タイトルどおり。
ちょっと日をおいちゃったために内容忘れた。
世の中には、自分の思いや力なんぞでは到底どうにかできるものではない決まりというのがいくつかある。
例えばそれは人の寿命であったり、天気の事であったり、もしくは。
性別の事であったり。
あぁやっぱり。
16の春、年の始めに行われた健康診断の結果を受け取り、最初に持った感想はそれだった。
自分の名前と、そこに連なる性別、年齢、それと健康かどうかの診断結果の一番した、一番重要と示すように赤字で書かれた「鳴狐様。貴方は Ω性 です。抑制剤の処方やΩ性についての詳しい説明を行うため、──月──日迄に病院までお越しください。」の文字。
周囲のクラスメイトがβだのなんだのと喜んでる声を遠くに聞きながら、ほんの少しだけ感じた劣等感にマスクの内で密かに唇を噛む。
しかし、そんなことをしてもどうにもならないと思い直してすぐさま唇を解放すると、まだ噛み後の残るそれを舐めながら診断結果を無造作に鞄に突っ込んだ。
適当に入れたそれをはみ出したりしないよう出来るだけ奥の方にさらに突っ込みながら、考えるのはこれからのことだ。
前々から定期的に感じていた怠さ─思えばきっとあれは性に目覚めていないながらも、オメガとしてヒートに似たようなものを起こしていたのだろう─のお陰で、自分がオメガ性であることに対するショックはあまりなかった。
それよりも、この世の中であまりにも社会的地位が低すぎるこの性別でどうやって生きていくべきか。
ホームルームを告げる先生の声を聞き流しながらその策を練っていた鳴狐は、玉藻御前という狐のことを思い出したのであった。
一説によれば国を跨いで何度も傾国を繰り返していたとも言うその狐を思い出しつつ、なるほど力のあるものに取り入るのは妙案だと鳴狐は一人勝手に頷く。
傾けさえしなければ良いのだ。うまく取り入り、傾けず、寧ろ相手を更に上げるように出来れば上々。
いくら地位の低いオメガと言えど力のあるアルファに取り入れば、誰も手は出せまい。もちろん、同じアルファで、更に取り入った相手よりも権力のある者でない限りは。
自分の人見知りや会話の苦手さを考えるとなかなか難しそうな案ではあるが、しかしそれでもこれ以上無いほどに妙案だと鳴狐は考える。
ではどんな相手に取り入れば問題なさそうか。そう考えて、鳴狐は近所の狐を思い浮かべた。
「……なんじゃ、また遊びに来たのか……?」
口調では面倒くさそうにしているものの、隠そうともしない嬉しそうな声音と笑顔で出迎えてくれた上背のある男に、鳴狐はこくりと頷いて見せた。
ついでに、「……話したいことが、あって。」と言えば、相手の笑顔が更に華やぐ。
なるほどこの人の家にちょくちょく女性が押し掛けてきているのはこの笑顔のせいもあるのか。そんな風に勝手に納得しながらにこやかに門を開けている相手の脇をすり抜け、勝手知ったる他人の我が家と以前もらった合鍵を利用させてもらい玄関の戸を開けた。
「これ、勝手に入っていくでない鳴狐。私の茶は濃いめでな。」
そんな鳴狐の後をのんびりと追いつつ、咎めるかと思えば茶の要求をしてきた相手は名前を三条小狐丸と言う。
テレビや新聞雑誌の広告からラジオ等々1日の内でその名を聞かぬことはないと言うほどに大きく強く、様々な方面に手を広げている天下の三条コーポレーションの広告塔兼重鎮の一人であるこの男は鳴狐の幼友達の一人であり、その手にある権力の強さゆえに鳴狐が取り入ろうと─番になろうと─考えた人物であった。
既に居間でのんびりとしている小狐丸のもとへと盆にのせた茶を持っていきながら、さてどの様にして玉藻御前になろうかと鳴狐は考える。利用できるものは何でも利用せねば。そうしなくては、オメガは生きていけない社会なのだ。
「おまたせ」
小狐丸の腰かけるすぐそばにある小さな卓袱台にことりと盆を置き、鞄を隣に置いて胡座をかいて頭をそれに預けると、対面に座っていた小狐丸が喉をならして笑うのが聞こえた。
