気づけば更新が途絶えており、いまだに三回目の更新となってしまった本企画。実はまだ継続中だったのでございます。

 

何となく、現実から逃避することが減り、よりリアルな目の前が見えてきたような錯覚。そもそも本企画のおかげかも結構怪しいところがある一方で、現実逃避の手段としてパソコンがほぼ絶たれることにより、低スぺな脳で補う中で限界が見えて現実に向き合わざるをえなくなり始めているような気がする。一か月やれば結構変わるんかな

 

以上

 

 

まだ二日目ではあるのだが、時間が経つのがまぁ~遅い(笑)

 

これまで、余りある時間をどれだけyoutubeで溶かしていたかというのを痛烈に実感している。エロ禁などyoutube禁(以下、つべ禁)の前では、日本で言えば和歌山県程度の影響力も持たないのである。

 

世間では、アルコール依存は緩慢な自殺だと言われる。しかし、youtube依存は緩慢どころか無色透明の底無し沼であり、一介の大学生では沈んでいることすら気づけない。そしてハマったが最期、思考力を奪われて永遠の現実逃避に突入するのである。

 

どうしてyoutubeは抵抗する気も起こさせないままに我々を依存に導くことが可能なのだろうか。今日は取り立てて書くことも無いので、youtubeの強力な依存性について考察していくことにする。

 

①依存対象という意識が希薄

 

そもそも、我々はyoutubeを依存の対象だと思っていない。世間的には依存対象はアルコールや麻薬等がメインである。ネット依存という言葉もあるが、その内実としてはいわゆるネトゲであったり、ネットサーフィンが中心であり、案外youtubeは含まれていないものである。

依存の危険をはらむものだという認識が無いので、我々は身構えることも出来ないままyoutubeの深淵に引きずり込まれていくのである。


②莫大で多様なコンテンツ、しかも無料

 

いうまでもなく、youtubeには莫大で多様な動画が溢れている。個人のプライベートから有名人のスキャンダルまで、お笑い、歌、テレビやラジオの番組、映画、スポーツ、ニュース、趣味、生活、さらにはyoutuberというオリジナルコンテンツまで充実しているではないか。

これだけの動画がありながら、ほぼすべて無料で視聴出来るのだから、そりゃハマっていくに決まっているのである。

 

この無料というのは厄介なもので、支払いの手間が無いというのは単に節約になるということ以上に、サイト内で世界を完結させることが出来るという大きな意味があると私は思っている。支払いも返却期限も無い、手続きが何も存在しない(せいぜい次の動画をクリックするくらい)というのは、サイトの外部の世界を意識する機会を失うことに繋がるため、現実逃避にもってこいなのである。

 

あとは…

③無駄に便利

④動画視聴という受動的かつお手軽な行為

などがふと浮かんだが、疲れたからまたの機会に述べよう。

クソ大学生無趣味ミック。今日から実験的にyoutubeとアダルトコンテンツを絶って生活してみることにする。

 

アダルトコンテンツだけなら過去に一か月くらい絶ったことがあるんだが、案外平気だった。別にベーション自体はしてもいいわけだから、大した苦もなかった。だからなんだかんだそれなりの期間続く気がする。

最近、お菓子もジュースもやめました。理由は二つあり、なんか日に日に惰性で食べてる感が強まっていたことから、一度やめた方が幸せになれるのではないかと思ったこと、それと、砂糖によってアトピーが悪化するらしいことも知り、試しにという想いも込めてお菓子ジュース断ちに踏み切ったわけであります。

 

やめた結果は…今のところ半端じゃないくらい良いことしかないですね。まだ一週間足らずなのに。

 

まず、肌が荒れなくなりました。シュークリームとか食いまくって、コーラとか飲みまくってた頃は薬塗っても荒れるという辛い状態だったのですが、やめて数日後から明らかに肌が綺麗になりました。頬っぺたなどスベッスベのポヨンポヨンといっても過言ではないほどに良くなりました。

 

また、露骨に疲れが減りました。今まで20代前半とは思えないくらい気だるく、常に疲労感に包まれていたのですが、長くバイトしてても体力がメチャクチャ持続するようになりました。体が常に軽いし、頭も回る。

 

最後、金が減らなくなりました。お菓子やジュースは結構高く、隙あらば財布にため込んだ金を溶かしてくれます。毎日溶けてた金がまるまんま浮くわけですから、金は減らなくなりますよねそりゃ。

 

そう考えると、お菓子、ジュースはいわゆる「百害あって一利なし」的な代物だと思うわけであります。いやー断ってよかった(雑)

なんかもう本当に暇だったので、普段読まない小説を手に取ってみましたが、奇跡的に当たりを引けたように感じております。

 

 「何者」 面白かったです!

