まままの間

5月3日。ごみの日。

 

そんな語呂合わせみたいな記念日があることを知ったのは、引っ越してきてからだった。

 

市の広報紙の片隅に、小さく載っていた。

 

ごみの減量。

 

正しい分別。

 

資源の再利用。

 

どれも大事なことだとは思う。

 

思うけれど、引っ越し直後の段ボールだらけの部屋でそれを読むと、少しだけ責められているような気分になった。

 

そのアパートは、築年数のわりに家賃が安かった。

 

駅まで歩けない距離ではない。近くにスーパーもある。壁は薄いが、我慢できないほどではない。

 

ただ、町内の空気が古かった。

 

古い、というのは建物だけの話ではない。

 

道の幅、電柱の貼り紙、玄関先の植木鉢、軒下に吊るされた古い虫よけ。

 

そういうものが、少しずつ昔のまま残っている町だった。

 

引っ越して三日目の夕方、町内会の班長だという男が訪ねてきた。

 

「ごみ置き場、分かりますか」

 

そう言って、ラミネートされた分別表を渡された。

 

燃えるごみ。

 

燃えないごみ。

 

びん、缶、ペットボトル。

 

古紙。

 

粗大ごみ。

 

説明は丁寧だった。

 

こちらが新入りだからか、出す時間まで細かく教えてくれた。

 

「朝の八時までに出してください。前日の夜は、できれば避けてください」

 

「カラスですか」

 

「まあ、それもあります」

 

男は、そこで少しだけ言葉を濁した。

 

それから集積所の場所を指で示し、最後にこう付け足した。

 

「あと、収集されずに残っている袋があっても、触らないでください」

 

「分別違反のやつですか」

 

「そうですね。まあ、そんなようなものです」

 

そんなようなもの。

 

妙な言い方だった。

 

けれど、引っ越してきたばかりの人間が、そこで細かく聞くのもおかしい。私は軽くうなずいて、分別表を冷蔵庫に貼った。

 

最初のごみ当番は、すぐに回ってきた。

 

当番といっても、収集後にネットを畳んで、散らかったものがあれば軽く片付けるだけだ。

 

朝の七時半、眠い目をこすりながら集積所へ行くと、すでにいくつもの袋が並んでいた。

 

半透明の袋に、結ばれた口。

 

見慣れたはずの光景なのに、知らない町のごみは、少しだけ他人の生活を覗いているようで落ち着かなかった。

 

八時を少し過ぎたころ、収集車が来た。

 

作業員は慣れた手つきで袋を積み込んでいく。

 

短い機械音と、袋が押し潰される鈍い音。

 

それだけで、朝の集積所は急に空っぽになった。

 

ただ、一袋だけ残っていた。

 

黒いごみ袋だった。

 

市指定の袋ではない。

 

口はきつく結ばれていて、表面には白い紙が貼られている。

 

そこに、太い油性ペンで書かれていた。

 

分別不可

 

私はしばらく、その四文字を見ていた。

 

市の収集不可シールとは違う。

 

日付も、理由も、担当者名もない。

 

ただ、分別不可。

 

班長に言われたことを思い出した。

 

残っている袋があっても、触らないでください。

 

私はネットだけ畳んで、黒い袋をそのままにした。

 

それだけのことだった。

 

次のごみの日にも、同じ袋が残っていた。

 

いや、同じかどうかは分からない。

 

でも黒い袋で、白い紙で、同じ文字だった。

 

分別不可

 

その日は風が強かった。

 

袋の口が少しだけ緩んでいて、隙間から中身が見えた。

 

古い写真の切れ端。

 

子どもの靴下。

 

割れた湯のみ。

 

名前のところだけ擦れて読めない診察券。

 

髪の絡んだヘアブラシ。

 

生ごみではない。

 

危険物でもなさそうだった。

 

燃えるごみとして出せないわけでもないと思う。

 

けれど、それを見た瞬間、腹の奥が少し冷えた。

 

汚いからではない。

 

袋の中に入っていたのは、ごみというより、誰かが自分の生活から剥がしたかった部分に見えた。

 

もう要らない物。

 

思い出したくない物。

 

持っていると、まだそこに縛られている気がする物。

 

そういうものが、黒い袋の中で一緒くたになっている。

 

見てはいけないものを見た気がして、私はすぐに袋の口から目を逸らした。

 

その日の夜、部屋でレシートを探した。

 

買ったばかりの電気ケトルの保証書をしまうために、購入時のレシートが必要だった。

 

たしか、机の上に置いたはずだった。

 

けれど、見つからない。

 

段ボールの隙間。

 

財布の中。

 

冷蔵庫の上。

 

分別表の裏。

 

どこにもなかった。

 

代わりに、机の端に古いボールペンが一本置かれていた。

 

青い軸の、安っぽいペン。

 

見覚えはあるような、ないような。

 

高校のころ、こういうペンをよく使っていた気がする。

 

でも、持ってきた覚えはなかった。

 

疲れているのだと思った。

 

引っ越しは、思っているより人をぼんやりさせる。

 

三度目のごみの日。

 

私は、できるだけ黒い袋を見ないようにしていた。

 

けれど、見ないようにすると、かえって目が行く。

 

その日も袋は残っていた。

 

白い紙。

 

分別不可。

 

袋の下のほうに、何か硬いものが当たっている。

 

角の形が、ビニール越しに浮き出ていた。

 

私は触らないつもりだった。

 

本当につもりだった。

 

ただ、袋の口が前よりも開いていて、中のものがひとつだけ外へはみ出していた。

 

キーホルダーだった。

 

黒い革の、小さな長方形のキーホルダー。

 

角が擦れて、金具の部分だけ鈍く光っている。

 

私はそれを見た瞬間、息が止まった。

 

昔、同じものを持っていた。

 

整備の仕事に就いたばかりのころ、工具箱の鍵につけていたものだ。

 

安物で、特別なものではなかった。

 

けれど、初めて自分で買った工具箱だったから、その鍵につけたことだけは覚えている。

 

そのキーホルダーは、もうない。

 

何年も前に、どこかで落とした。

 

そう思っていた。

 

私は手を伸ばしかけて、止めた。

 

触らないでください。

 

班長の声が頭の中で鳴った。

 

そのままにして帰った。

 

帰ってすぐ、押し入れの奥を探した。

 

古い段ボールの中に、使わなくなった工具関係の小物をまとめて入れてある。

 

そこに、あのキーホルダーはなかった。

 

あるはずがない。

 

落としたと思っていたのだから。

 

なのに、ないことを確認して、私はかえって怖くなった。

 

次のごみの日、黒い袋の中には、茶色い封筒が入っていた。

 

封筒の角だけが見えた。

 

会社名の一部が印刷されている。

 

昔の職場の名前だった。

 

正確には、私が以前勤めていた会社に似た名前。

 

一文字だけ違っている。

 

そのせいで、かえって気持ちが悪かった。

 

その会社を辞めたときのことは、あまり思い出したくない。

 

大きな失敗をしたわけではない。

 

誰かと殴り合ったわけでもない。

 

ただ、自分の中で少しずつ何かが擦り減って、ある朝、作業着に袖を通せなくなった。

 

辞めた後、関係する書類は全部捨てた。

 

名刺も、給与明細も、メモ帳も。

 

捨てたはずだった。

 

その日の夜、押し入れから古い段ボールが一つ消えていた。

 

中身は、昔の書類や写真だったと思う。

 

正確には覚えていない。

 

覚えていないから、消えていても困らないはずだった。

 

でも、消えたことだけは分かった。

 

部屋の中の空気が、少し軽くなっていた。

 

片付いた、という軽さではない。

 

そこにあった重さごと、誰かが抜いていったような軽さだった。

 

アパートの管理人に、それとなく聞いてみたことがある。

 

「集積所に、黒い袋が残ってることありますよね」

 

管理人は玄関先の花に水をやっていた。

 

その手が、一瞬だけ止まった。

 

「ありますね」

 

「市の人、持っていかないんですか」

 

「持っていけないんでしょう」

 

「何が入ってるんですか」

 

管理人はホースの先を下に向けたまま、少し笑った。

 

「入ってるものを確かめるから、持っていけなくなるんですよ」

 

「どういう意味ですか」

 

「見なければ、ただの残った袋です」

 

そう言って、また水を撒き始めた。

 

それ以上は聞けなかった。

 

五度目のごみの日。

 

黒い袋の中に、小さな置物が入っていた。

 

白い陶器の猫だった。

 

片耳が欠けている。

 

胸のあたりが、嫌な音を立てた。

 

それは、別れた相手からもらったものだった。

 

旅行先の土産物屋で、適当に買ったもの。

 

別れた後、捨てるに捨てられず、押し入れの奥にしまっていた。

 

私は集積所から走って部屋に戻った。

 

押し入れを開ける。

 

段ボールを引っ張り出す。

 

服や書類を床に投げるようにして探した。

 

陶器の猫はなかった。

 

息が荒くなる。

 

私は集積所へ戻り、黒い袋に手を入れた。

 

冷たかった。

 

朝の空気の冷たさではない。

 

水に濡れたものを、ずっと日陰に置いていたような冷たさだった。

 

置物を取り出す。

 

片耳の欠けた白い猫。

 

間違いなく、あれだった。

 

持ち帰って、机の上に置いた。

 

その夜、部屋から古いスマホが消えた。

 

電源は入らない。

 

でも、中には昔の写真や、消せなかったメッセージが残っていた。

 

充電器をつなげば、もしかしたらまだ起動するかもしれない。

 

そんなふうに思いながら、何年も引き出しに入れたままだった。

 

代わりに、机の上の白い猫は、少しだけきれいになっていた。

 

欠けた片耳の断面が、前より滑らかになっている。

 

埃も取れていた。

 

まるで、袋の中に入っていたあいだに、誰かが丁寧に拭いたみたいだった。

 

それから、部屋の中で消えるものが増えた。

 

最初は物だった。

 

手帳。

 

古い写真。

 

鍵につけていた小さなライト。

 

前の職場で使っていたメモ帳。

 

次に、物ではないものが減っていった。

 

仕事から帰ってきたときの、自分の部屋に戻ったという感じ。

 

冷蔵庫の低い音。

 

布団に残っていた自分の匂い。

 

夜中に目が覚めたとき、ここが自分の部屋だと分かる感覚。

 

そういうものが、少しずつ薄くなる。

 

部屋は確かにある。

 

家具もある。

 

服もある。

 

生活用品もある。

 

けれど、暮らしている感じがしない。

 

モデルルームのように整っているわけではない。

 

むしろ散らかっている。

 

なのに、その散らかり方が、私のものではなくなっていた。

 

私は自分の散らかり方を知っている。

 

脱いだ服を置く向き。

 

開けた封筒を重ねる場所。

 

使ったコップを置きっぱなしにする位置。

 

そういう小さな癖だけが、部屋から抜け落ちていた。

 

ある朝、清掃員に聞いた。

 

「この袋、回収しないんですか」

 

作業員は黒い袋を見た。

 

見た、と思う。

 

少なくとも、視線が一度だけそこへ行った。

 

けれど次の瞬間には、何もなかったような顔で、別の袋を積み込んだ。

 

「分別されてないものは、こちらでは持っていけないんで」

 

「中身を確認してもらえませんか」

 

「確認しても、分別できないものは持っていけません」

 

言い方は事務的だった。

 

市のルールを説明しているだけに聞こえた。

 

でも、目が合わなかった。

 

収集車が去った後、集積所には黒い袋だけが残った。

 

白い紙が、朝の湿気で少し波打っている。

 

分別不可

 

私はその四文字を見ながら、ふと思った。

 

自分に必要なものと、もう要らないものの境目が、いつから分からなくなったのだろう。

 

捨てたかったもの。

 

残したかったもの。

 

忘れたいもの。

 

忘れたくなかったもの。

 

それらを私は、ちゃんと分けられていたのだろうか。

 

最後の朝は、やけに早く目が覚めた。

 

まだ外が薄暗い時間だった。

 

カーテンの隙間から入る光が青く、部屋の輪郭だけを浮かび上がらせていた。

 

机の上に置いたはずの財布がなかった。

 

鍵もない。

 

スマホもない。

 

昨日脱いで椅子に掛けたシャツも消えていた。

 

玄関に行くと、靴が一足もなかった。

 

私は裸足のまま、集積所へ向かった。

 

アスファルトが冷たかった。

 

新聞配達のバイクが遠くを走っている。

 

どこかの家で、雨戸が開く音がした。

 

集積所には、黒い袋があった。

 

いつもより少し大きい。

 

白い紙には、やはり同じ文字が書かれていた。

 

分別不可

 

袋の口は、最初から開いていた。

 

中には、私の財布が入っていた。

 

鍵。

 

スマホ。

 

昨日のシャツ。

 

郵便受けに届いていたはずの封筒。

 

アパートの契約書。

 

契約書を取り出すと、契約者名の欄だけが黒く滲んでいた。

 

紙が濡れているわけではない。

 

インクが流れたのでもない。

 

ただ、そこに名前があったことだけが、消されていた。

 

私は財布と鍵を持って部屋へ戻った。

 

階段を上がる。

 

ドアの前に立つ。

 

鍵を差し込む。

 

入らなかった。

 

何度やっても、鍵穴に途中までしか入らない。

 

部屋番号を確認した。

 

間違っていない。

 

けれど、郵便受けの表札には、知らない名前が貼られていた。

 

スマホを開こうとすると、顔認証が通らなかった。

 

パスコードも違う。

 

何度押しても、画面は冷たく震えるだけだった。

 

中から、生活音がした。

 

椅子を引く音。

 

水道を出す音。

 

小さなくしゃみ。

 

私の部屋だった場所で、誰かが普通に朝を始めている。

 

チャイムを押そうとして、指が止まった。

 

押したところで、何を言えばいいのか分からなかった。

 

ここは自分の部屋です。

 

私はここに住んでいました。

 

私のものが、ごみ袋に入っていました。

 

どれも、言葉にすると急に頼りなくなった。

 

階段を下りると、管理人が集積所の前に立っていた。

 

いつものように、エプロン姿で、片手にほうきを持っている。

 

私のすぐ横を通ったのに、目が合わなかった。

 

見えていない、というより、見る必要のないものとして通り過ぎた感じだった。

 

管理人は黒い袋を見て、小さくため息をついた。

 

「また残ってる……分別不可か」

 

私は声を出そうとした。

 

出なかった。

 

喉の奥に、細かく裂いた紙が詰まっているみたいだった。

 

やがて収集車が来た。

 

作業員たちは、ほかの袋を手早く積み込んでいく。

 

黒い袋の前では、誰も止まらない。

 

避けるわけでもない。

 

ただ、それが作業の対象に入っていないかのように、当然の顔で通り過ぎていく。

 

車が去ると、集積所は静かになった。

 

黒い袋だけが残っている。

 

袋の口から、男物の財布が見えていた。

 

鍵もある。

 

古いスマホもある。

 

昨日着ていたシャツも、くしゃくしゃに丸められていた。

 

誰のものか分からない。

 

そう思った瞬間、自分が何を探していたのか、少しだけ分からなくなった。

 

朝の湿気を吸って、白い紙がまた波打つ。

 

分別不可

 

回収されなかったのは、袋ではなかった。

 

5月2日。世界まぐろデー。

 

そんな日があることを知ったのは、加工場の事務所に貼られていたポスターを見たからだった。

 

青い海の中を、銀色のまぐろが何匹も泳いでいる。

 

その下に、資源を守ろうとか、持続可能な漁業を考えようとか、そういう真面目な言葉が並んでいた。

 

うちの工場には、そういうポスターがよく貼られる。

 

衛生管理。

 

労災防止。

 

異物混入注意。

 

腰痛予防。

 

熱中症に気をつけましょう。

 

どれも大事なことだとは思う。

 

ただ、現場にいると、それらはいつも少し遠い。

 

貼ってある紙は正しくても、床の水は今日も溜まるし、冷凍庫の扉は重い。出荷時間だって、誰かの体調に合わせて止まってはくれない。

 

港町のまぐろ加工場で働き始めて、数年が経っていた。

 

朝は早い。

 

まだ外が暗いうちにトラックが入ってくる。

 

冷凍まぐろは、魚というより丸太に近い。白く凍った体を台車に乗せて運ぶと、床に細い水の線が残る。

 

長靴の底が鳴る。

 

排水溝が水を飲む。

 

冷凍庫のモーターが、ずっと低く唸っている。

 

その音の中にいると、不思議と時間の感覚が薄くなる。

 

搬入、確認、仕分け、解凍の段取り、出荷先ごとの準備。

 

伝票を書いている途中で呼ばれる。

 

呼ばれた先で別の作業を頼まれる。

 

戻ってくると、伝票の続きを忘れている。

 

そういう毎日だった。

 

その人は、誰よりもよく動く人だった。

 

年は私よりかなり上で、現場のことなら何でも知っていた。

 

冷凍庫の癖も、台車の車輪の調子も、水はけの悪い床の場所も、出荷先ごとの細かい決まりも。

 

誰かが困る前に、もうその人が動いている。

 

誰かが頼む前に、もう片付いている。

 

だからみんな、その人のことを頼りにしていた。

 

真面目だとか、体力があるとか、助かるとか。

 

口にする言葉は、だいたい良い意味のものだったと思う。

 

でも、そばで見ていると、少し違って見えた。

 

その人は、働きたいから動いているというより、止まるのが怖いから動いているように見えた。

 

一度、休憩時間に言ったことがある。

 

「本当に止まらないですよね」

 

その人は、床を拭く手を止めないまま笑った。

 

「止まったら、後が詰まるから」

 

近くにいた作業員が、冗談で言った。

 

「まぐろみたいだな。止まったら死ぬんじゃないか」

 

みんな笑った。

 

その人も笑った。

 

けれど、その人の笑い方だけ、少し遅れていた。

 

私はそのとき、なんとなく嫌な感じがした。

 

休憩がうまくできない人だった。

 

休憩室に入っても、椅子に座っているのは短い。

 

湯飲みに口をつける。

 

一口飲む。

 

それだけで、すぐ立ち上がる。

 

流し台のコップを洗う。

 

古い新聞をまとめる。

 

床に落ちた水を拭く。

 

冷蔵庫の中を確認する。

 

休憩時間なのに、何かを探しているみたいに動いていた。

 

「休憩中くらい、休んでくださいよ」

 

そう言うと、その人は困ったように笑った。

 

「休むと、かえって疲れるんです」

 

最初は冗談だと思った。

 

でも、何度も聞くうちに、冗談ではない気がしてきた。

 

ある日、休憩室でその人が横になっていた。

 

珍しいことだった。

 

朝から冷凍庫と作業場を何度も往復していて、顔色も悪かった。私が「少し寝た方がいいです」と言って、ようやく簡易ベッドに体を預けた。

 

十分も経っていなかったと思う。

 

その人は、突然飛び起きた。

 