それを視線だけで伺うと、何やら楽しげな小狐丸は庭を眺めながら湯飲みを傾ける。
いつの間にか覚えさせられた茶の入れ方は今回も彼の味覚を満足させられたようで、その喉仏が上下するのをただ眺めていると不意に視線を庭から外した小狐丸と目があった。
「それで?私に話があるのではなかったのか?」
その言葉を聞いて、思わず小さく声を漏らす。
「あっ」という小さかったはずの声は、二人しかいない和室に思いの外大きく響き、自分が何をしにここに来たのかを本気で忘れかけていたことを強調するように聞こえた。
そして、こちらがすっかりその事など忘れて普段通りに寛ぎ始めていたのを教えてくれた相手と言えば、鳴狐の反応が面白かったらしく湯飲みを片手に顔を押さえて笑いをこらえているらしい。
その事に鳴狐がマスクの下で唇を尖らせると、何故かその事が相手に伝わったらしく、小狐丸が湯飲みを置いた手で頭をわしわしと撫でてきた。
「ふふっ、すまんすまん、そう口を尖らせるでない。門からここまで来る間に忘れていたのはお主じゃろう?」
少し笑いを含んだ声で、頭を撫でられるついでにマスク越しにとがった唇をむにと押されて、鳴狐の中の拗ねた気持ちがしおしおと萎んでいくのを自覚する。
いつの間にかこの人にあしらわれるのも慣れっこになってしまったと、若干ずれたことを考えながらも、鳴狐は唇を押されたときに感じた甘やかな香りに「小狐丸は本当にアルファなんだ」と漠然と理解した。
アルファやベータ、そしてオメガといった二つ目の性別に目覚める頃、人は他人のそういった性別を本能で把握することができるようになる。
そんなことをいっていたのは誰だったか。保険の先生だったかもしれない。
その言葉を実体験としてようやく理解しながら、鳴狐は僅かにほくそ笑んだ。
アルファとオメガには運命の番という絶対的な相性の良さをもつ相手が存在するらしいが、そんなものはどうでも良いのだ。
そもそもその絶対的な番に一生の内で出会える確率等ほぼ無いに等しく、この世のほとんどのアルファとオメガはただ相性の良かった相手と2度と解けぬパートナー関係を結んでいると聞く。
だから、はなから運命の番とやらには目を向けていない鳴狐にとって、この小狐丸という男がアルファであるということは彼に番として取り入ろうとしているだけにそれだけで非常に価値のある情報であった。
幸いこの男には現在パートナーはおらず、独身も寂しいものだとぼやいていたのを鳴狐は知っている。
「それで?その話というのはなんだ。鞄をもつところを見るに、学校から直接来たのであろう?一番に頼ってくれたのは嬉しいが、いってくれねばわからぬぞ」
注ぐように鳴狐に言葉をかけながら、身を寄せてきた小狐丸は小さな声でも届くよう自然に身を寄せると、ついでとばかりに卓袱台に伏せる鳴狐の項に鼻をよせた。
そして鼻先で鳴狐の項をくすぐりながら言うのだ。
「……しかし、やはりよい香りの香水じゃな……私好みで、かつ趣味もよい。」
もちろん鳴狐は校則や自身の好みの関係から香水などはつけていない。だというのに小狐丸は前々から鳴狐の側による度に、鳴狐の纏うらしい香りを誉めそやすのだ。
今まで意味もわからず受け取っていたこの謎の賛辞も、今なら確りと意味を理解して受けとることができる。
つまりは、鳴狐の纏うΩとしてのホルモンが小狐丸の好みに合致していたのだろう。しかもありがたいことに番として取り入りたい鳴狐にはかなり有利な方向に。
目の前の可愛い子狐の項に然り気無くを装いつつ鼻先を埋める。いつかは番として手中に納める予定の子狐に普段のように香水─本当は香水ではなく、この子の纏うΩとしての香りだ─を誉めそやすと、不意に鳴狐の体温が遠退いた。
その事に内心急くあまりに体を近付け過ぎて不快にさせたかと思い、謝ろうと開きかけた口はしかし、面を上げた鳴狐の首が横に降られたことでまっすぐに閉じられた。
そして、次に鳴狐から告げられた言葉で今度はポカリと間抜けに口を開くことになる。
