gakihirofa0802のブログ
アウトプットの時間
今日は久しぶりにブログを書いてみようと思います。
たまには、自分の考えを言葉にして整理する時間も大切ですからね。
この4年間はずっと慌ただしく、目の前のことに追われる日々を送っていました。
そんな生活から少し距離を置いて、最近はゆるやかな時間を過ごしています。
これはきっと“息抜き”であると同時に、“次に向けた準備期間”でもあるのだと思います。
今は「自分のしたいこと」を最優先にして生活する日々。
社会人の方から見れば、ちょっと羨ましがられるような時間かもしれません。
でも、蹴球部の同期、大学や高校の友人たちから聞く話を聞いていると、それぞれの立場にそれぞれのリアルがあります。
サッカーチームで頑張っている人、大手企業やベンチャーで働く人、病院や銀行で忙しくしている人。
楽しさ、やりがい、自分の時間の確保、ストレスとの向き合い方、自己投資、そして将来への展望──本当に人それぞれです。
悩みって、尽きないものですね。
正直、社会に出て頑張っているみんなの話を聞くと、自分だけ遅れているような、不安な気持ちになることもあります。
でも、自分にはあと4年の学生生活が残っていますし、選んだ職種の特性上、お金の稼ぎ方やキャリアの進み方も、他の人とは少し違う時間軸で進んでいくと感じています。
逆に、そう考えないとやっていけないという気持ちもあるのかもしれません。
そんなことを思いながら、日々を過ごしています。
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今日のテーマ:「良い」と「善い」
さて、今回のブログで書いてみたいテーマは、「良い」と「善い」という言葉についてです。
最近、「いい」という言葉に対して、なんとなく違和感を覚えることが増えました。
おそらく、それは「いい」という言葉がとても広く、曖昧なニュアンスを持っているからだと思います。
自分なりに感覚を整理すると、
「良い」は“ベター”な選択を示すような比較的相対的な感覚、
「善い」は“道徳的に正しい”とか“絶対的に望ましい”といった、もっと深い価値判断を含んでいるように思います。
そしてこの「いい」に、「問い」という言葉をかけ合わせると、さらにモヤモヤが広がっていくんです。
「いい問い」って、何なのでしょう?
「良い問い」? それとも「善い問い」?
そもそも、「問い」って何を意味しているんでしょう?
目標? 課題? それとも、単なる質問?
最近では「正解のない問い」という言葉をよく耳にします。
確かに、社会には“正解がない問い”があふれています。
でも、よくよく考えてみると、それも「前提条件次第」だなと感じるのです。
誰が、どんな状況で、何を判断しようとしているのか。
その条件によって、導き出される答えはまったく違ってくるはずです。
たとえば、ある人が「私は絶対に正しい」と言ったとします。
それは、その人にとって、その瞬間においての「正しい解」なのです。
たとえ、別の誰かがそれに反論したとしても、その反論もまた、別の価値観から見た「正しい解」なのでしょう。
こういうふうに考えるようになってから、口論や討論を見るのが少し面白くなってきました。
それぞれの人が、自分の背景や価値観をもとに、「正しさ」をぶつけ合っている。
もちろん、「共通の正解」を見つけようとはしているけれど、前提条件が揃っていなければ、それはただの平行線です。
あ、でも「無意味な論争」でさえ、そこに何か意味があるのかもしれません。
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だからこそ、「いい問い」とは、
単に答えを求めるものではなく、
自分自身や相手がどんな前提に立っているのかを照らし出し、
その違いに気づかせてくれるものなのかもしれません。
問いを立てること自体に価値がある。
そう思えるようになったことで、この世界を見る新しいメガネを手に入れた感覚になります。
今の自分は、将来に向けての正しい解を焦って探すというよりも、
「問い続けること」そのものを大切にしていこうとしています。
何が“良い”のか、何が“善い”のか。
そんな問いを抱えながら、自分のペースで一歩ずつ進んでいけたら、それで十分だと思えるようになってきました。
そんなことを、静かな日々のなかでふと考えたので、今回は言葉にしてみました。
読んでくれて、ありがとう。
またふと思いついたら、ここに書きにきます。
奥垣 陽斗 Okugaki Hiroto

