5月3日。ごみの日。
そんな語呂合わせみたいな記念日があることを知ったのは、引っ越してきてからだった。
市の広報紙の片隅に、小さく載っていた。
ごみの減量。
正しい分別。
資源の再利用。
どれも大事なことだとは思う。
思うけれど、引っ越し直後の段ボールだらけの部屋でそれを読むと、少しだけ責められているような気分になった。
そのアパートは、築年数のわりに家賃が安かった。
駅まで歩けない距離ではない。近くにスーパーもある。壁は薄いが、我慢できないほどではない。
ただ、町内の空気が古かった。
古い、というのは建物だけの話ではない。
道の幅、電柱の貼り紙、玄関先の植木鉢、軒下に吊るされた古い虫よけ。
そういうものが、少しずつ昔のまま残っている町だった。
引っ越して三日目の夕方、町内会の班長だという男が訪ねてきた。
「ごみ置き場、分かりますか」
そう言って、ラミネートされた分別表を渡された。
燃えるごみ。
燃えないごみ。
びん、缶、ペットボトル。
古紙。
粗大ごみ。
説明は丁寧だった。
こちらが新入りだからか、出す時間まで細かく教えてくれた。
「朝の八時までに出してください。前日の夜は、できれば避けてください」
「カラスですか」
「まあ、それもあります」
男は、そこで少しだけ言葉を濁した。
それから集積所の場所を指で示し、最後にこう付け足した。
「あと、収集されずに残っている袋があっても、触らないでください」
「分別違反のやつですか」
「そうですね。まあ、そんなようなものです」
そんなようなもの。
妙な言い方だった。
けれど、引っ越してきたばかりの人間が、そこで細かく聞くのもおかしい。私は軽くうなずいて、分別表を冷蔵庫に貼った。
最初のごみ当番は、すぐに回ってきた。
当番といっても、収集後にネットを畳んで、散らかったものがあれば軽く片付けるだけだ。
朝の七時半、眠い目をこすりながら集積所へ行くと、すでにいくつもの袋が並んでいた。
半透明の袋に、結ばれた口。
見慣れたはずの光景なのに、知らない町のごみは、少しだけ他人の生活を覗いているようで落ち着かなかった。
八時を少し過ぎたころ、収集車が来た。
作業員は慣れた手つきで袋を積み込んでいく。
短い機械音と、袋が押し潰される鈍い音。
それだけで、朝の集積所は急に空っぽになった。
ただ、一袋だけ残っていた。
黒いごみ袋だった。
市指定の袋ではない。
口はきつく結ばれていて、表面には白い紙が貼られている。
そこに、太い油性ペンで書かれていた。
分別不可
私はしばらく、その四文字を見ていた。
市の収集不可シールとは違う。
日付も、理由も、担当者名もない。
ただ、分別不可。
班長に言われたことを思い出した。
残っている袋があっても、触らないでください。
私はネットだけ畳んで、黒い袋をそのままにした。
それだけのことだった。
次のごみの日にも、同じ袋が残っていた。
いや、同じかどうかは分からない。
でも黒い袋で、白い紙で、同じ文字だった。
分別不可
その日は風が強かった。
袋の口が少しだけ緩んでいて、隙間から中身が見えた。
古い写真の切れ端。
子どもの靴下。
割れた湯のみ。
名前のところだけ擦れて読めない診察券。
髪の絡んだヘアブラシ。
生ごみではない。
危険物でもなさそうだった。
燃えるごみとして出せないわけでもないと思う。
けれど、それを見た瞬間、腹の奥が少し冷えた。
汚いからではない。
袋の中に入っていたのは、ごみというより、誰かが自分の生活から剥がしたかった部分に見えた。
もう要らない物。
思い出したくない物。
持っていると、まだそこに縛られている気がする物。
そういうものが、黒い袋の中で一緒くたになっている。
見てはいけないものを見た気がして、私はすぐに袋の口から目を逸らした。
その日の夜、部屋でレシートを探した。
買ったばかりの電気ケトルの保証書をしまうために、購入時のレシートが必要だった。
たしか、机の上に置いたはずだった。
けれど、見つからない。
段ボールの隙間。
財布の中。
冷蔵庫の上。
分別表の裏。
どこにもなかった。
代わりに、机の端に古いボールペンが一本置かれていた。
青い軸の、安っぽいペン。
見覚えはあるような、ないような。
高校のころ、こういうペンをよく使っていた気がする。
でも、持ってきた覚えはなかった。
疲れているのだと思った。
引っ越しは、思っているより人をぼんやりさせる。
三度目のごみの日。
私は、できるだけ黒い袋を見ないようにしていた。
けれど、見ないようにすると、かえって目が行く。