「……香水……つけて、ないよ。」
先程とは変わらぬ胡座をかいた姿勢のまま、しかし私とは反対側の、庭の方をついと向いてしまった鳴狐は、ポツリとそう口にする。
そして私のものとは違う美しさの銀髪から覗く可愛らしい耳を真っ赤に染め上げながら、ときどき私のことをちらりとうかがうようにして鳴狐はまた口を開く。
「…………今日、ね。……健康診断の……結果が、届いて…………それで、俺、オメガだって。」
今にも消えそうな、恥ずかしくてたまらないと言わんばかりの声音と、今までに見ることのなかった見事な迄に染まった赤い顔。
今日まで地味に蒔き続けた種がようやく種子を芽吹かせ、あの初に過ぎる鳴狐が私を雄として認識したと確信を得るにふさわしすぎるその反応に、小狐丸は内心にたりと笑みながらも、表面は間抜けな男を演じるためにポカリと口を開けた。
「……オメガ……?お前が、か?本当に?」
そうして尋ねれば、マスクから覗く顔をわずかに赤くしたままの鳴狐がむっとしながらこちらを振り向き、そして卓袱台の下にある鞄を取り出すとそれをぐいとこちらに押し付けてきた。
それを胴で受け取りながら、怪訝な顔を作り鳴狐に促されるままに鞄を開く。
するとなかなか整理されていて見ていて気持ちのよい鞄の中に、ひとつだけ不格好に収まる紙を見つける。
若干シワになり丸まったそれを引き出し開いてみると、なるほどどうやらこれがその診断結果だったようで、確かにその紙には鳴狐がΩ性であると赤字でかいてあった。
まぁ、小狐丸はとうの昔から知っていたことではあったが。
それを見て小さく本当にオメガなのかと言えば、鳴狐がことりとまた頭を卓袱台に預ける。
それをちらりと見て小狐丸は視線を鳴狐から一度そらし、診断結果の紙を丁寧にたたみ鞄の中に戻してから、軽く頬をかいた。
「……いや、その……今まですまなかったな。てっきり主の香の香りかとばかり思っていた……」
そうして少々抜けたところのある小狐丸を演じて見せれば、鳴狐は眉を下げ頬を赤くしながらもわずかに微笑んだ。
「……大丈夫。…………はっきりわかったのは、今日だし……恥ずかしいけど、平気。」
少しは考えていたいやがられる可能性、それを真っ向から否定されて安堵すると、突然ぼおんという低い音が部屋に響き渡った。
ひとつ二つとなり続けたそれが、六つ鳴って止まったところで、鳴狐がはっと身を起こす。
六時を知らせる時計のおとに、小狐丸がもうそんな時間かと本心からわずかに顔を曇らせるといつのまにか茶をのみほし、己の鞄を背負った鳴狐がクスリと笑ったのを察した。
そして、立ち上がりながらこちらの頭にてを伸ばしわざとらしく髪を乱すように頭を撫でてくる。
少しだけ年上ぶって遊んでいるような、けれどもちょっと子供らしくもある、小狐丸が一番好きなその仕種に胸をときめかせている間に黒い手袋におおわれた指は離れていってしまった。
「また、来るから。」
小さく呟いたあと、同じように小さくふられた手にこちらも手を振り替えしながら部屋を出ていく様を見つめ、そして玄関を閉めていったのを見送ってはぁと大きく息をついた。
今日は食えない弟が遊びに来ると聞いていたから、鳴狐と八合わせるのではないかとひやひやしていたが、どうにかそれは逃れられた。それに、きっかけはまぁきっかけだったがあの鳴狐がようやく私を雄として認識した。それがうれしくてにやけていると、鳴狐の来る間は控えさせていた部下が帰ってきていたらしく、和室の戸を開けた瞬間に怪訝な顔をされた。
いくら親しい鶴と言えど仮にも上司にそれはなかろうて。
降りしきる雨の中、小狐丸と実家のちょうど間にある図書館の玄関先で、鳴狐は膝を抱えてしゃがみこんでいた。
小狐丸とうまいこと会話をし、ちゃんとこちらに心があることを確認できて今日はなかなか上々ではないかと思いつつ家に帰ろうとした矢先、ポツリと滴が降ってきたかと思えばそれはたちまち大粒の雨となり、鳴狐の家に帰る道を閉ざしてしまったのである。