 

SNSという馴染み深い媒体をテーマに、就活生のナチュラルな気持ち悪さ、それを俯瞰している主人公の皮肉めいた指摘が非常に痛快で、その面白さに後押しされてどんどん読み進めてしまいます。

 

登場人物も少なく読みやすいので、自分と同じように暇な方は是非!(笑)

 本家マリオはヌル過ぎる!もっと改造マリオのように難しくしたほうが絶対面白い!

 

…そう思うあなたはある程度大人で改造マリオが上手い方ではないでしょうか。

 

 実際、本家マリオはなんというかやっていて張り合いがありません。なんとも予定調和というか、拍子抜けしてしまうような難易度になっています。

 

 これなら改造マリオのように高難易度にした方が刺激的で面白いんじゃないの?なんで任天堂は改造マリオみたいなのを発売しないの?そう思う方も一定数いらっしゃるでしょう。

 

 今回は、その理由を自分なりにいくつか考察しました!

 

1.本家と改造のプレイする目的の違い

 本家と改造の違いを生む最たる理由は、プレイヤーの目的の違いだと考えています。改造マリオは特殊なテクニックを駆使したり超高難易度ステージを乗り越えることで、自分の能力を証明することを目的としています。だから、youtubeにupする人が多いし、観てる人からしたら異次元ですから再生数もよく伸びます。

 では本家はどうでしょうか?自分が思うに、本家の目的は「マリオの世界をブラブラ探検する」ことではないでしょうか。マリオをやっているだけで楽しい、クリアできなくても空想の世界を散歩してるだけで幸せになる。そう思えるようなステージづくりの工夫が各所に散りばめられています。いろんなアクションがあって、どれも高度な操作性を要求せずに様々なことを体験することができます。そして、世界観を壊さないように地形やキャラクターの配置などを拘っているように思います。

 改造は改造で面白いのですが、マリオ世界のリアリティからは完全に脱却しています。わけわかんないところにわけわかんないキャラがいて、あまりにも製作者の影がチラつく作りをしているのです。これでは子どももドン引きです。

 

2.本家は「公園」、改造は「SASUKE」

タイトルの通りじゃないでしょうか。公園とSASUKEの違いは、両者の目的の違いに起因します。公園は自由にいろんなことをする場であるのに対し、SASUKEは高度な技術を要すること、扱い方が規定されていること、テストのように測ることを目的としている点で全く似て非なるものです。そしてそれはそっくりそのままマリオにも言えるのではないでしょうか。

 

 

☆道徳授業という儀式

自分が小学校の頃、道徳の授業で、担任が「先生の言うことは聞かなきゃいけないのかな?」と皆に問いかけてきました。

 

この質問は「世の中の当たり前を問いなおそう!」という多角的な見方を養う意図をはらんだものではなく、極めて誘導的な授業展開のなかで吟味する余地も与えず「はい」と言わせ、無批判に服従を誓わせる儀式のようなものだったと思います。

 

周りの友達はそれを受け入れ、「先生の言うことは絶対聞く!」と屈託のない笑顔で次々と言っていきます。自分は疑問を感じながらも果敢に反抗する勇気はありません。自分が答える番が回ってきました。

 

「先生の言うことはなるべく聞く!」自分が出した答えはこうでした。断定はしたくない、だけど怒られたくもない心理的な葛藤の末、僅かばかりの抵抗を「なるべく」に込めました。

 

担任は「いや、絶対聞けよ!(笑)」というツッコミで場を丸く収めます。友達も皆笑いに包まれ、自分はある意味ヒーローでした。しかし、その問いかけそのものに疑問を持った人はおらず、「先生の言うことには絶対従う」ことが正しいと全員で確認、共有出来た「価値」のある授業でした。

 

☆「真面目」規範が止まらない日本

最近になって、その授業のことをよく思い出します。滅私奉公して「上」の方に尽くすという日本に蔓延した美徳は明らかに破綻の様相を呈しているからです。

 

昔は高度経済成長期であり、頭数集めて「上」が仕切るやり方が大きな効率性を生み出していた時代でもありました。生産性に重点を置き、大量生産大量消費が成立している状況では、単純労働にも一定の価値があり、働けば働くだけ利益が上がっていました。また、理屈を介さず「上」に従うべきという「真面目」規範が非常に高い効率性を生む潤滑油となっていたからです。

