2
暑い。本当に暑い。この暑さはどうにかならいのか。長引くと思われた風邪も思いの外はやく治り、やっと気持ちよく過ごせると思ったらこの暑さ。結局、力尽きたように、ソファーの上で倒れているだけだった。
もちろん、家には僕以外誰もいない。全開にした窓からは、蝉の鳴く声にまぎれて、どこかの家の子供の泣き声が入りこんでくる。
ふと、つけていたテレビに目をやると、先ほどまで熱い闘いをくりひろげてきた高校球児たちは、試合はまだ終わっていないというのに、動きをとめ、帽子を胸に抱えていた。
ほどなくサイレンが鳴り響く。ああ、今日は終戦日か、とひとりごちして、夏の暑さのもと、ゆっくりとまぶたをとじていった。
3
トン、トン、トンという規則正しい音に起こされ、僕は目をあけた。まことが料理を作ってくれたのか、と思って体を起こすと、驚いた。「あ、やっと起きましたよ。」と気付いたまことが振り返って声をかけたのは、なんと、僕の、本物の母親だった。
「何馬鹿な顔してんの?」本人は何事もなかったかのように、手を動かす。
「ほら、ちゃっちゃと何か下にはいてきなさい。夏だからってパンツ一枚で寝てるんじゃない、みっともない。まことちゃんもいるんだし」
寝起きのまだはっきりしない頭では、今までのことがすべて夢のように思われた。風邪だけは本当のことで、風邪でうなされただけだ、とも思った。
半ズボンをとりに、部屋のドアを開け、タンスの前に向かう途中に、僕は、机の上の、白い紙に気がついた。手にとると、そこには、彼女の、高峰結愛の確かな存在の証明がなされていた――。
4
こんなふうに、きちんとした手紙を書くのは、初めてだね。ちょっと不思議な感じがする。私たちの間には、知らないうちにコミュニケーションが成り立っていたような気がしていたから、書くつもりはなかったんだけど。
でも、わたしはそろそろいかないといけない。
わたしは、自分が不幸だとは思ってないよ。確かに、世の中、望望したくなるようなことはたくさんある。自分に目や耳がくっついていなければどんなにいいだろうと思ったこともある。
でも、泣きたくなるくらい綺麗なものだって、たくさんこの世にはあった。胸がしめつけられるくらい素晴らしいものをわたしは見てきた。この世界に存在し、少しでもかかわりあいになれたことを感謝したい。わたしをこの世に生み出してくれて、私を愛してくれて、ありがとう。わたしはもういなくなるけど、この世界が好きだよ。どうしようもないくらい、愛してる。だからあなたに、この世界を嫌いになってほしくない。
今ここで、あなたに言いたい。際限なく広がる、この美しい世界の、あなただってその一部なんだから。わたしが心から好きになったものの一つなんだから。
これを最後に書くのはすこし悔しいんだけど、あなたのことを大切にしてくれる人を、ちゃんと、心から、愛してあげて。
じゃあね。
高峰 結愛
5
夕方になって、まことは帰り支度を始めた。
「じゃあ、また、明日ね」という彼女に、
「うん、また、明日」と答えると、嬉しそうに、恥ずかしそうにまつげを伏せた彼女は僕から鞄を受け取り、小さく手を振った。
前にもここで、同じように彼女を見送ったのを覚えている。
僕も、少し成長したのだろうか。あの時ほどは、背中は遠くない。
ただ、そのぶん一時でもこうして離れていくのが前以上に辛く感じられてたまらなかった。
明日会えるというのに胸が痛む。こんなに痛いのはたぶんそのあとに離れ離れになってしまうこと――離れている間のあのせつなさを、どうしても考えずにはいられないからなんだろう。
すっかり見通しのよくなった街路樹の影を踏んで、まことが遠ざかっていく。
僕はそこに立ち、ただじっと見守り続けた。この世で一番愛しい後ろ姿が、角を曲がって見えなくなるまで、まばたきもせずに見守り続けた。
Fin.
