なんとなくふと頭をよぎったのでアウトプットしてみます。
生まれ変わりがあるなら、今の世は楽に生きても良いのでは・・・
でも、その後の人生が苦しくなるなら程々に頑張ったほうが良いのでは・・・
?でも今生きていることに意味や理由があるならそれをしないと行けないのでは・・・
で、結局色々模索するけど何も出来ずこの一生を終える。
それが今生の意味なんだったら良いがやり逃したものがあるなら悔やまれる・・・
なら、結局やったほうがオトクなのです・・・
嫌損得で考えるのはどうかと・・・
愛に偏りすぎると色んな意味で重くなるし
無関心に偏りすぎると何もなくなってしまうし
ならやはり中庸的な状態が一番ベストなのでは・・・と思う。
まあ、いろんな人が言っているから今更なんだけど。
では、究極的な中庸?とは(中庸なのに究極的って(==))
なんだろうね・・・
chatGPTに聞いてみた
「なんに対しても究極な中庸とは何?」
一回目
『究極の中庸とは、あらゆる対立や極端な考え方に対して、中間のバランスを保つことを指します。中庸は、二つの極端な立場の中間点にあるとされる理念であり、極端な一方に偏ることなく、適度な折衷や調和を追求する姿勢を示します。
究極の中庸は、どんな議論や対立の場面でも、極端な意見や行動に対して中立的な立場を取り、公正さや客観性を重んじます。中庸の立場は、過度な偏りや極端な行動に陥ることなく、バランスを保ちながら物事を判断し、適切な対応や解決策を見つけようとする姿勢を持つことを意味します。
中庸の考え方は、古代中国の哲学者である孔子や荀子が提唱した「中庸」という思想に由来しています。彼らは、人間の行動や社会の秩序を維持するために、極端な過ちを避け、中道を求めることの重要性を説いていました。
究極の中庸の追求は、個々の状況や価値観に応じて異なる解釈がされることもあります。しかし、中庸の理念は、極端な対立や葛藤においても、相互理解や調和を促進する役割を果たすことが期待されます。』
二回目
『中庸は、古代中国の哲学者である孔子が提唱した思想です。中庸の考え方は、倫理と行動において極端な過ぎることを避け、バランスと調和を重視するというものです。究極な中庸とは、あらゆる面において極端な二極化や極端な行動を避け、適度な折衷や調和を追求することを意味します。
中庸の考え方では、人間はあらゆる事柄において過度に偏ったり極端な行動を取ることは避けるべきだとされます。たとえば、勇気と臆病の中間にある適度な勇気を持つことや、寛大さと厳格さのバランスを保つことが重要とされます。また、人間関係や社会の中でも、対立や紛争を避け、調和と共存を追求する姿勢が求められます。
究極な中庸を追求することは、人々が極端な考え方や行動に陥ることを避け、より平和で調和のとれた社会を築くために役立ちます。中庸は、個人の心身の調和や社会の安定に寄与するとされ、古代中国だけでなく、現代の思想家や指導者たちにも影響を与えています。』
ということです。
なんとなく、中間により若干プラスのイメージ側によっている内容になっているように思うので、いきなりどちらかに振ってしまうと反動があるのかもね。
こんな感じで徐々に上がりつつある一定の方向に振れている。それがついに動かなくなると次の流れを生む?
だから今、最後の微調整で隠している事柄が見え隠れしてきているのでは・・・
とちょっと考えてしまいました。
では、今日はここまで。