何気ない事から、本当に成り行き任せの中からこんな形になりました。

間もなく迎える修学旅行。

それに向けて、僕達は知っておかなくてはいけない事なんだと改めて思いました。

この事実から決して目を背けてはいけないし、そこから何かを学びとらなくてはいけないんだと再認識しました。


今、自分達に出来る事


それは本当に何気ない、些細な事かも知れないけど、声を大にして…形にしていく事なんじゃないかなって思いました。

それは、ちょっと前に私が祖父との関わりの中で感じた事でもあります。


戦争の悲惨さを痛感し、平和について考える、そういう思いが…そういう声が集まった時、大きな力に変わるんじゃないかなって思います。


今、自分達に出来る事

それは、「ちゃんとこの過去の事実を受け止めて、未来につなげていくこと」なんじゃないかなって思います。

みなさんの思い、聞かせてもらいたいって思います。

その思いの集大成は、大きな財産として今後の生きる糧になるような気がします。

当初(1945年3月頃)、ガマは市民の避難所だった。

しかし、5月末には病院本部として機能した。

そこは血の臭いや尿や便などの臭いがごちゃまぜとなり、ひどい臭いがした。

医療物資の不足や戦況の悪化により、十分な手当てを受けられない者もいた。

そして…さらに戦局が悪化する中、負傷者がアメリカ軍の捕虜になる事を拒むため、青酸カリによって殺してしまったのである…


戦時中、戦火を逃れるために、人々はガマと呼ばれる鍾乳洞へ非難した。

人々の住居だけでなく、病院、警察、店などもガマの中にあった。

当然の事だが、ガマの中は閉鎖された空間のため、光がなかったり空気の入れ替えがなされない環境であった。

人々はその中で住んで尿、便をし、沖縄戦争で傷をおった人の膿などの匂いがガマの中全体に刺激臭として広まった。


日本国内における唯一の地上戦を行った沖縄本島。

日本軍の命令によりこの地の人々は沖縄本島に数多く存在するガマへ非難した。

この日本軍による沖縄戦引き延ばし作戦(捨て石作戦)は、ガマの存在によって生まれたと言っても過言ではない。

捨て石作戦により出た死者の数は、実に4人に1人の割合だったとも言われている。