とても大切なことと感じたのでここに記そうと思う。

いつでも見返せるように。

 

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私は今日、たまに訪れるカフェで読書をしていた。

 

そのカフェは近所にあって、

 

知る人ぞ知るカフェ。

 

閑静な住宅街にあり、わざわざ調べて辿り着けるような類いのカフェで

 

知り合いには今迄鉢合わせたことはない。

 

そんな落ち着くカフェでいつものように読書をしていたら

 

「カランコロン」と扉を開く音がして、聞き覚えのある声が耳に入った。

 

顔を上げると、見覚えのある顔だった。

 

私が20代の頃、無我夢中で働いていたベンチャー企業の元社長だった。

 

若い女性連れで入店し、斜め向かいの離れた席に着いた。

 


おそらく社長は私に気付いたのかもしれない。

 

本を読んでいたため感覚的だったが、じっと見られているような視線を感じた。

 

 

 

当時の私は、本当に無我夢中で働いていて、自分の感情が悲鳴を上げていることに気付くことができずにいた。

 

感情を感知するセンサーがぷっつり切れてしまったような、そんな状態だったように思う。

 

私の母からは、あの頃、祖父のお葬式で急遽帰省した時、久しぶりに私の顔を見て、

 

「もうこの子は死ぬんじゃないか。」本気でそう思った、と言われた。

 

どんな表情をしていたのかもう思い出せないけれど、

 

私は死ぬなんてこれっぽっちも考えていなかったし

 

そのときはただただ目の前の仕事に、生きる事に必死だったのだ。

 

そんな様子が、母からしたら、何か緊迫した状態に見えたのだと思う。

 

そんなあの頃のことを振り返って思うのは、

 

それは私にとって色々と大切な氣付きを与えてもらえた経験だったし、

 

その体験がなかったら、後に出逢うことのなかった大切な事があるから、大変に感謝している。

 

自分で決めて選択したことだったし、誰のせいでもない。

 

自分で選んだことだ。

 

 

 

 

カフェで社長を見かけた時、思いがけない事態が起こった。

 

もう自分のなかでは終わったこととして切り替えていたのだが、

 

急に心臓がドクドクし始めた。

 

外側の自分はいつも通り平然とした表情で何ら変わりはないのだが、

 

内側の自分の心臓は大きく音を立てていた。

 

 

「これはまだ何かある。」

 

そう感じた。

 

カフェを出て、帰宅してから

 

”自分の内側が呼びかけていること”

 

そこに耳を澄まそうと思った。

 

 

私は、社長に対して今も「勝手なジャッジ(自己判断)」をしたままだったのだ。

 

この人には思いやりがない、そう勝手な自己判断をしていた。

 

よく考えると大変に失礼なことではあるのだが、

 

当時の自分に起きた記憶が蘇り、それが社長に対するジャッジとなって顕われた。

 

今回は過去の自分にとってインパクトのあった社長と再会したことで、今の状態の自分を観ることができた。

 

日頃の自分に対しても、無意識に相手をジャッジして偏ったラベルを貼ろうとしていないか、

 

自分の価値基準に当てはめようとしていないか、よく意識していこうと思うきっかけになった。

 

 

最後に。

 

ーーー人を愛していないように見える人でも、その人の意識レベルが自分よりも低いとみなす権利は私たちにはありません。

その人は、私たちよりずっと深いレベルの愛に氣付いているかもしれないのです。

人がどのように見えるかというのは、自分のバイブレーションの尺度に他ならないのです。 

 

著:タデウス・ゴラス「なまけ者のさとり方」より ーーーー