なんとか中間の図書館にまでたどり着きはしたが、しかしどんどん宵闇が迫るこの時間、雨によって視界を遮られてしまえば安全に帰る道などなく。
さらに自分がオメガとなればそれは尚更で、だったら無理に動くこともせず、少しだけ雨がやむのを待ってみて、無理そうなら迎えを頼もうと思ったのがかれこれ三十分ほど前だったか。
やみそうになるどころかどんどん強くなる雨足に、これでは体が冷えてしまうと思ったのも束の間。ぞくりと悪寒が背を駆け抜け、あぁこれは間違いなく風邪を引くなと鳴狐はため息をついたのだった。
こんなことなら、もっと早くに迎えを頼めばよかったかもしれない。両親は残念なことに今は仕事の時間で無理だが、例えば甥であるあの青年とかに。
彼は大学生で少々忙しい身の上ではあるが、同じ家にすむ家族同士なので多少は互いに甘えるくらい許されるだろう。
許されるだろうか。少し不安ではあるが、許されると思いたい。幼い弟たちと加えて自分が甘えるとなると、なかなか大変なことになってしまいそうだが。
そんな風に、大分適当に思考をしながら携帯を探していると、不意に目の前に自分のものではない大きな影がうまれた。
それを不振に思いながら鞄を探る手は止めずに上を向くと、宵闇だというのに淡く輝く、それはもう美しい月が鳴狐を照らしていた。
久々に兄と仕事の話もなく茶を飲もうと車を走らせて、何気無く窓の外を眺めていた。
そして雨粒が窓に当たっては尾をひいて流れ落ちていくのを見るうちに、ふとその奥の景色が弟の家に向かう道のそれとは少々違うことに気がつく。
それを怪訝に思って運転手に声をかけたが気の抜けたような返事が帰ってくるばかりで、三日月は「はてこの男はこんなにも無能だっただろうか」と眉を潜めた。
自分の側におくものだ、それなりの教養や有能さを重視していたはずなのだがなぁと己の乗る車を走らせる運転手の変貌ぶりを疑問に思っていると、鈍く滑る音を出しながら車が止まる。
そしてそのまま車外に出ていこうとしている運転手に三日月は内心の不機嫌さを隠すこともせずに声をかけた。
「待て。目的地でもない場所につれてきたと思えば今度はなんだ。置いていくのか?勝手な行動を許可した覚えはないぞ。」
αとしてのオーラを発しつつ言えば、今度はようやくまともに相手に言葉が届いたらしい。
わずかな怯えを見せつつ返事をし、車内にとどまった男がこちらを振り返った際に見せた表情はあきらかに欲情しかけのそれで、それを見た三日月はため息をつきながら眉間のシワを揉みほぐした。
どうやら男自身も知らずの内にどこぞの傍迷惑なΩに当てられていたらしい。
なれば自然の摂理故に仕方がないとは思いつつ、その傍迷惑なΩに俺の部下を惑わせてくれるなとずいぶん身勝手な文句を言いたくもなり大きく息をつきながら外を見る。
閉館後なのだろう、すっかり人気もなく一部の窓から防犯用の灯りが漏れるだけの図書館にいるらしい迷惑なΩに内心毒づくと、ふと玄関先の灯りが異様に明るいことに気がついた。
それを不思議に思ってよくよく目を凝らせば、玄関の灯りが異様に明るいわけではなく、何やら玄関周辺がキラキラと輝いて見えるではないか。
いくら雨が降っていて光があちらこちらに反射しやすいとはいえ、さすがにこの輝き方はなかろうと余計に謎が深まり、ついでに興味もそそられてもっと詳しく見たいと思ったその瞬間。
胸を思いきり殴られたような息苦しさと、脳をやはりこれまた思いきり殴られたような衝撃を覚え、気がつけば片手がドアにのびていた。
目の前にしゃがみこむ少年と視線を交わしながら三日月は「俺はいったい何をしているのだ」と情けなくも自問自答をしていた。
傍迷惑なΩだと先程まで非難していたというのに、そうとは知らずにそのオメガを目にした瞬間、心の底からくらいたいと思ってしまったのだ。しかも、後も先も考えずに雨の中に踏み出しこうして目の前までやって来てしまうしまつ。