目を見開いて、喉を押さえていた。

 

「大丈夫ですか」

 

声をかけると、その人はしばらく息を整えてから、無理に笑った。

 

「大丈夫。ちょっと、変な夢を見ただけです」

 

足元を見ると、脱いだ長靴の中に水が溜まっていた。

 

ほんの少しだ。

 

冷凍庫から出入りしているから、結露かもしれない。床の水が跳ねただけかもしれない。

 

その人は長靴を逆さにして、水を捨てた。

 

水は床に落ちて、排水溝へ向かって細く流れた。

 

まっすぐ行けばいいのに、途中の小さなくぼみで一度だけ丸く回った。

 

その人は、その水の動きをじっと見ていた。

 

呼吸を合わせるように。

 

それからすぐ、作業場へ戻っていった。

 

事務所のポスターを、その人がよく見るようになったのは、その頃からだった。

 

世界まぐろデー。

 

青い海の中を泳ぐ、銀色の魚。

 

その人は、書類を取りに来るたび、少しだけポスターの前で止まった。

 

まぐろは、泳ぎ続けないとうまく呼吸できない種類がいる。

 

そんな話を、私もどこかで聞いたことがあった。

 

水をえらに通すために、前へ進み続ける。

 

止まることが休むことではなく、死に近づくことになる。

 

かわいそうな魚だと思っていた。

 

でも、その人は違う見方をしていたのかもしれない。

 

止まらなくていい。

 

ただ、前に進んでいればいい。

 

そう考えると、楽になる人もいるのだと、その頃の私はまだ分かっていなかった。

 

ある夜、私はその人を工場の外で見かけた。

 

勤務時間はとっくに終わっていた。

 

シャッターは下りていて、外灯だけが白く光っている。

 

その人は、排水溝の前に立っていた。

 

何をするでもなく、ただ水の流れる音を聞いていた。

 

翌日、そのことを聞いた。

 

「昨日、夜中に工場の外にいましたよね」

 

その人は、少し考えるような顔をした。

 

「いましたっけ」

 

「シャッターの前で、排水のところ見てました」

 

「……ああ」

 

思い出したのか、思い出したふりをしたのか、分からない。

 

「少し、胸が苦しくて」

 

「病院、行った方がいいですよ」

 

「大丈夫です」

 

「大丈夫な人は、そんなに大丈夫って言わないです」

 

そう言うと、その人は少しだけ嫌な顔をした。

 

私の言葉は、正しかったのだと思う。

 

でも、正しい言葉が人を助けるとは限らない。

 

それを私は、後になって知った。

 

その日、出荷が重なった。

 

午前中から現場は荒れていた。

 

冷凍庫の扉が開くたび、白い冷気が床を這う。

 

台車の車輪が水を切り、誰かの怒鳴り声が作業音に混じる。

 

昼を過ぎても、その人は何も食べていなかった。

 

「少しだけでも食べてください」

 

私がそう言うと、その人は伝票を見たまま答えた。

 

「後で」

 

その後は、来なかった。

 

夕方、冷凍倉庫の前で、その人の体が横に流れた。

 

倒れたわけではない。

 

片手を壁についただけだ。

 

でも、もう限界だと思った。

 

「もう無理です」

 

私は、いつになく強い声を出していた。

 

「今日はもう上がってください」

 

「まだ片付けが残ってます」

 

「片付けは僕らでやります」

 

「伝票も」

 

「見ます」

 

「床も流さないと」

 

「流します」

 

その人は笑おうとした。

 

「そんなに簡単じゃないですよ」

 

「簡単じゃなくても、やります」

 

私は周りの人を呼んだ。

 

誰も反対しなかった。

 

それくらい、その人はおかしかった。

 

顔色は悪く、手は震えていた。目だけが妙に開いていて、作業場のどこか一点をずっと追っていた。

 

私たちは、その人を休憩室へ連れていった。

 

誰も乱暴なことはしなかった。

 

むしろ、みんな優しかった。

 

肩に上着を掛ける人がいた。

 

長靴を脱がせて、入口に揃える人がいた。

 

濡れた手袋を外して、乾いたタオルを渡す人がいた。

 

私は、その人のスマホを預かった。

 

「会社から電話が来ても出なくていいように、預かりますね」

 

それは親切のつもりだった。

 

別の人が言った。

 

「タイムカード、こっちで切っとくから」

 

それも親切だった。

 

照明が少し落とされた。

 

休憩室の音が、急に遠くなった。

 

壁一枚向こうにあるはずの冷凍庫のモーター音も、排水溝の水音も、ほとんど聞こえなくなった。

 

その人は、簡易ベッドに座らされた。

 

座った瞬間、表情が変わった。

 

「すみません、戻ります」

 

立とうとするその人の肩に、私は手を置いた。

 

強く押さえたつもりはない。

 

でも、その人は立てなかった。

 

「だめです」

 

私は言った。

 

「今日はもう、動かないでください」

 

その言葉を聞いた瞬間、その人の顔から色が引いた。

 

冗談でも、大げさでもなかった。

 

本当に、何かを止められたような顔だった。

 

「止めないでください」

 

その声は、とても弱かった。

 

疲れ切って、それでも仕事に戻ろうとしている人の声に聞こえた。

 

だから私は、優しく言った。

 

「もう止まっていいんです」

 

今でも、あの言葉を思い出す。

 

あのとき私は、その人を助けようとしていた。

 

本当に、そう思っていた。

 

「寝てください。起きても作業場には戻らないでくださいね」

 

誰かがそう言った。

 

休憩室の扉が閉まった。

 

私たちは現場に戻った。

 

片付けをして、伝票を確認して、床を流した。

 

その人がいない分、作業は大変だった。

 

でも、みんな少し安心していた。

 

やっと休ませられた。

 

そう思っていた。

 

翌朝、休憩室の扉を開けたのは私だった。

 

その人は、簡易ベッドに横になっていた。

 

眠っているように見えた。

 

布団も、ほとんど乱れていない。

 

顔は苦しそうではなかった。

 

ただ、目が少しだけ開いていた。

 

どこか遠くを見ているような目だった。

 

呼びかけても、返事はなかった。

 

肩に触れたとき、もう冷たかった。

 

私はしばらく、声が出なかった。

 

足元を見て、余計に動けなくなった。

 

シーツの上と、ベッドの下の床に、何度も擦った跡が残っていた。

 

足の裏で、同じ方向へ進もうとしたような跡。

 

布団の中で、ずっと前へ進もうとしていたみたいだった。

 

警察が来て、救急車が来て、工場は半日止まった。

 

死因については、詳しく聞いていない。

 

過労だとか、持病だとか、そういう言葉が出たのかもしれない。

 

その人のロッカーは片付けられた。

 

長靴は処分された。

 

タイムカードは抜かれた。

 

事務所に貼ってあった世界まぐろデーのポスターも、いつの間にか外されていた。

 

それで終わるはずだった。

 

でも、加工場では、それから妙なことが起きるようになった。

 

早朝、誰もいないはずの作業場の床が濡れている。

 

排水溝の周りに、円を描くような水の跡がある。

 

まるで、何かがそこをぐるぐる回っていたみたいに。

 

冷凍倉庫では、一尾だけまぐろの向きが変わっていることがあった。

 

そんなはずはない。

 

凍ったまぐろは重い。

 

一人で簡単に動かせるものではない。

 

それでも、朝になると一尾だけ、頭の向きが違っている。

 

目が、休憩室の方を向いていた。

 

誰かがふざけているのだろうと言われた。

 

見間違いだとも言われた。

 

床の水も、結露だろうと片付けられた。

 

私も、そう思おうとした。

 

でも、休憩室に長くいられなくなった。

 

椅子に座ると、胸が詰まる。

 

昼食を食べている途中で、立ち上がってしまう。

 

休みの日にも、家にいるのが落ち着かず、用もないのに工場の近くまで歩いてくる。

 

最初は、自分が責任を感じているからだと思っていた。

 

止めたのは私だった。

 

休ませようと言ったのも私だった。

 

スマホを預かり、長靴を外に置き、「もう止まっていいんです」と言ったのも私だった。

 

だから、気に病んでいるだけだと。

 

そう思いたかった。

 

ある夜、私は誰もいない作業場で床を流していた。

 

勤務時間はとっくに終わっている。

 

出荷もない。

 

床はもう十分に綺麗だった。

 

それでも、ホースを持つ手が止まらなかった。

 

水が排水溝へ向かって流れていく。

 

丸く、丸く、同じ場所を回りながら吸い込まれていく。

 

その音を聞いていると、呼吸が少し楽になった。

 

ホースを置こうとした。

 

置かなければならないと思った。

 

けれど、手は動かなかった。

 

そのとき、休憩室の方から音がした。

 

水のない場所を、何かが泳ぐような音だった。

 

私は振り返らなかった。

 

振り返ったら、きっと見てしまう。

 

あの簡易ベッドの上で、まだ前へ進もうとしている足を。

 

閉じきらなかった目を。

 

それから、あの人が最後に言った言葉を。

 

止めないでください。

 

私は、ゆっくりと床を流し続けた。

 

冷凍倉庫の中で、凍ったまぐろの目が、また少しだけ向きを変えた気がした。

 

その夜から私は、休む前に必ず、足の裏を確かめるようになった。

 

自分がまだ立っていられるかどうか。

 

自分がまだ止まっていないかどうか。

 

それから、もう一つ。

 

誰かに「少し休んだ方がいい」と言われたとき、自分が何と答えるか。

 

最近の私は、必ず笑ってこう答えている。

 

「休むと、かえって疲れるんです」

 

そしてその声が、少しずつ、あの人に似てきている。

5月1日。

 

スマホのニュース欄に、メーデーという言葉が出ていた。

 

労働者の権利の日。
そんな説明が、短く添えられている。

 

その下には、別の記事が並んでいた。

 

「今日はヤメマス記念日」

 

会社を辞めることを、後ろ向きな逃げではなく、前向きな選択に。
そんな内容だったと思う。

 

朝の洗面台でそれを読んだとき、私は小さく笑った。

 

笑ったというより、息が漏れただけだった。

 

鏡の中の自分は、ひどい顔をしていた。
目の下は薄く黒い。髭もきちんと剃れていない。ワイシャツの襟元には、昨日の夜に付いたらしい小さなシミが残っている。

 

それでも、会社には行かなければならない。

 

スマホには、上司からのメッセージが三件来ていた。

 

「昨日の件、朝一で説明」

 

「逃げるなよ」

 

「社会人なら責任持とうな」

 

どれも、文字だけなら怒鳴っているわけではない。
けれど、読むだけで胃の奥が重くなる。

 

この人は、いつもそうだった。

 

直接ひどい言葉をぶつけるわけではない。
逃げ道の前に、静かに物を置いていく。
こちらがそれにつまずくまで、黙って見ている。

 

会社の人たちは、私が限界に近いことを知っていたと思う。

 

けれど、誰も何も言わなかった。
それぞれ自分の机に向かい、自分の仕事をし、自分が怒られないように息をひそめていた。

 

それを責める気にはなれない。

 

私だって、同じようにしてきたからだ。

 

駅へ向かう道で、何度も立ち止まりそうになった。
足は会社に向かっているのに、胸の奥だけが反対方向へ引っ張られる。

 

ホームに立ったとき、電車の到着を知らせる音が鳴った。

 

その音を聞いた瞬間、体が動かなくなった。

 

乗らなければいけない。
乗ったら会社に着く。
会社に着いたら、上司の席の前に立つ。

 

何を言っても責められる。
何も言わなくても責められる。

 

そう考えたら、どうしても一歩が出なかった。

 

後ろから来た人に軽く肩をぶつけられ、私はホームの端から少し下がった。

 

スマホを握ったまま、意味もなく画面を開く。

 

そこに、広告が出ていた。

 

もう、会社へ行かなくて大丈夫です。

 

あなたの代わりに、すべて終わらせます。

 

退職完了センター

 

青と白を基調にした、清潔な広告だった。
笑顔の男女が写っていて、右下には「即日対応」とある。

 

怪しいと思った。

 

同時に、救いだとも思った。

 

会社へ自分で退職を伝えることが、どうしてもできなかった。
上司の顔を想像するだけで、指先が冷える。

 

引き継ぎの話をされるのも、残った人間の迷惑を説かれるのも、もう聞きたくなかった。

 

私はホームのベンチに座り、その広告を開いた。

 

入力欄は、驚くほど少なかった。

 

氏名。
住所。
勤務先。
連絡先。
退職希望日。

 

最後に、希望する処理内容という項目があった。

 

いくつか選択肢が並んでいる。

 

会社への退職連絡。
貸与品返却の案内。
私物回収の相談。
有給消化の交渉。

 

その一番下に、少しだけ間を置いて、こう書かれていた。

 

所属解除を希望する

 

私は、その言葉に引っかかった。

 

退職ではなく、所属解除。

 

妙な言い方だと思った。
けれど、そのときの私は、正確な言葉の違いを考える余裕など持っていなかった。

 

会社から離れられるなら、何でもよかった。

 

私はチェックを入れた。

 

送信すると、すぐにチャット画面が開いた。

 

「このたびはご相談ありがとうございます。退職完了センターでございます」

 

返ってきた文章は、あまりにも丁寧だった。

 

「会社様へのご連絡は、こちらですべて行います」

 

「今後、先方からお客様へ直接のご連絡が届くことはございません」

 

「ご安心ください。お客様の所属解除は、順次進めてまいります」

 

私は画面を見ながら、涙が出そうになった。

 

安心したのだと思う。

 

もう行かなくていい。
もう謝らなくていい。
もう、あの席の前に立たなくていい。

 

ホームに電車が入ってきた。

 

私は乗らなかった。

 

電車は人を詰め込んだまま、会社のある方角へ走っていった。

 

その日の午前中、上司から電話は来なかった。

 

いつもなら、遅刻した時点で何度も鳴る。
メッセージも来る。

 

「どういうつもりだ」とか、
「社会人としてありえない」とか、
そういう言葉が画面に並ぶ。

 

けれど、何も来なかった。

 

昼過ぎ、会社のチャットアプリを開くと、ログイン画面に戻されていた。

 

パスワードを入れても、入れない。

 

「このアカウントは存在しません」

 

会社メールも同じだった。
勤怠システムも、社員用の掲示板も、すべて使えなくなっていた。

 

普通なら、不安になるのだろう。

 

でもそのときの私は、布団の上でスマホを握りしめながら、ただ息を吐いた。

 

終わった。

 

本当に、終わったんだ。

 

夕方、退職完了センターから通知が来た。

 

「会社様との退職手続きが完了いたしました」

 

「今後、お客様へ会社様から直接連絡が届くことはございません」

 

「引き続き、関連する所属解除を進めてまいります」

 

関連する所属解除。

 

また、その言葉だ。

 

少し気になったが、すぐに画面を閉じた。

 

その夜、私は久しぶりに眠れた。
目覚ましをかけずに眠るというだけで、体のどこかがほどけていくようだった。

 

翌朝、目が覚めたのは昼前だった。

 

カーテンの隙間から日が差し込んでいる。
部屋の空気は少しぬるく、洗っていないマグカップの底に、薄いコーヒーの輪が残っていた。

 

会社へ行かなくていい。

 

そう思うだけで、世界が少し静かに感じられた。

 

私はスマホを開き、元同僚にメッセージを送った。

 

「急でごめん。退職代行を使った。迷惑かけたと思う」

 

送信した瞬間は、変わらず表示されていた。
既読はつかなかった。

 

まあ、そうだろうなと思った。

 

気まずいに決まっている。
突然辞めた人間に、すぐ返事をする方が珍しい。

 

そのままスマホを置き、コンビニへ行った。
昼飯を買って帰り、テレビをつけた。

 

何を見ても頭に入ってこなかったが、会社にいないというだけで十分だった。

 

夜になって、もう一度トーク画面を開いた。

 

そこで、少し妙なことに気づいた。

 

元同僚の名前は残っている。

 

過去のやり取りも残っている。

 

けれど、昼に私が送ったはずのメッセージだけが消えていた。

 

送信取り消しをした覚えはない。

 

通信の不具合かと思い、もう一度送ってみた。

 

「見えてる?」

 

画面には送信済みと出た。

 

五秒ほどして、その文字がすっと消えた。

 

削除された、という感じではなかった。

 

最初から何もなかったみたいに、空白になった。

 

私は画面を見つめた。

 

それでも、まだ怖いとは思わなかった。

 

退職代行を使ったことで、何かの連携が切れたのかもしれない。
会社関係のアプリとスマホの設定が混ざっていたのかもしれない。

 

そんなはずはないのに、私はそう思おうとした。

 

数日後、体調を崩した。

 

緊張の糸が切れたせいか、熱が出た。
喉も痛い。

 

会社にいた頃なら、無理をして出勤していただろう。

 

今は休める。

 

そう思いながら、近所の内科へ行った。

 

以前にも何度か行ったことのある病院だ。
診察券も財布に入っている。

 

受付で保険証と診察券を出すと、受付の女性が少し困った顔をした。

 

「すみません。こちらの保険証、有効確認が取れないようで」

 

「あ、退職したばかりで。まだ切り替えが」

 

「そうですよね。では自費扱いでいったん……」

 

女性はそう言いかけて、パソコンの画面を見たまま止まった。

 

「どうかしましたか」

 

「診察券番号も、該当がないみたいなんです」

 

「え?」

 

「以前、受診されたことがありますか?」

 

「あります。去年も、たしか二回くらい」

 

私は財布から領収書を探した。
けれど、そこに入っていると思っていた病院の領収書はなかった。

 

受付の女性は申し訳なさそうに言った。

 

「お名前でも検索してみたんですが、初診登録が見当たらなくて」

 

そんなはずはない、と言いかけて、私は口を閉じた。

 

病院の受付で揉めるほどの気力はなかった。

 

結局、自費で診察を受けることになった。

 

医師はいつもと同じ顔だった。
けれど、私を見ても何の反応もなかった。

 

「初めてですね」

 

そう言われたとき、背中に薄い汗が出た。

 

帰り道、銀行アプリを開いた。

 

ログインできなかった。

 

パスワードを間違えたのかと思い、再入力した。
それでも入れない。

 

「お客様情報が確認できません」

 

携帯会社のマイページも同じだった。

 

契約者情報が表示されない。
料金明細も見られない。
住所変更の画面も開けない。

 

私は退職完了センターにチャットを送った。

 

「退職後の手続きで、銀行や携帯の情報がおかしくなっています」

 

すぐに返事が来た。

 

「関連する所属解除が進行中でございます」

 

私は眉をひそめた。

 

「会社以外は解除しないでください」

 

少しだけ間があった。

 

「ご安心ください。不要な所属から順次解放しております」

 

不要な所属。

 

その文字を見た瞬間、腹の奥が冷たくなった。

 

私はすぐに返信した。

 

「不要かどうかを決めた覚えはありません」

 