その日も袋は残っていた。
白い紙。
分別不可。
袋の下のほうに、何か硬いものが当たっている。
角の形が、ビニール越しに浮き出ていた。
私は触らないつもりだった。
本当につもりだった。
ただ、袋の口が前よりも開いていて、中のものがひとつだけ外へはみ出していた。
キーホルダーだった。
黒い革の、小さな長方形のキーホルダー。
角が擦れて、金具の部分だけ鈍く光っている。
私はそれを見た瞬間、息が止まった。
昔、同じものを持っていた。
整備の仕事に就いたばかりのころ、工具箱の鍵につけていたものだ。
安物で、特別なものではなかった。
けれど、初めて自分で買った工具箱だったから、その鍵につけたことだけは覚えている。
そのキーホルダーは、もうない。
何年も前に、どこかで落とした。
そう思っていた。
私は手を伸ばしかけて、止めた。
触らないでください。
班長の声が頭の中で鳴った。
そのままにして帰った。
帰ってすぐ、押し入れの奥を探した。
古い段ボールの中に、使わなくなった工具関係の小物をまとめて入れてある。
そこに、あのキーホルダーはなかった。
あるはずがない。
落としたと思っていたのだから。
なのに、ないことを確認して、私はかえって怖くなった。
次のごみの日、黒い袋の中には、茶色い封筒が入っていた。
封筒の角だけが見えた。
会社名の一部が印刷されている。
昔の職場の名前だった。
正確には、私が以前勤めていた会社に似た名前。
一文字だけ違っている。
そのせいで、かえって気持ちが悪かった。
その会社を辞めたときのことは、あまり思い出したくない。
大きな失敗をしたわけではない。
誰かと殴り合ったわけでもない。
ただ、自分の中で少しずつ何かが擦り減って、ある朝、作業着に袖を通せなくなった。
辞めた後、関係する書類は全部捨てた。
名刺も、給与明細も、メモ帳も。
捨てたはずだった。
その日の夜、押し入れから古い段ボールが一つ消えていた。
中身は、昔の書類や写真だったと思う。
正確には覚えていない。
覚えていないから、消えていても困らないはずだった。
でも、消えたことだけは分かった。
部屋の中の空気が、少し軽くなっていた。
片付いた、という軽さではない。
そこにあった重さごと、誰かが抜いていったような軽さだった。
アパートの管理人に、それとなく聞いてみたことがある。
「集積所に、黒い袋が残ってることありますよね」
管理人は玄関先の花に水をやっていた。
その手が、一瞬だけ止まった。
「ありますね」
「市の人、持っていかないんですか」
「持っていけないんでしょう」
「何が入ってるんですか」
管理人はホースの先を下に向けたまま、少し笑った。
「入ってるものを確かめるから、持っていけなくなるんですよ」
「どういう意味ですか」
「見なければ、ただの残った袋です」
そう言って、また水を撒き始めた。
それ以上は聞けなかった。
五度目のごみの日。
黒い袋の中に、小さな置物が入っていた。
白い陶器の猫だった。
片耳が欠けている。
胸のあたりが、嫌な音を立てた。
それは、別れた相手からもらったものだった。
旅行先の土産物屋で、適当に買ったもの。
別れた後、捨てるに捨てられず、押し入れの奥にしまっていた。
私は集積所から走って部屋に戻った。
押し入れを開ける。
段ボールを引っ張り出す。
服や書類を床に投げるようにして探した。
陶器の猫はなかった。
息が荒くなる。
私は集積所へ戻り、黒い袋に手を入れた。
冷たかった。
朝の空気の冷たさではない。
水に濡れたものを、ずっと日陰に置いていたような冷たさだった。
置物を取り出す。
片耳の欠けた白い猫。
間違いなく、あれだった。
持ち帰って、机の上に置いた。
その夜、部屋から古いスマホが消えた。
電源は入らない。
でも、中には昔の写真や、消せなかったメッセージが残っていた。
充電器をつなげば、もしかしたらまだ起動するかもしれない。
そんなふうに思いながら、何年も引き出しに入れたままだった。
代わりに、机の上の白い猫は、少しだけきれいになっていた。
欠けた片耳の断面が、前より滑らかになっている。
埃も取れていた。
まるで、袋の中に入っていたあいだに、誰かが丁寧に拭いたみたいだった。
それから、部屋の中で消えるものが増えた。
最初は物だった。
手帳。
古い写真。
鍵につけていた小さなライト。
前の職場で使っていたメモ帳。
次に、物ではないものが減っていった。
仕事から帰ってきたときの、自分の部屋に戻ったという感じ。
冷蔵庫の低い音。
布団に残っていた自分の匂い。
