(これは、別のページに載せた2013年12月26日の記事に加筆修正したものです。)


 下の娘が6歳になりました。先日、ランドセルも届きました。いつまでも幼いと思っていた我が子が、あと3か月で小学校入学とは・・・子供の成長の速さにはいつも驚かされます。

 話は変わって、先ほどYahoo!ニュースを見ていて、学校で実施されている『道徳』の領域を教科化するという考えがかなり進んできていることを知りました。自分も、自分が児童生徒の頃は知りませんでしたが、実は『道徳』の授業は教科ではありません。『道徳』の授業で使われている資料も教科書ではないし、教科ではないから評価もしません。実は、これが『道徳』の良いところなのだと思っています。授業者は、本時のめあてのような「道徳的価値」をもって授業に臨みますが、あらゆる意見を正解とし、授業者が価値観を無理に押しつけることはしません。資料に触れたり仲間の意見を聞いたりする中で、ルールやマナー、よく生きるということはどういうことか、などについて自覚を促す時間です。今のままでも良い気がするのに、なぜ教科にする必要があるのか?これを最初に言い出したのは安倍総理(2007年当時、「美しい国」と言っていた頃のこと)なので、「検定済みの教科書を使い、評価もするのかな?おかしな方向に進んでいかなければいいのだけど・・・」と心配しましたが、実はちょっと違った側面もあるようです。『道徳』の教科化は、『道徳』が教科ではないので他教科より軽んじられている、という意見から必要性が訴えられているようです。なるほど、小中学校ではきちんと年35時間実施されているかも知れないけど、高校あたりだと他教科に振りかえられてしまっているかも知れないってことなのでしょう。自分が高校生のときや高校に勤めていた時、道徳を受けたり実施したりしていた記憶がなかったので、「そもそも高校に道徳ってあったのかな?」と調べてみたら、現行の学習指導要領(2009年公示)から設けられたようです。自分が高校を辞めたすぐ後のことのようですが、急に『道徳』をやることになって、現場は混乱しなかったのかなあ。現在の案としては、数値評価はしないけど、中高に道徳科の資格を持った教員を配置することは検討中らしい。

 道徳科の免許、取った方が良いかな?

※『HAPPY HAPPY BIRTHDAY』(DREAMS COME TRUE、1993年)

大学を卒業して、高校に10年勤めた後、小学校に校種を変えて現在5年目です。

 高校では、部活動の顧問を任された年もあり、そのときに新入部員と一緒に校名入りのユニフォームを作りました。

 さて、勤務している小学校では現在、運動会に向けての練習に毎日取り組んでいます。練習は、複数学年合同で行うことも多いです。先日、たまたまその校名の入ったユニフォームを着て授業をしていたら、別の学年の先生から「O先生は○○高校出身ですか?」と声をかけてくれました。「私は、○○高校に勤めていてバドミントン部の顧問をしていたことがあったんですよ。」と答えると、「え!?バドミントン部にK君っていませんでしたか?」という反応。


 「つながる」というのは、なんだかうれしいことです。

 周りの若い先生から、子どもの頃に関わった先生と一緒に机を並べていたり、出張先で恩師に会ったりという話を聞くと、羨ましく思います。自分は小学校での採用が遅かったこともあって、自分の小中学校時代を知っている先生と会ったことがまだありません。また、自分が高校で教えた子の小学校時代を知っている先生ともなかなか会えずにいたので、K君のことが繋がったのはとてもうれしいことでした。


 自分の教師人生も、あと20年くらい続く予定ですので、たくさん「つながる」ことを期待しながら仕事に勤しんでいきたいと思います。また、60歳を過ぎても、例えば高校の非常勤講師とか、大学などで教職課程を指導するなど、教職にしがみついてつながりを増やしていきたいという小さな野望ももち始めています。


 ただ、自分が「意気地なしだなあ」と思うのは、街で教え子とすれ違っても、声がかけられないときがあることです。例えば、教え子がお店のレジとかやっていて、しっかり目が合えば声をかけられるんだけど、ショッピングモールですれ違っただけとか、売り場の向こうに見かけただけとかだと、積極的に声がかけられない・・・。