返事はなかった。

 

代わりに、画面の上部に小さな通知が出た。

 

「手続きは正常に進行しています」

 

翌日、役所へ行った。

 

住民票を取れば、自分がここに住んでいることくらい証明できる。
そう思った。

 

窓口の人は、最初は普通に対応してくれた。
番号札を取り、申請書を書き、本人確認書類を出す。

 

免許証を渡すと、職員はそれを丁寧に確認した。

 

写真は私だ。
住所も今の部屋になっている。

 

けれど、照会を始めてから、職員の手が止まった。

 

「少々お待ちください」

 

その言葉のあと、奥から別の職員が出てきた。

 

二人で画面を見ながら、小声で何か話している。
こちらを責めているわけではない。
ただ、困っている。

 

それが一番嫌だった。

 

しばらくして、職員が戻ってきた。

 

「申し訳ありません。こちらのお名前とご住所で、該当する住民記録が確認できません」

 

「いや、住んでます。そこに書いてある住所に」

 

「免許証上はそうなっておりますが、こちらのシステムでは……」

 

「じゃあ、免許証の番号で調べてください」

 

職員はまた確認した。

 

そして、さらに困った顔をした。

 

「免許証番号についても、照会が取れません」

 

私は笑いそうになった。

 

馬鹿げている。

 

免許証は手元にある。
顔写真もある。
名前も住所も書いてある。

 

それなのに、番号が存在しないと言われている。

 

「これ、偽物ってことですか」

 

自分の声が少し大きくなった。

 

職員は慌てて首を振った。

 

「いえ、そういう意味ではありません。ただ、こちらでは確認ができないということで……」

 

確認ができない。

 

その言葉が、耳の奥に残った。

 

確認できなければ、存在しない。
そう言われているようだった。

 

役所を出て、私は実家に電話をかけた。

 

何かあったとき、最後に頼るのは結局そこだった。

 

母は三コールで出た。

 

「はい」

 

声を聞いた瞬間、胸が少し緩んだ。

 

「もしもし、俺だけど」

 

沈黙があった。

 

ほんの一秒か二秒。

 

それなのに、嫌な予感がした。

 

「すみません。どちら様ですか?」

 

冗談だと思った。

 

「いや、俺だよ。今ちょっと変なことになってて」

 

「どちらにおかけですか?」

 

声は母のものだった。

 

間違いなく、母の声だ。
少し鼻にかかった、昔から聞いてきた声。

 

けれど、その声の中に、私の居場所がなかった。

 

「だから、俺だって。息子の――」

 

名前を言おうとした。

 

その瞬間、喉が詰まった。

 

自分の名前が、すぐに出てこなかった。

 

いや、分かっている。
分かっているはずだ。

 

頭の中に形はある。
でも、口に出そうとすると、その輪郭だけがほどけていく。

 

「あの……」

 

母の声が、遠慮がちになる。

 

「うちに息子はおりませんけど」

 

電話の向こうで、食器を置く音がした。
テレビの音も聞こえた。
誰かの咳払いもした。

 

知らない家の音だった。

 

私は通話を切った。

 

しばらく、道端に立ったまま動けなかった。

 

車が横を通り過ぎる。
自転車のベルが鳴る。
小学生らしい子どもたちが、私の横を笑いながら走っていく。

 

世界は普通だった。

 

私だけが、そこから少し浮いている。

 

部屋に戻ると、すぐに写真を探した。

 

スマホのアルバム。
学生時代の写真。
家族旅行。
会社の集合写真。

 

最初に見た会社の集合写真には、私が写っていなかった。

 

いや、正確には、そこにいたはずの場所が少し空いている。

 

人と人との間に、不自然な隙間がある。
肩が触れないように、左右の人間が少しだけ離れて立っている。
誰かがそこに立っていた形だけが、残っている。

 

学生時代の写真は、もっと嫌だった。

 

私の顔だけがぼやけていた。

 

ピントが合っていないのではない。
顔の部分だけ、白く薄くなっている。
肩や腕はまだ写っているのに、顔だけが思い出せない絵みたいになっていた。

 

家族写真は、さらに進んでいた。

 

母と、父と、妹らしき人が写っている。
三人の間に、少し空いた場所がある。

 

そこに私がいた。

 

確かにいた。

 

それなのに、写真の中では、誰もその隙間を気にしていない。
三人とも、最初から三人家族だったみたいに笑っている。

 

私はスマホを床に落とした。

 

部屋の中が急に狭くなった。

 

退職完了センターに電話をかけた。

 

チャットでは駄目だ。
声で言わなければいけない。

 

そう思った。

 

呼び出し音は一度も鳴らなかった。

 

すぐに、あの丁寧な声が出た。

 

「お電話ありがとうございます。退職完了センターでございます」

 

私は息を吸った。

 

「おかしいです。会社だけを辞めたかったんです」

 

「はい」

 

「銀行も、役所も、病院も、実家も、全部おかしくなってるんです」

 

「はい」

 

「全部を消してほしいなんて言ってません。元に戻してください」

 

電話の向こうは静かだった。

 

人の気配がしない。
コールセンターなら聞こえるはずの、他の声やキーボードの音が一切なかった。

 

担当者は、最初と同じ声で言った。

 

「申し訳ございません。退職完了後の再所属には対応しておりません」

 

「再所属って何ですか」

 

「一度解除された所属につきましては、原則として復元できません」

 

「だから、会社だけでいいんです。会社だけを辞めたかったんです」

 

「お客様は、すべての所属解除をご希望されております」

 

「してない!」

 

思わず声が大きくなった。

 

「チェックを入れただけです。意味も分からず。あんなの、普通は会社のことだと思うでしょう」

 

「ご希望内容は正常に受理されております」

 

「ふざけるなよ」

 

言った瞬間、少しだけ上司の声に似たと思った。

 

そのことが、なぜかひどく嫌だった。

 

担当者は言った。

 

「本人確認をお願いいたします」

 

私は黙った。

 

「お名前をお願いいたします」

 

名前。

 

自分の名前。

 

私は口を開いた。

 

けれど、出てこない。

 

頭の中にはある。
あるはずなのに、言葉にしようとすると、紙に水が染みるみたいに広がって消える。

 

「お名前をお願いいたします」

 

「……待ってください」

 

「生年月日をお願いいたします」

 

生年月日は言えた。

 

たぶん、言えたと思う。

 

けれど、電話の向こうの声は変わらなかった。

 

「確認が取れません」

 

「住所は言えます」

 

私は早口で住所を言った。

 

「確認が取れません」

 

「免許証もあります」

 

「確認が取れません」

 

「母親に聞けば――」

 

そこで言葉が止まった。

 

母はもう、私を知らない。

 

担当者は静かに続けた。

 

「以前の勤務先をお願いいたします」

 

会社名を言おうとした。

 

毎日通った会社。
何年もいた会社。
辞めたくて辞めたくて仕方なかった会社。

 

それなのに、会社名が思い出せなかった。

 

ビルの外観は思い出せる。
机の配置も、上司の声も、昼休みに使っていたコンビニまで思い出せる。

 

でも、名前だけがない。

 

「確認が取れない場合、お手続き内容の照会はできかねます」

 

「私は、誰なんですか」

 

自分でも変な質問だと思った。

 

でも、他に聞きようがなかった。

 

担当者は少しだけ間を置いて言った。

 

「お客様は、どちらに所属されていた方でしょうか」

 

通話はそこで切れた。

 

私はスマホを握ったまま、しばらく座っていた。

 

部屋の中には、私の物がたくさんある。

 

服。
歯ブラシ。
読みかけの本。
コンビニのレシート。
会社で使っていたペン。
何度も洗ってくたびれたタオル。

 

それなのに、どれを見ても、自分の物だという確信が薄い。

 

誰かの部屋に勝手に座っているような気がした。

 

夜になって、郵便受けが鳴った。

 

チラシが入るような軽い音ではなかった。
薄い封筒が一枚、差し込まれた音。

 

玄関へ行くと、床に白い封筒が落ちていた。

 

宛名はない。
差出人もない。

 

中には、紙が一枚だけ入っていた。

 

退職手続きが完了しました。

 

これにより、すべての所属解除が完了しました。

 

長い文章ではなかった。

 

それだけだった。

 

私はその紙を持ったまま、笑った。

 

会社へ行かなくていい。

 

上司に謝らなくていい。

 

誰かに説明しなくていい。

 

もう、何も背負わなくていい。

 

そう思うと、少しだけ楽になった。

 

その楽さが、どうしようもなく怖かった。

 

翌朝。

 

アパートの管理会社の人間が、部屋の前に立っていた。

 

家賃の引き落としができず、契約者情報も確認できなくなっていたらしい。
鍵は、なぜか開いていた。

 

部屋には家具があった。

 

ベッドもある。
冷蔵庫も動いている。
洗面台には歯ブラシが一本置かれている。

 

けれど、誰が住んでいたのか分からなかった。

 

テーブルの上に、スマホだけが残っていた。

 

画面はついたままだった。

 

そこには、退職完了センターの実績ページが表示されていた。

 

本日の退職完了件数
1件

 

その下に、小さな文字がある。

 

所属解除率
100%

 

管理会社の人間は、気味悪そうに部屋を見回した。

 

そして、誰に言うでもなく呟いた。

 

「空き部屋……ですよね、ここ」

 

誰も答えなかった。

 

その日、誰も一人分の空白に気づかなかった。

 

会社を辞めたかっただけの人間は、ようやく、どこにも行かなくてよくなった。

 

4月30日。図書館記念日。

 

そんな日があることを、私は閉館作業の初日に知った。

 

古い市立図書館の入口に、小さな掲示が貼られていた。

 

「本を守り、知をつなぐ日」

 

丸い文字で、そう書かれている。

 

本来なら、明るい言葉なのだと思う。
子ども向けのイベント案内や、読書週間のポスターと一緒に貼られていたから、普通なら気にも留めなかったはずだ。

 

けれど、その図書館はもうすぐ閉まる。

 

だからだろうか。

 

「守る」とか「つなぐ」という言葉が、妙に重たく見えた。

 

図書館は、町の端にあった。

 

駅前には新しい複合施設ができて、図書館機能はそちらへ移ることになっている。
古い建物は取り壊されるのか、別の施設に使われるのか、まだ決まっていないらしい。

 

私が雇われたのは、その移転前の蔵書整理だった。

 

正職員ではない。
専門の司書でもない。
箱詰めやラベル確認、廃棄予定の本を仕分ける短期スタッフだ。

 

ただ、私はこの図書館をまったく知らないわけではなかった。

 

子どもの頃、よく通っていた。

 

そう思っている。

 

不思議な言い方になるけれど、本当にそうなのだ。

 

覚えているのは、児童書棚の低い高さ。
窓際の長い机。
ページをめくる音。
古い暖房の匂い。

 

それから、カウンターの奥に見えた地下への扉。

 

その扉の向こうから、いつも少し湿った紙の匂いがしていた。

 

私はあの匂いが苦手だったはずなのに、なぜか忘れられない。

 

ただ、何を読んでいたのかは覚えていない。

 

好きだった本のタイトルも、借りた本も、図書館カードを作った日のことも、きれいに抜けている。

 

思い出そうとすると、頭の中に白い紙だけが積まれていくような感じがした。

 

初日の作業は、想像していたより静かだった。

 

閉館といっても、悲しげな雰囲気があるわけではない。
利用者は普通に新聞を読み、子どもは児童書の前でしゃがみ込み、職員はカウンターで淡々と返却処理をしていた。

 

ただ、棚の一部にはすでに白い紙が貼られていた。

 

「移転対象」

 

「保存」

 

「廃棄予定」

 

その文字が、本の背を少しずつ分けていく。

 

本棚は同じなのに、そこに並んでいる本たちは、もう行き先を決められていた。

 

昼過ぎ、私は地下の閉架書庫へ案内された。

 

同行したのは、年配の司書だった。

 

この図書館に長く勤めているらしく、若い職員たちもその人には少しだけ声を低くして話していた。

 

地下へ降りる階段は、記憶にあるより狭かった。

 

壁には薄いひびが入り、手すりの金属は冷えている。
下へ行くほど、空気が変わった。

 

古い紙と、埃と、除湿機の熱が混ざった匂い。

 

階段の途中で、司書が立ち止まった。

 

「閉架の奥の棚は、状態確認だけで大丈夫です」

 

私は頷いた。

 

「中身までは読まなくて結構です。保存対象かどうかは、こちらで見ますから」

 

業務上の注意としては自然だった。

 

古い資料を素人が勝手に開いて傷めてはいけない。
内容を見て廃棄判断をしてはいけない。

 

そういう話だと思った。

 

けれど、司書は続けた。

 

「それと、貸出カードが残っている本があったら、処分箱には入れないでください」

 

「貸出カード、ですか」

 

「ええ。今はバーコード管理ですけど、昔のものが残っていることがありますので」

 

「見つけたら、どうすれば」

 

「私に渡してください」

 

それだけ言って、司書は鍵を回した。

 

閉架書庫の扉が開く。

 

中は、思っていたより広かった。

 

天井は低く、蛍光灯は一本おきにしか点いていない。
棚と棚の間が細く、奥へ行くほど暗い。

 

本は整然と並んでいた。

 

町史、議会資料、学校記念誌、古地図、郷土写真集。

 

誰かの人生ではなく、町そのものの骨を並べてあるようだった。

 

作業は単純だった。

 

台帳の番号と背表紙の番号を照合する。
傷みがひどいものは付箋を貼る。
移転用の箱へ入れる。

 

数時間も続けていると、紙の匂いが鼻の奥に張り付いた。

 

気づけば、私は閉架書庫の一番奥まで来ていた。

 

そこだけ、棚の色が違っていた。

 

ほかの棚は金属製なのに、その一角だけ古い木製だった。
板が黒ずみ、触れると指に細かい粉が付く。

 

一番下の段に、一冊だけ横向きに置かれた本があった。

 

背表紙にタイトルがない。

 

表紙は布張りで、焦げ茶色。
黒と言ってもいいくらい暗い色だった。

 

湿気の多い地下なのに、その本だけは乾いていた。

 

乾いているというより、周りの湿気を拒んでいるみたいだった。

 

私は手袋をしたまま、その本を持ち上げた。

 

軽くはなかった。
でも、厚さのわりに重すぎる。

 

ページの小口は黄ばんでいる。
角は丸く擦れていた。

 

誰かが何度も開いた本のはずなのに、表紙には題名も著者名もない。

 

私は少しだけ開いた。

 

最初のページには、町の古い地名が書かれていた。

 

今は使われていない字名。
埋め立てられる前の川。
戦前にあった学校。
図書館が建つ前、そこにあった建物。

 

郷土資料だ。

 

そう思った。

 

文章は淡々としていた。

 

感情がない。
でも、妙に読みやすい。

 

私は数ページだけめくった。

 

古い商店街の配置。
昭和の洪水被害。
閉校した分校の卒業写真。
町内にあった小さな映画館。

 

途中から、資料というより、人の暮らしに近くなっていった。

 

南側の閲覧室を好む児童がいたこと。
夏季には児童書棚の影に長時間滞在すること。
閉館時刻の十分前になると、本を読むふりをして迎えを待つこと。

 

私は、指を止めた。

 

どこかで読んだ話ではない。

 

知っている。

 

でも、それが誰の記憶なのか、すぐには分からなかった。

 

さらにページをめくる。

 

その児童は、母親が遅れる日だけ、受付カウンターの時計を何度も確認した。
声をかけられるのを嫌い、閉架書庫へ続く扉のほうを見ていた。
地下から漂う紙の匂いを恐れながらも、そこに何があるのかを知りたがった。

 

喉が乾いた。

 

私は本を閉じようとした。

 

そのとき、巻末から一枚のカードが滑り落ちた。

 

古い貸出カードだった。

 

枠線の中に、名前と日付を書く欄がある。
鉛筆ではなく、黒いインクでいくつもの名前が並んでいた。

 

貸出日は書いてある。
けれど、返却日の欄はすべて空白だった。

 

全部だ。

 

一人も返していない。

 

本を借りたまま返さなかった人たち。
そう考えれば、それだけのことかもしれない。

 

けれど図書館の本なら、督促の記録くらい残るだろう。
廃棄や紛失処理もされるはずだ。

 

なのに、その本はここにある。

 

借りられた記録だけを残して。

 

返された記録は、一つもない。

 

私は本を持って、司書のところへ戻った。

 

「すみません。こういう本があったんですけど」

 

司書は本を見るなり、ほんの少し表情を止めた。

 

怖がったわけではない。
驚いたわけでもない。

 

ただ、最初からそれがあると分かっていた人の顔だった。

 

「それは、こちらで預かります」

 

「郷土資料ですか」

 

「ええ。古いものです」

 

「タイトルがないんですけど」

 

「そういう資料もあります」

 

司書は両手でその本を受け取った。

 

その動作が、妙に丁寧だった。

 

「中は読みましたか」

 

「少しだけ」

 

「どのくらい」

 

「最初のほうを、少し」

 

司書は私の顔を見た。

 

その目には、責める感じはなかった。
ただ、何かを確認するような冷静さがあった。

 

「では、今日はもう地下へは降りなくて結構です」

 

「でも、作業がまだ」

 

「明日で大丈夫です」

 

そう言われたとき、私はなぜか安心した。

 

同時に、少し残念だとも思った。

 

その夜、家に帰ってから、妙なことが起きた。

 

スマホの暗証番号を間違えた。

 

一度だけなら誰にでもある。
けれど、二度目も違った。

 

私は画面を見つめたまま、しばらく指を動かせなかった。

 

番号が分からないのではない。

 

指が、いつもの並びを忘れていた。

 

ようやく解除できたあと、冷蔵庫を開けた。

 

昨日の夕飯の残りを食べようと思ったのに、何を作ったのか思い出せない。

 

容器の中には煮物が入っていた。

 

自分で作ったはずなのに、知らない家の冷蔵庫から出てきたものみたいだった。

 

疲れているのだと思った。

 

地下の埃っぽい空気のせい。
慣れない作業のせい。
久しぶりに昔の図書館へ行ったせい。

 

そう決めた。

 

次の日、私はまた図書館へ行った。

 

入口の掲示はそのままだった。

 

図書館記念日。
本を守り、知をつなぐ日。

 

昨日より、その文字が少しだけ濃く見えた。

 

地下作業から外されると思っていたが、司書は普通に鍵を渡してきた。

 

「昨日の奥の棚以外をお願いします」

 

「あの本は」

 

「保管しました」

 

「移転先へ持っていくんですか」

 

「図書館のものですから」

 

その言い方が引っかかった。

 

図書館のもの。

 

本なら当然だ。

 

でも、司書の声はまるで、本ではないものまで含めているように聞こえた。

 

私は作業を続けた。

 

本を箱へ入れる。
番号を照らす。
付箋を貼る。

 

けれど、集中できなかった。

 

