世界を駆け巡るgakuのBlog Paddy gaku go around world -8ページ目

成都(チョンドゥ)

9月3日


康定から成都へは10時間の行程
久々の大都会への道は高速道路も整備されているらしい


バスも1時間に1本もペースで頻繁に出ているとの事で
チケットは当日買うことにしていた。
それならば、ちょっとの寝坊もでき、のんびり寝れる。


8時半には起床し、早速バス停へ
料金は112元(1500YEN)
それにしても中国での交通料金は重くのしかかる。
しかし、1時間辺りの料金が10~15元(150円)程という
東南アジアでのコストとそう変わりはないのだが
それだけ、この中国大陸が如何に大きいかという事だ。


エアコンやテレビモニターにて映画の上映や
座席の快適さから言うと
これまでのバスとは大きく異なり
それだけで成都に通じる、都会のムードを味わえた。
(それでもまだ、山道ではあるのだけれど。)


お昼時を過ぎて、バスは食事休憩になり
途中のバスターミナルに入ってゆく。
朝食に面を食べ、マントウとゆで卵を車内で食べていたので
腹は減っていなかったが、一度バスから降りる。


「うっ!!」


降りた途端に、暖かい気温に驚かされた。
エアコンの効いた車内では気が付かなかったが
山を降りて標高は下がり、もはや夏が戻ってきた事を感じた
周りの景色からすれば、成都はさらに暑いだろうと予想できた。


休憩を終え再びバスに乗り込むと2匹のトンボが
紛れ込んでいて、この休憩地が夏と冬の境目なんだと思った。


成都に着くとやはり思っていたように大都会で
歩くと1ブロックがほんとに長く感じられ、そして
夏だった。

半袖が出てくるまで服を脱ぎ続け
ナイロンパンツの裾をひざ下までたくし上げた。
着ていた服を片手に引っ掛けて歩くも汗がじわじわと出てきた。


周りの人はほとんど半袖シャツか、あるいは裸だった。
電気自転車が涼しげに脇を通り抜けていく姿が羨ましく思えた。


ここ成都にはシンガポールのSimと日本人の奥さんが経営している、

Sim's cozy guest houseというユースがある。
ガイドなど無い僕に、(ラオス)ムアンシン仲間のアキさんが
メールで色々と成都グルメ情報と共に教えてくれた。

あろうことか、暑さで最初はイライラした気分に成りがちだったが

Sim'sに来ると懐かしき大理メンバーが"沈没"!?していて(まぁ、気持ちは分かる!)

一緒に食事に出掛け冷たいビールを飲むと,

すかっりこの地と気候に慣れてしまった。
(やっぱりビールは暑いからこそウマイ!)


ちなみにそのオーナーのマキさんは僕の着く前日やらに
めでたく出産したとの事で現在は留守にしているが…


こうして、荷物ゼロになってから、ちょっとした時間にも
本を読むことが出来なかったため久々の読書にふける日々を
送ろうと既に3日。
激辛四川料理に汗だくになりながら、短い夏を取り戻そうと
日々充実した時間を過ごしています。

康定(カンデン) 2

9月2日


康定市街は歩いて廻るには丁度いい大きさの街である。
翌朝起きて、辺りを見回すと切り立つ山に囲まれ
標高も2500mと高く、それでもまだ山の中にいることを
忘れさせない街。
どこか日本の田舎の温泉街を思わせるところだ。


ひとつ訂正しておきたいが、以前の日記で4300mと書いた

理塘の標高は3960mが正しい標高のようだ。


2本の川が街の中で合流し、Y路に流れていくが
日本を含めこれまで見てきた市街を流れる川,という点においては、

その水の速度は最速である。


ルームメイトのデビットは
"Wild river"と呼び、その川の流れに一緒になって興奮した。
丁度、二人とも康定での日程が一緒で

お互い逆ルートという事もあり、良く話をした。

彼はこの旅で僕が初めて会ったアメリカ人で、

2ヶ月の休暇でサンフランシスコからやって来ていた。

良く彼の口から「アキラ」という日本人の友達の名前が出てきたが、
アフリカを旅した時の"戦友"のような存在なのだそうだ。
偶然にも僕のすぐ下の弟の名前も「アキラ」という。