 

今は違います。安易に大量生産したってものが余りロスになる。生産性を追い求めることの価値は明らかに下がっており、また単純労働する能力は機械によって見事に代替され、昇華していきます。そんな状況で、人間に求められることはクリエイティブな発想や実行力だと考えられます。何をなぜ、どうやって生み出せば良いのか。そこを練って社会に適切な利益を与えることが必要なのです。

 

なのに、日本の社会・学校は昔のスタイルを貫きます。「真面目」を評価し、素直に一生懸命やることが絶対に意味を持っていると本気で信じています。だから企業は安易にブラック化が進み、効率性も持つべき価値観も吟味しないで莫大な努力を課してきます。そして政府は、そんな矛盾した産業構造に対する批判も無しに学校教育に「キャリア教育」を持ち込みました。

 

☆学校に持ち込まれた「キャリア教育」

その「キャリア教育」は、ニート、フリーターの増加に歯止めをかける対策として持ち込まれたもので、将来の目標を与え、意欲的に生きることを子どもに求める教育です。しかしその実は、将来の目標は「どんな職業に就くか」に限定されており、内容も「職業体験」「自分の職業適性を分析する」など、日本のクソみたいな産業構造にどう適応させるかという発想に満ちています。

 

ニート、フリーターの増加の解決策を「個人の努力」に求め、肝心の産業構造の矛盾には目もくれない政府によって、ますます犠牲者ばかりが増えていきます。

 

この「キャリア教育」に代表されたスポ根的な発想は、もはや時代錯誤とすら言える「真面目」規範を強めることで現状の危機を乗り切ろうとしますが、明らかに破綻が見えています。もっとこの「真面目」規範を脱却して、一人ひとりが自分なりの幸せを追求する社会になるべきでは

さて、今日は何も予定がありません。

 

何を隠そう無趣味ミックは無趣味なため、休日なんかあってもやることがありません。

 

無趣味な人は映画でも観るものだというイメージもあるかと思いますが、無趣味にも大別して二つのタイプがあるのではないでしょうか。

 

①行動力はある無趣味

元気でアクティブなんだけど、取り立てて趣味と言えるほど熱中するものは無いよ。というタイプ。休日は映画を観たり、話題のお店に行ったりと何かしらの変化を求めて行動出来ることで、俗世に距離を置くことが無いため、無趣味であることで何か支障をきたすことは少ないと考えられます。

 

②行動力のない無趣味

何かに深い関心も無く、動きたくもないタイプ。何をするのも億劫で、外に関心が全く向かないことが多く、向いても腰が重いので、行動に移れない。こうなると、ついでに世間知らずにもなり、人とのかかわりも希薄に…

 

自分めっちゃ②ですね(笑)本当、全然進歩しないですよ、このタイプは。

 

槇原さんの歌でこんなフレーズがありました。「昨日と今日が知らずに入れ替わってたとしても 気づけないような日々を歴史と呼べず悩んでた」

 

大学生に向けた歌ではないのですが、非常に共感しますね。一週間前、もしくは一ヵ月前の自分と大して何も変わってないですから(笑)

 

無趣味で休日に会うような友人も少ないと、②のようになりがちです。何かをやるモチベーションが一人では維持できないため、自ずと何もできなくなります。

 

さて、ここまで自覚してるなら、何かしらを変えたいものです(笑)何をすればよいでしょうか。

 

なんというか、自分と周りの人を比較して、行動に対するイメージが全然違うなと思うのです。当たり前のようにバイト先の制服をリセッシュしたり、趣味としてアイロンかけをするような人と比べると、自分はそれらを「手間」としか認識できていないと感じます。

 

レゴで超大作を作るのは「手間」ではありません。いや、「手間」は半端ないですが、そこには理想とするなにかに向かう熱いモノを感じます。リセッシュも同じで、制服に吹きかけながら、清潔になった制服をイメージしているわけです。そりゃ苦労を感じることも少ないでしょう。こういった熱いモノが、日々人を進歩させるのだとしたら、自分はどれだけ冷え冷えだったでしょうか(笑)

 

まぁ所詮興味ないものには興味ないですし、嫌なものは考え方だけ無理に変えたって嫌なままですから、アクティブになろうとはしません。しかし、変化を恐れちゃいけない。変化はその人の部屋の濁った空気を入れ替える外の空気で、それを受け入れることは部屋の窓を開けることに等しいのです。たまには換気しよう!

 

ということで、今から旅行に行ってきます(笑)