第1章
プロローグ
“アイドル”――
それは「偶像」や「崇拝」という意味を持つ。宗教と似ているが、ただひとつ違うのは、一人の人間が崇拝されるということだ。
僕の姉も、その“偶像”のひとりだった。
所属していたグループはドームやアリーナを満員にするほどの人気を誇り、姉はその中でもエースと呼ばれていた。
僕はそんな姉が誇らしかった。
だから、学校の後も休日も、マネージャーのように彼女を支え続けた。いつもステージに立つ姉は本当に神のようだった。
でも、姉もただの人間だ。
ネットがなければ広く活動できない時代。
スマホを開けば、そこには見たくもない誹謗中傷の嵐。最初は笑っていた姉も、その一つひとつが塵のように積もり、やがて心を侵食していった。
そしてある日、姉はステージを降りた。
〜1年目の春〜
朝、目が覚めた瞬間、胸の奥が少し軽くなった気がした。
年に数回しかない、空気まで澄んだような朝が、よりによって大学初日に来てしまった。
嬉しい反面、少し勿体ない気もする。
ベッドから降り、掛け布団を畳んで着替えを始める。
そのとき、一階から近所迷惑級の声が響いた。
「暁! 早く起きなさい!! いつまで寝てんの!」
いつもギリギリまで寝ている僕からしたら、目覚ましよりよく効く。
「もう起きてるー」
なぜ母の声はここまでデカいのか。
なぜ朝は「おはよう」から始められないのか。
どうでもいいことを考えながら階段を降り、いつものようにあいさつする。
「はよ」
「はよ、じゃなくて“おはよう”でしょ! そんなんじゃ周りとコミュニケーション取れないよ!」
「うん」
適当に返しすぎたせいか、普段ポジティブな母の口元がわずかに下がった。
その一瞬、理由もなく胸がきゅっと締め付けられた。
大学のキャンパスは、春の陽気と新しい匂いで満ちていた。
見知らぬ人たちの笑い声、配布ビラを持った上級生たち、並んだ屋台のカラフルな垂れ幕。
“大学生活”というものが、視界いっぱいに広がっている。
「なぁ、暁はどのサークル入るの?」
幼馴染の一輝が、手に持ったビラを仰ぎながら聞いてきた。
「特に決めてない。一輝と一緒でいいよ。最悪入らなくてもいい」
「はー。冷めてんね〜。せっかくの人生の夏休みだよ!もっと楽しもうよ!ただでさえ友達いないんだからさー」
少し地雷を踏まれてイラッとした。
しかも一輝はそれを分かっていて踏んでくるから余計に腹が立つ。
「別にいないわけじゃないからね!」
「へー、じゃあ他に誰がいるの〜?教えてよ〜」
「あの!」
背後から声をかけられ、振り向くと、一人の女の子が立っていた。
身長は160センチくらいだろうか。小動物のような顔立ちをしているが、目の奥には強い意志を感じるほどの眼差しだ。シンプルな服装なのに襟元や袖口のレースがさりげなく可愛いさを添えている。左腕には淡い色したシュシュがより可愛さを際立たせている。髪は肩より少し長く、春の風に揺れていた。その一瞬、彼女の美しさがさらに際立つ。――初めてだった。視界の色が変わり、世界がカラフルに染まっていく感覚を覚えたのは。
「え!めっちゃかわいいんだが!」
一輝が小声で僕に言ったあと、昔の少女マンガの王子のように片手を差し出す。
「どうしましたか?この私でよければお話しお聞きいたしますよ、姫」
このアホさ加減が僕のツボにハマっている。
しかもこれをシラフでやるから余計に面白い。
だが、彼女は一輝を完全にスルーして、まっすぐ僕の方へ歩いてきた。
「ん、あれ?」
僕の目の前で立ち止まり、告白みたいな姿勢で言う。
「あの!お願いします!」
「はぁ!? 僕!?」
久しぶりに、生きた声が出た。
「私、アイドルやってて、その…私達の…マネージャー兼プロデューサーになってください!」
可愛らしく透き通る心地よい声色と真っ直ぐな視線。
その一瞬姉と重ねる自分がいると同時にあの日の光景がよぎる。
画面1つで全てが壊されていくあの日々。夢を諦めざるを得なくなった人間の姿。
モノクロの世界に落ち無味無臭で過ごした気分になる日吐きそうで吐けない気持ち悪さを思い出した。
「いやいや、僕そういうのよくわからないんで。他の人にお願いしてください。芸能事務所とかの方がいいと思いますし。お力になれず申し訳ありません。……行こ」
「私の最後の夢を一緒に叶えてください!」
彼女の言葉に一瞬立ち止まるがすぐに襲いかかってきた罪悪感から逃れるようにその場を去った。
「……あの子、お前のこと知ってるんじゃね?」
「……だとしても今の僕にはできないよ。アイドルを目指してるなら尚更僕じゃない。僕はお姉ちゃんを守れなかった。」
それからの1週間、彼女は何度も姿を見せた。講義の後、食堂、校門前、駅の改札。……どこで時間を合わせているんだろう。本当に偶然か、それとも――ストーカーの才能でもあるのか。
「この服ステージ映えしません!?」
「ご飯の後でいいので話だけでも!」
「今日の天気まるでアイドルですね!」
毎日欠かさず現れる彼女に、少しだけ尊敬の念を抱いた。ときには意味不明な発言で、思わず笑ってしまうこともある。――毎日のあいさつ、その後に必ず添えられる「ごめんなさい」。そんな経験、これまでなかった。だからこそ、少しだけ心が躍った。
ある日昼食を食べようと一輝と2人で食堂に行くと彼女を見かけた。
「モテモテだな〜」
「煽るなよ。」
「毎日来てていい子だよな!」
「……」
「少し話してくるわ!」
一輝が彼女に話しかける。
「また探してるのかい?」
「あなたは…」
「俺は一輝。君、名前は?」
「彩葉(いろは)です。」
「よろしくね!少し座って話さない?よかったら暁にこだわる理由教えてくれない?」
僕は、彼女の気持ちを知りたかった。――けれど、あの日の感情を押し殺すと、臓器すべてが締め付けられるような圧迫感が襲う。喉は乾き、耳の奥では自分の鼓動だけが響いていた。