あの焦げ茶色の本が頭から離れない。

 

南側の閲覧室。
児童書棚の影。
閉館十分前。
迎えを待つ子ども。

 

あれは、私だ。

 

そう思いかけて、すぐに否定した。

 

記憶なんて曖昧なものだ。
誰にでも似た経験はある。
図書館に通った子どもなら、同じようなことをしていてもおかしくない。

 

そう考えたかった。

 

昼休み、私は郷土資料室へ行った。

 

地下ではなく、二階にある一般向けの資料室だ。
古い新聞縮刷版や町史、閉校記念誌が並んでいる。

 

昨日見た貸出カードの名前を、一つだけ覚えていた。

 

珍しい名前ではない。
でも、この町なら辿れるかもしれない。

 

古い新聞をめくる。
町史の索引を見る。
学校の記念誌を開く。

 

名前は、いくつか見つかった。

 

ただ、どれも変だった。

 

ある人は、昭和の町内会名簿に載っていた。
でも翌年から急に名前が消えている。

 

転出の記録はない。

 

ある人は、閉校記念誌の集合写真に写っていた。
名前は下に書かれているのに、その位置にいる人物の顔だけがぶれていた。

 

ほかの生徒ははっきり写っている。
その人だけ、輪郭が薄い。

 

ある人は、古い事故の記事に名前があった。
けれど本文の中で、苗字の漢字が途中から変わっていた。

 

誤植かもしれない。

 

でも、誤植にしては、気持ちが悪かった。

 

その人たちは、いなくなったのではない。

 

残り方がおかしい。

 

正確に残っていない。

 

そう感じた。

 

午後、私は司書に聞いた。

 

「昔の貸出カードって、利用者の記録は残っているんですか」

 

司書は書類から顔を上げた。

 

「ものによります」

 

「昨日の本にあった名前なんですけど」

 

「調べたんですか」

 

「少しだけ」

 

「調べないほうがいいです」

 

その声は低くなかった。
強くもなかった。

 

普通の注意だった。

 

だから余計に怖かった。

 

「なぜですか」

 

司書は少し黙った。

 

カウンターの向こうでは、若い職員が新しい図書館の案内チラシを束ねている。
利用者の老人が新聞を畳む音がした。
児童書の棚のほうで、子どもが笑っている。

 

その日常の中で、司書だけが古い地下の空気をまとっていた。

 

「図書館は、残す場所です」

 

司書は言った。

 

「残していいものだけが残るわけではありません」

 

「どういう意味ですか」

 

「返ってこないものも、あります」

 

それ以上、司書は何も言わなかった。

 

三日目から、忘れ物が増えた。

 

財布を持たずに家を出た。
自転車の鍵を冷蔵庫の中に入れていた。
洗濯機を回したのに、干した記憶がない。

 

それくらいなら、まだ疲労で済んだ。

 

でも、実家の電話番号が思い出せなかったとき、私は本当に怖くなった。

 

番号を忘れること自体はある。
スマホに登録していれば、覚えていない人も多い。

 

けれど私は、子どもの頃から何度も何度も押してきた番号を、指が覚えていると思っていた。

 

画面に表示された「実家」という文字を見ても、そこが本当に自分の実家なのか、一瞬分からなかった。

 

電話をかけると、母が出た。

 

「もしもし」

 

その声は知っている。

 

知っているはずなのに、顔が浮かばない。

 

「どうしたの」

 

「いや、別に。元気かなと思って」

 

「珍しいね」

 

会話は普通だった。

 

でも、途中で母が言った。

 

「そういえば、あんた昔、あの図書館そんなに行ってたっけ」

 

私は息を止めた。

 

「行ってたでしょ。よく迎えに来てもらったし」

 

「そうだったかなあ」

 

母は笑った。

 

「図書館に迎えに行ったのは覚えてるんだけどね。誰を迎えに行ったんだったかな」

 

「私だよ」

 

「そう……だったかねえ」

 

その曖昧な返事に、背中が冷えた。

 

母が年を取ったからではない。

 

私自身も、自信が持てなくなっていた。

 

あの図書館に通っていたのは、本当に私だったのか。

 

それとも、私は誰かの記憶を自分のものだと思っているだけなのか。

 

次の日、私は早めに出勤した。

 

まだ開館前の図書館は、照明が半分しかついていなかった。
閲覧室の机は整然と並び、カウンターには返却本が積まれている。

 

私は司書を探した。

 

司書は地下へ降りる階段の前に立っていた。

 

「昨日の本を見せてください」

 

自分でも驚くほど、まっすぐに言っていた。

 

司書は困ったように眉を寄せた。

 

「見ないほうがいいです」

 

「もう見ました」

 

「なら、なおさらです」

 

「私のことが書いてありました」

 

司書は返事をしなかった。

 

「子どもの頃のことです。たぶん、私しか知らないことが」

 

「本は、そういうものです」

 

「違いますよね」

 

私の声が少し震えた。

 

「本は、人の記憶を勝手に書いたりしません」

 

司書は階段の手すりに手を添えた。

 

「本が書いているのか、人が読まれているのか、私には分かりません」

 

「読まれている?」

 

司書は目を伏せた。

 

「昔から、この図書館には返ってこない本がありました。借りた人が返さないのではなく、本が……返さない」

 

「人を、ですか」

 

司書は答えなかった。

 

答えないことが、答えだった。

 

「どうすればいいんですか」

 

「読み終えないことです」

 

「読み終えたら?」

 

司書は、ゆっくり顔を上げた。

 

「記録になります」

 

その言葉は、想像していたどんな脅しより冷たかった。

 

死ぬとは言わない。

 

消えるとも言わない。

 

記録になる。

 

それだけ。

 

けれどそのほうが、ずっと嫌だった。

 

地下の閉架書庫で、私はその本を見つけた。

 

司書は止めなかった。

 

止めても無駄だと分かっていたのかもしれない。

 

本は、昨日と同じ木製棚の一番下に戻っていた。

 

焦げ茶色の布張り。
題名のない背表紙。
乾いた小口。

 

私は震える指で巻末を開いた。

 

貸出カードがあった。

 

名前の列。

 

返却日の空白。

 

最後の行に、薄い字が浮かんでいた。

 

私の名前だった。

 

インクが乾く前のように、少しだけ滲んでいる。

 

貸出日は、その日の日付。

 

返却日は、やはり空白だった。

 

私はカードを引き抜こうとした。

 

抜けなかった。

 

紙一枚のはずなのに、本に縫い込まれているように動かない。

 

ページをめくる。

 

本文の最後に、新しい項目が増えていた。

 

その人物は、旧館閉館作業の短期職員として来館した。
幼少期に同館を利用していた記録がある。
ただし、利用履歴の一部は欠落している。

 

私は息を止めた。

 

続きがあった。

 

その人物は、南側閲覧室を好んだ。
夏季には児童書棚の影に座り、迎えを待つ間、読書のふりをした。
地下閉架書庫へ通じる扉に関心を示した記録がある。

 

読んだ瞬間、その記憶が頭の中から抜けた。

 

私は確かに、それを覚えていたはずだった。

 

閉館十分前。
カウンターの時計。
母が来るまで、絵本を開いたままページを見ていなかったこと。

 

でも文章を読んだあと、それは私の中から遠ざかった。

 

思い出せるのに、思い出ではない。
本に書かれた内容を読んで知っているだけになった。

 

ページを閉じようとした。

 

でも、目が次の行を追ってしまう。

 

その人物は、母親の声を記憶していた。

 

やめて。

 

その人物は、自室の窓から見える電柱の位置を記憶していた。

 

やめて。

 

その人物は、初めて図書館カードを作った日、署名欄の文字を一度書き間違えた。

 

やめて。

 

読めば読むほど、私の中のものが抜けていった。

 

母の顔。
実家の玄関。
子どもの頃の布団の柄。
初めて借りた本の重さ。

 

それらが、私の中ではなく、ページの上に整っていく。

 

文章はどこまでも冷静だった。

 

そこに寂しさはない。
喜びもない。
本人にとって大切だったかどうかなど、少しも関係ない。

 

ただ、記録として正しい形に直されていく。

 

私は本を閉じ、棚から引き剥がすように持ち上げた。

 

廃棄箱へ入れようと思った。

 

地下の出口まで走った。
足元がふらついた。
階段を上がる途中で、本が重くなっていく。

 

一階の作業室に、廃棄予定の箱が並んでいた。

 

私はその一つに本を投げ入れた。

 

古紙回収の箱だ。

 

廃棄リストに載っていない本を入れてはいけないことくらい分かっていた。

 

でも、あれを残してはいけない。

 

箱の蓋を閉め、ガムテープで留めた。

 

しばらくそこに立っていた。

 

誰も来ない。

 

何も起きない。

 

私はようやく息を吐いた。

 

その瞬間、背後から司書の声がした。

 

「それは、廃棄できません」

 

振り向くと、司書が立っていた。

 

その手には、焦げ茶色の本があった。

 

私は廃棄箱を見た。

 

ガムテープは貼られたまま。
箱は開いていない。

 

「どうして」

 

声がかすれた。

 

司書は本を胸に抱えるように持っていた。

 

「図書館のものですから」

 

「そんな理由で」

 

「それしか理由はありません」

 

司書の声は悲しそうではなかった。

 

諦めている声だった。

 

「本は、残ります」

 

閉館日は、雨だった。

 

朝から細い雨が降り、古い図書館の窓を濡らしていた。

 

利用者は少なかった。

 

常連の老人が新聞を読み、親子連れが最後だからと児童書棚の前で写真を撮っていた。
若い職員たちは、笑顔で閉館のお知らせを配っている。

 

誰も地下のことなど知らない。

 

夕方、最後の貸出が終わった。

 

返却ポストの案内が貼られ、カウンターの端に花束が置かれた。

 

閉館時間になると、職員が順に照明を落としていった。

 

閲覧室が暗くなる。
児童書棚の色が沈む。
カウンターの奥の扉だけが、まだ見えていた。

 

私は帰るつもりだった。

 

本当に、帰るつもりだった。

 

でも気づくと、地下への階段を降りていた。

 

手には鍵があった。

 

誰から受け取ったのか分からない。

 

閉架書庫の扉を開ける。

 

除湿機の音がしている。
蛍光灯が白く揺れている。

 

焦げ茶色の本は、木製棚の一番下にあった。

 

私はしゃがみ込んだ。

 

もう怖いという感覚は薄れていた。

 

怖がるために必要なものも、どこかへ抜けてしまったのかもしれない。

 

本を開く。

 

私についての記述は、増えていた。

 

その人物は、閉館日の夕刻、地下閉架書庫へ入室した。
入室時、帰宅の意思を有していたと推定される。
以後、所在の確認は取れていない。

 

私は笑いそうになった。

 

まだここにいるのに。

 

そう思った。

 

けれど、自分の手を見ると、輪郭が少し薄かった。

 

透明になっているわけではない。
消えかけているわけでもない。

 

ただ、自分の手なのに、資料写真の中に写っているもののように見えた。

 

本文は続く。

 

その人物は、自己の記憶を保持していると認識していた。
しかし、記録化の進行により、保持情報と資料内情報の境界が不明瞭となった。

 

私はもう、母の顔を思い出せなかった。

 

でも、ページには書いてある。

 

母親は閉館十分前に来館することが多かった。
入口付近で傘の水を払う癖があった。
児童はその音を聞くと、読んでいないページを急いでめくった。

 

それを読んで、私は泣いた。

 

泣いたはずだった。

 

でも涙が出たのかどうか、もう分からない。

 

ページの中に、こう書き足されていたからだ。

 

その人物は、当該記述を読了後、涙を流した可能性がある。

 

可能性。

 

私の涙は、もう可能性でしかなかった。

 

本を閉じる。

 

巻末の貸出カードを見る。

 

私の名前のインクは、もう乾いていた。

 

返却日は空欄。

 

私はそこで、ようやく理解した。

 

返却期限がないのではない。

 

返却されるものが、もう残っていないのだ。

 

数日後、新しい図書館が開館した。

 

駅前の複合施設の二階にあり、ガラス張りで明るく、カフェも併設されている。

 

郷土資料室は奥の静かな一角に作られていた。
古い町史や写真集が、新しい棚に並べられている。

 

若い職員が、移転してきた資料の整理をしていた。

 

その中に、焦げ茶色の本があった。

 

背表紙にタイトルはない。

 

職員は首をかしげ、資料番号を確認した。
台帳には「郷土記録資料」とだけある。

 

何気なくページを開く。

 

古い地名。
学校。
商店街。
閉館した旧市立図書館。

 

そして、旧館閉館作業に関する項目。

 

その人物は、旧館閉館作業の短期職員として来館した。
かつて同館を利用していた記録がある。
閉館日の夕刻、地下閉架書庫へ入室。
以後、所在の確認は取れていない。
ただし、資料内に記録は残る。

 

若い職員は、少し眉を寄せた。

 

「この人、作業にいましたっけ」

 

近くにいた別の職員が振り向いた。

 

「誰?」

 

若い職員は、そこに書かれた名前を読み上げようとした。

 

けれど、うまく読めなかった。

 

漢字は見えている。
読み方も、分かりそうで分からない。

 

「まあ、確認しておきます」

 

そう言って、職員は巻末の貸出カードを見た。

 

いくつもの名前が並んでいる。

 

どの名前にも貸出日があり、返却日はない。

 

最後の行には、閉館作業にいたはずの短期職員の名前があった。

 

その下に、空白が一つ。

 

若い職員がページを閉じようとしたときだった。

 

空白の欄に、薄いインクがにじんだ。

 

最初は点だった。

 

次に線になった。

 

それから、ゆっくりと文字の形を取り始めた。

 

若い職員は目を近づけた。

 

自分の名前だった。

 

その瞬間、背後の新しい図書館で、子どもが笑う声がした。
カフェの食器が鳴り、受付端末の電子音が鳴った。

 

明るくて、新しくて、清潔な図書館。

 

その中で、タイトルのない本だけが、古い地下の匂いを残していた。

 

職員はしばらくカードを見つめていた。

 

そして、小さく言った。

 

「……状態確認だけ、なら」

 

その声を聞いた誰かが、遠くのカウンターで振り向いた。

 

けれど、そこにはもう誰もいなかった。

 

ただ焦げ茶色の本が、郷土資料室の机の上に開かれていた。

 

本を守り、知をつなぐ日。

 

入口の記念日ポスターには、そう書かれている。

 

図書館は、今日も静かに開いている。

 

そして返されなかったものを、まだ一冊ずつ、残している。

4月29日。畳の日。

 

そんな日があることを、私は引っ越してから知った。

 

古い平屋に住み始めて、三週間ほど経った頃だったと思う。スマホのニュース欄に「今日は畳の日」と出ていて、私はなんとなく画面を見たまま、部屋の畳に目を落とした。

 

新しい畳の青い匂いは、まだ残っていた。

 

その家は、地方都市の外れにあった。

 

駅からは遠い。近くにコンビニもない。夜になると、車の音より虫の声のほうが大きくなるような場所だった。

 

けれど、駐車場付きで家賃は安い。部屋も広い。仕事の都合で急いで住む場所を決めなければならなかった私には、ちょうどよかった。

 

内見のとき、不動産屋の担当者は少し申し訳なさそうに笑った。

 

「古い家ですけど、畳は入居前に替えてありますから。そこは安心してください」

 

確かに、手前の和室の畳は新しかった。

 

青みがかった表面。きれいに揃った畳の目。まだ角の立った畳縁。

 

子どもの頃、祖父母の家に泊まりに行ったときの匂いに似ていた。夏休みの昼寝。扇風機の音。網戸越しの風。そういうものが一緒に戻ってくるようで、私は少しだけ気に入った。

 

ただ、奥の和室だけは違った。

 

六畳の部屋が二つ、襖でつながっている。手前を寝室にして、奥は荷物置きに使えばいいと思っていた。

 

奥の部屋の畳は、色が濃かった。

 

新しい畳の青さではない。茶色とも違う。湿った緑が、長い時間をかけて黒ずんだような色だった。

 

畳縁の柄も、そこだけ古い。

 

「ここは替えてないんですか」

 

私が聞くと、担当者は持っていた資料をめくった。

 

「ああ……そこだけ大家さんの指定で、そのままになっているみたいです」

 

「指定?」

 

「普段使わない部屋なら問題ないと思いますよ。気になるようでしたら、あとで相談はできますけど」

 

その言い方が、少しだけ引っかかった。

 

でも、そのときは深く考えなかった。

 

古い家なら、そういうこともあるだろうと思った。

 

住み始めて最初の数日は、何もなかった。

 

朝起きて、仕事へ行く。帰ってきて、簡単に食事を済ませる。手前の和室に布団を敷いて寝る。

 

古い家にしては、静かだった。

 

水回りも問題ない。雨漏りもない。床が少し鳴る程度で、それもむしろ古い家らしくて悪くないと思っていた。

 

変だと思い始めたのは、匂いだった。

 

最初は、新しい畳の匂いしかしなかった。

 

それが、ある夜から少し変わった。

 

青い畳の匂いの奥に、古い布団のような匂いが混じるようになった。押し入れを開けたときの湿気。乾ききらない衣類。線香。薄い味噌汁。煮物。

 

どれも、嫌な匂いではない。

 

むしろ懐かしい。

 

でも、その懐かしさが気持ち悪かった。

 

私の記憶にはない匂いだったからだ。

 

祖父母の家とも違う。実家とも違う。昔泊まった親戚の家とも違う。

 

知らないはずなのに、知っている気がする。

 

そんな匂いが、夜になると畳の間から少しずつ上がってきた。

 

ある日の深夜、私は音で目を覚ました。

 

ぎし。

 

最初は家鳴りだと思った。

 

古い家は鳴る。木材が湿気を吸ったり、乾いたりするだけで音が出る。そういう話は聞いたことがある。

 

私は目を閉じた。

 

すると、また聞こえた。

 

ず……。

 

何かが、畳の上を擦ったような音だった。

 

目を開ける。

 

部屋は暗い。

 

枕元のスマホを見ると、午前二時過ぎだった。

 

音は、奥の和室から聞こえていた。

 

私は布団の中でしばらく息を止めた。

 

ぎし。

 

ず……。

 

とん。

 

今度は、誰かが湯呑みを置いたような音だった。

 

さすがに気になって、私は起き上がった。

 

襖の前まで行く。

 

奥の和室との境にある襖は、いつも閉めていた。荷物を置いているだけの部屋なので、普段は開ける必要がない。

 

指をかけて、ゆっくり開ける。

 

奥の和室は、暗かった。

 

段ボールが三つ、壁際に置いてある。カーテンのない窓から、薄い月明かりが入っている。

 

誰もいない。

 

当たり前だ。

 

私は少し笑いそうになった。

 

そのとき、部屋の中央の畳だけが、やけに黒く見えた。

 

照明の加減だと思った。

 

襖を閉め、布団に戻る。

 

