三鷹市芸術文化センター星のホールへ、
「もう一度、スクリーンで見たい、チャップリン。」
と題されたチャップリン映画の上映会へ行ってきた。
こんな企画があったと知らず、
最終日の今日、滑り込みで参加できた。
上映作品は、
「サーカス」と「ライムライト」。
最終日がこの2作品。うむ。良い。
満員の映画館で観る。
チャップリンの作品をスクリーンで観るのは初めて。
念願だった。
会場から溢れる笑い声。
素敵な瞬間だった。
古今東西の全ての映画の中で、
(いまのところ)一番好きな「ライムライト」が観れてよかった。
この作品に溢れているのは
「死と再生」だと思う。
道化とダンサーの関係もそう。
劇中のバレエのテーマもそう。
それは輪廻転生のようにも描かれる。
朝食にニシンを食べようと提案した男が、
イワシになりたいと唄う。
また作品舞台は1914年。
この年は舞台芸人だったチャップリンが映画へ活動を移した。
チャップリン演じる老道化が死へ向かうと同時に、
若きチャップリンは映画界で活躍を始める。
作品のそこたら中に、
「死と再生」がある。
そして、撮影当時アメリカとの関係に緊張が増し、
次第にスクリーンから遠ざかるチャップリンの
芸人魂が作品いっぱい膨らんでいる。
それは大いなる見栄であり、誇りであり、
「バケモノだ。」と言っておきながら、
最後の最期まで求めて止まなかった、
大衆への愛憎である。
創作者が創作の裏や苦しみをさらけ出す事は、
良いことだとは思わない。
それは最後の最後までメイクの下に隠しておくべきで、
それを曝す事は手品師がタネをばらすことである。
だが、どうしようもない現実と戦う時、
一番拠り所になるのは、
紛れも無く、そのタネであり、
自分にとっての現実である居場所なのである。
映画の最期近くに、
「心臓と心。なんという謎だろう。」
という台詞がある。
日本語字幕だと同じ「心」を持つ言葉だ。
生と死をつかさどる現実的な心臓と、
精神や感情を指し示す胸の辺り、心。
どちらも同じ場所にありながら、
まるで対照的なモノである。
だが自身の感情を支えるのは、
自身の現実しかないのではないか。
俺自身、3月11日の震災の後、
そこにしがみつかないと作品が書けなかった。
やがて死が訪れる。
だが、同時に新たな生が生れ落ちる。
チャップリンの自伝のラスト辺りの言葉。
「こうして世界は若返る。」
まさに道化とダンサー、
カルヴェロとチャリーの関係であろう。
だけど、チャップリン。
あなたがキートンと最後に観せてくれた、
あの時間。
映画の中で道化に語らせた
「とっておきのギャグが詰まった」あの瞬間。
今日の空間いっぱいに笑い声が響いたんだ。
俺や客席の大半を占める中高年のお客さんだけじゃない。
小さい子供も笑ってたんだ。
映画が終わった後、
興奮してあの瞬間の一瞬一瞬を母親に語る
女の子が居たんだ。
「健在を示してやる。」と創り上げた、あの瞬間に、
今日のあの空間が笑ったんだ。
サクラじゃなくて。
本物の生きたお客が。
これも、「死と再生」でしょ?チャップリン。
小学校の時に出会って、観まくってきた貴方が、
今日も生きた人々を笑わせ、泣かせしてるんだ。
素晴らしいね。
素敵だね。
こいつぁ。
チャップリンを語り始めると止まらない。
出会って十数年。
たったそれだけの年月の中でも、
その時々で、見え方、見方が変わり、
新しい発見がある。
そして、このチャップリン。
俺が言うまでもなく、芝居がうまい。もの凄く。
子供の頃は、それこそ芸の人であった。
あのチャーリーの扮装もあったが、
芝居・演技として観ていなかった。
だが、この人はうまい。
うまい人ほど、演技が芸となる。
なんか、そんな風に今は思っている。
いま、銀座のテアトルシネマ等で
チャップリンの初期の短編がリマスターされて、
シリーズ上映されている。
デビューが1914年なので、
もうすぐ生まれて100年たとうとしている作品達である。
後年の名作群も素晴らしいが、
この初期3年ほどの間に、
チャップリンの創作の大半がある。
俺にとっては、チャップリンとの出会いとなった作品達。
俺はこの時代のチャップリンが大好きなのだ。
ぜひ観た事の無いという人に観てほしい。
ぜひぜひ。
いや、素晴らしく、
今、観れてよかった。
本当に。