とても残念な話なのだが、この世から消えてほしいほどに嫌いな人がいる。
手柄横取り、面倒臭い仕事は押し付ける、ちょいちょい幸せ自慢、色々あったけれど、心を無にして何とかやり過ごしてきた。
でも、四十九日も済まないうちに父の死を茶化して弄ばれて、堪忍袋の緒が切れた。
本当は、本人に向かって切れればよかったのに、周りにたくさん人がいたからやり過ごしてしまった。

自分で言うのも何だが、まぁまぁ寛大な方だと思うし、人の失敗や失礼を水に流すのも得意だ。
なのになぜこんなにも嫌悪感が強いのか。
「嫌い」という感情を抱く自己正当化の原因は8つに分類できる、という本を読んだことがある。
手元の読書メモによると、
①相手が自分の期待に応えてくれない時
②相手が自分に危害を加える恐れがある時
➂嫉妬心
④軽蔑心
⑤相手からの軽蔑心を感じる
⑥相手が自分を嫌っている印象
⑦相手に対する絶対的無関心
⑧生理的観念的な拒絶反応
ということである。

冷静に分析してみると、消えてほしい相手に抱いている感情は④と⑧。
もはや、「その人だから嫌い」という感情になりつつあるのだ。
理由は、蓄積された迷惑行為ととどめの軽蔑に値するひとこと。

こうやって分析してみると、消えてほしいほど嫌いな人への嫌悪感にも説明がつく。
嫌悪感を抱く自分に呵責など覚えなくても良かろうか。

私は一人でいることが好きだし、自分の感情には一人で向き合いたいと思っている。
人に同調するのも、共感した風に接されるのもとても苦手。
何かとっても悲しいことがあったら、寄り添ってもらうより放っておいて欲しい、そんな心の持ち主。

でも、実生活の中ではかなり頑張って明るく振舞い、チームワークを大切にリーダーシップやフォロワーシップを使い分けている。
実母の愚痴の掃き溜めになり、職場では他人の取りこぼした仕事をフォローし、誰もやらない片付けを率先する。

そう、「心」と「行い」がかけ離れているのだ。
これは私なりの多様化する価値観の中で身を守る術。
しかしながら「ありのままの自分」でいることが「正」であるという風潮があるのに戸惑う。

皆が「ありのままの自分」でいたら、価値観が衝突して差別や偏見が憎悪を生むことになると思えてならない。
例えば差別。
差別感情を持つことと、それを表現したり行動に移したりすることとは、全く別のこと。
全く差別感情を持っていない人なんてきっといない。
国籍・学歴・貧富・美醜・宗教・言語・賢愚…、あらゆる面で一切の否定的感情を持たないという人がいたら、そのこと自体が不誠実なような気がする。

だからこそ私は「心」を守るために「行い」と分ける。
そうすれば楽に生きられるのにな…と見ていて思う同僚や親族もいるが、それを助言することはしない。
彼女たちにとっては「心」に従った「行い」をすることがきっととても大切なことなのだろうと思うから。それもまた価値観。
でも、そういう人に限って、こちらを放っておいてくれないという難しさ…。

 

「凡庸な悪」と言えば、ユダヤ人の政治哲学者ハンナ=アーレントが、親衛隊中佐としてホロコーストに関与したアドルフ=アイヒマンの裁判を記録した著書の中で記した言葉である。すなわち、第二次世界大戦中に起きたナチスによるユダヤ人迫害のような「悪」は、思考停止して命令や外的規範に盲従した人々によっもたらされたものである、という考え方だ。そんな「凡庸な悪」が世界を衰亡させていくのだと、私も思う。

そして今、同じくらい社会を疲弊させていくものが「共感」の強要のように思う。
NPOをはじめとする社会活動は、「共感」してもらえて応援してくれる人がいて初めて成り立つことも多く、「共感」によって得られる力が推進力になっていることも事実で、「共感」自体が悪いことだとは思わないし、「共感」してもらうことで生きる力が湧いてくる人もいると思う。
その一方で、共感した人々のつながりが強固になっていけばいくほど、そこにはつながり得ない人たちとの分断が深まっていくことになる。

そこで「凡庸な悪」である。
「共感」に結ばれ分かり合える気がしている時こそ危険だと思うのだ。
人の気持ちが分かるなどと思うのは思い上がりだと思うし、分かり合えないことを前提に物事を理性的に考えていかねばならないと、いつも自戒している。
わーっと夢中になる時、とても危険だ。
そうやっていつも理性で感情に蓋をして生きていくのが、楽しいかどうかはまた別の話。