このあいだの21日に母方のおじいさんがなくなりました。


今までおじいさんにしてもらったことを思い出して悲しくなった。


おじいさんは僕に自転車の乗り方を教えてくれたなあとか。


一日中庭で教えてくれました。

僕は転びまくって痛かったからもうやめたかったんだけど、

おじいさんが辛抱強く教えてくれるもんだから

頑張って練習しました。



その土地のならわしで、

お通夜・お葬式は全て家の中で、祭壇も近所の人が全て用意して組み立ててくれる、

というものでした。

これまでにはこんなに派手な葬式を経験したことはない。


飾りつけも派手なのもあるし、

なんといっても

普通、葬儀屋にまかせるところを全部自分たちでやっちゃうもんだから

とにかく忙しい、騒がしい。

みんな、おじいさんが亡くなって暗い気持ちになるのを避けるかのように

たくさん動いていた。


僕の感覚で言ったら

普通のお祝い事の祭事となんら変わらない。


あんなに手厚く葬ってもらえることを、その「しま」の人達は知っていて、

自分たちも「しま」の人間が亡くなったら手厚く葬る。

へんな話だけど、人間、いつか死ぬときが来たら

そういう地域のほうが安心して死ねるんじゃないかなと思った。



出棺のときの棺を誰が持つのか、

棺の中に何を入れるのか、

写真は白黒なのか、カラーなのか、

火葬場に行くときに茶碗を割るのか割らないのか、

誰からの花をどの位置に置くのか、

焼香は何回やるのか、

清め塩をかけるのかかけないのか、

男が右なのか左なのか、女が右なのか左なのか、

亡くなった人のことを何と呼ぶのか、

お骨をどのように分けるのか、、、、


生きている人にとっても、なくなったおじいさんにとっても

大切な意味づけだと思うものがたくさんあった。


こういうときはこういう「意味」をきちんと丁寧に付け加えてくれないと、

「なんだよ」ということになりそう。


身内の人がこういう意味を大切にするのは当然だけど、

「しま」の人、葬儀屋の人、みんなが大事にしてくれていたのを見ると

素晴らしい葬式だったなあと思った。