けれど、その夜から私は、奥の和室をなるべく見ないようになった。

 

数日後、別の音がした。

 

夜中にトイレへ行こうとして、布団から出たときだった。

 

畳を踏む。

 

みし。

 

そのあと、半拍遅れて。

 

みし。

 

私は動きを止めた。

 

自分の足の下ではない。

 

背後、奥の和室の方から、同じ音が返ってきた。

 

振り返っても、襖は閉まっている。

 

私はもう一歩、足を出した。

 

みし。

 

少し遅れて。

 

みし。

 

まるで、誰かが私の歩く速さに合わせて、向こう側で歩いているようだった。

 

私は急いでトイレに行き、戻るときは畳を踏まないように、できるだけ廊下側を歩いた。

 

そんなことをしても意味はないと分かっていた。

 

けれど、畳の上を歩くのが嫌になっていた。

 

朝になると、全部が大げさに思える。

 

光が入ると、家は普通の古い平屋に戻った。

 

奥の和室も、ただ畳が古いだけの部屋に見える。

 

私は仕事へ行き、帰ってきて、疲れて寝る。

 

でも夜になると、また音がする。

 

ぎし。

 

ず……。

 

とん。

 

そのうち、音はもっと具体的になった。

 

布団の上で誰かが寝返りを打つ音。

 

畳の上に爪が当たるような音。

 

小さな咳。

 

茶碗を置く音。

 

遠くでテレビがついているような、低い人の声。

 

最初は昔の生活音だと思った。

 

この家に住んでいた誰かの音が、まだ残っているのだと。

 

そう考える方が、まだ楽だった。

 

でも、違った。

 

ある朝、スマホのアラームで目を覚ました。

 

いつもの音。

 

私は寝ぼけながら手を伸ばし、アラームを止めた。

 

「起きなきゃ」

 

無意識にそうつぶやいて、布団から出た。

 

その日の夜。

 

奥の和室から、同じアラーム音が聞こえた。

 

私は台所で洗い物をしていた。時間は午後十一時を過ぎていたと思う。

 

ピピピ、ピピピ、ピピピ。

 

朝と同じ音だった。

 

私は水を止めた。

 

スマホは台所のテーブルの上にある。

 

鳴っていない。

 

音は、襖の向こうから聞こえていた。

 

ピピピ、ピピピ。

 

そのあと、低く眠そうな声がした。

 

「起きなきゃ」

 

私の声だった。

 

声の高さだけではない。

 

寝起きのときの、少し喉に引っかかる感じまで同じだった。

 

自分で聞いているのに、他人が真似をしているようでもあった。

 

指先が冷たくなった。

 

その言葉は、確かに私が毎朝言っている。誰に聞かせるわけでもない。起きるために、自分に言っているだけの独り言。

 

それが、畳の下から聞こえた。

 

私はその夜、電気をつけたまま寝た。

 

眠れたのかどうかは分からない。

 

朝起きると、布団が少し奥の和室側へずれていた。

 

最初は寝相だと思った。

 

けれど、次の日は枕だけが襖の前に落ちていた。

 

その次の日には、掛け布団の端が襖の隙間に挟まっていた。

 

まるで、寝ている間に奥の部屋へ引っ張られているみたいだった。

 

私は襖の前に重い段ボールを置いた。

 

中には本が入っている。簡単には動かない重さだ。

 

それなのに翌朝、段ボールは横へずらされていた。

 

畳には引きずった跡がない。

 

まるで、最初からそこには何も置かれていなかったみたいに、きれいに横へ避けられていた。

 

その頃には、奥の和室の畳の色が少し変わっていた。

 

気のせいかもしれない。

 

けれど、見るたびに濃くなっているように思えた。

 

黒ずんでいるというより、何かが内側から染みてきている。

 

湿気なら乾くはずなのに、その色だけは日に日に馴染んでいった。

 

まるで、家が新しい汚れを受け入れている途中みたいだった。

 

私は畳屋を呼んだ。

 

大家に相談するより先に、専門の人間に見てもらいたかった。

 

来てくれたのは、年配の職人だった。

 

手前の和室を見るなり、畳の端を軽く押して言った。

 

「これは新しいですね。まだ替えて半年も経ってないと思いますよ」

 

その声を聞いて、私は少し安心した。

 

やはり畳そのものに問題はない。

 

そう思いたかった。

 

「奥の部屋も見てもらえますか」

 

私が襖を開けると、職人は部屋に入る前に一度止まった。

 

ほんの一瞬だった。

 

でも、確かに止まった。

 

そして、足元を確かめるように奥の和室へ入った。

 

畳縁を見る。

 

畳表を撫でる。

 

部屋の中央でしゃがみ、指を畳の隙間に差し込もうとして、やめた。

 

「ここも替えられますか」

 

私が聞くと、職人はしばらく黙っていた。

 

それから、低い声で言った。

 

「この部屋は、触らない方がいいです」

 

「え?」

 

「畳が悪いんじゃないです」

 

職人は部屋の中央を見たまま、言葉を切った。

 

「下が悪い」

 

「下って、床下ですか」

 

職人は答えなかった。

 

代わりに、畳の縁から手を離した。

 

その手つきが、妙に丁寧だった。

 

汚いものを避けたのではない。

 

寝ている人を起こさないような手つきだった。

 

「人が長く暮らした畳っていうのは、重くなるんです」

 

職人は玄関へ向かいながら言った。

 

「でも、ここの重さは……上からじゃない」

 

見積もりは出なかった。

 

帰り際、玄関で靴を履きながら、ぽつりと言った。

 

「あそこは、敷いてあるんじゃなくて、塞いでるんです」

 

私は意味を聞こうとした。

 

けれど職人は、それ以上話さなかった。

 

その日から、奥の和室の音は少し変わった。

 

隠れる気がなくなったようだった。

 

夜中に、畳を踏む音がする。

 

みし。

 

みし。

 

みし。

 

襖の向こうを、誰かがゆっくり歩いている。

 

歩くだけではない。

 

布団を畳む音。

 

押し入れを開ける音。

 

茶碗を重ねる音。

 

何かを包丁で切る音。

 

そして、時々。

 

私の声。

 

「疲れた」

 

「明日でいいか」

 

「起きなきゃ」

 

全部、私が言ったことのある言葉だった。

 

ただし、私の声より少し古い。

 

畳に吸われて乾いたような、平たい声だった。

 

私は引っ越しを決めた。

 

けれど、すぐには出られない。

 

仕事もある。手続きもある。費用もかかる。

 

あと一週間だけ。

 

そう思って、私は奥の和室を完全に避けた。

 

襖は閉めた。

 

前には段ボールを積んだ。

 

寝るときは、布団をできるだけ廊下側に寄せた。

 

それでも朝になると、布団は少しずつ奥へ寄っていた。

 

畳の目も、おかしくなっていた。

 

手前の和室の畳は新しいはずなのに、部屋の中央へ向かって目が流れているように見えた。

 

掃除機をかけると、一本だけ逆向きの目がある。

 

次の日には、二本。

 

その次の日には、畳全体がゆるく渦を巻いているように見えた。

 

目の錯覚だと思いたかった。

 

でも、足裏は知っていた。

 

部屋の中央だけ、踏むと柔らかい。

 

沈む。

 

そして、下から押し返してくる。

 

最後の夜だった。

 

少なくとも、私はそう決めていた。

 

翌朝には荷物をまとめ、必要なものだけ車に積んで出るつもりだった。

 

布団には入らず、台所の椅子に座って夜を明かそうとした。

 

午前二時過ぎ。

 

また、アラーム音が聞こえた。

 

ピピピ、ピピピ、ピピピ。

 

スマホは目の前のテーブルにある。

 

画面は暗い。

 

音は、奥の和室からだった。

 

もう驚くより先に、怒りのようなものが湧いた。

 

怖い。

 

でも、それ以上に、勝手に自分の生活を真似されることが気持ち悪かった。

 

私は立ち上がった。

 

襖の前の段ボールをどかす。

 

やけに軽かった。

 

中に本を詰めたはずなのに、空箱みたいに軽かった。

 

襖を開ける。

 

奥の和室は、暗かった。

 

いや、暗いというより、奥行きがなかった。

 

部屋の中央だけが深く沈んでいるように見えた。

 

畳の匂いが濃い。

 

古い布団。

 

線香。

 

煮物。

 

汗。

 

埃。

 

湿った土。

 

その全部が混じった匂いが、畳の隙間から上がってきていた。

 

ピピピ、ピピピ。

 

アラーム音は、部屋の中央の畳の下から聞こえる。

 

私は畳の端に指をかけた。

 

重かった。

 

普通の畳の重さではなかった。

 

水を吸った布団を持ち上げるような重さだった。

 

それでも、私は力を入れた。

 

畳がゆっくり浮いた。

 

その下には、床板があるはずだった。

 

なかった。

 

畳があった。

 

古い畳だった。

 

黒ずんで、端が崩れ、畳縁は擦り切れている。

 

私はしばらく、それを理解できなかった。

 

畳を上げたのに、その下にまた畳がある。

 

私は震えながら、もう一枚に指をかけた。

 

その畳は、さらに重かった。

 

持ち上げると、そこにも畳があった。

 

焦げ跡のある畳。

 

子どもの落書きの残った畳。

 

人が長く寝ていたような形の染みがある畳。

 

爪で引っかいたような線が何本も走った畳。

 

丸くへこんだ跡のある畳。

 

一枚めくるたびに、違う匂いがした。

 

知らない家の夕飯。

 

古い薬。

 

濡れた髪。

 

赤ん坊の肌。

 

線香。

 

血のような鉄の匂い。

 

そのどれもが、畳の目の奥に染み込んでいた。

 

私は、ようやく分かった気がした。

 

この家は、住んだ人間を追い出しているんじゃない。

 

しまっている。

 

暮らした音も、匂いも、癖も、寝息も、独り言も、全部。

 

畳の下へ。

 

ピピピ、ピピピ。

 

下の方で、まだアラームが鳴っている。

 

私は手元のスマホを見た。

 

画面は暗い。

 

鳴っていない。

 

なのに、下では鳴っている。

 

その音のあと、声がした。

 

「起きなきゃ」

 

私の声だった。

 

すぐ近くから聞こえた。

 

畳の下ではなく、畳の重なった奥の方から。

 

次に聞こえたのは、アラームを止める指の音だった。

 

小さな電子音が途切れる。

 

布団が擦れる。

 

誰かが起き上がる。

 

みし。

 

畳を踏む音がした。

 

みし。

 

みし。

 

下から。

 

こちらへ向かって、上がってくる。

 

私は畳から手を離した。

 

逃げようとした。

 

けれど、足裏が沈んだ。

 

奥の和室の畳が、柔らかく私の足を包んでいた。

 

ぬるい。

 

人肌みたいに、ぬるかった。

 

それから先のことは、はっきり覚えていない。

 

ただ、最後に見たのは、畳の目だった。

 

一本一本が、こちらを向いていた。

 

まるで、細い隙間から無数の目が覗いているみたいだった。

 

数週間後。

 

その家には、また不動産屋の担当者が来ていた。

 

新しい入居希望者を案内している。

 

玄関を開けると、青い畳の匂いがした。

 

手前の和室は、きれいに替えられている。

 

担当者は、以前と同じように笑った。

 

「古い家ですけど、畳は入居前に替えてありますから。そこは安心してください」

 

入居希望者は、部屋を見回してうなずいた。

 

「奥の部屋は?」

 

襖の向こうにある和室を指さす。

 

奥の和室の畳だけ、少し色が濃かった。

 

以前よりも、ほんの少しだけ。

 

担当者は資料を見ながら、困ったように笑う。

 

「そこだけ大家さんの指定で、そのままなんです」

 

入居希望者は奥の和室を覗き込んだ。

 

「なんか、変な匂いしますね」

 

「古い家なので、少し湿気が」

 

担当者はすぐにそう答えた。

 

けれど、その匂いは湿気だけではなかった。

 

古い布団。

 

線香。

 

煮物。

 

汗。

 

埃。

 

そして、つい最近まで誰かがそこで寝起きしていたような、まだ新しい人の匂い。

 

そのとき、奥の和室の畳の下から、かすかに音がした。

 

ピピピ、ピピピ。

 

朝のアラーム音。

 

続いて、低く眠そうな男の声。

 

「起きなきゃ」

 

担当者は聞こえなかったふりをした。

 

入居希望者も、気のせいだと思ったようだった。

 

ただ、奥の和室の畳だけが。

 

誰かが寝返りを打ったように、ゆっくりと沈んだ。

四月の終わりだった。

 

残業帰りの車内で、スマホが勝手に今日の記念日を知らせてきた。

 

缶ジュース発売記念日。

 

そんなものがあるのか、と一瞬だけ思った。
それ以上、深く考えるつもりはなかった。

 

ただ、その言葉を見たせいで、喉の奥に古い甘さが戻ってきた。

 

オレンジの匂い。

 

薄い金属の味。

 

手の中で少しぬるくなった、小さな缶。

 

思い出したくないものは、だいたい匂いから戻ってくる。

 

国道沿いに、その自販機コーナーはあった。

 

昔はドライブインだった場所だ。
食堂の看板は外され、窓には内側からベニヤ板が打ちつけられている。駐車場の白線もほとんど消えて、雨水の跡だけが黒く伸びていた。

 

けれど、自販機コーナーだけは生きていた。

 

古い蛍光灯が天井でじいじい鳴り、壁際に自販機が並んでいる。
瓶ジュース、カップ麺、ハンバーガー、缶コーヒー。

 

今どき珍しい、というより、時間がそこだけ取り残されているような場所だった。

 

仕事でこの道を使うたび、何度か前を通っている。

 

でも中に入ったのは、その夜が初めてだった。

 

理由は特にない。

 

強いて言えば、疲れていた。
それだけだと思う。

 

車を降りると、春の夜にしては妙に湿った風が吹いていた。

 

自販機コーナーの床は、昔の小学校みたいな灰色のタイルで、ところどころ欠けている。壁には色あせたポスターが貼られ、値段の数字だけが妙に古かった。

 

百円玉を握ったまま、並んだ自販機を眺める。

 

コーヒーでも買うつもりだった。

 

その時、奥にもう一列、自販機があることに気づいた。

 

さっき外から見た時には、そんなスペースはなかったはずだ。
壁の向こうはすぐ食堂跡で、奥行きなんてほとんどない。

 

それなのに、薄暗い奥の壁際に、古い缶ジュースの自販機が並んでいた。

 

赤や黄色や青の、今では見ない派手なデザイン。
丸っこい文字。
果物の絵が大きく描かれた缶。

 

値段表示は、六十円、七十円、八十円と、時代がばらばらだった。

 

どれも見覚えがあるようで、ない。

 

いや、ひとつだけあった。

 

一番下の段。
右から二番目。

 

オレンジ色の缶だった。

 

白い輪郭で描かれた果実。
少し古い書体のロゴ。
側面に小さく印刷された、製造年。

 

平成六年。

 

見た瞬間、指先が冷えた。

 

忘れていたわけではない。

 

忘れたふりをするのが、うまくなっていただけだ。

 

あの夏、俺はその缶を見ていた。

 

蝉の声がうるさい午後だった。
友達と二人で、ここに来た。

 

今は閉じられた食堂も、当時はまだ営業していた。
トラックの運転手が休憩していて、カレーの匂いが外まで漏れていた。

 

俺たちは小銭を出し合って、一本のオレンジジュースを買った。

 

「半分飲んだら交代な」

 

あいつはそう言って、缶を振った。

 

炭酸でもないのに。

 

俺は笑って、やめろよ、と言った。

 

その何でもない場面だけが、何十年も頭の底に残っていた。

 

自販機のボタンは、その缶のところだけ赤く光っていた。

 

他にもたくさんの缶が並んでいるのに、なぜかそこしか押せないと分かった。
押す前から、分かっていた。

 

百円玉を入れる。

 

古い機械の奥で、硬貨が落ちる音がした。
それから、妙に長い沈黙。

 

がこん、と缶が落ちてきた。

 

取り出し口に手を入れると、缶は冷たくなかった。
むしろ、人肌みたいにぬるい。

 

表面にはうっすら水滴がついていた。
その水滴が、蛍光灯の下で油のように光っている。

 

俺はしばらく、缶を持ったまま立っていた。

 

飲まなければいい。

 

そう思った。

 

今さら過去に触れても、ろくなことにならない。
あの日のことは、もう終わっている。
終わったものは戻らない。

 

分かっていた。

 

それでもプルタブに指をかけた。

 

開けた音が、自販機コーナーの中でやけに大きく響いた。

 

一口飲む。

 

甘かった。

 

薄くて、ぬるくて、どこか金属臭い。

 

子どものころは、これをうまいと思っていた。

 

そう思った瞬間、蛍光灯の音が蝉の声に変わった。

 

足元のタイルが、熱いアスファルトになった。

 

手の中の缶が、小さくなった。

 

目を開けると、夏だった。

 

眩しすぎて、最初は何も見えなかった。

 

汗が首筋を伝っている。
シャツが背中に張りついている。
膝には、転んだ時にできた古いかさぶたがあった。

 

俺は子どもの体になっていた。

 

目の前に、友達がいる。

 

半ズボンに、色の抜けたTシャツ。
額に汗を浮かべて、こちらを振り返っている。

 

「早くしろよ」

 

その声を聞いた瞬間、胸の奥が痛んだ。

 

俺は言わなきゃいけなかった。

 

今日は行くな。
そこには入るな。
このあと、お前は帰ってこなくなる。

 

言おうとした。

 

けれど、口から出たのは違う言葉だった。

 

「待てよ。俺も行くから」

 

自分の声なのに、自分のものじゃなかった。

 

友達は笑った。

 

「じゃあ、半分飲んだら交代な」

 

手には、あのオレンジジュースの缶があった。

 

俺は缶を受け取れなかった。

 

受け取れば、全部が始まってしまう気がしたからだ。

 

でも友達は気にせず、自分で一口飲んだ。
それから缶をこちらに差し出す。

 

「飲めよ」

 

俺は首を振った。

 

「いらない」

 

その言葉を聞いた友達が、少しだけ不思議そうな顔をした。

 

ああ、そうだった。

 

俺はあの日も、そう言った。

 

別に喧嘩していたわけじゃない。
機嫌が悪かったわけでもない。

 

ただ、少しぬるくなったジュースを飲むのが嫌で、いらないと言っただけだった。

 

そんな小さなことまで、戻ってきた。

 

俺たちはドライブインの裏へ回った。

 

そこには、昔使われていた細い道がある。
草に半分埋もれた、車一台分くらいの廃道。

 

その先に、コンクリートの水路のような暗い口が開いていた。

 

大人たちからは、近づくなと言われていた。

 

雨が降ると水が出る。
蛇がいる。
崩れるかもしれない。

 

理由はいくつも聞かされていたが、子どもには全部同じだった。

 