暑い。本当に暑い。この暑さはどうにかならいのか。長引くと思われた風邪も思いの外はやく治り、やっと気持ちよく過ごせると思ったらこの暑さ。結局、力尽きたように、ソファーの上で倒れているだけだった。
もちろん、家には僕以外誰もいない。全開にした窓からは、蝉の鳴く声にまぎれて、どこかの家の子供の泣き声が入りこんでくる。
ふと、つけていたテレビに目をやると、先ほどまで熱い闘いをくりひろげてきた高校球児たちは、試合はまだ終わっていないというのに、動きをとめ、帽子を胸に抱えていた。
ほどなくサイレンが鳴り響く。ああ、今日は終戦日か、とひとりごちして、夏の暑さのもと、ゆっくりとまぶたをとじていった。
3
トン、トン、トンという規則正しい音に起こされ、僕は目をあけた。まことが料理を作ってくれたのか、と思って体を起こすと、驚いた。「あ、やっと起きましたよ。」と気付いたまことが振り返って声をかけたのは、なんと、僕の、本物の母親だった。
「何馬鹿な顔してんの?」本人は何事もなかったかのように、手を動かす。
「ほら、ちゃっちゃと何か下にはいてきなさい。夏だからってパンツ一枚で寝てるんじゃない、みっともない。まことちゃんもいるんだし」
寝起きのまだはっきりしない頭では、今までのことがすべて夢のように思われた。風邪だけは本当のことで、風邪でうなされただけだ、とも思った。
半ズボンをとりに、部屋のドアを開け、タンスの前に向かう途中に、僕は、机の上の、白い紙に気がついた。手にとると、そこには、彼女の、高峰結愛の確かな存在の証明がなされていた――。
4
こんなふうに、きちんとした手紙を書くのは、初めてだね。ちょっと不思議な感じがする。私たちの間には、知らないうちにコミュニケーションが成り立っていたような気がしていたから、書くつもりはなかったんだけど。
でも、わたしはそろそろいかないといけない。
わたしは、自分が不幸だとは思ってないよ。確かに、世の中、望望したくなるようなことはたくさんある。自分に目や耳がくっついていなければどんなにいいだろうと思ったこともある。
でも、泣きたくなるくらい綺麗なものだって、たくさんこの世にはあった。胸がしめつけられるくらい素晴らしいものをわたしは見てきた。この世界に存在し、少しでもかかわりあいになれたことを感謝したい。わたしをこの世に生み出してくれて、私を愛してくれて、ありがとう。わたしはもういなくなるけど、この世界が好きだよ。どうしようもないくらい、愛してる。だからあなたに、この世界を嫌いになってほしくない。
今ここで、あなたに言いたい。際限なく広がる、この美しい世界の、あなただってその一部なんだから。わたしが心から好きになったものの一つなんだから。
これを最後に書くのはすこし悔しいんだけど、あなたのことを大切にしてくれる人を、ちゃんと、心から、愛してあげて。
じゃあね。
高峰 結愛
5
夕方になって、まことは帰り支度を始めた。
「じゃあ、また、明日ね」という彼女に、
「うん、また、明日」と答えると、嬉しそうに、恥ずかしそうにまつげを伏せた彼女は僕から鞄を受け取り、小さく手を振った。
前にもここで、同じように彼女を見送ったのを覚えている。
僕も、少し成長したのだろうか。あの時ほどは、背中は遠くない。
ただ、そのぶん一時でもこうして離れていくのが前以上に辛く感じられてたまらなかった。
明日会えるというのに胸が痛む。こんなに痛いのはたぶんそのあとに離れ離れになってしまうこと――離れている間のあのせつなさを、どうしても考えずにはいられないからなんだろう。
すっかり見通しのよくなった街路樹の影を踏んで、まことが遠ざかっていく。
僕はそこに立ち、ただじっと見守り続けた。この世で一番愛しい後ろ姿が、角を曲がって見えなくなるまで、まばたきもせずに見守り続けた。
Fin.