ちょっと日をおいちゃったために内容忘れた。
世の中には、自分の思いや力なんぞでは到底どうにかできるものではない決まりというのがいくつかある。
例えばそれは人の寿命であったり、天気の事であったり、もしくは。
性別の事であったり。
あぁやっぱり。
16の春、年の始めに行われた健康診断の結果を受け取り、最初に持った感想はそれだった。
自分の名前と、そこに連なる性別、年齢、それと健康かどうかの診断結果の一番した、一番重要と示すように赤字で書かれた「鳴狐様。貴方は Ω性 です。抑制剤の処方やΩ性についての詳しい説明を行うため、──月──日迄に病院までお越しください。」の文字。
周囲のクラスメイトがβだのなんだのと喜んでる声を遠くに聞きながら、ほんの少しだけ感じた劣等感にマスクの内で密かに唇を噛む。
しかし、そんなことをしてもどうにもならないと思い直してすぐさま唇を解放すると、まだ噛み後の残るそれを舐めながら診断結果を無造作に鞄に突っ込んだ。
適当に入れたそれをはみ出したりしないよう出来るだけ奥の方にさらに突っ込みながら、考えるのはこれからのことだ。
前々から定期的に感じていた怠さ─思えばきっとあれは性に目覚めていないながらも、オメガとしてヒートに似たようなものを起こしていたのだろう─のお陰で、自分がオメガ性であることに対するショックはあまりなかった。
それよりも、この世の中であまりにも社会的地位が低すぎるこの性別でどうやって生きていくべきか。
ホームルームを告げる先生の声を聞き流しながらその策を練っていた鳴狐は、玉藻御前という狐のことを思い出したのであった。
一説によれば国を跨いで何度も傾国を繰り返していたとも言うその狐を思い出しつつ、なるほど力のあるものに取り入るのは妙案だと鳴狐は一人勝手に頷く。
傾けさえしなければ良いのだ。うまく取り入り、傾けず、寧ろ相手を更に上げるように出来れば上々。
いくら地位の低いオメガと言えど力のあるアルファに取り入れば、誰も手は出せまい。もちろん、同じアルファで、更に取り入った相手よりも権力のある者でない限りは。
自分の人見知りや会話の苦手さを考えるとなかなか難しそうな案ではあるが、しかしそれでもこれ以上無いほどに妙案だと鳴狐は考える。
ではどんな相手に取り入れば問題なさそうか。そう考えて、鳴狐は近所の狐を思い浮かべた。
「……なんじゃ、また遊びに来たのか……?」
口調では面倒くさそうにしているものの、隠そうともしない嬉しそうな声音と笑顔で出迎えてくれた上背のある男に、鳴狐はこくりと頷いて見せた。
ついでに、「……話したいことが、あって。」と言えば、相手の笑顔が更に華やぐ。
なるほどこの人の家にちょくちょく女性が押し掛けてきているのはこの笑顔のせいもあるのか。そんな風に勝手に納得しながらにこやかに門を開けている相手の脇をすり抜け、勝手知ったる他人の我が家と以前もらった合鍵を利用させてもらい玄関の戸を開けた。
「これ、勝手に入っていくでない鳴狐。私の茶は濃いめでな。」
そんな鳴狐の後をのんびりと追いつつ、咎めるかと思えば茶の要求をしてきた相手は名前を三条小狐丸と言う。
テレビや新聞雑誌の広告からラジオ等々1日の内でその名を聞かぬことはないと言うほどに大きく強く、様々な方面に手を広げている天下の三条コーポレーションの広告塔兼重鎮の一人であるこの男は鳴狐の幼友達の一人であり、その手にある権力の強さゆえに鳴狐が取り入ろうと─番になろうと─考えた人物であった。
既に居間でのんびりとしている小狐丸のもとへと盆にのせた茶を持っていきながら、さてどの様にして玉藻御前になろうかと鳴狐は考える。利用できるものは何でも利用せねば。そうしなくては、オメガは生きていけない社会なのだ。
「おまたせ」
小狐丸の腰かけるすぐそばにある小さな卓袱台にことりと盆を置き、鞄を隣に置いて胡座をかいて頭をそれに預けると、対面に座っていた小狐丸が喉をならして笑うのが聞こえた。