行くなと言われる場所は、行きたくなる。

 

友達はしゃがんで、暗い中を覗き込んだ。

 

「奥、涼しいぞ」

 

俺はその背中を見て、叫ぼうとした。

 

やめろ。

 

今日は帰ろう。

 

そこには入るな。

 

でも声が出ない。

 

喉が、缶ジュースの甘さで塞がれているみたいだった。

 

友達は振り向いた。

 

「怖いの?」

 

昔と同じ顔だった。

 

からかっているわけじゃない。
ただ、本当に不思議そうに聞いている顔。

 

俺はその時、自分が何を言ったか覚えていなかった。

 

ずっと忘れていた。

 

でも、今なら分かる。

 

子どもの俺は笑っていた。

 

「怖くねえよ」

 

言わなきゃよかった。

 

たったそれだけの言葉で、友達は満足したようにうなずいた。

 

水路の中は、思っていたより広かった。

 

大人なら腰をかがめなければ入れないが、子どもなら歩ける。
コンクリートの壁は湿っていて、足元には浅い水が流れていた。

 

奥へ進むほど、蝉の声が遠くなる。

 

代わりに、何かが転がる音が聞こえた。

 

からん。

 

ころん。

 

缶が転がるような音だった。

 

友達が立ち止まった。

 

「誰かいる?」

 

返事はない。

 

ただ、奥の暗がりで、もう一度音がした。

 

からん。

 

俺はその時、友達の服の裾をつかんだ。

 

覚えている。

 

つかんだつもりだった。

 

でも、本当は違った。

 

俺の手は、途中で止まっていた。
怖くて触れなかった。
濡れたTシャツの布に指が届く直前で、俺は手を引っ込めていた。

 

今になって、そこまで見えてしまった。

 

友達は一歩、奥へ進む。

 

俺はその背中を見ていた。

 

止めることはできた。

 

たぶん、できた。

 

名前を呼ぶだけでよかった。
腕をつかむだけでよかった。
引っ張って外へ走ればよかった。

 

だけど俺は、奥から聞こえた音に怯えていた。

 

からん。

 

ころん。

 

それは缶の音ではなかった。

 

水の中で、誰かが爪を立てているような音だった。

 

友達が振り返る。

 

その顔から、笑みが消えていた。

 

「なあ」

 

その声を、俺は覚えていなかった。

 

いや、覚えていたのに、別の音で上書きしていた。

 

蝉の声。
車の音。
母親に叱られた声。
警察の人の声。

 

いろんな音で隠して、聞かなかったことにしていた。

 

友達は、確かに言った。

 

「手、貸して」

 

俺は動かなかった。

 

水路の奥で、足元の水が急に濁った。
友達がバランスを崩す。

 

俺は手を伸ばした。

 

今度こそ、伸ばした。

 

でも子どもの体は遅かった。

 

いや、違う。

 

遅かったのではない。

 

怖かった。

 

濡れた友達の指が、自分の指先に触れた瞬間、俺は反射的に手を引いた。

 

友達の目が見開かれた。

 

怒ってはいなかった。

 

責めてもいなかった。

 

ただ、びっくりしていた。

 

それが一番嫌だった。

 

あいつは最後まで、俺が手を引くと思っていなかった。

 

次の瞬間、奥から流れてきた黒い水が、友達の足元をさらった。

 

叫び声は短かった。

 

それから、缶が転がる音だけが残った。

 

からん。

 

ころん。

 

俺は走った。

 

外へ出て、眩しさに目が潰れそうになりながら、ドライブインの裏を駆け抜けた。

 

大人を呼ばなきゃいけない。

 

そう思った。

 

でも、足は逆方向へ向かっていた。

 

家へ帰る道だった。

 

どうしてかは分からない。

 

分からないと言い続けてきた。

 

でも本当は、分かっていた。

 

あの場所に戻りたくなかった。

 

怒られたくなかった。

 

自分が手を引いたことを、誰にも知られたくなかった。

 

夕方になって、友達の家の人が探しに来た。

 

「一緒じゃなかった?」

 

俺は首を振った。

 

「今日は遊んでない」

 

その嘘だけは、今もはっきり覚えている。

 

そのあと町中が騒ぎになった。

 

警察が来た。
消防が来た。
水路の入口には黄色いテープが張られた。

 

友達は見つからなかった。

 

缶だけが見つかった。

 

飲みかけのオレンジジュースの缶。
水路の入口近くに転がっていたらしい。

 

大人たちは、それを見て言った。

 

ここに来ていたんだな。

 

俺は黙っていた。

 

黙っていれば、あの日は終わると思っていた。

 

終わらなかった。

 

何十年も、終わらなかった。

 

気づくと、俺は自販機コーナーの床に座り込んでいた。

 

蛍光灯が、じいじい鳴っている。
外は春の夜に戻っていた。

 

手には、空になったオレンジジュースの缶がある。

 

指が震えていた。

 

缶の飲み口には、自分の唇の跡がついている。
底を見ると、製造年が印字されていた。

 

平成六年。

 

間違いなかった。

 

俺は立ち上がり、缶をゴミ箱へ捨てようとした。

 

その時、気づいた。

 

ゴミ箱の中に、同じ缶が入っている。

 

一本ではない。

 

何本も。

 

同じオレンジ色の缶が、ぎっしり詰まっていた。

 

どれも開いている。

 

どれも、飲み干されている。

 

俺は息を止めた。

 

缶の側面に、黒い油性ペンで小さく文字が書かれていた。

 

八月十三日。

 

その下にも。

 

八月十三日。

 

さらに下にも。

 

八月十三日。

 

全部、同じ日付だった。

 

筆跡には見覚えがあった。

 

俺の字だった。

 

しかも、日付の横には短い言葉が添えられていた。

 

手を伸ばした。

 

まだ届かない。

 

次は言える。

 

嘘をついた。

 

次は助ける。

 

どの文字も震えていた。
どの文字も、俺の字だった。

 

その瞬間、頭の中で何かがほどけた。

 

初めてではなかった。

 

俺は何度もここに来ている。

 

何度もこの缶を買っている。
何度も飲んでいる。
何度も、あの日を見せられている。

 

そして現在に戻るたびに、忘れていた。

 

忘れたふりではなく、本当に忘れていた。

 

ただ、缶の中身を飲んだ時だけ、すべてが戻る。

 

自販機の奥で、機械が低く唸った。

 

がこん。

 

取り出し口に、もう一本落ちてきた。

 

俺は動けなかった。

 

買っていない。

 

金も入れていない。

 

それなのに、あのオレンジ色の缶がそこにある。

 

今度の缶は、前のものより少し冷たかった。

 

ラベルの端に、小さく印刷がある。

 

商品名でも、会社名でもない。

 

ただ、一言。

 

もう一度。

 

俺は自販機のガラスに映った自分を見た。

 

そこに映っている顔は、四十を過ぎた男のものだった。
けれど、その目だけが子どもみたいに怯えていた。

 

外では車が一台、国道を通り過ぎた。

 

その音が遠ざかると、自販機コーナーの中には、古い機械の唸りだけが残った。

 

手を伸ばさなければいい。

 

飲まなければいい。

 

今度こそ、帰ればいい。

 

分かっている。

 

でも、取り出し口の奥で、缶が少しだけ転がった。

 

からん。

 

ころん。

 

あの日、水路の奥で聞いた音と同じだった。

 

そして俺は、また缶を取った。

 

春の大会が近づくと、学校の裏門から見える山が少しだけ近くなる気がした。

 

冬のあいだは白っぽく乾いて見えていた斜面が、四月に入ると急に色を持つ。桜はもうだいぶ散っていて、風が吹くたび、校庭の隅に薄い花びらが寄る。朝練の時間はまだ肌寒く、吐く息も少し白い。

 

その年、俺は補欠だった。

 

二年になって、去年よりは走れるようになったと思っていた。実際、タイムも悪くなかった。でも、ぎりぎりで届かない。主将に「調子は見てる」と言われたのが、励ましなのか、予備として数えられているだけなのか、最後まで分からなかった。

 

大会前、部員全員でコース確認に行った日がある。

 

駅前通りを抜け、住宅地を曲がり、川沿いを進み、それから少しずつ応援の薄い道へ入っていく。問題の区間は、その先だった。古い集落の外れをかすめて、道幅が少し狭くなる。片側には石垣、もう片側には浅い溝があり、その先に短い上りが続いていた。

 

記録上は、ただの難所だと顧問は言った。

 

坂が細かく続くからペースが乱れやすい。見通しの悪いカーブがあるから、前との距離感も掴みにくい。説明としてはそれで十分なはずだった。

 

なのに、その区間へ入る前だけ、先輩たちの喋り方が少し変わる。

 

「そこ、焦って抜こうとするなよ」

 

「受け取ったら止まるな」

 

「たすきだけは絶対に落とすな」

 

どれも駅伝なら普通に聞こえる。普通なのに、そこだけ何度も言うから引っかかった。

 

主将が地図を見ながら言った。

 

「中継の位置、ちょっと奥まってるから、相手の顔を見て探すな。背中だけ見ろ」

 

俺は何気なく聞き返した。

 

「顔を見たほうが分かりやすくないですか」

 

主将は少しだけ黙ってから、地図を折った。

 

「……背中だけ見てればいい」

 

その言い方が、妙に頭に残った。

 

試走のとき、その区間は思ったより静かだった。

 

街のほうではずっと車の音がしていたのに、そこへ入ると急に遠くなる。山が近いせいか沿道の家も途切れがちで、足音だけが妙に乾いて聞こえる。先に走っていた三年の背中を目で追っていたはずなのに、カーブをひとつ曲がるたび、距離の感じだけが変になった。

 

近いと思ったら遠い。遠いと思ったら、次にはもう見えていない。

 

それなのに、気配だけはずっと前にある。

 

給水の手伝いに来ていた地元の年配の人が、笑うでもなく言った。

 

「毎年、そこだけ一人ぶん遅れるんだよな」

 

意味が分からなくて聞き返そうとしたが、顧問がすぐ別の話を始めたので、そのまま流れた。

 

大会の前日、本来その区間を走るはずだった三年が外れた。

 

朝から顔色が悪かったらしく、午後には保健室で寝かされていた。熱があるのか、貧血なのか、はっきりしないまま顧問がメンバーを呼び、俺の名前を言った。

 

一瞬だけ、胸の奥が熱くなった。

 

やっと走れる。そう思ったのは本当だ。

 

でも、その場にいた誰も「おめでとう」とは言わなかった。

 

それだけじゃない。主将も、他の三年も、外された本人も、なぜか誰ひとり俺と目を合わせようとしなかった。ロッカーを閉める音や、スパイク袋を動かす音ばかりが部室の中に残って、俺の名前だけが少し浮いているみたいだった。

 

主将は「明日の朝、早めに来い」とだけ言った。外された三年は部室の隅で座ったまま、こちらを見なかった。帰り際、たすきを受け取ったときだけ指先が触れた。

 

びっくりするほど冷たかった。

 

汗で冷えたというより、水に長く沈めていた布に触れたときみたいな冷たさだった。

 

しかも、その冷たさが自分の指にも移った気がした。手を離したあともしばらく抜けず、爪の裏に薄く残るみたいに居座った。

 

「すみません」

 

そう言ったのは俺だったかもしれないし、相手だったかもしれない。声が小さくて、よく分からなかった。

 

大会当日の朝は晴れていた。

 

会場には学校ごとのテントが並び、マイクの音が遠くで響いていた。アップをする選手、ゼッケンを直す先生、地元の人たち。賑やかなはずなのに、俺は自分の区間のことばかり考えていた。

 

主将が最後の確認をするときも、やはりそこだけ言い方が同じだった。

 

「受け取りの相手を迷うな」

 

「たすきが来たら、そのまま行け」

 

「もし見失っても、立ち止まるな」

 

「背中だけ見ろ」

 

俺はうなずいた。

 

でも、その時点でもう少しおかしかった。

 

見失っても、というのは何をだろうと思った。

 

中継所へ移動してから、違和感はますます強くなった。

 

係員はいる。交通整理の大人もいる。応援の生徒も少しはいる。なのに、俺の立つ位置からだけ、道が妙に長く見えた。古い家の塀の向こうで、風に揺れる竹の音がしていた。実況のマイクは遠くて、何を言っているのか分からない。

 

隣で待っていた他校の選手が、小さく爪先を鳴らしていた。

 

俺もそれを真似して体を温める。足首を回し、肩を揺らし、たすきの位置を直す。

 

地元の世話役らしい人が通り過ぎながら、俺の胸元を見た。

 

「今年もそこか」

 

俺が何も言えずにいると、その人は続けた。

 

「まあ、たすきが戻ればいい」

 

すぐに係員に呼ばれ、どこかへ行ってしまった。

 

意味が分からない。でも、意味が分からないままの言葉ほど残る。俺は無意識にたすきを握り直していた。

 

やがて先導車の音が遠くでして、中継所の空気が急に張った。

 

次の学校、その次、その次と走者が飛び込んできて、たすきが渡されていく。声が上がる。靴音が鳴る。肩がぶつかるようにして選手たちが前へ出る。

 

うちの番が近い。

 

俺は道の先を見た。

 

緩いカーブの向こうに、白っぽいユニフォームの背中が見えた。見慣れた色だと思った。うちの学校のものだ。腕の振り方も細かくて、確かにうちの走り方に見えた。

 

でも、近づいてくるのに妙に時間がかかった。

 

すぐそこにいるようで、なかなか距離が縮まらない。

 

係員が「準備」と叫ぶ。

 

俺は前へ出た。

 

その背中は下を向きもせず、こちらへ一直線に来る。顔を見ようと思った。どの先輩だ。外れたはずの三年か、それとも別の区間の走者か。見れば分かるはずだった。

 

なのに、なぜか顔のあたりだけ、日差しが反射しているみたいに曖昧だった。

 

見えているのに、残らない。

 

それより先に気づいたのは、靴音だった。

 

近づいてくる動きと、足音の間が、ほんの少しずれていた。

 

その瞬間、主将の言葉が頭の中で鳴った。

 

背中だけ見ろ。

 

次の瞬間、たすきが肩に掛かった。

 

思っていたより重かった。

 

ただの布じゃないみたいに、肩の一点へ沈み込む重さだった。掛けてきた手が首筋に触れた気がした。冷たいというより、濡れているような温度だった。

 

そのまま前へ押し出されるように走り出す。掛けてきた相手の息が、まだ耳の横に残っている気がした。荒いわけでも、乱れているわけでもない。妙に一定で、近すぎた。

 

俺は走った。

 

坂はきつかった。練習でも分かっていたはずなのに、本番だと路面の感触が違う。細かい砂が浮き、足裏が少し滑る。腕を振る。呼吸を刻む。

 

やがて前に、誰かの背中が見えてきた。

 

追いつける距離ではない。遠すぎもしない。ずっと、あの中継所で見たのと同じくらいの位置にいる。

 

白っぽいユニフォームだった。

 

抜けそうで抜けない。近づけそうで近づけない。

 

それでも不思議と、見失う気はしなかった。あれを追っていけばいいのだと、体だけが知っている感じがした。

 

沿道の声が薄い。

 

応援がないわけではないのに、水の底で聞くみたいに遠い。靴音と呼吸だけがはっきりする。そのうち、自分の呼吸に、もうひとつ重なるものがある気がしてきた。

 

前を行く背中の呼吸だ、と最初は思った。

 

でも違った。

 

あれは、肩に掛かったたすきから聞こえていた。

 

そんなはずはない。そんなはずはないのに、吸う、吐く、吸う、吐く、その間が自分のものじゃなくなっていく。俺はそれに合わせて走っていた。合わせたほうが楽だった。楽なのが気味悪かった。

 

道の端に、小さな祠が見えた。

 

試走のときにも見たはずなのに、その時よりずっと近い。祠の前に誰か立っていたような気がしたが、視線を向けた瞬間、もう木の影しかなかった。

 

足がもつれそうになった。

 

そのとき、すぐ前の背中が少しだけこちらを振り返りかけた。

 

顔を見てはいけない気がした。

 

理由は分からない。ただ、その瞬間だけはっきりそう思った。俺は視線を落とし、背中の中央だけを見るようにして走った。

 

すると、その首筋に、うちの学校のユニフォームでは隠れないはずの黒い紐のようなものが一瞬見えた。

 

汗で張りついた髪かと思った。そう思ったのに、次の瞬間にはもう何もなかった。

 

やがて坂が終わり、次の中継所が見えた。

 

係員がいる。学校の旗が見える。次の走者が前へ出ている。そこまで見えて、ようやく自分がちゃんとコースを走ってきたのだと分かった。

 

最後の数メートルで、ふいに肩が軽くなった。

 

たすきの重さが、元に戻る。

 

俺は次の走者へ手を伸ばし、そのまま渡した。受け取った後輩が何か叫んだ気がしたが、息が上がっていて聞き取れなかった。

 

俺は路肩に寄り、その場にしゃがみ込んだ。

 

すぐそばにいた主将が背中を叩いた。

 

「よく繋いだ」

 

そう言ってくれたのに、俺は最初にこれを聞いてしまった。

 

「……誰から受け取りました?」

 

主将の手が、ほんの少しだけ止まった。

 

「見ただろ」

 

「顔が……」

 

そこで言葉が詰まった。見えていたはずなのに、思い出そうとすると輪郭だけが逃げる。

 

主将は水を差し出した。

 

「だから言ったろ。背中だけ見てればいい」

 

その口ぶりが、叱っているというより、確認みたいで嫌だった。

 

結局、うちの学校は大きく崩れなかった。

 

入賞も優勝もなかったが、例年通りの順位で終わった。顧問は「最低限は守れた」と言い、主将は閉会式の列に並んだ。外された三年も、途中から少し顔色が戻っていた。

 

全部、普通に終わったように見えた。

 

バスで学校へ戻る途中、スマホに上がった速報写真を見た。

 

中継所でたすきを受け取る瞬間の写真が載っていた。俺の肩にたすきが掛かる、ちょうどあの場面だ。

 

俺はその画面を何度も拡大した。

 

受け取る俺の顔ははっきり写っていた。胸元のゼッケンも読める。なのに、渡している相手だけがおかしかった。

 

ユニフォームの輪郭はある。腕を伸ばしている形もある。けれど、その内側だけが空だった。顔のあるはずのところに、後ろのガードレールの白さが透けて見える。胸のあたりには、本来隠れるはずの路面の灰色がそのまま通っていた。

 

誰かが写っている写真じゃない。

 

誰かがいた形だけが残っている写真だった。

 

思わず画面を閉じた。

 

もう一度開いても、やはり同じだった。他の学校の受け渡し写真は、みんな普通に撮れていた。

 

写真を閉じたあとも、画面の黒い反射に、誰かの肩だけがまだ残っている気がして、しばらくスマホを伏せた。

 

学校に着いて、用具の片付けを手伝った。

 