(自分でつながりたいと言っておきながら何ですが、お互いにプライバシーもありますので、いろいろと気を遣います。もちろん、自分が臆面して声をかける勇気が足りないところもあるのですが、以前に飲食店の従業員の子に「卒業生の△△さんだよね」と声をかけたら、一緒にいた同僚も確実にその子だと確信していたのに「違います」と言われてしまったり、スーパーのレジにいた卒業生が明らかに「話しかけないでオーラ」を出していたりと、顔見知りだからといって片っ端から声をかけることがいいことなのかどうかと考えてしまうわけです。教師と友人とは違いますので、そのあたりは慎重にしていますが、コミュニケーション能力を育てる立場の人間として、どういう振る舞いをするのが正しいのか、よく悩みます。)


♪気持ちはつたわる 必ず届いていく

 さえぎるものなど 翔び越えて

 気持ちはつたわる 誤解はほどけていく

 そのとき 痛みを 許しあう


『気持ちはつたわる』(BoA、2001年)

(これは、別のページに載せた2012年10月17日の記事に加筆修正したものです。)


「半額のハンバーガー、一杯300円以下で食べられる牛丼、街にあふれる100円均一ショップ・・・。物の値段はどんどん下がっていくが、いつしか我々は安いものに慣れてしまって、あのマクドナルドがハンバーガーの価格を元に戻すと言ったとき、”え~!高くなる!!”と感じ、狂牛病の影響でアメリカ産牛肉が輸入できず、牛丼屋が”豚丼屋”になってしまったとき、店にいつしかの賑わいはなくなった。物の値段が下がり、それが当たり前になることは、果たして日本経済にとって本当に良いことなのかを考えてみよう!」(2006年8月24日)

 私が高校に勤めていたときの『政治経済』のノートを開いてみたら、上の文が書かれた授業のプリントが貼られたページがありました。「デフレ・スパイラル」についての授業です。
 高校教師1年目の自分の授業は、それはそれはひどいものでした。社会科の教師として知識や技術が足りないと痛感し、「プロとして給料をもらうのだから、半端な授業をやったら生徒に申し訳ない」というプレッシャーを常に感じながら、真剣に教材研究をしました。

 まあ、その後の結果はご存じの通りで、10年経ってもものにならず、高校は辞めることになった訳ですが・・・。でも、こうして昔のノートとかを見ると、「結構頑張っていたな。今の自分も、もっと頑張らないといけないな」って思います。

 「デフレ・スパイラルが顕著であったハンバーガー市場において、その一端を確認しよう。マクドナルド(リーダー)が”ハンバーガー半額”戦略で集客力を強めると、ロッテリア(フォロワー)もそれに対抗して値下げを断行する。ハンバーガーショップ同士の値下げ競争についていけなくなったバーガーキング(チャレンジャー)は日本撤退を余儀なくされたが、しかしながら利益を上げられなくなった各社も、狂牛病の影響でいよいよ価格の是正をせざるを得なくなった。意外にも、ファストフード(速さを売りにする飲食店)分野にありながら、こだわりをもって値下げ競争に参加しなかったモスバーガーやフレッシュネスバーガーが売り上げを伸ばすことになった。」
 

 『政治経済』の教材研究で大変なのは、常に新しい情報が求められるということです。この資料も、高校のサーバーの中にデータが残っていると思われますが、あの手この手でしっかりと売り上げを回復したマックやロッテリア、新体制で再上陸し安定した経営をしているバーガーキングなど、現在と7年前とでは状況がだいぶ違うため、そのまま資料を使うことはできませんね。同じ科目、同じ教科書、同じ単元でも、昨年度と全く同じに授業をすると、実態と合わないことがよくあります。より良い授業を目指して、教科書や資料集をフォローする自家製の資料を用意します。大変だったけど、でもそういう資料作りが楽しかったようにも思います。

 ♪花瓶に水をあげましょう 心のずっと奥の方
(『情熱の薔薇』THE BLUE HEARTS、1990年)