それを視線だけで伺うと、何やら楽しげな小狐丸は庭を眺めながら湯飲みを傾ける。
いつの間にか覚えさせられた茶の入れ方は今回も彼の味覚を満足させられたようで、その喉仏が上下するのをただ眺めていると不意に視線を庭から外した小狐丸と目があった。
「それで?私に話があるのではなかったのか?」
その言葉を聞いて、思わず小さく声を漏らす。
「あっ」という小さかったはずの声は、二人しかいない和室に思いの外大きく響き、自分が何をしにここに来たのかを本気で忘れかけていたことを強調するように聞こえた。
そして、こちらがすっかりその事など忘れて普段通りに寛ぎ始めていたのを教えてくれた相手と言えば、鳴狐の反応が面白かったらしく湯飲みを片手に顔を押さえて笑いをこらえているらしい。
その事に鳴狐がマスクの下で唇を尖らせると、何故かその事が相手に伝わったらしく、小狐丸が湯飲みを置いた手で頭をわしわしと撫でてきた。
「ふふっ、すまんすまん、そう口を尖らせるでない。門からここまで来る間に忘れていたのはお主じゃろう?」
少し笑いを含んだ声で、頭を撫でられるついでにマスク越しにとがった唇をむにと押されて、鳴狐の中の拗ねた気持ちがしおしおと萎んでいくのを自覚する。
いつの間にかこの人にあしらわれるのも慣れっこになってしまったと、若干ずれたことを考えながらも、鳴狐は唇を押されたときに感じた甘やかな香りに「小狐丸は本当にアルファなんだ」と漠然と理解した。
アルファやベータ、そしてオメガといった二つ目の性別に目覚める頃、人は他人のそういった性別を本能で把握することができるようになる。
そんなことをいっていたのは誰だったか。保険の先生だったかもしれない。
その言葉を実体験としてようやく理解しながら、鳴狐は僅かにほくそ笑んだ。
アルファとオメガには運命の番という絶対的な相性の良さをもつ相手が存在するらしいが、そんなものはどうでも良いのだ。
そもそもその絶対的な番に一生の内で出会える確率等ほぼ無いに等しく、この世のほとんどのアルファとオメガはただ相性の良かった相手と2度と解けぬパートナー関係を結んでいると聞く。
だから、はなから運命の番とやらには目を向けていない鳴狐にとって、この小狐丸という男がアルファであるということは彼に番として取り入ろうとしているだけにそれだけで非常に価値のある情報であった。
幸いこの男には現在パートナーはおらず、独身も寂しいものだとぼやいていたのを鳴狐は知っている。
「それで?その話というのはなんだ。鞄をもつところを見るに、学校から直接来たのであろう?一番に頼ってくれたのは嬉しいが、いってくれねばわからぬぞ」
注ぐように鳴狐に言葉をかけながら、身を寄せてきた小狐丸は小さな声でも届くよう自然に身を寄せると、ついでとばかりに卓袱台に伏せる鳴狐の項に鼻をよせた。
そして鼻先で鳴狐の項をくすぐりながら言うのだ。
「……しかし、やはりよい香りの香水じゃな……私好みで、かつ趣味もよい。」
もちろん鳴狐は校則や自身の好みの関係から香水などはつけていない。だというのに小狐丸は前々から鳴狐の側による度に、鳴狐の纏うらしい香りを誉めそやすのだ。
今まで意味もわからず受け取っていたこの謎の賛辞も、今なら確りと意味を理解して受けとることができる。
つまりは、鳴狐の纏うΩとしてのホルモンが小狐丸の好みに合致していたのだろう。しかもありがたいことに番として取り入りたい鳴狐にはかなり有利な方向に。
目の前の可愛い子狐の項に然り気無くを装いつつ鼻先を埋める。いつかは番として手中に納める予定の子狐に普段のように香水─本当は香水ではなく、この子の纏うΩとしての香りだ─を誉めそやすと、不意に鳴狐の体温が遠退いた。
その事に内心急くあまりに体を近付け過ぎて不快にさせたかと思い、謝ろうと開きかけた口はしかし、面を上げた鳴狐の首が横に降られたことでまっすぐに閉じられた。
そして、次に鳴狐から告げられた言葉で今度はポカリと間抜けに口を開くことになる。
