孫を主人公とした物語。
・『落窪物語』:継子いじめに苦しむ姫が貴公子と結婚して幸せになるまでを描いた物語。
・『源氏物語』:王朝物語の最高傑作。
・『土佐日記』:紀貫之が土佐守の任務を終えて帰る旅の途中のことを女性を装って平仮名で書いている。
・『蜻蛉日記』:藤原道綱母が夫藤原兼家との生活の不満を綴った日記。
・『和泉式部日記』:和泉式部が自らの恋愛について綴った日記。
・『紫式部日記』:紫式部が宮中に仕えている時の事を綴った日記。
・『枕草子』:清少納言の随筆で日本三大随筆の一つ。
・『更級日記』:菅原孝標女が自分の人生を自伝的に綴った回想録。
・『小右記』:藤原実資の日記。(漢文)
・『御堂関白記』:藤原道長の日記。

<歴史書等>

・『日本三大実録』(901年完成)
・『倭名類聚抄』

<建築>

・醍醐寺五重塔:951年(天暦5)建立
・法成寺無量寿院:1020年(寛仁4)に藤原道長が建立。現存せず。
・平等院鳳凰堂:1053年(天喜元)に藤原頼通が建立。
・法界寺阿弥陀堂:1050年(永承5)頃、日野資業が自分の別荘を寺にしたもの。承久の乱で焼失し、再建。

<彫刻>

・平等院鳳凰堂阿弥陀如来像:定朝作で唯一現存する作品
・法界寺阿弥陀如来像
・平等院鳳凰堂雲中供養菩薩像

<絵画>

・高野山:涅槃図(1086年)
・高野山:聖衆来迎図
・東京国立博物館:普賢菩薩像
・平等院鳳凰堂扉絵(1053年前後)
・京都国立博物館:山水屏風

<書道>

小野道風・藤原佐理・藤原行成が三蹟と呼ばれた。11世紀にはかな書道の古典とされる高野切が制作され、12世紀まで多様なかなの書風が展開した。
・『屏風土代』:小野道風の書
・『離洛帖』:藤原佐理の書
・『白氏詩巻』:藤原行成の書