みんな疲れていて、会話も少ない。たすきを洗う前に一度集めるのが毎年の決まりらしく、顧問が部室の床に一本ずつ並べていった。

 

俺はその横でゼッケンを外していた。

 

顧問が数を数える。

 

「……一、二、三、四、五、六、七」

 

そこで一度、手が止まった。

 

床には、もう一本あった。

 

俺は確かに見た。少し離れた端に、くしゃっと折れたたすきが一本だけ置かれていた。ほかのものより色が暗く見えた。濡れているみたいに光っていて、さっきまで誰かの肩に掛かっていたような皺が残っていた。

 

顧問はそれを見て、何も言わずにもう一度数え直した。

 

「一、二、三、四、五、六、七」

 

今度は、最初から七本しかないみたいな声だった。

 

けれど俺は見ていた。さっき確かに、一本多かった。

 

そのとき、主将が後ろから低い声で言った。

 

「今年も、ちゃんと戻りましたね。……一人も欠けずに」

 

顧問は返事をしなかった。

 

ただ、床のたすきを束ねる手つきだけが妙に丁寧だった。一本だけ、触れる前にほんの少し間を置いたように見えた。

 

俺は何も言えなかった。

 

言えば、あの中継所で誰から受け取ったのかまで、はっきりしそうな気がしたからだ。

 

その夜、家でスパイクを拭いていると、指先に乾いた感触が残っていた。

 

砂ではない。汗でもない。布の端を長く握っていたときの、少し固くなった繊維の感触だ。

 

思い出したくもないのに、肩に掛かった瞬間の重さだけは、まだはっきりしている。

 

翌年の春、またコース確認の日が来た。

 

二年だった俺は三年になり、新入生も入ってきた。顧問は去年と同じ地図を広げ、主将が去年と同じ場所を指した。あの区間の説明になると、やはり空気が少し変わる。

 

そのとき、後ろにいた一年が小さく聞いた。

 

「そこ、そんなに難しいんですか」

 

俺より先に、今の主将が答えた。

 

「大丈夫だ。顔は見なくていい」

 

それを聞いた瞬間、背中の内側が冷えた。

 

俺は去年、自分が誰から受け取ったのか、結局いまも思い出せない。

 

ただ、あの区間だけは毎年、補欠が入ることが多い。

 

そして走り終えた後はいつも、人数も記録も、何ひとつ足りないものがないみたいに揃ってしまう。

 

……なのに、たすきを数えるときだけ、誰も少し黙る。

 

順番に話します。

 

最初に変だと思ったのは、空が広すぎることでした。

 

こう言うと変ですよね。空は広いものだし、田舎へ引っ越してきた子どもが、見慣れない景色にそう感じただけだろうって。たぶん、最初はその通りだったんです。だから、その時点では怖くも何ともありませんでした。

 

前に住んでいたところより家が少なくて、田んぼが広くて、山が近いのに、その上だけ妙に抜けて見えました。夕方になると、どの家の窓も同じ色に光って、暗くなるのが早いんです。夜は思っていたよりずっと暗くて、そのぶん星が多かった。

 

引っ越してきた日の夜、母が玄関先に出て、小さく言いました。

 

「星、すごいねえ」

 

ぼくも外へ出ました。ほんとうに、星が多かったんです。黒い紙に針で穴を開けたみたいに、細かい光が空いっぱいに散っていました。

 

そのとき、道の向こうの家のおばあさんが声をかけてきました。

 

「最初はびっくりするよ。こっちは夜になると、よく見えるから」

 

ぼくは星のことだと思って、はい、と答えました。

 

実際、たぶんそうだったんだと思います。ただ、そのおばあさんは、話しながらあまりぼくのほうを見ていませんでした。空のほうを見たまま、笑っていたんです。田舎の人はそういうものなのかなと思って、そのときは気にしませんでした。

 

学校へ行ってからも、最初は、この町の人は空の話をよくするんだな、くらいにしか思っていませんでした。

 

転校した先の小学校は全校生徒が少なくて、教室の窓が大きかったんです。廊下も明るくて、どこからでも外が見えました。休み時間になると何人かは窓ぎわへ寄っていくし、先生も授業の前にカーテンを開けながら、今日はよく晴れてるなあとか、夕方までは持ちそうだなあとか、そういうことを普通に言うんです。

 

それだけなら、別に変じゃないんです。

 

でも、何日かいるうちに、耳に残る言い方が増えていきました。

 

「まだ見える」
「今日は高いね」
「夕方のほうが分かるよ」
「春は多いから」

 

今こうして並べると、どれもたいした言葉じゃないですよね。雲の話か、飛行機雲か、星か、月か、そのくらいのことだろうと、ぼくも最初は思っていました。

 

ただ、みんな、全部は言わないんです。前に何かが省かれているみたいな話し方をするときがありました。何のこと、と聞いても、

 

「空のこと」
「さっきの」
「見れば分かるよ」

 

そのくらいで終わるんです。

 

それが少しずつ気になり始めたのは、四月二十六日でした。

 

昼休みの校内放送で、放送委員の上級生が「今日はエイリアン・デーです」と読んだんです。昔の映画に出てくる数字にちなんだ日だと説明して、教室の何人かが笑いました。

 

「宇宙人の日じゃん」

 

そう言った子がいて、みんな少しざわつきました。担任の先生まで笑って、

 

「この町は空が広いから、ちょうどいいかもな」

 

と言ったんです。

 

たぶん、そこで何かが変なふうにつながったんだと思います。

 

そのとき、窓側にいた子が外を見ました。つられるみたいに隣の子も見る。前の席の子も、後ろの席の子も、少しずつ顔を上げました。先生まで、黒板に向けていた目を外へ流したんです。

 

ぼくも振り返りました。

 

青い空に、白いものが細くのびていました。飛行機雲なのか、雲そのものなのか、よく分からない線でした。ぼくに見えたのは、それだけです。

 

でも、その数秒だけ、教室の空気が変わった気がしました。みんなが同じものを見て、同じことを考えて、それで終わったみたいに見えたんです。

 

すぐに誰かが笑って、別の話になりました。誰も、今の何、とも言いませんでした。

 

あれが、たぶん最初のきっかけです。

 

そのあと、下校のときに通る橋が気になるようになりました。田んぼ道の途中の、小さな橋です。用水路にかかっていて、そこから空が広く見えました。

 

みんな、なぜかそこへ来ると少しだけ歩くのが遅くなるんです。立ち止まるほどじゃない。本当に、ほんの少しだけ足がゆるむ。そして、何人かが上を見るんです。

 

ある日、前を歩いていた子が、まだ消えないね、と言いました。
横にいた子が、今日は風ないから、と返しました。
その後ろの子が、夜まで残るかな、と言いました。

 

今なら、飛行機雲の話なんだろうと思えます。

 

でも、そのときのぼくには、そう聞こえませんでした。

 

それぞれが別のことを言っているのに、ひとつの会話になっているように聞こえたんです。しかも、その相手がすぐそばの人じゃなくて、もっと遠くの、もっと上のほうにいる何かみたいに思えてしまった。

 

家にいても同じでした。

 

夕方になると、近所の大人たちが道ばたで立ち話をするんです。畑帰りの人、買い物帰りの人、洗濯物を取り込んだ人。みんな、ごく普通に話しているだけなんですけど、カーテンの隙間から見ていると、会話の途中で何度も空を見るんです。

 

「今日は明るいねえ」
「このへん、よく通るからね」
「春は長く見える日があるよ」
「山がないぶん、見やすいし」

 

どれも、おかしなことは言っていません。ほんとうに、その通りです。たぶん雲とか飛行機とか、そういう話だったんだと思います。

 

でも、そのころのぼくには、それが全部、同じ話の続きに聞こえていました。

 

母に言っても、

 

「このへんは星とか月とか好きな人が多いんじゃない?」

 

それで終わりました。そう言った母まで、その夜は台所の窓から少しだけ空を見ていたんです。何気ないことなのに、それだけで急に知らない人みたいに見えて、ぼくは目をそらしました。

 

それからは、空を見上げる人みんなが怖くなっていきました。

 

教室で外を見る子。
橋の上で歩くのをゆるめる子。
洗濯物を持ったまま空を見ているおばあさん。
先生。商店のおばさん。畑の人。母まで。

 

そうやって挙げていくと、自分でもおかしいです。でも、そのときは本当に、みんなが人間のふりをしているだけなんじゃないかと思ったんです。

 

宇宙人だ、と口に出したことはありません。そんなことを言ったら笑われるって分かっていましたし、言った瞬間に、自分のほうがおかしいことになる気がしていました。

 

だから、黙って見ていました。

 

見ているうちに、話し始めるタイミングが似ているとか、黙るときが同じだとか、空を見る角度まで揃っているとか、そういうことがどんどん気になってきたんです。たぶん、気にし始めたから余計にそう見えたんだと思います。

 

それでも、そのころのぼくの中では、少しずつ決まっていきました。

 

この町の人たちは、空の上の何かとつながっている。

 

そうじゃなければ、あんなふうに同じものを見て、何も説明しないまま納得した顔をするわけがない。そんなふうに思うようになっていました。

 

夜、なかなか眠れなかったことがあります。

 

布団の中で目を閉じていると、家の前から小さな話し声がしたんです。何人かいました。笑うでもなく、怒るでもなく、低い声でぽつぽつ話していました。

 

ぼくは起き上がって、そっとカーテンを少しだけ開けました。

 

道のところに、三人立っていました。近所のおばあさんと、畑の男の人と、見たことのある女の人でした。みんな静かで、手も振らないし、身ぶりもほとんどない。ただ、話の合間に、同じほうを見るんです。

 

空でした。

 

電線より上、山の向こうより上、もっと高いところです。

 

「まだ見えるね」
「今日は長いな」
「風がないからね」

 

誰かがそう言って、少し笑いました。

 

それだけなんです。ほんとうに、それだけでした。

 

でも、ぼくにはその三人が、誰かと話しているように見えました。三人だけで立っているのに、そこにもう一人、いや、もっとたくさんいるみたいに見えたんです。

 

話し声がいったん切れて、みんなが同じ角度で上を向きました。

 

その沈黙が、いちばん怖かった。

 

何も聞こえないはずなのに、向こうから返事があったあとの静けさみたいに思えたんです。

 

ぼくはカーテンを閉めました。手が震えて、うまく端をつかめませんでした。心臓が速くて、喉が乾いて、どうしていいか分かりませんでした。

 

もしあの人たちが本当に宇宙人で、空にいる仲間と話しているのだとしたら、この町にはもう人間なんてほとんどいないのかもしれない、と思いました。

 

その夜は、ほとんど眠れませんでした。

 

屋根の上を風が流れる音がして、そのたびに誰かが歩いているように聞こえました。遠くで犬が一度だけ鳴いて、それきり静かになりました。静かすぎて、自分の息の音だけが大きかったんです。

 

何度も窓の外を見たくなりました。でも、見たら最後な気がして、朝まで布団をかぶっていました。

 

翌朝、何も起きませんでした。

 

母はいつも通り朝ごはんを出して、忘れ物ない、と聞きました。外もいつも通りで、犬が吠えて、軽トラが通って、遠くで鳥の声がしました。

 

昨日の夜のことだけが、夢みたいに浮いていました。

 

それでも、橋のところまで来ると、足が少し重くなったんです。

 

前を歩いていた同級生が、振り向いて言いました。

 

「今日、雲低いね」

 

ぼくは、うん、と答えようとして、少し遅れました。
それから、なぜか自分でも分からないまま、足を止めそうになったんです。

 

空は薄曇りで、高いところに白いものがのびていました。何も特別なものは見えませんでした。見えないはずなのに、胸のあたりがすうっと静かになりました。

 

それで、口が勝手に開きました。

 

「今日は低いね」

 

言ったあとで、自分が何を言ったのか分かりませんでした。

 

同級生は少しも変な顔をしませんでした。ぼくの横に並んで空を見て、うん、とだけ言いました。

 

……以上です。

 

たぶん、そのあたりからです。

 

周りの人が普通に話していても、その言葉をそのまま受け取れなくなったのは。空の話をしている人を見ると、ああ、この人もなんだ、と思うようになったのは。

 

そこまで話して、ぼくは膝の上で握っていた指をほどきました。

 

診察室は明るくて、白い机の上にカルテとボールペンがありました。正面に座っていた先生は、途中で一度も話をさえぎらず、最後まで聞いていました。

 

少しだけ間を置いてから、先生は静かに言いました。

 

「順番に話せていますよ。ひとつずつ整理していきましょう」

 

それからメモを取りながら、やわらかい声で続けました。

 

「その町は、空がよく見える土地だったんですね」

 

ぼくは返事をしませんでした。

 

先生が、何気なく窓のほうへ目をやったのを見てしまったからです。

 

ただの確認だと分かっているのに、それでも先に、ああまただ、と思ってしまいました。

 

診察室の窓の外は薄曇りで、白いものが低くのびていました。

 

先生はしばらくそれを見てから、こちらへ向き直って言いました。

 

「今日は、少し低いですね」

 

ぼくは椅子の肘掛けを、黙って握り直しました。

 

その言い方を、もう知っている気がしたからです。

 

4月25日。拾得物の日。

 

そんな記念日があることを知ったのは、ずっと後のことだった。

 

その頃の私は、落とし物を拾うのは面倒でも、悪いことではないと思っていた。
少なくとも、あの夜までは。

 

うちのマンションは、駅から少し歩いた場所にある、ごく普通のファミリー向けの建物だ。
築年数はそこそこ。オートロックは付いているが、高級というほどではない。
住民同士、顔を見れば何となく分かる。ただ、名前までは知らない。そういう距離感だった。

 

その夜は、仕事が少し長引いて帰宅が遅くなった。
エントランスを抜け、エレベーターに乗り込んだとき、床の隅に黒い財布が落ちているのが見えた。

 

壁際に寄るように、妙にきちんとした向きで置かれていた。
落ちたというより、そこへ残していかれたようにも見えたが、そのときは深く考えなかった。

 

誰かが気づいて戻ってくるかとも思った。けれど、扉が閉まっても足音はしない。
拾い上げると、見た目は普通だった。厚みも重さも、不自然というほどではない。

 

管理人はもう帰っている時間だったし、そのまま置いていくのも気持ちが悪かった。
私は財布を持ったまま部屋へ戻った。

 

妻が食卓を片づけていて、「どうしたの」と聞いた。

 

「エレベーターに落ちてた。明日の朝、管理人室に預ける」

 

それだけ言って、私は財布をテーブルの端に置いた。

 

子どもはまだ起きていて、机の上には玩具のカタログが広がっていた。
来週が誕生日だった。最近はその話ばかりしている。

 

「まだ決まってないのか」

 

そう聞くと、子どもはカタログを指で叩いた。

 

「これ。青いやつじゃなくて、声が出るほう」

 

見ると、恐竜のキャラクター玩具だった。今どきの子どもに人気のシリーズで、テレビでもよく見かける。
妻が苦笑して、私のほうを見る。

 

「だから当日は遅れないでって、前から言ってるでしょ」

 

「分かってる。今年はちゃんと早く帰るよ」

 

たしか、その程度の会話だった。

 

子どもの誕生日が近いこと。
欲しがっているのが恐竜の玩具であること。
青いほうではなく、音が鳴るタイプがいいこと。
そして、その日は私がなるべく早く帰る約束をしたこと。

 

どこの家にもある、何でもない夜だった。

 

翌朝、出勤前に私は財布を管理人室へ届けた。
管理人は事務的に受け取り、「落とし主が名乗り出たら返しておきます」とだけ言った。
誰が拾ったかまで伝える感じではなかったし、私も名乗る必要はないだろうと思って、そのまま仕事へ向かった。

 

最初の違和感は、その日の夕方だった。

 

エントランスで、見覚えのある男に声をかけられた。
同じマンションの住民だとは思う。何度か見たことはある。ただ、何階の誰かまでは分からない。
四十前後だろうか。清潔感があって、感じのいい顔をしていた。

 

「先日は、ありがとうございました」

 

軽く会釈をしながら、男はそう言った。

 

「財布。管理人室に届けてくださったんですよね。助かりました」

 

その瞬間、胸の中に小さな引っかかりが生まれた。
だが、管理人が伝えたのだろうと思えば、それで済む程度の違和感でもあった。

 

「いえ、たまたま見つけただけなので」

 

そう返すと、男は細い封筒を差し出してきた。

 

「大したものではないんですが、お礼に。ちょうどお子さんのお誕生日、近いんですよね。ご家族で使ってください」

 

私は反射的に、「いや、そこまでしていただかなくても」と言った。
男は困ったように笑った。

 

「拾っていただいた感謝です。受け取っていただけると、こちらも気が済みます」

 

押し返すのも感じが悪い気がして、結局、私は封筒を受け取った。
中には、このあたりでは少し有名なレストランの食事券が入っていた。

 

部屋へ戻るエレベーターの中で、私はようやく足を止めた。

 

――誕生日?

