garagejyoshoのブログ
十勝ワインの原料である、ぶどうの農園は、私が通っていた高校の毎日のマラソンコースだった。


そもそも北海道の池田町は産業が乏しく、加えて1952年(昭和27年)の十勝沖地震とその後2年連続の凶作が重なって町の財政が破綻状態となった。


町民の暮らしも周辺に比べて貧しく、当時の町長であった丸谷金保が町内に自生している山ブドウをヒントに町営でワインの醸造に乗り出すことになった。


当然のことながらワインの醸造技術を知るものは町内にはおらず、つてを頼って戦後当時のソ連に抑留されワイン農場で働かされていた者を招いたという。


1963年6月に1kLの試験醸造を始めたが、寒冷地に向いた品種のブドウではなかったため冷害でほとんど収穫できず、醸造技術も未熟で品質は安定しなかった。


当然ながら売り物にはならず、加えて本格的なワインがまだ日本で受け入れられなかったことから町内からも町長を批判する声があったという。


しかし、町の職員をドイツに派遣し醸造技術を習得させ、耐寒性の高い品種のブドウに切り替えるなどして1975年になってようやく商品化に成功した。



以降は生産量や品種の拡大、知名度のアップにつとめた。現在は品質も向上しており、本格的なワインが広く受け入れられるようになったことから「十勝ワイン」として高い評価を受けるようになっている。


また、町民に対しても「町民還元ワイン」として安価にワインを提供し、普及に努めた(現在は「還元」の文字が取れているが、発売箇所が町内などごく一部に限定されている)。ワインによる収益はトータルで20億円以上となり、町の財政を潤すことになった。


この池田町の町おこしの取り組みは後に大分県で展開される一村一品運動などに影響を与えている。


ブドウ・ブドウ酒研究所の初代所長は岩野貞雄である。日本ワインの第一人者だが、町おこしの神話を取り上げた書籍でもほとんど彼の功績を取り上げていない。山本博がNECの会報誌に載せた文章や、早川書房の「日本のワイン」でも十勝側と岩野の微妙な空気について触れている程度である。経験主義の農家との対立など理想を求めた岩野に対して毀誉褒貶は激しいが彼の存在なくして「十勝」のワインが存在しなかった点も忘れてはならない。


私が生まれた年にこのワインの試験醸造が始まったとはなかなか感慨深いものがあります。