中国人に関する話や、世界の情勢(最も歴史の話が主だったが)や

日本やアメリカの話やお互いの冒険話でこの日一日中

場所を変えながら話は尽きること無かった。

年齢や国籍は違えど、僕らの感性はかなり近く
本当に楽しく康定の時間は過ぎて行った。


その中でも彼はグレイハンドで廻った僕のアメリカ話には

飛び切り興味を持ったようで
ユースの宿泊代を浮かす為に,次第に夜行ばかり乗り継いで
移動を重ね、食費を浮かす為に毎日2度の食事をマックで済まし
1週間近く滞在したニューヨークでの宿泊代をケチり、

バスのディーポのベンチの下で

ホームレスと寝る場所を取り合いながら夜を過ごした事には
驚きと共に、腹を抱えて笑っていた。

そして、次にサンフランシスコに来るときには
「頼むから、せめて僕の部屋の"ゆか"で寝てくれ」
とお願いされた。

彼の次に会う日本人には「アキラ」と共に僕の名前も
出てくるのだろうか。


D.C.やフロリダの話をして南部の話になったとき
僕は初めて、彼からニューオリンズの洪水の件を知らされた。


自然の猛威。


東南アジア、偉大なる雲南、四川の山々を廻り

(それでもほんの一部にしか過ぎない)
自然と共に生きる生物、人々を見てきたが、
生命を持って生きる者としては自然との共生は
ほんとに容易ではないことを知らされた。


都会に住んでいると、
生きている事それ自体は当然のことで
更なる満足、幸福、将来の安心を求め日々の時間送ってしまう。


今回も、結果として大多数の人が命を落とし、
人間としての別の問題も(被害者の多くが黒人であったという)

あがったりと世界のニュースを駆け回り
自然の猛威を知らされたが


(おそらく)人間によって壊されたバランスを
ただただ戻すために"起こった"
地球の"自然"現象に過ぎないのでは.

悲しきニュースの根本には
もっと単純な原因が隠されているはず。
気が付いていても、時既に遅し…


それは必然…

康定(カンデン)

バスがおそらく康定の町に近づくにつれ
道の脇には家の明かりがちらほらと見え始めた。

ある程度大きな町であればいいなと思っていたが
山を一通り下りきり、町を見下ろせる開けた場所まで
バスがやってくると唖然とした。


10階には満たないが、大きな真新しいマンションが
いくつも目に飛び込んできて、よみうりランドや
多摩クリスタルが夜に放つ強力なスポットライトが
2箇所から夜のカンデンの空をウロウロと照らしていて
立派な街だった。


街を歩き安めの招待所を探す。
何軒か見て見たが、いくら安かろうとも窓のない部屋には
どうしても泊まる気にはならなかった。
ふらふら歩いていると眼鏡屋があったので、この地でようやく
コンタクトの液とケースを手に入れた。

ヨーロピアン(彼らはどこにいても目立つ)が4.5人歩いていたので声を掛けると
皆バラバラだがシャングリラ以降の行程で出会った人ばかりであった。
ゲストハウスに泊まっているというので、そこに泊まることにした。


チベット寺安覚寺のすぐ隣にある黒張Bluck tent Guest House
ドミで25元。久々のゲストハウスなので2泊のんびりすることにした…

理塘ー康定

9月1日


理塘にて1泊した後、康定(カンデン)へと向かうバスは
定刻6:30に遅れること、30分後に出発。
およそ300kmの行程は途中雅江(ヤージャン)の手前3kmの地で、
全く前に進むことが出来なくなった。
やはり川に沿い道路が走っているのだが
8月21日に起こった大洪水のせいで川沿いの家々は
ひどい倒壊に見舞われていた。

そして一部の道路も流され、車一台がやっと通れる位の
アスファルトがかろうじて残っている感じだった。

今でこそ非常用のブルーテントが見受けられ、復旧に向け
体制は整いつつあるものの、当時は流された家の人たちを
救命するにもかなり難航したのではないかと窺がわれた。
詳細は分からないが、死傷者もかなり出たのではないか
と思われる。