「……香水……つけて、ないよ。」
先程とは変わらぬ胡座をかいた姿勢のまま、しかし私とは反対側の、庭の方をついと向いてしまった鳴狐は、ポツリとそう口にする。
そして私のものとは違う美しさの銀髪から覗く可愛らしい耳を真っ赤に染め上げながら、ときどき私のことをちらりとうかがうようにして鳴狐はまた口を開く。
「…………今日、ね。……健康診断の……結果が、届いて…………それで、俺、オメガだって。」
今にも消えそうな、恥ずかしくてたまらないと言わんばかりの声音と、今までに見ることのなかった見事な迄に染まった赤い顔。
今日まで地味に蒔き続けた種がようやく種子を芽吹かせ、あの初に過ぎる鳴狐が私を雄として認識したと確信を得るにふさわしすぎるその反応に、小狐丸は内心にたりと笑みながらも、表面は間抜けな男を演じるためにポカリと口を開けた。
「……オメガ……?お前が、か?本当に?」
そうして尋ねれば、マスクから覗く顔をわずかに赤くしたままの鳴狐がむっとしながらこちらを振り向き、そして卓袱台の下にある鞄を取り出すとそれをぐいとこちらに押し付けてきた。
それを胴で受け取りながら、怪訝な顔を作り鳴狐に促されるままに鞄を開く。
するとなかなか整理されていて見ていて気持ちのよい鞄の中に、ひとつだけ不格好に収まる紙を見つける。
若干シワになり丸まったそれを引き出し開いてみると、なるほどどうやらこれがその診断結果だったようで、確かにその紙には鳴狐がΩ性であると赤字でかいてあった。
まぁ、小狐丸はとうの昔から知っていたことではあったが。
それを見て小さく本当にオメガなのかと言えば、鳴狐がことりとまた頭を卓袱台に預ける。
それをちらりと見て小狐丸は視線を鳴狐から一度そらし、診断結果の紙を丁寧にたたみ鞄の中に戻してから、軽く頬をかいた。
「……いや、その……今まですまなかったな。てっきり主の香の香りかとばかり思っていた……」
そうして少々抜けたところのある小狐丸を演じて見せれば、鳴狐は眉を下げ頬を赤くしながらもわずかに微笑んだ。
「……大丈夫。…………はっきりわかったのは、今日だし……恥ずかしいけど、平気。」
少しは考えていたいやがられる可能性、それを真っ向から否定されて安堵すると、突然ぼおんという低い音が部屋に響き渡った。
ひとつ二つとなり続けたそれが、六つ鳴って止まったところで、鳴狐がはっと身を起こす。
六時を知らせる時計のおとに、小狐丸がもうそんな時間かと本心からわずかに顔を曇らせるといつのまにか茶をのみほし、己の鞄を背負った鳴狐がクスリと笑ったのを察した。
そして、立ち上がりながらこちらの頭にてを伸ばしわざとらしく髪を乱すように頭を撫でてくる。
少しだけ年上ぶって遊んでいるような、けれどもちょっと子供らしくもある、小狐丸が一番好きなその仕種に胸をときめかせている間に黒い手袋におおわれた指は離れていってしまった。
「また、来るから。」
小さく呟いたあと、同じように小さくふられた手にこちらも手を振り替えしながら部屋を出ていく様を見つめ、そして玄関を閉めていったのを見送ってはぁと大きく息をついた。
今日は食えない弟が遊びに来ると聞いていたから、鳴狐と八合わせるのではないかとひやひやしていたが、どうにかそれは逃れられた。それに、きっかけはまぁきっかけだったがあの鳴狐がようやく私を雄として認識した。それがうれしくてにやけていると、鳴狐の来る間は控えさせていた部下が帰ってきていたらしく、和室の戸を開けた瞬間に怪訝な顔をされた。
いくら親しい鶴と言えど仮にも上司にそれはなかろうて。
降りしきる雨の中、小狐丸と実家のちょうど間にある図書館の玄関先で、鳴狐は膝を抱えてしゃがみこんでいた。
小狐丸とうまいこと会話をし、ちゃんとこちらに心があることを確認できて今日はなかなか上々ではないかと思いつつ家に帰ろうとした矢先、ポツリと滴が降ってきたかと思えばそれはたちまち大粒の雨となり、鳴狐の家に帰る道を閉ざしてしまったのである。
