アベプラ挨拶の強要はあり?なし?を観て | ガステ美智子の愛がミチル話

ABEMA Prime アベプラの挨拶強要は、あり?なし? という動画を観ました。

 

 

 

 

 

挨拶が苦手な人もいるから、挨拶をするかしないかを選べるようにするべきだという提案から始まる討論。

 

ここから感じたことは、

 

・そもそも選択は無理

・多様性の限界

 

ということです。

 

まずは、「そもそも選択は無理」ということについて、お話ししましょう。

 

すれ違った相手が、目の前にいる相手が、

挨拶をしたい人か、したくない人か

は、どのようにして知りますか?

 

ふだんからよく知っている仲なら別ですが、そうでない限りは、おでこに書いてでもいない限り判断できません。

そうなると、挨拶をしたくない人を尊重すべき方法はただ一つ。

誰にも挨拶をしないこと、です。

しかしそうなると、次に出てくる問題は?

挨拶をしたい人も、挨拶ができない。

 

相手が挨拶をしたいかしたくないかわからないから、挨拶をしない。

結果、挨拶は誰にもしない。

これでは、「する」か「しない」かの選択はできていません。

必然的に、「しない」一択。

 

挨拶とは、するかしないかを選ぶことができないものです。


 

次に、「多様性の限界」についてお話しします。

 

多様性を認める目的は、全ての人がより快適な毎日を送れるようにすることです。

しかし皮肉なことに、日々は「選択でき過ぎる事」によって、快適ではなく苦痛になっていきます。

 

フランスは、日本よりもずっとこまめに多くの挨拶を行います。

学校の送迎ですれ違う保護者たち、病院の待合室に入った時に既に待っている人たち、スーパーのレジ、レストランやショップ店員、スーパーの売り場で人とすれ違う時。。。

こんにちは、ありがとう、失礼、ごめんなさい、外に出ていると声を出さずに過ごすことはありません。

 

日本よりも自由が多いだろうと思われるフランスで、どうして誰もがこれだけの挨拶を行うのか。それは、「選択しないから」。

これだけの挨拶を一日中行うことに、誰も疑問を投げかけません。

なぜ、したくないと思わないのか?

それは、したくないと思わない方が楽だから。

 

既に決まっていて、それを疑問に思うことなくやっている方がシンプルで楽です。

そんなことを考えているよりも、他の楽しいことをしようよ!というところでしょう。

 

肌、髪、目の色が違う、あらゆる文化の混ざったフランスの、多様性による快適な生き方。

多様性とは、ある程度のルールの上に成り立たなければ、苦痛の始まり。

追求し過ぎないことで、ある程度の快適さが保たれるのだなと感じました。