成都とチベット自治区のラサを結ぶ国道318号がその状態に陥り
物資や荷物を満載に積み込んだトラックが、

上りと下りのバスを挟み打ちにするように陥落した道路の真ん中で

立ち往生していた為、もう前にも後ろにも戻れなくなっていた。

仕方なくバスの運転手は乗客を降ろし、雅江まで山道を歩かせ
、遅めの昼食を取らせて事態の好転を待たせる事にした。

脇を通り抜ける際に、道の"詰まった原因"を覗き込むと
動けなくなったトラックは駆動系に問題があるようで
何人かでタイヤのシャフト等を外していた。


雅江までの山道を歩いて下る間、途中にある家々は上記のように
全壊、半壊とかなり悲惨な状態にある。
かろうじて流されることのなかった家の主人も、使えるものを
家の前に集め別の場所へ移動するよう取り掛かっていた。
あるいは、既に避難していて使えるものだけ取りに来ていた
のかも知れない。
この辺りは、雅江からまだ近いためそれだけが救いであろう。


ほかの乗客達は雅江のバス停にて道の開通を待っていたが
僕は食事の後、再び山を登りバスまで歩いて戻ることにした。


フン詰まり状態の場所付近まで登って来ると、手前の上りトラックが
1台、また1台と狭い道をソロリそろりとバックして道を引き返して来るところだった。

赤と青の回転灯を備え付け公安の文字をタンクに付けた
白いバイクにまたがった私服の男も来ていたが、
タバコに火をつけ事態を眺めているようにしか見えなかった。


事の問題に対する判断や解決能力を、そこに居合わせた人々には
残念ながら持ち合わせていないように感じ、
僕の目には中国という国家が、BRICsという名の冠だけ与えられた
ルール無き混沌の世界を仕切る哀れな王様に見えた。

最近の投資家や経済ニュースの目は一部の経済成長に目を向けられるが

デカイ中国大陸が多くの人間を抱えそれを
飲み込むことによって生じる問題の解決には、教育という
さらに大きな問題をクリアしなければいけないだろう。


再出発したバスは日没後、真っ暗な雲の中を走り向け
フロントガラスにかかる露をワイパーで拭いながら
ようやく康定にたどり着いたのは21時を過ぎていた。

理塘(りたん) 2

普通、新しい土地に着いたときの旅行者は

まず泊まる所を探すのがセオリーである。

しかし今の僕には当てはまらず

荷物が無いのですぐ目に飛び込んできた所に行けるのだ。

(荷物があろうが、僕は先に一通り町を流すのだけど)

そして町を一望できそうな小高い丘を目指す。

その奥のほうには、赤茶色の壁と金色の装飾された建物が見えた。

おそらく、理塘ゴンパであろう。


丘を目指して小さな町を歩くと

小さなリュックを背負った何人かの子供たちとすれ違う

どうやら学校に行くらしい。

理塘小学校の目の前では、おばちゃんが

即席の駄菓子屋を開いていて、子供たちは

授業の前のお菓子選びに夢中だった。


学校の前を通り過ぎ、急な小道を登っていくと

年季の入ったレンガ造りの家々の前には

まだ小学校に上がる前らしい子供や

チベット服で身を包んだおばあちゃん達が

笑顔で迎えてくれた。


そして、見晴らしの良い丘の上に出ると

立派な馬が3頭、草をむしっていて

多くのヤギ達が小さなチベット塔の周りで休んでいた


僕はチベタンの人達がそうするように

何周かその塔の周りを"あの歌"を口ずさみながら歩いて回った。

そのたびに、ヤギは僕から逃げるかのように腰を上げ警戒し、

通り過ぎるの待ってまた腰を下ろした。

着いたときには厚い雲に覆われていた空は

太陽に追い払われるかのように、ゆっくりと

青空が広がっていった。


子供が丘を駆け上ってきて

そのままどこかへ行ってしまった後

小さな子供を背負ったおばあちゃんがゆっくりと

丘を登って来て、子供を下ろし休んでいった。

その後、おじさんも登って来て腰を下ろして

おばあちゃんと会話している。


その脇でワットポー仕込のヨガをはじめると

おじさんが物珍しそうに覗き込んできた。








理塘(りたん)

なんだか、パスポートがどうにか出てこないものか

という気持ちをズルズル引きずったまま新しい場所に

次々と移動している。


昨日のうちに宿の女将に

「明日、理塘に行きたい」

と告げておいたので、朝方タクシーの運ちゃんが

部屋をノックして起こしてくれた。

「あと4人集めてくるから、朝食食べて待っててくれ」

と言う。

タクシーとは言えども乗り合いである

軽ワゴンに6人の客を乗せて、

集まり次第出発するのである。バスより気楽だ。

そもそもバスは今走って無いとの事。

(途中、土砂で道幅がかなり狭い箇所があった)


9時半。

大きな袋を屋根に3つ、車内に2つ。

後ろの席に座わらされたが、軽ワゴンで大人が3人並ぶ、狭い

真ん中の列は2人と2つの荷物、窓も開く。

「写真撮りたいから」と言って真ん中の列に

換わってもらった。(そう、カメラはいつも腰に付けているので

 無くしていない。充電器は無いけど)


今日の移動は割りと短い移動だ。

行程3時間。桑堆まで28km戻りまた新しい道を走り始める。

流れの速い川を右手にぐんぐん上ってゆく。

川の向こうには草原が広がっている。


峠を上りきると、言葉どうりのあたり一面

見渡す限り石がご~ろごろ!