なんとか中間の図書館にまでたどり着きはしたが、しかしどんどん宵闇が迫るこの時間、雨によって視界を遮られてしまえば安全に帰る道などなく。
さらに自分がオメガとなればそれは尚更で、だったら無理に動くこともせず、少しだけ雨がやむのを待ってみて、無理そうなら迎えを頼もうと思ったのがかれこれ三十分ほど前だったか。
やみそうになるどころかどんどん強くなる雨足に、これでは体が冷えてしまうと思ったのも束の間。ぞくりと悪寒が背を駆け抜け、あぁこれは間違いなく風邪を引くなと鳴狐はため息をついたのだった。
こんなことなら、もっと早くに迎えを頼めばよかったかもしれない。両親は残念なことに今は仕事の時間で無理だが、例えば甥であるあの青年とかに。
彼は大学生で少々忙しい身の上ではあるが、同じ家にすむ家族同士なので多少は互いに甘えるくらい許されるだろう。
許されるだろうか。少し不安ではあるが、許されると思いたい。幼い弟たちと加えて自分が甘えるとなると、なかなか大変なことになってしまいそうだが。
そんな風に、大分適当に思考をしながら携帯を探していると、不意に目の前に自分のものではない大きな影がうまれた。
それを不振に思いながら鞄を探る手は止めずに上を向くと、宵闇だというのに淡く輝く、それはもう美しい月が鳴狐を照らしていた。
久々に兄と仕事の話もなく茶を飲もうと車を走らせて、何気無く窓の外を眺めていた。
そして雨粒が窓に当たっては尾をひいて流れ落ちていくのを見るうちに、ふとその奥の景色が弟の家に向かう道のそれとは少々違うことに気がつく。
それを怪訝に思って運転手に声をかけたが気の抜けたような返事が帰ってくるばかりで、三日月は「はてこの男はこんなにも無能だっただろうか」と眉を潜めた。
自分の側におくものだ、それなりの教養や有能さを重視していたはずなのだがなぁと己の乗る車を走らせる運転手の変貌ぶりを疑問に思っていると、鈍く滑る音を出しながら車が止まる。
そしてそのまま車外に出ていこうとしている運転手に三日月は内心の不機嫌さを隠すこともせずに声をかけた。
「待て。目的地でもない場所につれてきたと思えば今度はなんだ。置いていくのか?勝手な行動を許可した覚えはないぞ。」
αとしてのオーラを発しつつ言えば、今度はようやくまともに相手に言葉が届いたらしい。
わずかな怯えを見せつつ返事をし、車内にとどまった男がこちらを振り返った際に見せた表情はあきらかに欲情しかけのそれで、それを見た三日月はため息をつきながら眉間のシワを揉みほぐした。
どうやら男自身も知らずの内にどこぞの傍迷惑なΩに当てられていたらしい。
なれば自然の摂理故に仕方がないとは思いつつ、その傍迷惑なΩに俺の部下を惑わせてくれるなとずいぶん身勝手な文句を言いたくもなり大きく息をつきながら外を見る。
閉館後なのだろう、すっかり人気もなく一部の窓から防犯用の灯りが漏れるだけの図書館にいるらしい迷惑なΩに内心毒づくと、ふと玄関先の灯りが異様に明るいことに気がついた。
それを不思議に思ってよくよく目を凝らせば、玄関の灯りが異様に明るいわけではなく、何やら玄関周辺がキラキラと輝いて見えるではないか。
いくら雨が降っていて光があちらこちらに反射しやすいとはいえ、さすがにこの輝き方はなかろうと余計に謎が深まり、ついでに興味もそそられてもっと詳しく見たいと思ったその瞬間。
胸を思いきり殴られたような息苦しさと、脳をやはりこれまた思いきり殴られたような衝撃を覚え、気がつけば片手がドアにのびていた。
目の前にしゃがみこむ少年と視線を交わしながら三日月は「俺はいったい何をしているのだ」と情けなくも自問自答をしていた。
傍迷惑なΩだと先程まで非難していたというのに、そうとは知らずにそのオメガを目にした瞬間、心の底からくらいたいと思ってしまったのだ。しかも、後も先も考えずに雨の中に踏み出しこうして目の前までやって来てしまうしまつ。