夜中に目が覚めたとき、ここが自分の部屋だと分かる感覚。
そういうものが、少しずつ薄くなる。
部屋は確かにある。
家具もある。
服もある。
生活用品もある。
けれど、暮らしている感じがしない。
モデルルームのように整っているわけではない。
むしろ散らかっている。
なのに、その散らかり方が、私のものではなくなっていた。
私は自分の散らかり方を知っている。
脱いだ服を置く向き。
開けた封筒を重ねる場所。
使ったコップを置きっぱなしにする位置。
そういう小さな癖だけが、部屋から抜け落ちていた。
ある朝、清掃員に聞いた。
「この袋、回収しないんですか」
作業員は黒い袋を見た。
見た、と思う。
少なくとも、視線が一度だけそこへ行った。
けれど次の瞬間には、何もなかったような顔で、別の袋を積み込んだ。
「分別されてないものは、こちらでは持っていけないんで」
「中身を確認してもらえませんか」
「確認しても、分別できないものは持っていけません」
言い方は事務的だった。
市のルールを説明しているだけに聞こえた。
でも、目が合わなかった。
収集車が去った後、集積所には黒い袋だけが残った。
白い紙が、朝の湿気で少し波打っている。
分別不可
私はその四文字を見ながら、ふと思った。
自分に必要なものと、もう要らないものの境目が、いつから分からなくなったのだろう。
捨てたかったもの。
残したかったもの。
忘れたいもの。
忘れたくなかったもの。
それらを私は、ちゃんと分けられていたのだろうか。
最後の朝は、やけに早く目が覚めた。
まだ外が薄暗い時間だった。
カーテンの隙間から入る光が青く、部屋の輪郭だけを浮かび上がらせていた。
机の上に置いたはずの財布がなかった。
鍵もない。
スマホもない。
昨日脱いで椅子に掛けたシャツも消えていた。
玄関に行くと、靴が一足もなかった。
私は裸足のまま、集積所へ向かった。
アスファルトが冷たかった。
新聞配達のバイクが遠くを走っている。
どこかの家で、雨戸が開く音がした。
集積所には、黒い袋があった。
いつもより少し大きい。
白い紙には、やはり同じ文字が書かれていた。
分別不可
袋の口は、最初から開いていた。
中には、私の財布が入っていた。
鍵。
スマホ。
昨日のシャツ。
郵便受けに届いていたはずの封筒。
アパートの契約書。
契約書を取り出すと、契約者名の欄だけが黒く滲んでいた。
紙が濡れているわけではない。
インクが流れたのでもない。
ただ、そこに名前があったことだけが、消されていた。
私は財布と鍵を持って部屋へ戻った。
階段を上がる。
ドアの前に立つ。
鍵を差し込む。
入らなかった。
何度やっても、鍵穴に途中までしか入らない。
部屋番号を確認した。
間違っていない。
けれど、郵便受けの表札には、知らない名前が貼られていた。
スマホを開こうとすると、顔認証が通らなかった。
パスコードも違う。
何度押しても、画面は冷たく震えるだけだった。
中から、生活音がした。
椅子を引く音。
水道を出す音。
小さなくしゃみ。
私の部屋だった場所で、誰かが普通に朝を始めている。
チャイムを押そうとして、指が止まった。
押したところで、何を言えばいいのか分からなかった。
ここは自分の部屋です。
私はここに住んでいました。
私のものが、ごみ袋に入っていました。
どれも、言葉にすると急に頼りなくなった。
階段を下りると、管理人が集積所の前に立っていた。
いつものように、エプロン姿で、片手にほうきを持っている。
私のすぐ横を通ったのに、目が合わなかった。
見えていない、というより、見る必要のないものとして通り過ぎた感じだった。
管理人は黒い袋を見て、小さくため息をついた。
「また残ってる……分別不可か」
私は声を出そうとした。
出なかった。
喉の奥に、細かく裂いた紙が詰まっているみたいだった。
やがて収集車が来た。
作業員たちは、ほかの袋を手早く積み込んでいく。
黒い袋の前では、誰も止まらない。
避けるわけでもない。
ただ、それが作業の対象に入っていないかのように、当然の顔で通り過ぎていく。
車が去ると、集積所は静かになった。
黒い袋だけが残っている。
袋の口から、男物の財布が見えていた。
鍵もある。
古いスマホもある。
昨日着ていたシャツも、くしゃくしゃに丸められていた。
誰のものか分からない。
そう思った瞬間、自分が何を探していたのか、少しだけ分からなくなった。
朝の湿気を吸って、白い紙がまた波打つ。
分別不可
回収されなかったのは、袋ではなかった。