 

私はあの男に、子どもの誕生日の話など一言もしていない。
そもそも、財布を直接返してもいない。
管理人室へ預けただけだ。

 

その夜、私は管理人に何気ないふうを装って聞いた。

 

「落とし主の人って、拾った人のことまで聞くものですか」

 

管理人は首を振った。

 

「いえ、そこまでは普通お伝えしませんよ。届け物がありました、とは言いましたけど」

 

それで十分だった。

 

あの男は、管理人から聞いたのではない。
自分で知っていた。

 

それでも私は理屈を探していた。
誰かに見られていたのかもしれない。
家族連れだと、共有部で見て分かったのかもしれない。
誕生日というのも、ただの言い回しだったのかもしれない。

 

そう思わないと、気持ちが悪かった。

 

財布の礼を言われてから数日後、妻の帰りが少し遅くなる日があった。
私は学童へ子どもを迎えに行き、そのまま連れて帰った。

 

エントランスでオートロックを抜け、エレベーターを待っているときだった。

 

「あ」

 

背後で、聞き覚えのある声がした。

 

振り向くと、あの男が立っていた。
仕事帰りらしい軽装で、片手に玩具店の紙袋を持っている。

 

「こんばんは」

 

男は笑ってから、子どものほうを見た。
露骨ではない。大人が子どもに向ける、ごく普通のやわらかい目つきだった。

 

「この前のお礼、まだ足りない気がして。これ、よかったら」

 

紙袋を差し出されて、私は思わず首を振った。

 

「いえ、もう食事券までいただいたので」

 

「大したものじゃないんです。今、子どもに人気のキャラクターですよね」

 

男は袋の口を少し開いた。

 

「親戚の子にと思って買ったんですが、年齢が合わなかったみたいで。捨てるのももったいないですし、迷惑でなければ」

 

その瞬間、子どもの目が変わった。

 

「あ、それ……」

 

袋の中に見えた箱には、恐竜のキャラクターが印刷されていた。
子どもが、カタログを見ながら欲しがっていたシリーズだった。

 

私は遮るように言った。

 

「いや、でも、そんなものまでいただくわけには」

 

男は困ったように眉を下げた。

 

「そう言われると、こちらも引っ込めにくいんです。財布、本当に助かりましたから」

 

穏やかな言い方だった。
押しつけがましさはない。だから余計に断りづらかった。

 

ちょうどエレベーターが来る音がした。
私は妙に焦って、結局「では、ありがたく」と言って紙袋を受け取ってしまった。

 

男は満足そうにするでもなく、ただ礼儀として軽く頭を下げただけだった。

 

「お子さん、喜ぶと思いますよ」

 

それだけ言って、階段のほうへ歩いていった。

 

部屋に入るなり、子どもは袋から箱を出して声を上げた。

 

「これ、昨日言ってたやつじゃん」

 

私は靴を脱ぎかけたまま止まった。

 

箱を見た。
恐竜のキャラクター玩具。シリーズ自体はたしかに人気だ。店でもよく見かける。
男の言った「今、子どもに人気のキャラクター」という説明も、一応は通る。

 

けれど、それは同じシリーズという程度ではなかった。
青いほうではなく、音が鳴るほう。
昨夜、子どもがカタログを指さしながら欲しがっていた、そのままの物だった。

 

妻が帰ってきて事情を話すと、最初は「たまたまでしょ」と言いかけて、箱を見たあとで黙った。

 

「……これ、この前見てたのと同じじゃない?」

 

「同じだよ」

 

「シリーズが同じとかじゃなくて?」

 

「同じ」

 

それきり、しばらく誰も喋らなかった。
子どもだけが床に座って、嬉しそうに箱を開けていた。

 

その音が、妙に部屋に響いた。

 

その晩、玩具は何度か電子音を鳴らした。
子どもが遊んでいるのだから、それ自体は普通だった。
けれど一度だけ、誰も触っていないはずのタイミングで短く鳴いた。

 

私は気のせいだと思おうとした。
妻も何も言わなかった。

 

それから、あの男の言葉の鮮度が変わった。

 

最初はまだ曖昧だった。

 

「今年は平日でしたよね。お祝い、前倒しですか」

 

「人気のお店は土曜の夜、混みますからね」

 

その程度なら、食事券の店のことを言っているだけだとも取れた。

 

だが、次第にずれ始めた。

 

夜、妻と私は小声で話した。
食事券を使う気にはなれないこと。
玩具も気持ち悪いが、子どもがもう気に入ってしまっていること。
管理会社へ相談するか、警察へ行くか。
それとも、私の考えすぎで終わらせるべきか。

 

翌朝、エレベーターで男と一緒になった。
男は前を向いたまま、静かな声で言った。

 

「大ごとにすると、奥さんも疲れますよ」

 

私は顔を上げた。

 

男はこちらを見なかった。
ただ階数表示を見ているだけだった。

 

その夜から、家の中の空気が変わった。

 

私たちはテレビの音を下げた。
食卓で子どもの誕生日の話をしなくなった。
リビングで大事な話をしないようになった。
妻は寝室のドアを前よりきつく閉めるようになった。
子どもは理由も分からないまま、玩具を抱えて一人で遊ぶことが増えた。

 

家の中にいるのに、家の中での話し方が分からなくなっていく感じだった。

 

ある晩、妻が風呂に入っているあいだ、子どもが玩具をリビングに置いたまま寝てしまった。
私は何となく気になって、その恐竜を手に取った。

 

裏側に小さなネジが見えた。
電池交換のためなら珍しくもない。
けれど、必要以上に触りたくない感じがした。

 

子どもの物を勝手に壊すのも躊躇われて、そのまま元の位置へ戻した。

 

翌日、男は郵便受けの前で私を見て、ふっと笑った。

 

「お子さん、大事にしてますね」

 

それだけだった。
それだけなのに、昨夜、玩具に触れたことまで見られていた気がして、背中が冷えた。

 

その夜、私は初めて、玩具のほうを本気で疑った。

 

財布はもうない。
管理人室へ預けて、それで終わっている。
なのに、そのあとにした会話まで男は知っている。
家の中に残っている“外から来た物”は、今やあの恐竜だけだった。

 

確かめたかった。

 

翌日、子どもが寝たあと、私は玩具をそっとリビングから持ち出して、車のトランクへ入れた。
壊れたと言えば子どもが泣くだろうと思って、ただ一晩だけ預けるつもりだった。

 

その夜は、妙に静かだった。
静かすぎて、こちらが声を潜める必要もないことが、かえって気持ち悪かった。

 

妻と私は、わざとらしいくらい普通の話だけをした。
誕生日のことには触れず、管理会社の話にも触れなかった。

 

翌朝、エレベーターで男と会った。
いつものように会釈はしたが、それだけだった。
新しいことは何も言わない。

 

私はその晩、玩具を元の場所へ戻した。

 

そして、わざと妻と話した。
今度の日曜、妻の実家に事情を話すこと。
しばらく子どもを向こうへ預ける案があること。
必要なら引っ越しも考えた方がいいこと。

 

囁くような声だった。
テレビも消して、子どもが寝てから話した。

 

翌朝、男は郵便受けの前で笑った。

 

「ご実家まで心配かけること、ないと思いますよ」

 

私は何も言えなかった。

 

男は続けた。

 

「小さい子がいると、移るのも大変ですし」

 

その言い方は、忠告に近かった。
脅しているわけではない。
穏やかで、むしろ親切そうな声だった。

 

そこがいちばん気持ち悪かった。

 

私はその日のうちに、玩具を家から出した。
子どもには「少し調子がおかしいから、お店で見てもらう」と嘘をついた。
泣かれたが、仕方がなかった。
会社のロッカーに押し込んで、鍵を閉めた。

 

その夜、久しぶりに家の中が家の中らしく感じた。
妻も少しだけ顔色が戻った。
まだ終わったわけではないが、とにかく、あれは部屋の中にない。
それだけで空気が違った。

 

けれど、翌日の帰宅時、エレベーターの前でまた男に会った。

 

男は紙袋も何も持っていなかった。
ただ、こちらを見て、ごく普通に笑った。

 

「修理、長引くといいですね」

 

足の裏が冷えた。

 

私は会社のロッカーの鍵を、無意識に握りしめていた。
あの玩具はまだそこにある。
家にはない。
それでも男は、なくなったことを知っている。

 

私はそのとき初めて、あれが盗み聞きの道具であるだけじゃないのだと理解した。
あの男は、物を置いていくたび、こちらがどこまで気づいたかまで見ているのだ。

 

その週の金曜、帰宅してエレベーターに乗ったとき、床の隅に黒い財布が落ちていた。

 

前のものとよく似ていた。
少し新しく見えるだけで、形も色も、よく似ている。
しかも前と同じように、壁際へきちんと寄せて置かれていた。

 

私は拾わなかった。
拾えなかった、と言った方が近い。

 

扉が閉まりかけたところで、外から小さな足音がした。
同じ階の子どもたちが走ってきて、開きかけた扉に手をかけようとした。
そのうちの一人が、床の黒いものに気づいて目を向けた。

 

反射的に私は「触るな」と大きな声を出してしまった。

 

子どもたちは驚いて止まった。

 

その向こうに、あの男が立っていた。

 

困ったような顔をしていた。
でも、目だけが少し楽しそうだった。
まるで、私が間に合うかどうかを見ていたみたいに。

 

その瞬間、ようやく分かった。

 

あの男は、財布を返してもらったことに感謝していたんじゃない。
拾わせることそのものを、楽しんでいたのだ。

 

一晩だけ家に置かれること。
家族がその前で喋ること。
こちらがあとから気づくこと。
気づいた顔で、それでも同じ建物に住み続けるしかないこと。
次は誰が拾うのか、私が止めるのか、それとも見て見ぬふりをするのか。

 

全部まとめて、あの男にとっては礼の要らない遊びだった。

 

今でも、ときどきエレベーターの床を見る。
何も落ちていない日でも、先に目が行くようになった。
子どもが先に乗り込むだけで、心臓が跳ねる。

 

拾ったのは、あの夜一度きりのはずだ。
なのに暮らしのほうは、あれ以来ずっと、何かを拾わされる前みたいに戻らない。

 

オートロックは外の人間を止める。
それだけだ。

 

中にいる人間には、何の役にも立たない。

 

その家は、中古住宅にしては破格だった。

 

駅までは車で十分ほど。大通りから一本入っているせいで夜は静かで、南向きの庭にはよく日が入る。築年数はかなり古かったが、外壁は塗り直され、水回りも表面だけ見ればそれなりにきれいだった。

 

安い理由が気になって、不動産屋には何度も聞いた。

 

「前の持ち主さんが、早めに手放したいご事情があったようで」

 

返ってきたのは、結局それだけだった。

 

事故物件にしては妙に明るい家で、欠陥住宅にしては床も壁もしっかりしている。下見のあいだじゅう、何か見落としている気がしていたのに、最後まで決定的な違和感は見つからなかった。

 

むしろ私は、その土地の感じを気に入っていた。

 

通勤には不便じゃない。スーパーも近い。静かで、風通しもいい。建物が古くても、いずれ建て直せば済む。土地ごと買っても損はない。そう思えるくらいには、条件が良かった。

 

最初の朝、風呂場の排水口に細い草が生えていた。

 

髪の毛が絡んでいるのかと思って、しゃがみ込んで見た。違った。濡れた銀色の金具の隙間から、三本だけ細い葉が立っていた。葉はやけに細く、色は緑というより紫に近かった。朝の光を受けると少し透けて、葡萄の皮みたいな色に見えた。

 

きれいだ、と一瞬だけ思ってしまったのが嫌だった。

 

すぐに指でつまむと、拍子抜けするほど簡単に抜けた。根元だけ白くて、抜いた先は少し湿っていた。草の匂いはしない。代わりに、濡れた布を長く放っておいた時みたいな、冷えた匂いが指先に残った。

 

その日はそれで終わった。

 

翌朝、今度は洗面台の蛇口の先に一本だけ出ていた。

 

最初は水滴が揺れているのかと思った。顔を近づけて、やっと葉だと分かった。細い紫の葉が、吐水口の網のところから覗いていた。金属の内側から出ているように見える、その生え方がまずおかしかった。

 

指で摘むと、昨日と同じように柔らかく抜けた。やはり根元だけ白かった。

 

三日目の朝には、風呂場と蛇口の両方に出た。

 

四日目には、二階の部屋の巾木の隙間から二本出ていた。

 

その時点で、水回りの問題ではないと分かった。

 

二階の床にしゃがみ込み、壁際に顔を寄せる。白い壁紙と木目の巾木の境目から、紫の線が二本だけ、まるで最初からそこに生えるものみたいな顔で出ていた。摘むとするりと抜けたが、最後にほんの少しだけ抵抗があった。床下のどこかへ、細く長くつながっているような感じがした。

 

それでも、朝のうちなら大したことはなかった。

 

風呂場で数本。洗面台で一本か二本。二階でまた数本。全部抜いても三分とかからない。出勤前のついでで済む程度だった。

 

だから私は、しばらくそれを習慣にした。

 

起きたら最初に風呂場へ行く。排水口を見て、紫の葉を抜く。次に洗面台の蛇口を見る。最後に二階へ上がって、巾木の隙間に指を滑らせる。

 

妙な習慣だったが、続けているあいだは増えなかった。

 

そのかわり、抜き忘れた日はすぐ分かった。

 

寝坊した朝、一度だけそのまま出勤したことがある。その夜帰ると、風呂場の排水口のまわりに紫が輪になっていた。蛇口の先にも束で覗いていた。二階は巾木の下に細い線が引かれたみたいに並んでいた。

 

ただ増えた、という感じではなかった。

 

朝に私が触る場所だけを覚えていて、そこへ少しずつ寄ってきたように見えた。

 

慌てて全部抜いた。何とか抜けた。

 

その時、先の一部に、ごく細い穂のようなものがついているのに気づいた。

 

草に見えるとは思っていたが、穂まで出ると急に植物らしくなった。なのに、植物らしくなるほど気味が悪い。白い洗面台に落ちたその穂は、乾いた途端に黒っぽく縮れて、細い虫の脚みたいに丸まった。

 

まず水道業者を呼んだ。

 

蛇口を外し、配管を見てもらい、漏水の有無も調べてもらった。排水口の奥も覗いてくれた。若い作業員は、抜いた現物をティッシュに載せてしばらく見ていたが、最後には首を傾げた。

 

「配管に異常はないですね」

 

「これ、どこから出てるように見えます?」

 

「いや……説明がつかないです」

 

その人は最後に風呂場の床を見回してから、何か言いかけてやめた。笑いもしなかった。ただ、長くいたくなさそうだった。

 

次に住宅点検の業者を入れた。

 

床下、壁の湿気、雨漏りの痕、シロアリ、基礎の状態まで一通り見てもらった。結果は全部、異常なしだった。築年数のわりにしっかりしているくらいだとまで言われた。

 

「植物が育つ条件はないですよ」

 

「二階ですしね」

 

「これが本当に自然に出てるなら、家の問題としては扱いにくいです」

 

扱いにくい、という言い方が嫌だった。

 

不具合なら直せる。原因があるなら潰せる。そういう話ではない、と遠回しに言われた気がした。

 

意地になって、大学の植物系の研究室へ写真を送った。

 

風呂場、蛇口、二階。抜いた現物。葉の色。白い根元。細い穂。できるだけ分かるように撮って送った。返事は三日後に来た。

 

『形態は植物に見えます。イネ科の草本に近い印象もありますが、写真だけでは断定できません』

 

『ただ、この生育環境は説明できません』

 

それで十分だった。

 

現物も送り返した。追加の返答はもっと短かった。

 

『本当に蛇口から出ていましたか』

 

それだけだった。

 

台所の引き出しで、前の住人のものらしい毛抜きを見つけたのは、その少し後だ。一本や二本じゃない。先の細いものが何本も入っていた。洗面台の下には、古いピンセットもあった。

 

冷蔵庫の脇に挟まっていた古いカレンダーには、毎朝、小さく丸がついていた。月の途中までは一日も欠けず、そこから先だけ急に空いていた。

 

最後に、メモが一枚だけ出てきた。

 

走り書きで、短かった。

 

『朝のうちにやること
 水のところから先
 穂が出る前に抜くこと』

 

それを読んだ時、ようやく前の住人の暮らしが見えた。

 

この家に住むには、毎朝それをしなければならなかったのだ。

 

私はしばらく真面目に続けた。朝早く起きて、風呂場、洗面台、二階の順に回る。穂が出る前に抜く。袋にまとめて捨てる。面倒ではあったが、やれば済む。逆に言えば、それをしているあいだだけは静かだった。

 

静かすぎるくらいだった。

 

朝の巡回を終えた日は、家の中の空気まで軽くなる気がした。逆に一か所でも見落としたような気がすると、仕事中まで落ち着かなかった。帰宅して真っ先に洗面台を覗き込み、二階へ上がるようになった。

 

もう暮らしているというより、抑えている感じになっていた。

 

けれど、人間はそのうち慣れる。

 

慣れると、少しくらい大丈夫だと思う。

 

出張で一晩空けた。帰った翌朝、風呂場は排水口だけじゃなく、目地に沿って紫が滲んでいた。蛇口をひねると、水といっしょに細い葉が何本も揺れた。二階では巾木だけじゃなく、窓枠の下にも出ていた。

 

その日だけは、紫の色が妙に濃かった。朝の光を受けて、湿った皮膚みたいに鈍く光っていた。

 

抜いても、抜いても終わらなかった。

 

根は長く、途中で切れた。切れるたびに、家のどこか深いところへ残りが引っ込んでいく感じがした。洗面台の下に落ちた切れ端は、血の色ではないのに、やけに生っぽい紫だった。

 

その日の夜、風呂場へ入るのが少し嫌になった。

 

蛇口の口に黒い穴があるのを見るだけで、その中にまだ何本も詰まっている気がした。二階へ上がる階段も、途中から妙に静かで、壁際に目をやるのが怖かった。

 

私はもう、この家が駄目なんだと思った。

 

配管でもない。湿気でもない。業者が見ても異常なし。植物学の専門家に見せても説明がつかない。なら、建物そのものが悪いのだと思いたかった。

 

もともと立地は気に入っていた。

 

古い家を買った時から、いつか建て直すのもありだと考えていた。土地が良いからだ。この場所を手放す気はなかった。

 

私は家を解体した。

 

壁も床も剥がれ、風呂場も洗面台もなくなった。基礎まで露出した時、何か出るのではと少し期待した。紫の根が土の下で塊になっているとか、配管にびっしり絡んでいるとか。そういう分かりやすいものが見つかってくれれば、まだ戦いようがあった。

 

何もなかった。

 

土は普通の土に見えた。乾いた土の色をしていて、ただの更地だった。解体業者は淡々と作業を終え、古い家はきれいになくなった。

 

そのあいだだけ、朝は静かだった。

 

風呂場も蛇口も、もう確認しなくていい。二階へ上がって巾木を見ることもない。久しぶりに、人並みの朝に戻れた気がした。

 

更地になってから、新築の工事が始まった。

 

今度の家は小さくしたが、そのぶんちゃんとした。断熱も気密も、配管も水回りも全部新しい。風呂も洗面台も新品で、二階の壁も床も当然きれいだった。

 

引き渡しの日、私は少しだけ安心した。

 

ようやく、朝起きた時に最初に排水口を見る必要のない生活に戻れる。顔を洗う前に蛇口の先を確かめなくていい。二階の巾木を覗き込まなくていい。

 

普通のことが、急にありがたく思えた。

 

その夜は、久しぶりによく眠れた。

 

翌朝、顔を洗おうとして新しい洗面台の前に立った。

 

蛇口の先に、水滴が一つ揺れているように見えた。

 

近づくと、それは水滴じゃなかった。

 

細い葉だった。朝の光を受けて少し透ける紫色。見慣れた太さだった。根元だけ白く、新しい蛇口の吐水口から、一本だけ静かに出ていた。

 

一本だけだった。

 

だからこそ、前より嫌だった。

 

まだ間に合う形で、また始まっているのが分かったからだ。

 

しばらく見ていた。

 

驚きもしたが、それより先に体が分かってしまった。

 

朝のうちなら、まだ指で取れる。

 

私は無言で指を伸ばした。摘むと、柔らかく抜けた。あの家で何度も聞いたのと同じ、ほんの少し湿った音がした。

 

新しい家の、新しい朝だった。

 

けれど、指先にはもう、次に回る順番が残っていた。
 まず水のところから先。
 それが終わったら、二階を見る。
 見なくていいはずの場所まで、たぶんそのうち見るようになる。

 

洗面台に置いた紫の一本は、新しい白さの上でひどく目立った。

 

まるで建て直したのは家だけで、こちらの暮らしのほうは、何ひとつ変わっていないみたいだった。