ごめんなさい。今想像した石のサイズではありません。

大きさ的には岩です。

グランドキャニオンやナイアガラで驚いている場合じゃない程

僕はびっくりしました。


そして、峠を越えた時

べっ甲のまぁるいレンズのサングラスを掛け、

黄色いノースフェイスのフリースとナイロンパンツ

の粋な運ちゃんは先日のチベタン僧と同様念仏を唱え始めた。

そう、彼もチベタンだったのだ。


僕は大雪山を越えた時に聞いた

うる覚えながらの、あの神秘的なメロディを口ずさみ

「この曲のカセットは無いのか?」と尋ねたが

あいにく、無いらしい。

だが彼は大声でその曲を歌い始めた。

僕もそれに合わせて歌った。

他の中国人は呆れて聞いていたが、とても気持ちが良かった。


峠をそのまま下っていくと、そこが理塘だった。

だいぶ飛ばしたせいか、予定より30分早く理塘に着いた。


本日の標高4300m。



稲城/四川省 Dao Cheng 3日目 No.2

Hi every

I'm still safe in China

from departer Japan,I ' v been 5 months harf already.

everything goes be like miracle.

but, I had small problem that loose my baggae

include passport !! a couple days ago in ShangLi-ra/China

so I got new destination. that's means

get new passport at Chong-qing Japan's embassy.

that's wrong way from Tibet.


anyway, my mind still alive !

so,will keep going my trip.

Thanks .

