物語が、動き始める瞬間が好きだ。


長いながい物語。
ひたすらに文字を追いかけなければならない小説。
数百ページにものぼる長編。


あたりまえのことだけど、すべてのシーンに盛り上がりがあるわけではない。
紙幅の多くは、物語の中で流れる日常のスナップに割かれる。
主人公の幼少時のエピソードであったり、今の状況をほのめかすような日々の描写であったり、伏線であったり、物語に登場する人物に血肉を与えるための、外見や趣味や、服装であったり。

延々と続く風景描写にややうんざりしながらも、密かな期待を胸に、とにかく読み進めていく。




そして、物語は、いきなり疾走を始める。




文字を追う視線の動きがもどかしいくらいに、手元で物語が加速する。
そんな瞬間を何度も味わいたいがために、僕はとにかく長い長編を好んで手に取る。


性の描写では、感情や劣情が常に物語の一歩手前を行き、物語の方が遅れがちになる。妄想が、読み飛ばされていく行間を補完し、頭の中では見事な情事が再現される。物語は一定の速度で流れていく。
暴走するのは、あくまでも読み手である、僕。



それは物語自体の疾走ではない。



ある時、物語は、暴力によって加速をはじめる。
暴力によってトップスピードに持って行かれた頭の芯は、なぜか非常に冷めたままになる。ひたすら目が文字を追いかけるけれど、加速する物語についていくことができない。


加速した、と思ったら、いきなりニュートラルレンジにギアが入れられ、アクセルを幾ら踏んでも進まない。そんな作品もある。


渋滞の先頭が存在しないのと同じで、加速の端緒はどのページのどの行のどの一文であったかを見極めることはできない。いつの間にか、物語が動き始めたことにあとから気付く。


読み慣れた作家の作品であれば、どこで物語がアクセルを踏むのかが感覚的にわかる。気付いていながら、意識しないふりをして、物語が走るのにただ身をまかせればよい。物語はその時々で新しい世界を見せてくれるけど、予定調和な加速はいずれさらなる刺激を求めるきっかけになる。


物語のスピード感を楽しみたいから、一度読んだものはほとんどの場合、二度と読み返すことはない。

内容もストーリーも、登場人物も忘れてしまったとしても、優れた作品は、読んだその時の加速感のみを想い出すことができる。



一気に読み終えたあとのけだるい感覚は、セックスのあとのそれに似ている。
形のない、快感の記憶だけが残る。


ふと我に返ると、ニュートラルにギアをいれたまま、慣性と惰性にまかせてだらだらと走り続ける自分がいる。


二十億光年も百年も、孤独という時間は一瞬であり永遠。

アクセルを踏み続ける気力も体力もなく、息も絶え絶えになりながらも、
もう一度加速しようとあがく。


現実は、物語とはちがう。



だからこそ、おもしろい。

えー、かなり長い間放置していました。

すでに文字になっているものをテキストに置き換える作業というのは、

正直、ちょっとだけ面倒なもので、ついつい……。

もう少し、ペースを上げていかなきゃ、と思いつつ。

言い訳ばかりが増えていく。


3部作についての話は、あと2~3回続く模様。

そしてようやく『ダンス・ダンス・ダンス』へとつながります。

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初期の三作を経て主人公「僕」の生がたどりついたのは、何処にも行けない状況から、何処かにたどり着くことができるという可能性の獲得である。


この、内面へ向けられていた主人公また作家の視点が、個をとりまく状況としての外部、すなわち「現実」へと向けられはじめる。


『羊をめぐる冒険』において作品が物語性を持ち得たことは、「探索」の範囲、「僕」の行動範囲が広げられたこと、作品が固有名を求め始めたことと関連している。


「僕」が個をとりまく状況としての外部を設定したのと同時に、村上春樹は作品の外部、作品をとりまく世界としての読み手の存在を意識し始めたのである。


これまではあくまで個人的な主人公の内的世界、内的世界を通して認識される外的世界を描いてきた村上春樹が、それを超え、「現実」という、認識を介在しない外部と自己との対照の内に個の確立を描こうとし、それ故に客観自己を超える第三者的な視点を必要としたのである。


小説家としては当然のことかもしれない。ただそれが作品ごとに段階を追って経験的にたどりついたところにこの作家の特徴がある。


作品はあくまで村上春樹のリズムによって満たされているが、そこに流れる物語のメロディーはどこか彼の手を離れ一人歩きをはじめており、作家自身もそれを楽しんでいる。そんな印象を受ける。


第三者的な視点を置く、意識したため、これまで排除されてきた固有名が必要になった。固有名によってより自他との判別を明確にし、さらに読み手の感情を作品内により有効に移入させることによって読み手自体の「現実感」をも作品に取り込もうとする。


『羊をめぐる冒険』の中で「いわしの誕生」という章で名前をめぐる会話書かれているが、この章以前と以降で物語は質を異にする。後半において主人公は「北海道」「十二滝町」という地名の中を生き生きと動きはじめる。


新しい視点の意識、これが次の作品『ダンス・ダンス・ダンス』の登場人物に名を与え、固有名をあふれさせることにつながっていくのである。

昨日は池袋で本屋をはしご。

一人で書店をめぐるのは、ほんと久しぶり。

いつもはだいたい、子どもがついてきて、疲れただの、おやつを買えだの、

喉が渇いただの、うるさいから、落ち着いて本を見てまわることができない。

何か欲しい本があっていくわけではなく、タイトルを眺め、

帯の文章を読み、その上でページをめくり、言葉を追っかけるのが楽しい。

正直、活字中毒者、というわけでもない。
1年間に読み終える本の数もたかが知れている。
で、そのほとんどがこの時期に固め読み、なわけ。

気兼ねなく、好きな本を買い漁る、というのは無理なので、

以前から気になっていながら、先送りにしてきた1冊を購入して帰路につく。

家を出てからすでに5時間が経過し、外はすでに日が完全に落ちている。

駅のホームは人混みであふれている。
電車を待つあいだ、ポケットに入れていた本を取り出し、パラパラとめくる。

入ってきた電車は比較的空いている。
椅子に座って、はじめからじっくり読み始めることができそうだ。



そんな、11月最後の日曜日の話。