gaku


先ほど、こちらの稲城公安に赴き

パスポートの所在確認をしたところ

ここでは見当もつかないので直接

香格里拉公安に確認してくれと言われる。

公安の情報ネットワークが機能していない様に感じられた。


パスポートが出てきた場合、日本大使館等に

公安から連絡が入るものなのか、重慶領事館に電話したところ

「ヨーロッパならともかく、価値の高い日本パスポートは

 ほとんどでてこないですよ」との事


公安にい紛失証明の作成に付き添ってくれた

香格里拉のチベットホテルの女将の携帯を鳴らすが

やはり、公安からの連絡は無いらしい。

重慶領事館まで行き再給付を受けるしか

道は無いようだ。


という訳で、もし出てくればシャングリラまで引き返し

そこから直接チベット入りを試みる。という儚い希望は

今のところ絶たれてしまった。

明日以降、成都(チョンドゥ)、重慶(チョンキン)を目指す。


ところで、シャングリラで見た稲城の素晴らしい

写真集になっていた場所は、並丁(ヤーディン)という

ここからさらに116km行った所にあるようだ

定期的なバスは無いらしく、ツーリストは車をチャーターして

向かうらしい。領事館からさらに離れる為、今回は

見送ることにした。


一緒に食事をした英語が話せる中国人ツーリスト曰く

「並丁村是最高的香格里拉」

との事。

いつかまた戻ってこようと思った。

稲城/四川省 Dao Cheng 3日目

昨日はあれからインターネットに出かけ

日本語の打てないPCで、ただただ

自分のブログやメールを眺めるて過ごした。


帰ってくると、宿の女将さんが

「日本人が来たわよ」と教えてくれた。

男子学生二人で、日本から昆明(クンミン)に飛んできたらしい

この後、ビザ延長してラサに行きたいというので

シャングリラまで戻れば、全て事足りるということを

教えてあげた。

一人は熱があるらしく、ベットで横になっていた。

おそらく海外疲れか高山病だろう。

「お茶をたくさん飲みなさい」とアドバイス。

未熟な僕の中国語に、「話せるんですか?」なんて驚いていたが


そういえば、ここに着いた日、女将さんに

「あんたの中国語は全然ダメねぇ」

なんて言われ、

「ちょっと待ってよ、1ヶ月なら良い方じゃない?」

と言い返すと、

「あら、ほんと。1ヶ月なら良いわ。たぶん2ヶ月3ヶ月後なら

 もっといいわね」

と、手のひらを返すように、まるで赤ん坊に話しかけるように

その後の対応が親切なものに変わった。

「松茸見に行くわよ」

と停電の中、市場にも連れて行ってくれ、昨日の夜は

賄いを一緒にご馳走になり、食べてると近所の人が

料理のお裾分けに来て、それも箸で突付く。

聞けば、じゃが芋と一緒に煮込んであるのは

野うさぎとの事。僕のノートに「野兎」と書き込まれた。

煮込んであるせいか、硬かったが鶏肉に似て

けっこうイケル。





稲城/四川省 Dao Cheng 2日目

心配していた高山病だが

一度もそんな気配を見ることなく過ごせている。

稲城(ダオチェン)の標高は3860m

海抜で言えば

僕は今、日本のどの地点より高いところにいることになる


しかし、今日は悲惨だった。


重い荷物が無い事は楽でいいのだが

コンタクトレンズに関する一切のケア用品もなく

寝る際も装着したままにして置くのは

非常につらかった。

朝方早く、左目が痛くなったのを感じ目が覚めた。


仕方なく一旦レンズを外して、手に握ったまま再び寝る。

次に目が覚めたのは10時過ぎ。

やはり、高所という環境は知らずに体力を

奪っているようだ。おしっこもしばらく黄色っぽかった。

再度、レンズを装着しようと水筒のお茶でゆすいでから

目に入れたとたん、目に激痛が走った。

しばらくすれば慣れるだろうと思ったが

それどころの痛さではなかった。


とりあえず目から取り出し、レンズは水を入れた

紙コップに入れておいた。

しかし、外した後も痛みは引かないばかりか

目も開けられないようになり、鏡を見ると

血管という血管は真っ赤に充血していた。


この激痛は目を開けるたびに続き、閉じても

痛みは治まらなかった。

散歩に出かけたが、目も見えず

部屋に帰ってじっと目を閉じて過ごした。




稲城/四川省 Dao Cheng

念願の稲城(ダオチェン)までやってきたものの

ここは、ほんとに小さな町である


途中、シャングリラを出たバスは

最高地点4320mの大雪山の峠を超えてゆく。

うとうと居眠りをしていて、なんとなく

目を開けると、丁度山頂に差し掛かるところだった。


周りに木々はなく

薄緑色の背の低い草に覆われているのっぺりとした丘と

時たま、岩や石がぽつぽつと転がっているだけで

あとは薄い色のピンクや水色の小さな花が

申し訳なさそうに咲いているだけだった。


峠を上り切り前方の景色が開けると

本当にすごい眺めだった。

突き抜けるような空の青と真っ白で厚い雲が

遠くのほうまで広がり、どこまでも続くかのような

丘のうすい緑色が視界のすべてになった。


僕のすぐ前に座っていた何人かのチベット僧が

「音楽をかけろ」と言って

すぐに、チベット音楽が流れ始めた。

シャングリラの広場で聞いた舞踊音楽とは違い

僧が唱えるようなその歌を聴いて、その場所にいると

まるで神の世界に導かれたかのように神秘的だった。


山から下りてきた小川と競うように

遥か眼下に見える麓まで約20分の空中散歩です。

そして、今度は広がる草原。

駄々広い盆地に、転々と見えるレンガ造りの

チベタンの立派な2階建ての家々。

それぞれの家の外観はどれも同じに見え

そして必ず、青、白、黄、赤、緑の旗が風に靡いていた。

桑堆(サントイ)という名のチベタンしか住んでいない

小さな集落だった。


桑堆から稲城までは28km

両側を山に囲まれた平らな平原を走ってゆく。

前に座っていたチベタン僧たちが降りたのは

桑堆から10分程のところで

そこもやはり、同じような造りのレンガの家が

転々としている場所だった。


バスが止まると、家族や近所の子供たちや

小さな赤ん坊を背負ったおばあちゃんが

集まってきて、屋根から荷物を降ろしている間

興味深そうにちょっと離れたところから

それを眺め、そしてみんな笑顔で溢れていた。


そしてバスは最後のゲートを通り抜けると

「稲城大橋」を渡り小さな町に辿り着いた。

(そう!僕の故郷、東京"稲城"にも稲城大橋が架かっているのだ!)